自我意識とは、今この状態を認識し、過去と未来をも想起想像できる状態だ。しかし夢の時の意識は、減債や過去や未来を認識できているだろうか??
自我意識とは、今この状態を認識し、過去と未来をも想起想像できる状態だ。しかし夢の時の意識は、減債や過去や未来を認識できているだろうか??
人生の意味や自分の存在の謎を考えるときの思考は、顕在意識の形而上学的な思考といえるが、夢を見ている時の思考は、潜在意識の形而下学的な思考であり、経験や記憶の範囲内になってしまう。
何か気になることがあるとき、そんな思いを抱いて眠りにつくと、その夜の夢で思いもかけない別な切り口からの問題解決の提言を夢が教えてくれることがある(全く的外れな方向性だったりもすることはしばしばあるが・・・)。解決策が素晴らしいものかそうでもないかは置いて
占星術やカバラや数秘術など、古来から人々はとにかく運を良くして人生を幸せなものとしたがっている。しかし、そんな意味不明な幸運よりも、そもそも何故人生があるのかを最優先に探究しないとダメだ。だから、人生が何故あるのかをきちんと究明しょうとしない秘法はダメだ
生物あるいは動物にとっては、心は必要なものなのか?なくても生きることは可能なのではないか?外からあるかどうかも確認できない心というものが、もしなかったら生物あるいは動物あるいはヒトはその行動が不完全になってしまうのか?
この現実の世界のような矛盾や汚れなど不完全すぎる世界ではなく、もっと理想的な完成した世界を想像したい。
小説や映画を見ていると、酒を飲みながら、あるいは葉巻をくゆらせながら、神妙な顔つきで考えに耽って、それで思索に励んでいるような姿勢としているけれど、そんなのは間違っている。本当に考えるときは飲酒や喫煙などの物質に依存して何かをひらめくなんてことはあり得な
大腸菌に意識はあるか?アメーバに意識はあるか?ボルボックスに意識はあるか?クマムシに意識はあるか?昆虫に意識はあるか?魚に意識はあるか?犬に意識はあるか?イルカに意識はあるか?ゴリラに意識はあるか?チンパンジーに意識はあるか?赤ちゃんにに意識はあるか?2歳
今までの経験や価値観から今目の前にある課題に対処するのではなく、ただただ今現在の自分のクオリアで現在そして未来に向かって適応していく!
過去の自分の感じたこと考え方ことを忠実に再現して再体験出来たなら。。。
死ぬ直前の走馬灯体験のように過去の自分の感じたこと考えたことをその時の臨場感で忠実に再体験できるならば、どんなに参考になるだろうか?今はもう忘れてしまったことを思い出し、はっと我にかえれるかもしれないし、フレッシュな気持ちで臨めるかもしれない。。。しかし
著名なN氏は、対談番組で相手から、人生に意味はないってことになるんですか?と聞かれたときに、意味はないから意味がなくても楽しく生きていけるようにやっていくと答えていた。人生に意味はないという結論で、さらには人生は楽しく生きていければその方がいいという考えだ
思考を形にする必要はないと以前書いたが、イエスやブッダも書に自分の考えを残そうとはしなかった。思考は形じゃないし、他者へ伝えるものではないし、そして、将来の自分へ伝えるものでもないということだ。将来への自分に文字として伝える日記のような、そんな思考は本当
以前『憤りが思索の原動力となる』と書いたが、本当に孤独ならば憤りは起きない。全くの孤独、無人島のような所で、足を何かにぶつけて痛い思いをしても怒りの気持ちなど出てこない。しかし、現実の人の大勢いるこの世界で何か荷物に足の小指でもぶつけたら痛い気持ちと何で
勉強したり知識を得たりそんなことよりももっと大事なことがあるとにかく、人と関わることだ
他人が出てこない夢などあるだろうか??かならず人が出てくる。意識はかならず人を意識しているのだ、寝ている間も。そして、病気でうなされている時も。それくらい、意識にとって他者というのは重要なテーマなのだ、絶対的な課題なのだ。何故なら、他者の意識を希求してい
思考というのが客観的に説明できるような、そういう形など必要なのだろうか?まず他に人がいなければ、他者へ説明する必要性は無くなる・・・しかし、もう一点。現在の自分を後で将来に自分が思い出したときに正確にどういうふうに思考していたのかを伝える点では形があった
選挙の一票など何の意味もない、政治にはもっと大きな力が働いているだから一小市民は政治に無関心になるし、無力だし、希望は無くなる・・・そこで、組織を作っていく者たちが台頭してくるわけだそれと同じように、1000億もの脳細胞たちの部分部分で非協力的に働くのを徒党
世の中を正そうとか良くしようとか、そういうことを思うよりも、まず、不運なことや理不尽なことが起きる世の中を、とくにネガティブなことが起き得る、この現実をしっかり噛みしめて考えていくことが大事だろう。それが自分自身に考える原動力となる。にほんブログ村に
自分自身の考えもどうやって捉えればいいか、本当のところは誰もわかっていない。しかし、自分というのは曖昧ながらもこういうものだというふうに毎朝目覚めるたびに無意識のうちに理解している…自分自身の考えもどうやって捉えればいいか、本当のところは誰もわかっていな
