円空の十一面千手観音像のある黒川不動堂は、貫前神社から約1.5�北の丘陵地帯の裾に位置する。群馬県立博物館長だった池田秀夫氏は、『円空研究』の論文「円空と上野国一ノ宮貫前神社」の中で、「おそらく円空が貫前神社滞在中に周辺の村々に巡礼、布教に
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
円空の十一面千手観音像のある黒川不動堂は、貫前神社から約1.5�北の丘陵地帯の裾に位置する。群馬県立博物館長だった池田秀夫氏は、『円空研究』の論文「円空と上野国一ノ宮貫前神社」の中で、「おそらく円空が貫前神社滞在中に周辺の村々に巡礼、布教に
上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじゃ:富岡市)にあった明徳4(1393)年11月5日に写経された大般若経の残欠の末尾には、円空自筆で次のように記されている。十八年中動法輪 諸天晝夜 守奉身 刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮 今古新いくたひも
吉井町弘福寺から、次は甘楽町(かんらまち)へ。甘楽郡甘楽町は、群馬県南西部に位置し、東を高崎市、西を富岡市に挟まれた人口1万2千人ほどの町で、その中心がかつて小幡藩の城下町だった小幡。小幡にある甘楽町歴史民俗資料館に、小幡八幡宮所有の円空像
埼玉県華蔵寺を後に、いよいよ想定ルート�の群馬県側踏査に入ります。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷宿を経由し中山道の脇街道である下仁田道で貫前神社に至る。そこを拠点に、妙義山、榛名山、赤城山に巡錫 想定ルート�周辺の地
上野国の円空踏査と言いつつ、⑵の栃木県(下野国)足利市の永宝寺に続いて、⑷は埼玉県(武蔵国)深谷市の華蔵寺であります。それは、以下の想定ルート�の最初の調査地点となるため。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷
足利市永宝寺の次は、渡良瀬川右岸沿いにみどり市大間々町(旧勢多郡大間々町)をめざす。現在は、国道50号線から日光に向かう国道122号線が通じている。図1:「上野国(上州)の街道と円空像の分布図」には、足利と大間々を直接結ぶ街道は記されていな
上野国(群馬県)の円空踏査、最初は、観音菩薩立像の伝わる栃木県足利市永宝寺から。なぜ上野国の踏査なのに、栃木県足利市から始まるのかは、まず図1をご覧ください。栃木県の円空像は、移入像をのぞいて16体確認されており、そのほとんどが日光に集中し
10月27日(日)〜30日(水)は、江戸時代上野国(こうずけのくに)だった群馬県を中心に円空の足取り踏査を実施。その踏査報告をシリーズでご報告。その(1)は、踏査の概要から。<円空が上野国を訪れた時期>上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじ
観音寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、JRと近鉄の八田駅にほど近い場所にあり、荒子観音寺とは1.5�しか離れていないためか、八田観音寺と呼ばれている。今は近郊都市化しているけれど、八田というほどなので、かつては田園地帯だったのでしょう。代々尼寺
10月の第2土曜日の12日、荒子観音寺の円空仏拝観日(拝観時間13:00〜16:00)に3度目の訪問。今回は、「『円空の冒険』諸国山岳追跡記 愛知県編�」のために、もう一度しっかり諸像を拝むため。 <荒子観音寺の沿革>荒子観音寺は
〇はじめに円空は、延宝2(1674)年、志摩国片田村(志摩市志摩町片田)の真言宗醍醐寺末寺三蔵寺の大般若経に引き続いて、6月上旬から8月中旬にかけて同国立神村(同市阿児町立神)の薬師堂でも大般若経を補修した。欠本だった21巻分を写経して補足
〇はじめに三重県志摩市には、円空が補修し、巻物から折本に改めた『大般若経』が、志摩町片田と阿児町立神に伝わる。いずれも、延宝2(1674)年に補修されており、円空が、寛文12年から延宝3年(1672〜1675)にわたる大峯修行の合間に、志摩
西尾市の浄名寺に円空の巨大な立木を活かした観音像があること、そして、その像が伊勢方面から移されてきた像だろうことは、円空に関心がある方ならご存知では。円空の大峯修行、そしてその間の延宝2(1674)年の志摩・伊勢での円空の活動まで追いかけて
第1回栃木遠征調査の締めくくりは、円空の日光での修行がどのようなものだったのかを偲ぶこと。「第1回栃木遠征調査(3)ー輪王寺の高岳作仏像拝観」で記したように、所野瀧尾神社稲荷明神立像背銘に「日光山一百廿日山籠/梵字(ウン)稲荷大明神/金峯笙
日光での円空像に、今は個人蔵となっている観音菩薩立像がある。像高62�、高く結いあげた頭部を白衣で覆う白衣観音(びゃくえかんのん)で、手は衣の下に隠し、磐坐に立つ。この像容の観音菩薩像は、埼玉県に何体も伝わり、さらに先日伺った、山形県見政寺
