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  • 湖畔ホテル ウェーバーファールト

    休暇を北イタリアで過ごした帰路、ミュンヘンの南のテゲルン湖畔にあるホテルに一泊しました。ホテルの玄関に車で乗りつけると、男性スタッフが車を地下ガレージに駐車してくれた後でスーツケースなどの荷物を部屋まで届けてくれます。ロビーではピアノの生演奏をしています。ホテルのロビー・廊下とソファー廊下は広くその突き当りにはソファーを置いてあり、湖を望むことが出来ます。立派な家具が備え付けられた私たちの部屋はたいへんに豪華で、湖が見えるバルコニーがあります。そして歓迎の意味でしょうか、テーブルには菓子と果物とミネラルウオーターを置いてあります。バルコニーから湖を望む・菓子と果物我々が旅装を解いて汗を流した後、夕食に行っている間に部屋係のスタッフが一度使ったタオルを全部取り替え、すぐ寝られるように寝具を整え、部屋を片付け...湖畔ホテルウェーバーファールト

  • マラーノ ・ ラグナーレ

    マラーノ・ラグナーレは人口約1.800人の、漁港がある小さな町です。紀元前1世紀頃にローマ軍の町として出来たようです。そして16世紀の中頃にはヴェネチアに支配されました。ところでこの町では、フリウリ語(ロマンス語系の言語)を話すウーディネ県に属するにもかかわらず、今日なおヴェネチアの言語を話しているそうです。町の中心に大きな広場があり、1.000年以上もの歴史を持つ塔が建っています。塔港に来るとちょうど船が出るところです。向かいの半島の先端にある結構大きい町リニャーノに行く船のようです。片道40分というのを確かめて飛び乗りました。が、リニャーノの町には興味がないので乗ってきた船ですぐにマラーノ・ラグナーレに帰って来ました。リニャーノの滞在時間15分。リニャーノの海岸・ラグーン1ラグーン2・マラーノ・ラグナ...マラーノ・ラグナーレ

  • パルマノヴァ

    16世紀の末に計画都市として造られたパルマノヴァは人口約5.500人の町で、その星形の外観は今日まで大変良く保たれています。1600年頃のパルマノヴァ(ウィキペディアより)こんにちのパルマノヴァ(ウィキペディアより)この町は本来城塞都市としてトルコのオスマン帝国からヴェネチア共和国を防衛するために、そしてその後ハプスブルク帝国から守るために造られたのです。この任務はナポレオンに征服されるまで200年以上にわたって果たされました。18世紀末からオーストリアが委託統治するようになったりイタリアに属するようになったりしましたが、19世紀の中頃を過ぎた頃最終的にイタリアの手に落ちました。第一次世界大戦の時パルマノヴァはイタリアの重要な軍事基地になり、それに応じて野戦病院や軍の訓練場などが設置されました。それゆえ砲...パルマノヴァ

  • アドリア海沿岸 の グラード

    トリエステからアドリア海沿岸を北西に1時間ほど走ると人口8000人ほどの町グラードに着きます。グラードは、そこより少し内陸の都市であるアクイレイアの港湾都市として、おそらく紀元前2世紀頃出現し発展していったと思われています。ここはヴェネチア湾の最東端にあたります。数百年にわたってグラードは海賊や近隣の町の悪党団から襲われ略奪されたにもかかわらず、旧市街には歴史的に重要な教会や建物が残っています。教会・遠浅の海グラードをヴェネチア共和国が支配した時代は中世の末期から18世紀の終わりまでです。そして19世紀の初め頃からハプスブルク帝国に属するようになりました。この時代にグラードは海水浴場および漁港として発展したのですが、第一次世界大戦の勃発により「オーストリアの避暑地」の時代は終わりました。そして1919年か...アドリア海沿岸のグラード