鏡に写る自分の姿を見ても、どんなことを考えているかは、当然見えてこない。ラジオで人の話しているのを聴いてると、その姿はみえなもののその話者の考えていることを想像することは出来る。ラジオの内部を調べても話者の考えは見えてはこない。他人の脳のレントゲンとかで
アメリカの3S政策は、screen、sport、sexを用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにするものだが、今は、受験勉強、スマホ、ゲームなどであろう。財務省批判など余計な関心・行動化にならないように愚民を刹那的に生きさせようとする。人気ブログランキングへにほ
牧師さんの勧めで、『それでも、私は憎まない』という本を読んだ。著者はガザ地区に住んでいた産婦人科医師。6人の娘と2人の息子がいた。一番下の息子が6才のとき奥さんは急性白血病で診断から2週間で急遽した。その4ヶ月後の2009年1月16日イスラエル軍によるガザ攻撃で娘3人
人生の目的が幸せになることなら、人類はとっくに幸せだけの世界を作り上げているはず
人生の目的が幸せになることなら、人類はとっくに幸せだけの世界を作り上げているはずだ。今、人類の課題となっていることは、この人生の意味を考える人格の成熟が成し遂げられてないことだろう。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
苦しんでいる人への言葉傾聴と共感・反復が良いとか言うけれども、そんな小手先の技術・話し方・対応が本当に良いことなのかどうか?イエスは幼い頃にエルサレムの神殿前で大の大人たちに混ざって議論したことがあるようだが、本当に神の子ならばその幼き小さい子どものころ
キリストの場合は話の通じる相手だけに説教してるだけであり、精神病、サイコパス、人格障害、高次脳機能障害、認知症への説教が出来ていない、むしろ、避けている。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
学生時代の人生の意味を求めて彷徨っていた自分。あの頃の自分に比べれば今の自分は恵まれてるし、そんな中でもっと思索が進化してるかどうか…自然界では過酷な状況になると生物の進化が進むというが。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほ
キリストはどうだったのだろうか?https://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12887349411.htmlにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
このブログ活動は、自分と同じように人生の意味を解明しようと頑張ってる人が共感しブログからインスピレーションを得て良いアイデアを得られるようにしてあげたいと言う想いからやってるのだが、この利他的な行動で他者に一緒に語らいたいと言う気持ちなり友情なりを持つの
脳のどこが意識に関係して、どこから関係しなくなるのか・・・ニューロンの集まり、さらにはミトコンドリアや細胞内小器官などの集まり、もっと言えば、分子や原子の集まり・・・これら部品と、そして総体としての意識・・・・部品とスイッチと意識の創発・・・・人気ブロ
ウクライナの国民はロシアの国民を敵視したり羨んだりするのだろうか?いや、そんな集合意識はないであろう。自分の生活でいっぱいいっぱいで今日はどんな食い扶持があるのかとか国外脱出する方法はないかとかそういうことをめいめい必死で考えているだろう、つまり国民が一
小学校の頃は他人の持っている物がうらやましく見えた。アシックスやアディダスなどのメーカー物の靴や衣料品を身に着けている同級生らを見ると憧れた。担任の先生が履いているアシックスの靴が歩くたびにキュッキュキュッキュ地面を鳴らすのをすごいなあと感心した。ゲーム
苦しく悲しい過去、その直前に戻ってやり直したい過去、、、その過去を肯定はしない。それが何らかの目的のためというならそれは愚か者の不謹慎かつ恥ずべき妄言であり、一番大事なのは、そんな過去の呪縛から解放されて、前向きに歩いていくことだ。にほんブログ村にほん
ビリージョエル人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
時々、過去の自分を思い出して無性にあの時は良かったと感慨に耽ることがある。あの時は良かったといっても、幸せだったわけではない、むしろ逆だ。孤独で、寂しく、寒く、心細く、暗く、人生に絶望していた。それでも、懸命に生きていた。懐かしい思い出の曲。当時の辛かっ
しょせん何をどう考えてもこの世界はおろか自分の周りすら何も変わらない。せいぜい変わり得るのは自分の人生だけだ。それも多分悪い方へ。実際の人生は、コツコツ地道に現実的な努力の結果として豊かで安定した生活を送れるようになる、ただそれだけだ。にほんブログ村
マスコミがOld Mediaと呼ばれるようになったこの時代、いろんな嘘や欺瞞が明らかになりつつある。芸能人やTV局は傲慢だったことが白日のもとに晒され、そもそも日本や世界がやっていることもいい加減だと言うことが明らかになっている。まず、WHO。新型コロナをパンデミック