9月17日、昨日日光修験の秋峰修行で修験者の皆さんとお練り法楽(練り歩きつつ法螺貝や念仏を唱える)を行った日光を再訪。昨日は、そのシンボルともいえる神橋を、法螺貝隊の後に続き山念仏を唱えつつ渡った。渡れるのは、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進
栃木県の円空像の分布は偏っていて、日光街道の今市〜日光〜中禅寺までに集中する。鹿沼市廣済寺の十一面千手観音像も、背銘に「(中央大書)伝燈沙門高岳法師/(左) 天和二(1682年)戌九月九日 釈円空刻之」、「(右別の筆跡)奉納延享元(1744
埼玉県の円空の冒険遠征調査を4月〜6月に3回実施。円空が、幸手不動院などの要請を受けながら、埼玉県(旧武蔵国)に相当長期間滞在しながら数多くの像を、造像したことがおおよそ把握できた。あべのハルカス美術館開催『円空』展の図録の小島梯次氏作成の
9月7日は、Nさんに声を掛けていただき、関市板取に行ってきた。関市は、2005年に 武儀郡の武芸川町・洞戸村・板取村・武儀町・上之保村を編入合併。これにより、円空の寺だった弥勒寺のあった関市は、さらに最晩年の傑作を集める高賀神社の
9月4日は、大和郡山市の補陀落山松尾寺へ。養老2(718)年、天武天皇の皇子舎人親王創建と伝えられ、廃仏毀釈の影響を比較的受けなかったため、神仏習合のたたずまいを残す。松尾寺の子院だった真言宗寺院の福寿院(廃絶)が、江戸時代、修験道当山派の
山形県と同じく、円空像が1体しかない県として新潟県がある。ただし、きわめて情報が少なく、上越市名立区杉野瀬という集落にあるという以上の情報を事前に得ることはできなかった。あべのハルカス美術館図録掲載の、「(都道府県別)円空の神仏像数」によれ
昨年11月5日、第2回蝦夷帰還ルート踏査の折に、羽州街道沿いでは秋田県最南端となる湯沢市上院内の愛宕神社を訪問した。(第2回蝦夷帰還ルート踏査(4)ー太子堂〜愛宕神社 参照)本殿に納められた円空の十一面観音立像を拝めないかとお尋ねしたが、8
円空は、若き日に弥勒信仰の山だった伊吹山で修行し、自らの寺は「弥勒寺」(関市池尻)であり、本尊が弥勒仏である三井寺の尊栄から血脈を承けるなど、弥勒信仰と深く関わっている。弥勒菩薩は、釈迦の入滅後56億7千万年後にこの世界に現われ悟りを開き弥
山形県唯一の円空像が庄内町狩川字阿古屋にある曹洞宗の見政寺にあるという。ただし、その由来について得られる情報はきわめて少なく、ネットで入手できたのは次の程度。その元データがなにかも検証要。「見政寺は山形県東田川郡庄内町狩川阿古屋に境内を構え
8月19日は、「とある理由で」京都へ行ってきました。その理由は、いずれご紹介(ヒントは下の画像)。ぼっちの偏愛する抹茶パフェもいただいた。今回は、東福寺に近い梅光堂の「小倉抹茶ゼリーパフェ」を堪能。さて、京都での用足しが済んだので、大津市の
全国山の日協議会HPに「『円空の冒険』諸国山岳追跡記」と銘うって毎月道県ごとに追跡記録を掲載させてもらっている。原稿を書くこともさることながら、画像を確保することや、その画像掲載のご了解をいただくことに、相当手間がかかる。ただ、そのような過
円空は、元禄3(1690)年、奥飛彈の金木戸(かなきど)集落に、十一面観音、今上天皇、善女竜王の三像を残している。金木戸は、高原川の支流双六川が、さらに金木戸川と名を変える最上流部にあり、「奥飛彈の最奥」というべき集落だった。そして金木戸川
<1より>4 円空の大峯修行⑴修行期間円空の大峯修行前後の寛文11年から延宝4年で、記録に残る円空の行跡は、表1のとおり。円空の大峯周辺の修行にあてた期間は、寛文12(1272)年後半から延宝4(1676)年立春以前までのうち、
円空は、寛文12(1672)年頃から延宝3(1675)年頃にかけて、大峯山中で修行を行っている。大峯は、修験道の祖とされる役行者が蔵王権現を感得したと伝わる我が国の山岳修験における最も重要な聖地であり修行の場だった。大峯での長期に及ぶ過酷な
1 埼玉県の円空像把握の現状江戸時代武蔵国であった埼玉県は、円空像が愛知県、岐阜県に次いで多く残されている地域で、約170体の像が確認されている。注:あべのハルカス美術館『円空展』図録では、埼玉県の円空像は、2023年12月現在 173体(
翌29日は、埼玉県東部を南へ・北へと移動して調査。1 八潮市大経寺・春日部市香林寺まず八潮市まで南下して、浄土宗の大経寺へ。こちらには、埼玉県最大の円空像である千手観音菩薩立像(243.0�)がある。子年と午年の4月にのみ開帳されるので、再
5月に観音院と薬王寺のご開帳に合わせて行った、第1回埼玉遠征調査。その折、正法院さま、圓蔵院さま、谷下自治会長さまにお願いして、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像を拝観させていただく許可を得て、6月28日、同博物館で特別に「熟