  • アドリア海沿岸 の イゾラ

    イタリア国トリエステから国境を越えてスロベニア国に入ったところにある小さな港町イゾラ。この町のあたりには西暦1世紀から人が住んでいたそうです。13世紀からヴェネチア共和国に属するようになり、18世紀の末頃からオーストリアはハプスブルク家の王政が敷かれました。19世紀前半には温泉が発見されて観光資源になり、漁業も盛んになって19世紀の終わり頃イゾラは繁栄を謳歌する町になりました。20世紀初めには5326人のイタリア人、20人のスロベニア人、そして17人のドイツ人が住んでいたそうです。1918年にこのイゾラを含むアドリア海の沿岸地方はイタリアの領土になり、1954年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国のうちのひとつであったスロベニアの一地方になりました。ユーゴスラビアの崩壊後、1991年からこの地域はユーゴスラ...アドリア海沿岸のイゾラ

  • トリエステ

    トリエステはイタリアの北東部、アドリア海とスロベニア国の間の細長いイタリア国土にある港湾都市です。古い歴史がある町なので、興味がある人はGoogleってみるといいでしょう。トリエステ1&2トリエステ3&4トリエステ5私たちはここで8日間過ごします。我々のアパートメントからの景色(昼と夜)劇場など、ローマ帝国時代の遺跡の他、大変に栄えた過去の名残の立派な目を見張るような建物がたくさんあります。ローマの遺跡1&2トリエステ6&7トリエステ8・トリエステのイカ釣り漁船さらに見事な広場もいくつかあるのです。そしてその間には中世の雰囲気を醸し出している小道が複雑に入り組んでいます。レストラン、バー、カフェ、アイスクリーム屋が軒を連ねる通りを外国人を含む大勢の観光客がそぞろ歩きをしています。男性も女性もほぼみんな半ズ...トリエステ

  • サン ・ ジュスト城塞

    サン・ジュスト城塞は、15世紀から17世紀にかけてイタリアの北東部にあるトリエストの市街地を望む丘陵に建造されました。この丘陵は青銅器時代から紀元前1000年頃の鉄器時代に、ある種の砦として使われていたと考えられているそうです。そして紀元前2世紀には軍事拠点が設けられました。さらに1世紀前半には寺院が建てられ、2世紀にはバシリカ(古代ローマの建築様式のひとつ)が建造されました。時は過ぎ、14世紀後半にトリエステはオーストリアに併合されました。そしてトリエステの街の自衛のために、この丘陵の上にサン・ジュスト城塞が建設されたのです。その後次々に増築が進み、17世紀の中頃完成しました。完成後18世紀中頃までオーストリア軍の指揮官の居城として使われていましたが、その後牢獄などとして使われることもあったとのことです...サン・ジュスト城塞

  • ドロミーティのアッレゲ

    ドロミテとも表記されるドロミーティはイタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部です。その真ん中あたりにアッレゲ湖という小さなせき止め湖があり、湖畔にある人口約1300人の町がアッレゲです。我々の夏休みの第一週目をアッレゲの南隣にあるマザレという、やはり湖畔の集落で過ごしました。アッレゲ・マザレアパートメントからの景色アッレゲはひっそりした田舎町だと思っていましたが、トレッキングや登山をして休暇を過ごす人で賑わっています。イタリア人はもとより他のヨーロッパ人、アメリカ人、東アジア人もたくさんいます。中でも意外だったのは、個人とグループ合わせて10人以上の日本人に会ったことです。なんでも、日本では最近それほど有名でない地方で山歩きをするツアーがあるそうですね。アッレゲからケーブルカーを乗り継いで山頂に行...ドロミーティのアッレゲ

  • ゲッツェンブルク城館

    このお城の起源は15から16世紀にまでさかのぼります。その後何度も改築や増築を繰り返しましたが、非常に大規模な最後の工事は19世紀の後半になされました。現在フォン・ベルリヒンゲン家の所有で、アレクサンドラという男爵夫人と賃借り人の家族が住んでいるそうです。城館の遠景・城館1城館2&3このお城がゲッツェンブルク城館と呼ばれるようになったのは比較的最近のことで、以前はヤンクストハウゼン城塞という名前でした。名前が変わった理由に、あの文豪、ヴォルフガング・フォン・ゲーテがからんでいるのです。ゲーテは18世紀の後半にこのお城に滞在し、史実の人物であるゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンを題材にした「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」という戯曲を書きました。その戯曲はドイツ中の注目を集め、ゲーテの名を一躍有名にした...ゲッツェンブルク城館