新聞の人生相談を見ていて非常に呆れてしまったことがある。40代の女性が結婚し、不妊治療をしているけれど、子供はできず、物足りなさを感じると言う。。。そもそも、子供はそんなに好きではないと言う。。。専業主婦であり外との関わりが少なくて気持ちは楽(!!!)だと
何か色々積極的にやってる人は周りからも注目されるし出来れば親しく関わりたいと思われるだろう。つまり、人脈が広がり友人にもなる。しかし、この世的な活動性の高さや成功などが意味があるのかどうか。マスコミやメディアは盛んに消費を促す広告を出すが、大量消費の世の
人生の意味を早く見つけなければいけないことはないし、人生の意味が結局なくても構わないし、あっても構わないの思うのが一番理想的なのかもしれない。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
人生に意味はないかどうかは、わからない。神がいれば神はわかっているだろうし、神がいなければ無意味なこの世界でこの無意味さを知っているものは一人もいないということになる。いずれにしろ、我々人間にはわからないのだから、意味が無いと結論付けることはできないし、
マルチタスクというほどではないにしても、いっぺんに複数の事柄を同時に思索することが出来たら、かなり思索のレベルが上がるだろう。しかし、なかなか難しい。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
森永卓郎さんが亡くなった。当日もラジオにリモート出演する予定だったが、やはり無理であったし、息子さんも痛みが少なくて良かったと言っている。しかし、結局、癌でなくなる時も痛みは付きまとうのが必然なのだろう。。。ご冥福をお祈りいたします。にほんブログ村に
若者の権利意識の向上や女性の社会進出など昨今の日本の状況は昔に比べるとだいぶまともになってきた。昭和後期は男優位の社会で喫煙が当たり前だったし、何よりヤクザなどの暴力が恐れられていた。あの頃はヤクザのような存在に不安や恐怖を抱いていたものの、暴力団対策法
皮肉とはなんだろうか?皮肉は計算づくで遠回しに相手のことを悪く言ってることであろう。場合によっては相手がその非難を理解せずに逆に褒められてるかのような気になることもある。その勘違いすらも皮肉を言った者及びその仲間はますます相手の低能を楽しんでいるのだろう
生物は死んだら物になる。石のような物になる。しかし、髪の毛、爪、糞尿のように元々は生きてた身体の一部だったものであり、だから、生きていた人間が死んで動かなくなっても、それは真皮から表皮になり角化した細胞のように、死んだように実際なっていても、すごく役に立
他のブログで記事更新が止まってしまったブログがある。きっとブログ主が人生を変えたくて生活やらネット活動やら変えているのだろう。ブログを辞めてしまうというのはとても良いことだ。何年も続けても何も変化や向上はないことの方が多いからだ。ごく一部のブロガーは読者
仕事に一生懸命のつもりでも、虚業に一生懸命なのと同じだ。そして、思索というのも同じだ。成し遂げているという錯覚があるだけで、実態はあてもなく知らない街を彷徨って散策しているのと何ら変わりない。そしてそれでいいのだ。人生は別に一生懸命何かを成し遂げたと言え
人生に意味はないと言う場合、仕事も日常生活も意味はなく、一生懸命働いてもそんなに価値はなく、家族のためにいろいろ尽くしてもそんなに意味はなく、むしろ逆効果な場合もああるわけで、ならば、あまり頑張らないほうが一番いい。意味や価値があるとそれに向かって一生懸
思うように思えば良い、思うようにならない世の中だけど。世の中を自分の思うように変化させていくことは叶わないと思うべきだ。叶うと思いながら、叶わない現実にイライラしたり悲しんだりしても仕方ない。自分の思いとこの世の中は全く関係ない、ただ、自分の思いだけが自
運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、運命などないし、どうな
何のために生きるか ブログ何のために生きるのか・・・人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
この世はこの世での真理を悟った者から本当の意味で昇天していく。 人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
寿命で死ぬのは受け身だというのが普通の考えだろうが、覚悟が出来れば死が来るものだ。つまり、受動ではなく、能動的なイベントだ。もちろん自殺ではなく人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
頑張らなくてもいけていけるような人生を送っている人は恵まれている。そういう人は路上生活者のように自由に生きていける。しかし、家族や仕事や財産が有っても多大なる努力で日々なんとか生きている人にとっては人生は不自由で苦しく修行のようなものだろう。にほんブロ