円空は、長く過酷な大峯修行を終え、延宝4(1676)年には尾張周辺に戻り、爆発的なエネルギーで諸像を造顕していく。この時期に造顕された尾張の諸像は、尾張四観音の龍泉寺および荒子観音、音楽寺、庄中観音堂、津島地蔵堂、善昌寺などに伝わる。6月2
毎月21日は、名古屋市千種区覚王山日泰寺の縁日で、隣接する鉈薬師は、この日の10:00〜14:00に開帳される。この3月に伺ったばかりだけれど、改めてじっくり拝観。何度拝しても新たな感動と発見がある。 今回気になったのが、本尊薬師
目下、全国山の日協議会のHPに、『円空の冒険』諸国山岳追跡記 を毎月ひとつの道県の円空の足取りを紹介中。画像なども載せるので、あらかじめ所有者などご関係者のご了解を得ておくのに結構手間がかかっている。ただし、ご了解をいただくために、ご関係者
今まで行ってきた以下の踏査を踏まえ、円空の山岳修行の中で最も重要な意味を持つ、寛文後期から延宝3(1675)年におよぶ大峯山周辺での修行について総括させてもらいます。<踏査記録>2023年11月 大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行2024
戸隠山(1,904m)は長野市戸隠(旧戸隠村)に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られる。中腹に戸隠神社(奥社)があり、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。伝承によれば嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安
5月30日、早朝宿を抜け出し、ご来光を仰ぎに伊勢市の二見浦(ふたみがうら)へ。伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、神宮参拝の禊場でもあった。夫婦岩でも知られる。高賀神社に伝わる円空が詠んだ和歌は、大般若経の見返しの裏紙の
円空は大峯山での厳しい修行を経て、延宝2(1674)年に志摩国を訪れていたことが分かっている。同年3月、志摩国片田村(三重県志摩市志摩町片田)の三蔵寺の『大般若経』六百巻を巻子装から折帖装に改め修復、その扉に添絵58枚を描き、観音菩薩像を残
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」の銘がある。当時円空35歳。この銘文によって
5月11日 山上ヶ岳(1,719m)の山上にある大峯山寺に向け、早朝4:40清浄大橋の登山口から入山。橋を渡ったところが女人結界で、ここまで連れ合いが見送ってくれた。それでは行ってきます。修験者の装束の先達さんに追い越された。ところどころの
円空大峯修行の全容踏査第1日目の5月10日のメインは、13時にお約束した栃尾観音堂の訪問。連れ合いと愛車OUTBACKの奥地君で天川へ向かい、少し時間があったので、まず、大峰山寺を支える5ヶ寺の護持院のうち、唯一洞川にある龍泉寺を訪問(他の
ご開帳の時期から埼玉追跡を先行させ、時期は延宝後期(1680年頃)に飛んでおりましたが、このへんで時系列に円空大峯修行まで戻します。 1 大峯修行前後の円空の足取り寛文11(1671)年3月28日 廿屋(岐阜県美濃加茂市)観音洞の
埼玉遠征調査(2−1)で計画した調査概要に対し、その結果をまとめてご報告。 〇調査概要<調査のポイント>「日本で3番目に円空像が多い埼玉県。その中でも、なぜ県の南東部の低湿地帯で、円空は集中的に造像したのか?」という疑問。これを、
あちこち回り過ぎて、肝心の薬王寺に伺うのがだいぶん遅くなってしまった。薬王寺の縁起については、恐縮ながら門前の案内板の画像をご覧いただくとして、お堂に急ぐとしましょう。薬王寺の公式ブログにお伺いする旨コメントしていたので、待っていてくださっ
5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で
江戸時代の武蔵国北部にあたる埼玉県は、意外にも円空像が約170体と大変多く確認されている地域で、これは愛知県、岐阜県に次ぐ、第3位となる。ただし、同県の円空像については数が多いわりに、同じ関東地方でも、栃木県日光周辺の諸像や茨城県笠間市月宗
前に載せた記事「円空裳懸坐の像に関する考察」「中観音堂創建にまつわる試論」にまとめたように、長良川の周辺に裳懸坐の像が特異に集中する。そのうち、10�前後の定型的な小像が、尾張藩領だった岐阜市・関市や、西神頭家ゆかりの郡上市南部の、寺や個人
本ブログ「『円空の冒険』追跡ノート」は、2022年から2026年までの5カ年をかけ、円空の足取りを<原則時系列順で>追跡するのが、基本方針。しかし、展覧会で、この機会を逃すと、2026年までに拝観不可能という場合も結構あるので、そこは筋を曲
4月9日、美濃加茂市民ミュージアムで、撮影させていただいたもう一組の円空像は、蜂屋町北薬師堂の薬師三尊像。一体ずつ箱から出していただき、拝観しながら撮影をさせていただいた。まずは、主尊の薬師如来立像。像高84.5�、薬壺を持ち手は裳に隠して