  • バンベルク宮殿

    レーゲンスブルクに講演に行く途中でバンベルクに一泊しました。旧市街がユネスコの世界遺産になっている町です。バンベルク1&2バンベルク3こんにちバンベルクで「宮殿」と呼ばれる建物は、18世紀の後半に大学病院として建てられました。当時としてはヨーロッパでもっとも現代的な病院だったそうです。その後教育病院としての役割を終えて、19世紀前半に市民病院になりました。そして20世紀の後半、別の場所に新しい市民病院が出来たときから5年間、今度はホテルとして再利用されるようになるまで、この建物は全く利用されていませんでした。ホテルが開業して建物の改装が進むにつれてだんだんと客室の数が増えていき、今では184の客室とスイート、10のセミナールーム、レストラン、カフェ、リラクゼーション施設、そしてバロック風の礼拝堂がある、こ...バンベルク宮殿

  • 城館ホテル ミュンヒハウゼン (再訪)

    城館ホテル・ミュンヒハウゼンは過去にいち度投稿したのですが、自宅から近いし再投稿する価値のある城館ホテルなので改めて紹介します。城館の前面・城館から庭園を見るお堀と城壁・お堀とカフェテリアかなり大きなゴルフ場が隣接しているからか、結構お客さんがいます。建物の前に幾何学的な庭園があり、後ろには少し起伏があって小川が流れる整備の行き届いた公園が広がっています。ここにロシアのピエトロ大帝がパイナップルの農園を訪れた時の記念碑があるのですが、昔はこの地でパイナップルが出来たのでしょうか。入り口・ロビーから階上へロビー・ロビーの天井城館の歴史は先回の投稿に簡単に書いたのでここでは繰り返しませんが、この城館ホテルには、2004年に5つ星ホテルとして開業して以来ずっとミシュラン1つ星を保持しているグルメレストランがある...城館ホテルミュンヒハウゼン(再訪)

  • KLMオランダ航空

    「KLM」とは、オランダ語の「KoninklijkeLuchtvaartMaatschappijコーニンクルッケ・ルフトファールト・マートスハッペイ」の頭文字で、王立航空会社のことです。この1919年に設立されたオランダ最大の国営航空会社は、今日まで運行している世界で最も古い航空会社です。2004年にフランスのエールフランスと経営統合し、持株会社方式でひとつのグループ(エールフランス-KLM)としてのネットワークを活かしながらそれぞれ独自のサービスとブランドを展開しています。日本では成田国際空港と関西国際空港から直行便が運航しています。妻と私は先の年末年始に一時帰国した際、この航空会社を利用しました。KLMは数年前に武漢インフルエンザが流行る前は比較的お手頃価格だったので、よく使っていたのです。ビジネスク...KLMオランダ航空

  • 大阪の料理店「蟹善」

    2024年から2025年にかけての年末年始に一時帰国しました。約40年ぶりの冬季帰国です。その際、ちょうど蟹のシーズンなので越前蟹を食べようと、大阪駅から南南東に徒歩約10分の所にある蟹専門料理店「蟹善」に行きました。食通なら誰もが知っている有名店だそうで、もちろん完全予約制。冬場は3部制になっていて、私たちは2部の18時から20時までを予約しました。オンラインの予約ページに「スタート時間に関わらず予定時刻で退店とさせていただきます。」と書いてあるので、時間通りに行かないと食事時間が短くなってしまいます。それで時間の余裕を持って大阪駅から徒歩で向かいました。ところが、大都会の都市構造と複雑な狭い路地が混在する大阪駅周辺で道に迷ってしまったのです。それでタクシーに乗ったのですがそれでも辿り着けず、「蟹善」の...大阪の料理店「蟹善」

  • 妙見温泉 忘れの里 雅叙苑

    鹿児島県霧島市。観光客で賑わう旅館街の喧噪から離れた天降川沿いに、茅葺屋根の古民家を移築し、創業から50年経とうとする昔ながらの集落のような宿屋があります。1974年にフランスに誕生して自治運営する非営利団体の協会組織「ルレ・エ・シャトー」に加盟している宿です。このルレ・エ・シャトーですが、加盟するのは相当に敷居が高く、厳格な審査とルレ・エ・シャトーの価値を共有できる個性あるホテル・レストランのみが加盟を認められるそうです。谷の斜面の狭い敷地にある宿にタクシーで乗り付けると、(雨が降っていたので)傘を持ったスタッフが数人駆け寄ってきました。チェックインタイムまでまだ時間があったので、まず「囲炉裏小屋」に案内されました。この小屋は雅叙苑のロビーにあたり、夕食後にはここで囲炉裏で温めた「かっぽ酒」が振る舞われ...妙見温泉忘れの里雅叙苑