独りきりで、親も死んでいるのに。懸命に生きている人を見ていると、何故そんなに頑張れるのだろうかと不思議に思えてくる。というか、生きていることに苦しさや悩みや心配がないのだろうと思えてくる。生きていればいろいろ嫌なことが多いし、考えなければいけない原罪や将
高熱が出て喉も痛み咳や鼻水も多く大変だった。といっても、良い体験であった。寝ながら、いろいろ考えられたから。こういう機会は滅多にない。もちろん普段の健康のありがたみもわかるものだが、すこしぼうっとした変性意識状態の中で感じたこと考えたことは人生の意味を考
たとえば頭痛や肩こりや腰痛など持病があるはずなのに、たまにそれらが一切感じることなく平穏な体調の時があり、そういうときは本当に恵まれた感謝すべき良い日だと思って全ての苦悩をいったん忘れた方がいいだろう。明日はまた色々心配なことがあるとか、最終的には苦しい
酒に発がんリスク明記を 適量基準見直しも勧告―米当局時事通信 外経部2025年01月04日05時23分配信 【ニューヨーク時事】米国の公衆衛生政策を統括する保健福祉省(HHS)のマーシー医務総監は3日、アルコール飲料のラベルにがんの発症リスクが高まるとする警告を表示
スティングのシェイプオブハートの歌詞に出てくる、カードに宇宙の真理を見いだそうとするギャンブラーのような、人生の不条理・偶然性・複雑さを、単純な数の神秘で明かせるんじゃないかという期待は全くの無駄だ、幻想だ。にほんブログ村にほんブログ村人気ブログ
自分が決めたことへの後悔をする人、自分が悪いのではなく他人や天や運命を呪うような人は不幸に見舞われる
自分の人生は自分で考え決めて選択するわけで、誰の責任でもなく自分の責任で生きていくわけだ。それを自分の決断が間違っていたとか失敗だったとかそんな後悔をして、ただただ恨みつらみで自分のいたらなさを運が悪かったとか言ってると思わぬしっぺ返しが来る。では、自分
年の瀬を感じる今日この頃寂しい気持ちと新しい年の幕開けに期待したい気持ちが混在するが、元旦には近所の混まない神社に行って、これから一年の抱負とそれを実現出来るんだという自分自身の無意識への暗示をかけて臨みたい…人気ブログランキングへにほんブログ村
現実的な処世術を説く悪魔の言うことを聞くのが人生の生きかたといえるのか?
人が誰かに相談というか愚痴というか話すとき、どういう返答なりアドバイスなりをその人は期待しているか?例えば、夫のだらしなさを友達に愚痴る主婦は、べつに夫のだらしなさを直すような助言を欲してるわけではないのだ。ましてや、友達の口から本当に夫はだらしないね、
色々不幸や不遇があったからこそ今の自分がいる。真理に近づく悟性を持てたのは今までの辛いことのおかげなのだ。この世は不幸が幸せを倍増させてくれるものではなく、この世はどこまでいっても理不尽で、ただ一つ、この世に生まれ出てきたこの意識の目的が真理に近づくとい
ブッダのような坐禅瞑想でもなく、もちろんイエスのような必死な祈りでもなく、この時代にはもっと究極的な真理探究の方法があるはずだ。例えば、苦しみや悩みでストレスフルな長期間の人生から辿り着く方法とか。にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
わざわざアメリカに挑戦する菅野の気がしれない。今、菅野は日本球界で一番の選手だ。誰かが菅野を馬鹿にしたりするのかもしれないだろうが、さらに上を目指すのは意欲や気力が亢進しているからだろうか?何故今の平穏な状況で満足しないのだろうか?もしかしたらアメリカMLB
長い時間で経験することは遠い将来への認知の心構えがまだできていないからなんだろう。人生を普通より早く終えてしまうような人はもう長い時間をかけたり待ったりする必要がない人なのだ。長い時間にはどういう意義があるのだろう・・・にほんブログ村にほんブログ村に
どうでもいいくだらないニュースが溢れているどうでもいいくだらない番組があふれている人々はいろんなことに興味関心を持てているがそんなどうでもいいことで満足させられているとも言える小さな子供が家の中にあるものをうまく利用して遊んでいるのに似ている アダムとイ
人間も他の動物同じように、子供を亡くしても、自分自身の腹がすけば餌を探して歩き始めるし、動くのが動物の本分だ。植物のように受け身ではないから。人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
日々の仕事に心を奪われることを忙しいと書く。TV番組で人里離れた自然の中で自給自足の生活をする人がいるが、食べていくための食糧の確保など衣食住に時間を取られているのは貴重な人生の時間の無駄なのではないだろうか?古代ギリシャの哲人たちは奴隷たちに労働を任せ
今不幸な人は、不幸なこの現状そして将来への不安や苦悩を経験し理解するために生かされているのだと思う。不幸な現況と将来へ無理解なのだ。では、今幸せな人は不幸な時にますます不幸になっていく蟻地獄のような悪循環や負の連鎖のことを充分予想出来ているのだろう。全て