美濃加茂市は、中山道太田宿のあった太田町をはじめ、古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村、および三和村・和知村の一部が合併してできた市で、その名の由来は美濃国加茂郡にちなむ。木曽川と飛騨川の合流地点に近く、太田宿と今戸宿の間は
4月8日花祭りの午後は、雨が降り出した。多治見普賢寺を後に、犬山市の妙感寺へ伺う時間調整のため、国宝犬山城天主閣を遠望する城下町を歩いてみる。犬山城主だった成瀬家は、徳川家康の命で尾張藩に付属された、家老より格上の「付家老」で、犬山城主とし
像内納入品のある円空像訪問その(3)は、多治見市大原町の普賢寺。象王山普賢寺は、普賢菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院。寛文12(1672)年に全久院13世了然玄超により、瑞光院という古寺の跡に建立されている。前身の瑞光院について、宗派など詳しい
像内納入品のある円空像訪問、その(2)は、関市広見の松見寺。松見寺は、「寺伝によれば足利尊氏の祖母である俗名千代野が開山した寺院である。がその創建年月日は明らかではない。(中略)慶長年間から暫く無住になっていたが、慶安年中(1648〜52)
「円空像内納入品の謎に迫る」考察を、さらに深めるため、未見の像内納入品のある円空像を集中して訪問。その(1)は、4月6日午前、北名古屋市鹿田院田屋敷にある院田薬師堂へ。鹿田は旧師勝町の古い集落で、道路も集落の中に自然発生した狭いうねうねした
「円空の冒険」追跡は、目下、鉈薬師の諸像を造った寛文9(1669)年から、同10年の法隆寺での修行、中観音堂諸像の造顕、大峯山の修行を経て、延宝2(1674)年に志摩の片田三蔵寺および立神薬師堂の『大般若経』を修復し、その扉に添絵を残した時
3月10日(日)の円空追跡は、美濃市の古城山と郡上市和良町の和良岳登山の間を使ってもの。雁曽礼白山神社からは、円空の足跡が色濃い津保川沿いを北上して和良岳をめざす。 途中通りかかったのが、津保川最上流部の集落、鳥屋市。有名な「尼僧
円空が、鉈薬師の諸像を造顕したと考えられる寛文9(1669)年に、雁曽礼(現在の関市富之保雁曽礼)集落の白山神社のご神体の白山三神も造顕している。同社の棟札に「時寛文九年己酉 拾月十八日 奉造立白山妙理大権現佛身躰所」とあり、さらに裏面には
一般財団法人全国山の日協議会は、次のような会であります(以下、谷垣禎一会長の挨拶の引用)。「10年ほど前、『山の日』を作ろうと立ち上がった民間団体の皆さまが、『山の日』制定協議会を構成し、祝日制定への取り組みを開始しました。そこに、超党派『
円空の寛文年間後期に集中的に造顕された裳懸座の像について調べていくうち、尾張藩家老石川(いしこ)正光の存在が浮かび上がってきた。正光は中観音堂の創建にも大きく関わっていたのではと考えられるので、以下にまとめてみます。 1 尾張藩家
円空は、寛文年間後半頃を中心に「裳懸坐」という、あまり一般的ではない台座の坐像を集中的に制作している。大型の像もある一方、個人蔵の小像も多く伝わり、それら小像は、堂舎に祀られることを前提として造像していた円空が、庶民に像を分け与えるようにな
現在、大阪のあべのハルカス美術館で、開館10周年記念『円空—旅して、彫って、祈って—』展が開催中(2月2日〜 4月7日)。「円空仏」ではなく「円空の冒険」を追う身としては、ご神体などで拝観は叶わないにしても、時系列に現地に伺うのを旨として踏
北は盛岡、秋田、仙台からはじまって、南は鹿児島市まで、県庁所在地で城下町だった市は数多い。わが岐阜県の岐阜市もそうなのだけれど、斎藤道三と織田信長によって築かれた稲葉山(金華山)山麓の城下町が母体で、江戸時代、同地は城下町でなかったところが
「大峯」は、修験道の世界においては、大峰山脈の青根ヶ峰(858m)から南をいう(その北は吉野)。その中核となるのは、山上ヶ岳(1,719m)で、役行者が蔵王権現を感得したとされ、山岳修験の世界ではもっとも重要な霊場。さらに、山上ヶ岳の表行場
南知多町には、円空の像が残る寺が、三寺ある。内海港に面した浄土宗西山派臨海山慈光寺(宇賀弁財天像)、同じ内海の真言宗豊山派井際山如意輪寺(薬師如来立像)、そして片名港に近い曹洞宗神光山成願寺(善女竜王象)。慈光寺は、天文8(1539)年、恵
戸隠九頭龍権現の本地仏宇賀弁財天を、円空が中観音堂において造顕していることを知り、弁財天、宇賀弁財天、および宇賀神についてざっくり整理し、円空が宇賀弁財天をどのように残しているかを調べてみた。 〇弁財天について弁財天は、仏教の守護
浄土宗間宮山栖了院(せいりょういん)は、渥美半島の田原市福江町に位置し、寛文後期の円空作如来坐像と不動明王坐像を所蔵しておられる。少々長くなるけれど、この寺と、円空の関わりを整理すれば次のとおり。同寺は、戦国時代の永禄2(1559)年、当地