  • 城山ホテル 鹿児島

    鹿児島市の中央部にある丘陵、城山(しろやま)はあの西南戦争最後の激戦地で、国の史跡および天然記念物に指定されています。現在は城山公園として整備されているのですが、その公園の南部に城山ホテル鹿児島があるのです。鹿児島市内と桜島の午前・午後城山ホテルは1963年に開業し(開業時の名前は「城山観光ホテル」)、薩摩の迎賓館ともよばれる鹿児島を代表するデラックスホテルです。初代の社長は東京帝国ホテルで経営のノウハウを学び、それを導入しました。しかしながら2代目のバカが(失礼!)倒産させてしまい、京セラの購買提案を断ったら新しい社長が鹿児島銀行から来ました。ということで、もう5、6年来銀行の管理下にあるのですが、経営は黒字になっているそうです。エントランスを入るとそこは洗練されたロビーで、鹿児島市内や桜島を一望できま...城山ホテル鹿児島

  • 市場 と 乾物問屋街 in 台北

    台北で妻が興味を持っていた場所が市場と乾物問屋街です。やはり食材を売っている所が気になるし、乾物をいくつか買いたかったようです。市場にはもちろん肉、野菜、魚、、、、、などなど、色々とたくさんあるのですが、豚足や豚の頭の縦割りをそのまま売っているのはいささかびっくりしますね。面白いのは入り口近くに神棚があることです。日本の神道のそれとは違って、大きくて色がけばけばしいので目立ちます。市場1&2市場3&4市場にある神棚車道から問屋街を見渡すと店の看板がずらりと並んでいます。その道路の両側には屋根のついた歩道があり、所狭しと道まではみ出して商品が並べられています。この問屋街に買い物に来るのは8割がた日本人だそうで、日本語の片言が出来たりかなり上手に話す店員さんがたくさん居ました。本当にいろいろな、中には何である...市場と乾物問屋街in台北

  • 九份

    台北から程近い、台湾観光の目玉の一つと思われる九份という小さな町に来ました。昔は鉱山で栄えた町だそうですが、今は観光一色なのです。ある日本のアニメ作品が人気に拍車をかけているとのことです。狭い階段と路地、そして赤ちょうちんが印象深い町です。我々はあまり混んでいない時間帯に訪れましたが、それでも特にお土産品と食べ物を販売する店が密集している路地はたいへんな人込みでした。階段道路・観光路地1観光路地2&3小籠包屋・焼き貝屋ここで妻が臭豆腐を買いました。思っていたほど悪臭ではなく、味は悪くありません。でも私は一口だけ食べて、残りは妻が全部食べました。臭豆腐屋・臭豆腐階段道路の中頃にあるお茶屋で休憩しました。上述のアニメ作品に出てくるといわれている建物です。台湾式茶道の説明を受けて、それに従って喫茶したのです。日...九份

  • 士林夜市

    宿泊しているホテルの近くに、台北で最も大きく観光客がよく訪れる士林夜市があります。ずっと以前にいち度行ったことがあるのですが、また行って見る事にしました。士林夜市では多数の露天商や店舗が商いをしており、ありとあらゆるものが買えます。私たちは買い物にはあまり興味がなかったので、ブラブラといろいろ見て回りました。金魚すくいもありましたが面白いのはエビ釣りです。釣ったエビはその場で焼いてくれて食べられるのです。しばらく見ていましたが誰も釣った人はいませんでした。士林夜市・エビ釣り買い物をする気がないのになぜ士林夜市に行ったかというと、「食」です。台湾のB級グルメで夕食をとるつもりなのです。20数年前に来たときは多くの露店屋台が軒を連ねていた、というあまり確かではない記憶がありますが、今は広大なホールの一角に小さ...士林夜市