自分自身も変化はする。記憶も蓄積および消失するし、認識や思考も成熟してくるのだから。過去の自分から未来の自分をいきなり見ても理解できないかもしれないし、未来の自分が過去の自分を見て理解納得することはまぁまぁ出来てももしかしたら忘れてしまって何故あんなこと
他人は自分とは違う思考回路・認知構造だから、同じ価値観では生きているとは限らない。つまり、生きていて苦しくはないという人も少なくないわけで、そういう人には僕が求める人生の真理や意味を万一教えてあげることができても少しも喜ばれない可能性だってありうる。自分
憧れの対象は存在せず、ならば、理想の人とはどういう者であるか?『蜘蛛の糸』の極楽浄土のお釈迦様みたいな感じの存在になりたいと思うであろうか?否。キリスト教のような天上の座に座っている神のようになりたいと思うか?否。もちろん、この自分自身でもない。漆黒の真
この人みたいになってみたいと思えるような憧れの人は存在するだろうか?いや、いない。古今東西存在しない。何故か?みんな罪深いからだ。イエスキリストですら罪深い。現在の成功者にですら、憧れない、なりたくない。この世に生きてる時点で、肥溜めの中で暮らしてるよう
動物はあまり考えない、というか、考えが浅い人間は夢の中でも考えているが、やはり、動物のようにその時の考えは浅いにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
嫌なことがあった日ほど何か気づきのチャンスなはずだ。(普通の人なら、こんな嫌な一日の終わりには居酒屋で酒でも飲んで憂さを晴らすのだろう。)嫌なことがあった日は、帰宅時、考えるネタやヒントが与えられたと思って、むしろ、これから、一日の総括をして考察しなけれ
気晴らし(モーツァルト K. 136 ディヴェルティメント)
モーツァルトが16歳の時に作曲した弦楽四重奏Divertimento K. 136 (ディヴェルティメントとは気晴らしという意味)とくに第一楽章が明るくテンポよく本当に練りに練られていてモーツアルトの天才ぶりを感じさせられる東武東上線の池袋駅の発車メロディーでアップテン
他人に共感できる能力といっても、トクリュウの首謀者や指示役などの上の立場の狡猾な人達の気持ちなど分からないし、分かりたくない。下っ端の実行役の弱者が金に困って、頭も悪くて、罪を犯してしまうのは自分自身も不遇な環境に生まれ育っていたら同じ立場になっていたか
もう今は願ったり望んだりする段階ではない幼い頃から少年期、青年期と色々願いを持ち、人生経験を経て、今があり、今はもう願いをしている段階ではなくて、別なもっと高尚なレベルに登っていくべく努力が必要な段階であろう。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ
この世界は箱庭のようなもの。箱庭の中でのみ牛がどうしたとか、木がどうしたとか、ニュースになってるし、人々の関心は自分のことや箱庭の中での自分の領地や飼育する羊の数とかだけだ。こんな狭い箱庭の世界の中でのあれやこれやを考えるのはやめて、もっと外の世界に目を
人を好きになるよりも、その人のやることに賛同して好きになるわけで、自分自身をすきになるというよりも、自分の行う日々の一つ一つに期待と感謝と賛同を持って頑張っていきたい人気ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
自分のことは好きでない人が多いであろう。この私自身もそうだ。自己肯定感がなく、自分の嫌なところばかりが目につく。しかし、そんな思い、考え、人生では上手くいかないであろう。もっと自分を好きにならねば。いや、自分を、ではなく、自分の行動を。自分が一緒懸命にや
高齢になってからの孤独化、孤独死などを心配する風潮があるが、人間は高齢になることも孤独になることも自然な成り行きであり、自然現象だから避けなくていい。そりゃ、歳を取っても、家族に恵まれ、仲間に恵まれ、楽しく愉快な老後および、臨終の場で皆に看取られながらの
白石一文という作家の小説はストーリーも内容も印象に残らないが、読んでる最中に人生の意味について考えるヒントをくれる。君がいないと小説は書けない(新潮文庫)白石一文新潮社2022-07-28エッセイみたいな自叙伝だなと思ったが、そんなことはどうでもよく、例えば ↓君
全てのことに意味があるかないかと言ったら、否というのが常識であろう。むしろ、意味付けようとする人間は非合理的な判断をして失敗してしまうことが現実では多いというのが一般的な常識だろう。常識。あるプロ雀士は、考えても仕方のないことは考えないと言う。最適手を選
Fあるいは小学校の頃のような場面で夕暮れのような孤独な黄昏に居ても立ってもいられない焦燥感、独りぼっちの切なさ、たぶんそういう時は身体の痛みも将来への不安も過去への後悔も全て優先順位を下げて、何にもまして誰かと一緒にいたいと思っていたわけで、人生のことも一
死ぬとき心筋梗塞の激烈な痛みの中で大事な人の顔を思い出しながら名前を読んで死にに行きたい痛みがどんなに強くとも痛くともこれができなければ生きてきた意味はないくらい大事なことだそれが生きている間に準備すべき人の人生の目的かもしれないにほんブログ村にほん