1月13日の裳懸坐の像訪問、午後は、大垣市上石津町一ノ瀬の天喜寺へ。上石津町は旧養老郡の養老山地と鈴鹿山脈に挟まれた山あいの町で、2006年に大垣市に墨俣町と共に編入されたのだが、同市と9町村との広域合併調整がうまくいかず、飛び地の「上石津
長間薬師寺の次は、いよいよ羽島市上中町の中観音堂を訪問。「円空上人生誕地」の看板が出ております。ずいぶん以前に訪れた時は、のんびりした農村集落だった記憶だけれど、今はすぐ近くにコストコができていたりしておどろく。現在の観音堂は、水害を考慮し
寛文9(1669)年の鉈薬師の諸像を造顕前後の円空の明確な足取りは、次のとおり。同年10月18日 関市武儀町雁曽礼の白山神社に伝わる白山三像を造顕。→これは、同神社に伝わる棟札によるものだが、棟札の裏側には「佛師圓空是作 西小藤敬
(鉈薬師訪問記(2)より続く)2024年まで年越ししてしまった、鉈薬師訪問記(3)。新年だから、少々想像をふくらませることをご容赦頂き、様々な状況証拠を積み上げながら、鉈薬師二大疑問について考察してみたいと思います。疑問� どのように明の帰
(鉈薬師訪問記(1)より続く)本尊薬師如来などの中央須弥壇を護るように、両脇の壇には十二神将および合掌像が並ぶ。 十二神将は、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護する十二尊で、仏法の守護神・福徳神の「天部」に位置づけられる。薬師
名古屋市千種区に「振甫町(しんぽちょう)」という一風変わった町名がある。その地名は、明王朝から日本に亡命した帰化人で、今回訪問する鉈薬師を建立した張振甫にちなむという。 張振甫が日本に来るまでの来歴には諸説あり、名古屋県立図書館で
良寛(宝暦8年〜 天保2年)という、江戸後期の曹洞宗の僧にして、歌人、漢詩人、書家であるお坊さんをご存知でしょうか?Wikipediaからの抜粋・要約で恐縮ながら、その伝記は以下のとおり。越後国出雲崎の名主で神社の祠職の長男として
円空が、寛永9(1632)年美濃国生まれであることは、群馬県貫前神社旧蔵『大般若経』奥書に自筆で「壬申年生美濃国圓空」とあるので、定説となっている。しかし、美濃といっても広く、その出生地については、�現羽島市説と、�現郡上市美並町説があるこ
円空は、寛文6(1666)年に蝦夷で観音菩薩坐像を中心に多くの像を造顕し、その帰路、観音菩薩・釈迦如来・阿弥陀如来の坐像や十一面観音立像を中心に造顕しながら青森、秋田、松島を経由して、寛文7年頃には尾張・美濃方面に戻ったと考えられる。そして
11月17日(金)〜19日(日)の3日間限定で「白川町の円空」展が開催されるとの情報をキャッチ。時系列に踏査しようという方針には合わないけれど、なかなか拝観困難な個人蔵の像も含め17体もの円空の像が展示されるという。これは見逃すわけにはいか
5年計画で進めている「円空の冒険」追跡のうち、前半最大の難関、蝦夷地往復の踏査は今年無事終了。しかし、次なる難関が控えている。それは、円空の大峯山における修行はどのようなものだったのかの追体験的調査。 大峯山(大峰山)は、奈良県の
ぼっちの目が、どれほどのものか自信ないですが—岐阜・愛知両県の円空像をほぼ網羅した『岐阜県の円空仏』『愛知県の円空仏』の画像をじっくり見たところ、蝦夷からの帰還後、もっとも早い像は、羽島市竹鼻町狐穴の狐穴薬師堂の薬師如来坐像ではないかとおも
11月6日(月)、松島瑞巌寺を訪れた週末11日(土)は、美濃の同名の寺、瑞巌寺へ。 円空は、松島瑞巌寺を訪れた後、経路は不明ながら美濃・尾張地方に戻っている。この時期の像とされるものに、「寛文八丁未 圓空造」の刻字がある愛知県大治
昨年の9月から今年11月までに及ぶ、円空の蝦夷への往復追跡踏査も無事終了。江戸前期の寛文年間という時代背景を考えれば、円空の蝦夷往復は、想像を絶する大冒険だったはず。ここで、その記録をリンク付きで列挙し踏査の全容をご紹介し、➀
院内は、東は陸前の仙台藩、南は羽前の新庄藩に接する。Y師匠は、院内から仙台領の松島に向かうルートを何度も探索されたそうだが、円空の形跡は見つからなかったとのこと。院内から瑞巌寺まで、東に向け山越えの道が幾筋かあり、徒歩だといずれも140�内
11月5日(日)秋田市のホテルを後に、同市以南の調査に。土崎湊周辺から先の円空の帰還ルートの明確な手がかりは、湯沢市院内の愛宕神社に十一面観音立像、宮城県松島瑞巌寺に釈迦如来坐像が残されていることのみ。直線距離でも、土崎から院内は80�ほど
11月4日(日)は、青森県の西海岸唯一の円空像、鰺ヶ沢町延寿院の観音菩薩坐像を拝観させていただく予定。それに合わせて、秋田県能代〜青森県鰺ヶ沢までの日本海側の調査も行う計画。 まずは、秋田県北端の八峰町の白瀑神社へ。事前調査で、円
赤神神社五社堂を後に、徒歩だと東に10�ほどとなる増川集落(男鹿市船川港増川)の増川八幡神社へ。円空は、ここに薬師如来坐像を残している。文化元(1804)年8月25日に訪れた菅江真澄は、『男鹿の秋風』に以下のような記録を残している(現代語訳