やはりつらいものはつらい・・・きっと何か意義があるんだと信じたい・・・にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
今日はどんな良いことが待ち受けてるんだろうとワクワクしながら職場に向かっても、嫌なことやトラブルなどが起きてしまったりする。逆に今日はどんな悪いことが起こるんだろうも思って出勤すると一日平穏無事に終わるかもしれない、ただし、本当に何も収穫なく。今日はどん
上を見る。上のほうを向く。アゴは引く。下を向かない。猫背にしない。上目遣いにしない。しかし、上を見る。上のほうを向く。アゴは引く。下を向かない。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
楽しむためではなく、つらい苦しいことを経験した上でそこからヒントを見つけるために今日も生きる
楽しいことがないかなと思いながら生きている人は猿や豚と同じだ。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
あくまで自分という存在じゃなければいけない理由。これが死ぬ時にわかれば有難いのだ。自分じゃなくてもよかったのか。自分じゃないとダメだったのか。どうせ、自分以外の人は存在しないのだろうが、それなら何故今この人生はこの僕という人の人生だったのか。人気ブロ
人生に苦しみが全くない人は人生生きるに値するといえるか?いや、言えない。。。未来永劫、苦しみを味わうことがないと保証されていたとしてもだ。なぜなら、糞みたいな幸せを延々と味わっても、何の意味もないからだ。幸せとはそういうものだ。だからこそ、人生に生きる価
人生は生きるに値するかどうかという哲学上最大の命題人生は生きるに値するかどうかがわかればノーベル賞級であろう。ただし、生きるに値するかどうかと聞く、その状況は、だいたい人生が苦しみが少しでもあるという状況だ。少しでも苦しみがある以上、本来なら生きるに値し
人生の意味を知りたいと思うとき、人生の意味を探究する人生を歩みたいのではなく、ただ単に人生の意味を知ることができればそれで良いと思っているのだ。それで何か問題があるのか?意味がなければそれなりの生き方をしていくだけだし、意味があるならその意味・目的に沿っ
人から言われたアドバイスを素直に聞き従う人と、そうでない人の違いは何であろう?まず、アドバイスが適切かどうかも問題ではある。とくに子供の頃に親が子に言う躾というか命令はだいたい理不尽なことが多い。単に親の都合によるものがほとんどだ。賢い子はそういう親都合
こちらが挨拶しても、相手が挨拶してくれないことは少なくない。こちらの声掛けに、相手も気づいて目を合わしはするが、こんにちわの呼びかけに相手は無言。こういう場合、相手は一体何を考えているか?まず、挨拶という意味のない習慣をやる気は全くないという考え。次に、
何のために生きるのか毎日同じことの繰り返しに嫌気がさして死にたくなる人は少なくない。そうじゃない多くの人は惰性で日々働き仕事終わりに酒でも呑んで憂さを晴らし眠り、そしてまた次の一日を迎えるような、思い煩う時間を持たないことで自分を守ってるつもりの人が少な
カスタマーハラスメントというのか最近話題になってる。店側の対応に苦情を言うことが問題になっているのだが、はっきり言えば、客側の方が立場が弱いのでカスハラを規制するのは悪い流れと思われる。店側には変な従業員がいて、客に対して横柄というか配慮の全くない店員が
人生はつねに体験の連続だそれでももちろん一生体験できないこともあるだろうしかし、とにかく昔の自分が想像もできないくらい今の自分は体験をしているそれを感謝し大事に思い、そして、今後も期待して恐れず回避せず恵みと思って経験していくべきだろう!!人生に感謝して
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自我意識とは、今この状態を認識し、過去と未来をも想起想像できる状態だ。しかし夢の時の意識は、減債や過去や未来を認識できているだろうか??
人生の意味や自分の存在の謎を考えるときの思考は、顕在意識の形而上学的な思考といえるが、夢を見ている時の思考は、潜在意識の形而下学的な思考であり、経験や記憶の範囲内になってしまう。
何か気になることがあるとき、そんな思いを抱いて眠りにつくと、その夜の夢で思いもかけない別な切り口からの問題解決の提言を夢が教えてくれることがある(全く的外れな方向性だったりもすることはしばしばあるが・・・)。解決策が素晴らしいものかそうでもないかは置いて
占星術やカバラや数秘術など、古来から人々はとにかく運を良くして人生を幸せなものとしたがっている。しかし、そんな意味不明な幸運よりも、そもそも何故人生があるのかを最優先に探究しないとダメだ。だから、人生が何故あるのかをきちんと究明しょうとしない秘法はダメだ
生物あるいは動物にとっては、心は必要なものなのか?なくても生きることは可能なのではないか?外からあるかどうかも確認できない心というものが、もしなかったら生物あるいは動物あるいはヒトはその行動が不完全になってしまうのか?
この現実の世界のような矛盾や汚れなど不完全すぎる世界ではなく、もっと理想的な完成した世界を想像したい。
小説や映画を見ていると、酒を飲みながら、あるいは葉巻をくゆらせながら、神妙な顔つきで考えに耽って、それで思索に励んでいるような姿勢としているけれど、そんなのは間違っている。本当に考えるときは飲酒や喫煙などの物質に依存して何かをひらめくなんてことはあり得な
大腸菌に意識はあるか?アメーバに意識はあるか?ボルボックスに意識はあるか?クマムシに意識はあるか?昆虫に意識はあるか?魚に意識はあるか?犬に意識はあるか?イルカに意識はあるか?ゴリラに意識はあるか?チンパンジーに意識はあるか?赤ちゃんにに意識はあるか?2歳
今までの経験や価値観から今目の前にある課題に対処するのではなく、ただただ今現在の自分のクオリアで現在そして未来に向かって適応していく!
死ぬ直前の走馬灯体験のように過去の自分の感じたこと考えたことをその時の臨場感で忠実に再体験できるならば、どんなに参考になるだろうか?今はもう忘れてしまったことを思い出し、はっと我にかえれるかもしれないし、フレッシュな気持ちで臨めるかもしれない。。。しかし
著名なN氏は、対談番組で相手から、人生に意味はないってことになるんですか?と聞かれたときに、意味はないから意味がなくても楽しく生きていけるようにやっていくと答えていた。人生に意味はないという結論で、さらには人生は楽しく生きていければその方がいいという考えだ
思考を形にする必要はないと以前書いたが、イエスやブッダも書に自分の考えを残そうとはしなかった。思考は形じゃないし、他者へ伝えるものではないし、そして、将来の自分へ伝えるものでもないということだ。将来への自分に文字として伝える日記のような、そんな思考は本当
以前『憤りが思索の原動力となる』と書いたが、本当に孤独ならば憤りは起きない。全くの孤独、無人島のような所で、足を何かにぶつけて痛い思いをしても怒りの気持ちなど出てこない。しかし、現実の人の大勢いるこの世界で何か荷物に足の小指でもぶつけたら痛い気持ちと何で
勉強したり知識を得たりそんなことよりももっと大事なことがあるとにかく、人と関わることだ
他人が出てこない夢などあるだろうか??かならず人が出てくる。意識はかならず人を意識しているのだ、寝ている間も。そして、病気でうなされている時も。それくらい、意識にとって他者というのは重要なテーマなのだ、絶対的な課題なのだ。何故なら、他者の意識を希求してい
思考というのが客観的に説明できるような、そういう形など必要なのだろうか?まず他に人がいなければ、他者へ説明する必要性は無くなる・・・しかし、もう一点。現在の自分を後で将来に自分が思い出したときに正確にどういうふうに思考していたのかを伝える点では形があった
選挙の一票など何の意味もない、政治にはもっと大きな力が働いているだから一小市民は政治に無関心になるし、無力だし、希望は無くなる・・・そこで、組織を作っていく者たちが台頭してくるわけだそれと同じように、1000億もの脳細胞たちの部分部分で非協力的に働くのを徒党
世の中を正そうとか良くしようとか、そういうことを思うよりも、まず、不運なことや理不尽なことが起きる世の中を、とくにネガティブなことが起き得る、この現実をしっかり噛みしめて考えていくことが大事だろう。それが自分自身に考える原動力となる。にほんブログ村に
自分自身の考えもどうやって捉えればいいか、本当のところは誰もわかっていない。しかし、自分というのは曖昧ながらもこういうものだというふうに毎朝目覚めるたびに無意識のうちに理解している…自分自身の考えもどうやって捉えればいいか、本当のところは誰もわかっていな
鏡に写る自分の姿を見ても、どんなことを考えているかは、当然見えてこない。ラジオで人の話しているのを聴いてると、その姿はみえなもののその話者の考えていることを想像することは出来る。ラジオの内部を調べても話者の考えは見えてはこない。他人の脳のレントゲンとかで
ウクライナ侵攻でロシアの若い男性の中の30万人近くが徴兵を逃れるためにロシアから外国へ移住した。また、出生率も下がった。先行き不透明で不安要素が多いと子孫を残そうという感じにならないのかもしれない。しかし、戦争中は仕事が暇になって出生率が上がるという報告も
人生の幸楽は全く意味がないと涼しい顔をしても、自分の独り子が誰かに苛められたり虐げられたり辱められたりしたら、親の気持ちは怒りというよりも憤りで気が狂わんばかりになるであろう。それでも、人生の全てのことに動じず心を平静に保つのが良いわけあるだろうか?いや