第2回蝦夷帰還ルート踏査は、男鹿半島の赤神神社五社堂から。自宅から約800�、道の駅の巨大なまはげ像がお出迎え。実は、男鹿半島は遠い昔、「法社会ゼミ」で、地域と法の関りについて泊りがけでフィールドワークを行ったご縁のある土地。懐かしい、船越
「円空蝦夷からの帰還ルート「再」考察」を踏まえ、9月7日〜18日、第1回の踏査を津軽半島から本荘まで実施。そして、11月3日〜6日は、第2回目の踏査に向かう予定。踏査計画を立てるための事前調査の結果をご報告のうえ、計画をご紹介。
由利本荘市は、秋田県南部に位置し、2005年本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併してできた。合併によって人口は7万人余あるけれど、神奈川県の半分くらいと面積がやたら広いので、山あいののんびりした里とい
米代川の河口に位置する能代市。最近ではバスケットボールで有名だが、秋田県北部を代表する都市で、古い湊町でもある。円空の十一面観音立像のある龍泉寺は、能代湊に近い日和山(ひよりやま)の山裾、今は能代公園の一角(北端)にある。日和山とは、北前船
矢立峠を越え、秋田県に入る。かつての出羽国、江戸時代には久保田藩(秋田藩)領だった土地。円空像は、北から大館市宗福寺の十一面観音立像、北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像(集落有)、同市鷹巣の阿弥陀如来坐像(個人蔵)、能代市龍泉寺の十一面観音立像(
梵珠山を後に、羽州街道浪岡から藤崎宿を経て弘前城下に向かう。円空は、『弘前藩庁日記』に「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」と記されるように、寛文6年1月26日、豪雪
油川から始まる羽州街道は、弘前を経て碇ヶ関から久保田藩との国境の矢口峠に向かう。現在の青森県の大動脈国道7号線に対し、旧道はおおむね県道247号線に重なっているので、これをたどっていく。旧羽州街道には、ところどころ案内板が出ていて、往時をし
津軽半島の先端、外ヶ浜町三厩からはじまる松前藩主の参勤交代の道:松前街道は、陸奥湾沿いを南下して、古い湊町油川(青森市油川)で羽州街道と合流する。松並木が残る場所もある。この松前街道沿いには、先に訪れた街道起点となる三厩の義経寺をはじめ、外
今夏3回に及ぶ円空の蝦夷地踏査に引き続き、今秋は2回に分け、青森・秋田・宮城各県の円空の帰還ルートを踏査。第1回目の、青森津軽半島から秋田本荘までの踏査を9月7日(木)夜〜18日(月祝)終了、その踏査結果に基づき、円空の足取りを想定しながら
「『円空の冒険』追跡」2年目の年の初め、陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけるにあたり、円空像の様式の変遷や当時の交通事情などを手掛かりに、蝦夷への渡航ルート、帰還ルートを想定した。<詳細は「現地調査から浮かび上がった円空蝦夷渡航ルート」
昭和30年代頃の「円空仏ブーム」により円空の存在が広く知られるようになったため、円空研究は「『円空仏』研究」に偏りがち。その足取りの考察にしても、「円空仏」の様式や背銘、あるいは限られた文献から、点と点を結ぶアプローチが一般的。しかし、「円
ここまで、(1)有珠善光寺→(2)有珠山→(3)小幌の窟(いわや)→(4)内浦山と円空の蝦夷地での足取りを追いかけてきた。円空像や正式な記録は残らないもの、円空は内浦山登頂後、さらに有珠山や内浦山と同様火山で霊
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円空の十一面千手観音像のある黒川不動堂は、貫前神社から約1.5�北の丘陵地帯の裾に位置する。群馬県立博物館長だった池田秀夫氏は、『円空研究』の論文「円空と上野国一ノ宮貫前神社」の中で、「おそらく円空が貫前神社滞在中に周辺の村々に巡礼、布教に
上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじゃ:富岡市)にあった明徳4(1393)年11月5日に写経された大般若経の残欠の末尾には、円空自筆で次のように記されている。十八年中動法輪 諸天晝夜 守奉身 刹那轉讀心般若 上野ノ一ノ宮 今古新いくたひも
吉井町弘福寺から、次は甘楽町(かんらまち)へ。甘楽郡甘楽町は、群馬県南西部に位置し、東を高崎市、西を富岡市に挟まれた人口1万2千人ほどの町で、その中心がかつて小幡藩の城下町だった小幡。小幡にある甘楽町歴史民俗資料館に、小幡八幡宮所有の円空像
埼玉県華蔵寺を後に、いよいよ想定ルート�の群馬県側踏査に入ります。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷宿を経由し中山道の脇街道である下仁田道で貫前神社に至る。そこを拠点に、妙義山、榛名山、赤城山に巡錫 想定ルート�周辺の地
上野国の円空踏査と言いつつ、⑵の栃木県(下野国)足利市の永宝寺に続いて、⑷は埼玉県(武蔵国)深谷市の華蔵寺であります。それは、以下の想定ルート�の最初の調査地点となるため。想定ルート�:幸手不動院方向から中山道で深谷
足利市永宝寺の次は、渡良瀬川右岸沿いにみどり市大間々町(旧勢多郡大間々町)をめざす。現在は、国道50号線から日光に向かう国道122号線が通じている。図1:「上野国(上州)の街道と円空像の分布図」には、足利と大間々を直接結ぶ街道は記されていな
上野国(群馬県)の円空踏査、最初は、観音菩薩立像の伝わる栃木県足利市永宝寺から。なぜ上野国の踏査なのに、栃木県足利市から始まるのかは、まず図1をご覧ください。栃木県の円空像は、移入像をのぞいて16体確認されており、そのほとんどが日光に集中し
10月27日(日)〜30日(水)は、江戸時代上野国(こうずけのくに)だった群馬県を中心に円空の足取り踏査を実施。その踏査報告をシリーズでご報告。その(1)は、踏査の概要から。<円空が上野国を訪れた時期>上野国一之宮・貫前神社(ぬきさきじんじ
観音寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、JRと近鉄の八田駅にほど近い場所にあり、荒子観音寺とは1.5�しか離れていないためか、八田観音寺と呼ばれている。今は近郊都市化しているけれど、八田というほどなので、かつては田園地帯だったのでしょう。代々尼寺
10月の第2土曜日の12日、荒子観音寺の円空仏拝観日(拝観時間13:00〜16:00)に3度目の訪問。今回は、「『円空の冒険』諸国山岳追跡記 愛知県編�」のために、もう一度しっかり諸像を拝むため。 <荒子観音寺の沿革>荒子観音寺は
〇はじめに円空は、延宝2(1674)年、志摩国片田村(志摩市志摩町片田)の真言宗醍醐寺末寺三蔵寺の大般若経に引き続いて、6月上旬から8月中旬にかけて同国立神村(同市阿児町立神)の薬師堂でも大般若経を補修した。欠本だった21巻分を写経して補足
〇はじめに三重県志摩市には、円空が補修し、巻物から折本に改めた『大般若経』が、志摩町片田と阿児町立神に伝わる。いずれも、延宝2(1674)年に補修されており、円空が、寛文12年から延宝3年(1672〜1675)にわたる大峯修行の合間に、志摩
西尾市の浄名寺に円空の巨大な立木を活かした観音像があること、そして、その像が伊勢方面から移されてきた像だろうことは、円空に関心がある方ならご存知では。円空の大峯修行、そしてその間の延宝2(1674)年の志摩・伊勢での円空の活動まで追いかけて
第1回栃木遠征調査の締めくくりは、円空の日光での修行がどのようなものだったのかを偲ぶこと。「第1回栃木遠征調査(3)ー輪王寺の高岳作仏像拝観」で記したように、所野瀧尾神社稲荷明神立像背銘に「日光山一百廿日山籠/梵字(ウン)稲荷大明神/金峯笙
日光での円空像に、今は個人蔵となっている観音菩薩立像がある。像高62�、高く結いあげた頭部を白衣で覆う白衣観音(びゃくえかんのん)で、手は衣の下に隠し、磐坐に立つ。この像容の観音菩薩像は、埼玉県に何体も伝わり、さらに先日伺った、山形県見政寺
9月17日、昨日日光修験の秋峰修行で修験者の皆さんとお練り法楽(練り歩きつつ法螺貝や念仏を唱える)を行った日光を再訪。昨日は、そのシンボルともいえる神橋を、法螺貝隊の後に続き山念仏を唱えつつ渡った。渡れるのは、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進
栃木県の円空像の分布は偏っていて、日光街道の今市〜日光〜中禅寺までに集中する。鹿沼市廣済寺の十一面千手観音像も、背銘に「(中央大書)伝燈沙門高岳法師/(左) 天和二(1682年)戌九月九日 釈円空刻之」、「(右別の筆跡)奉納延享元(1744
埼玉県の円空の冒険遠征調査を4月〜6月に3回実施。円空が、幸手不動院などの要請を受けながら、埼玉県(旧武蔵国)に相当長期間滞在しながら数多くの像を、造像したことがおおよそ把握できた。あべのハルカス美術館開催『円空』展の図録の小島梯次氏作成の
9月7日は、Nさんに声を掛けていただき、関市板取に行ってきた。関市は、2005年に 武儀郡の武芸川町・洞戸村・板取村・武儀町・上之保村を編入合併。これにより、円空の寺だった弥勒寺のあった関市は、さらに最晩年の傑作を集める高賀神社の
9月4日は、大和郡山市の補陀落山松尾寺へ。養老2(718)年、天武天皇の皇子舎人親王創建と伝えられ、廃仏毀釈の影響を比較的受けなかったため、神仏習合のたたずまいを残す。松尾寺の子院だった真言宗寺院の福寿院(廃絶)が、江戸時代、修験道当山派の
「円空蝦夷からの帰還ルート「再」考察」を踏まえ、9月7日〜18日、第1回の踏査を津軽半島から本荘まで実施。そして、11月3日〜6日は、第2回目の踏査に向かう予定。踏査計画を立てるための事前調査の結果をご報告のうえ、計画をご紹介。
由利本荘市は、秋田県南部に位置し、2005年本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併してできた。合併によって人口は7万人余あるけれど、神奈川県の半分くらいと面積がやたら広いので、山あいののんびりした里とい