健康のためには、栄養をいろいろ取るのではなく粗食が大事なように、人生の幸せにとっては、いろんなことをいろいろ体験するのではなく、いかに苦難を避けた人生の輪廻を過ごせるかが大事なのかもしれない。老いていくと、仕事が減り、自由にできるお金も減り、だんだん行動
この世界は不条理だ。理不尽ではない。人間のやっていることなど、馬鹿らしいことばかりだから、一生懸命頑張っても報われるわけではないし、何か不運なことがあってもそれは不運ではなく当然の失敗なのだ。しかし、不条理はある。努力せず運だけで幸せになる人はいるし、不
仕事が生きがいという人がいる。しかし、そういうのは、仕事をしていないと、パタッと思考停止するというか、脱力するというか、人生空しくなってくるものだ。人生の意味がAということだとしたら、Aがなくなったときに人生空しくなってくるようなものではないはずだ。Aを知っ
やめてみる
このブログに書く記事の内容を考えるのも全くアイデアが浮かばない日々が少なくない。まるで作曲家がどうにかこうにか曲を生み出すように、僕も頭の中ら思索をひねり出している。しかし、人生の意味の探求っていうのは、そんな作曲家の創作活動と同レベルの作業ではないはず
本当に自殺したい気持ちが確かなら水も食料も断って死ぬのが大切だろう。もちろん、それは難しい方法だ。西べ進が友人に手伝ってもらって自殺したのは、生前にたいそうなことを論述していたのとは違って姑息というか情けない・・・
本を読んでると著者が読者へ自分の主張を認めさせようとした内容になっていて、本来の著者の考えた道筋の言語化ではなくなってしまってるのがほとんどだ。 にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
日本がもうすぐ津波に飲み込まれる…
カンちゃんドラ待ちリーチ者が他家二人の好形タメンチャンよりもツモ上がれる場合、そのリーチ者は何故その待ちでリーチしようと思えたのか?何故その待ちにすっぽりドラがやってくるのか?弱肉強食の自然界において弱い者が悪手を打てばその失態を見逃さずに敵に攻められ喰
カンちゃんドラ待ちリーチ者が他家二人の好形タメンチャンよりもツモ上がれる場合、そのリーチ者は何故その待ちでリーチしようと思えたのか?何故その待ちにすっぽりドラがやってくるのか?弱肉強食の自然界において弱い者が悪手を打てばその失態を見逃さずに敵に攻められ喰
見かけではわからない。過去の自分や未来の自分を想像するとき一人称視点で認識しているか、それとも三人称視点で認識しているか。夢の中も同様にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村人気ブログランキングへ
精神が輪廻転生なりで存続し得るのかどうかが大きな課題だ。転生するのなら、前世の精神の記憶がないように来世の精神が今世の精神の記憶を想起できないだろう、そんな中で同じ精神と言えるような何か今世と来世に共通する何かが存在するだろう。それはきっと性格のようなも
世界が不条理なのと同じくらい不条理なのが、人の考えだ。この世界の多くの人の考えも全く合理的でない。ほとんどの人は、まるで炎に飛び込む蛾のよう。ただただ明るい方に向かって盲目的に進もうとしている。この世界は欠陥だらけ。そして多くの人々もまるで放し飼いされて
仏陀は人が死後も輪廻転生すると考えた。僕もそろそろ現実的に対策を考えないといけないだろう、今までは理想論を言ってただけだから。死後も自分という存在が存続することを想定して、その対策を。
世の中には、松本人志のように仕事でも王様のように楽しみ、プライベートでも色々楽しんでる人がいる一方で、何が楽しくて生きているのか、何も楽しみはなく、ただ辛いだけの日々で、かわいそうな人もいる…何か一つ生きる楽しみがありさえすれば、それだけでいいのではない
人は精神が変化する。良い方向に変わる人もいれば、悪い方に変わる人もいる。親しい友人や家族であっても、いつ敵対的な関係になるかわからない。イエスはそれを指摘して、家族を捨てて私についてきなさいと人々に出家を勧めた。イエスは神以外には永遠の愛はないとか、仏陀
国と国と争い団体と団体の争い上級国民と上級国民の争いそしてその下で成されるがままに振り回される国民、貧民、弱者たち…イエスが人々を助けようとしたヒーローなのかどうかわからないが、ヒーローなど存在し得ないことは昨今の社会情勢を見てもうよくわかった。幻滅した
本能にとっては、個体の生存に大切な脅威を避ける、つまり怖がることしか重要ではないのだ。だから、誰もいないのに幽霊がいるように見えたり感じさせたりする。逆に、食べ物が見えたり、美味しそうな匂いがしてきたりといった幻覚は怒ることはまずない。