米代川の河口に位置する能代市。最近ではバスケットボールで有名だが、秋田県北部を代表する都市で、古い湊町でもある。円空の十一面観音立像のある龍泉寺は、能代湊に近い日和山(ひよりやま)の山裾、今は能代公園の一角(北端)にある。日和山とは、北前船
矢立峠を越え、秋田県に入る。かつての出羽国、江戸時代には久保田藩(秋田藩)領だった土地。円空像は、北から大館市宗福寺の十一面観音立像、北秋田市綴子の阿弥陀如来坐像(集落有)、同市鷹巣の阿弥陀如来坐像(個人蔵)、能代市龍泉寺の十一面観音立像(
梵珠山を後に、羽州街道浪岡から藤崎宿を経て弘前城下に向かう。円空は、『弘前藩庁日記』に「円空ト申旅僧壱人長町二罷在候処御國二指置申間敷由仰出候二付而其段申渡候ヘハ今廿六日二罷出青森へ罷越松前へ参由」と記されるように、寛文6年1月26日、豪雪
油川から始まる羽州街道は、弘前を経て碇ヶ関から久保田藩との国境の矢口峠に向かう。現在の青森県の大動脈国道7号線に対し、旧道はおおむね県道247号線に重なっているので、これをたどっていく。旧羽州街道には、ところどころ案内板が出ていて、往時をし
津軽半島の先端、外ヶ浜町三厩からはじまる松前藩主の参勤交代の道:松前街道は、陸奥湾沿いを南下して、古い湊町油川(青森市油川)で羽州街道と合流する。松並木が残る場所もある。この松前街道沿いには、先に訪れた街道起点となる三厩の義経寺をはじめ、外
今夏3回に及ぶ円空の蝦夷地踏査に引き続き、今秋は2回に分け、青森・秋田・宮城各県の円空の帰還ルートを踏査。第1回目の、青森津軽半島から秋田本荘までの踏査を9月7日(木)夜〜18日(月祝)終了、その踏査結果に基づき、円空の足取りを想定しながら
「『円空の冒険』追跡」2年目の年の初め、陸奥から蝦夷へと円空の足取りを追いかけるにあたり、円空像の様式の変遷や当時の交通事情などを手掛かりに、蝦夷への渡航ルート、帰還ルートを想定した。<詳細は「現地調査から浮かび上がった円空蝦夷渡航ルート」
昭和30年代頃の「円空仏ブーム」により円空の存在が広く知られるようになったため、円空研究は「『円空仏』研究」に偏りがち。その足取りの考察にしても、「円空仏」の様式や背銘、あるいは限られた文献から、点と点を結ぶアプローチが一般的。しかし、「円
ここまで、(1)有珠善光寺→(2)有珠山→(3)小幌の窟(いわや)→(4)内浦山と円空の蝦夷地での足取りを追いかけてきた。円空像や正式な記録は残らないもの、円空は内浦山登頂後、さらに有珠山や内浦山と同様火山で霊
円空の蝦夷地での活動が確認できる場所は、有珠善光寺、有珠山、小幌の窟(いわや)、そして内浦岳。現在は北海道駒ケ岳(大沼駒ケ岳・渡島駒ケ岳)と呼ばれるこの山と円空の関りを踏査に基づきまとめると、以下のとおり。 1.内浦岳にまつわる円
円空は、有珠善光寺で造顕し、さらに噴火間もない有珠山に初登頂して松前方向に戻る途中、豊浦町礼文華の小幌にある現在「岩屋観音」と呼ばれる洞窟に立ち寄り像を残している。菅江真澄はここを「ケポロオヰの岩舎の観音」として、「舟つけてこの窟に入ば、い
円空が寛文3(1663)年に突如噴火したばかりの有珠山に登ったことは、洞爺湖の観音島の堂に伝わった(注)観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺宝物館蔵)の背に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」
松前藩の史料を集成した『福山秘府』で「神体円空作」とされる像は、松前藩の日本海側(西在郷)に寛文5(1665)年に新しく造立された堂に納められたものが多い。その配置を踏査で調べると、海岸沿いの主だった集落—今でいえば郵便局がある程度の集落−
第3回の北海道踏査に、8月3日(木)〜8日(火)に行ってきました。第1回の松前藩日本海側(西郷)、第2回の松前藩太平洋側(東郷)に続く今回は、円空が和人の領域:松前藩を離れ、アイヌ人の土地:蝦夷地を巡った足取りを踏査。(↓地図クリ
1回目の北海道踏査で、松前藩の西半分日本海側を『福山秘府』の「神体円空作」と、当時の村落を網羅した『津軽一統志』を照らし合わせながら巡った結果、きわめて計画的に主だった集落に置かれていることが分かった。さらに、寛文5年に新造された堂に収めら
第2回の「円空の冒険」北海道踏査のメインは、松前藩東部の円空の足取りをたどること。それ以外に、1回目松前藩西部日本海側踏査でやり残した調査、第3回の予備調査も行ったので、簡単にご紹介。 〇乙部町龍寶寺7月16日、第1回で伺いそびれ
「円空の冒険」第2回北海道踏査(松前藩東部)としての最後の訪問先は、七飯町のT家。七飯町(ななえちょう)は、かつて七重村と呼ばれ、渡島半島の内陸部、函館市から北に約16 kmの距離に位置する。町域は大沼トンネルを境に南北に分かれ、北部は活火
第2回北海道踏査の2日目、7月15日(土)は、秋田で未曽有の大水害があった日で、北海道も大雨。午前中は道南の郷土資料の最も充実した函館市中央図書館で文献調査、雨の弱まった午後は函館市船見町にある称名寺へ。ここには、旧吉野教会像と並んで、北海