  • 街角のレストラン in 台北

    台湾名物の足マッサージをやった後、すぐ近くのレストランに入りました。レストランの内部中華系レストランとは思えないほど西洋風な雰囲気の、清潔感があるレストランで、英語も日本語もほとんど出来ないながらも親切でよく気がつくスタッフたちがいます。大きな水槽に生きている伊勢海老やカニが沢山。その他各種の貝類が並んでいます。ここで何をどう料理して欲しいか言う、注文の仕方のようです。烏龍茶ミネラルウォーター・紹興酒テーブルにつくとすぐにおしぼりとお茶が出てきました。地元のミネラルウォーターと紹興酒を頼んだのですが、わたしは紹興酒より日本酒の方が好きですね。妻もあまり飲まずに4分の3ぐらい残したのでホテルに持って帰りました。まず店のお薦めの茹でタケノコです。今が旬ですね。少し甘くてマヨネーズに似たソースをつけて食すのです...街角のレストランin台北

  • 台北圓山大飯店

    圓山大飯店は1952年に蒋介石夫人である宋美齡が台北市の高地に建てた、台湾第1号の5つ星ホテルです。14階建て中国宮殿様式の本館は、赤い柱と金の瓦の堂々たる優雅な外観。豪華絢爛でクラシカルな雰囲気がオリエンタルな芸術的美しさを際立たせていて、台北市を代表するランドマークの1つなのです。このホテルは273室の客室及び中華料理や海外の洗練された料理を楽しめる4軒のレストランを有していて、各種の美食を堪能出来ます。パンフレットには「都会の喧騒に佇むオアシス」とあり、さらに次のように書かれています。「現在に至るまで各国元首、使節、政府要人、著名人など2000名以上を招待してきました。過去にはアメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領、タイのプミポン国王、韓国の朴正熙大統領、日本の佐藤栄作首相、シンガポールのリー・クアン...台北圓山大飯店

  • エバー航空

    台湾のエバー航空に初めて乗りました。まだ結構新しい機材で、特に背もたれ、窓の遮光、モニターの表示などに新しさが見られます。搭乗客の扱いも丁寧で、また機会があったらこの会社を使おう、という気にさせられるのです。私の座席から・背もたれの機能窓の遮光1&2モニターの表示さて、往路の食事は日本料理、西洋料理、中華料理の中から選べ、妻も私も中華料理を選びました。なんでも、この中華料理をエバー航空に納入したのは台湾国内のみならず世界的に有名で数々の賞を受けたことのあるレストランだそうです。飲み物はドイツで飲めないカルピスと痩せるのに良いといわれるブーアール茶にしました。カルピスとブーアール茶前菜は伝統的中華惣菜で、内容はカンパオ豆腐に百合茎添え、そして姫筍と鶏肉の辛味炒めです。上の二皿が前菜で、右下の小皿二つが薬味主...エバー航空

  • スイスホテル 南海大阪

    日本に一時帰国して翌日台湾に発つときに宿泊した、大阪の難波にあって関空へ行くのに大変便利なホテルです。客室から昼・夜私はこれまでにも何度か利用したことがあるのですが、数年前、私の住むハノーファーのすぐ近くにあるゴスラー出身のスイスホテル女性社員が2年間の予定で研修に来ていました。あの人、今どこにいるのかな?ドイツの食生活から台湾料理に移るつかの間の一夜、ホテルのレストランで典型的な和食を食べました。和装の女性と黒いスーツの男性がきびきびとサーヴィスをしてくれます。飲み物は東広島市の「賀茂鶴」を代表する「特製ゴールド大吟醸」です。大吟醸先付けは小蛸柔煮、菜の花、花びら百合根。小鉢に桜豆腐、蚕豆、くこの実の旨出汁ジュレかけ。四角い食器に草胡麻浸しと糸花鰹です。もちろん季節の桜が添えてあります。先付け・吸物熱々...スイスホテル南海大阪

  • ホテル べレポク (美しい時代)

    世界的に有名な温泉地バーデンバーデンは19世紀にその全盛期を迎えました。諸外国の皇帝や国王は政治の激務の骨休みに訪れ、たくさんの文筆家や芸術家が群がるように来て、当地での滞在記を書いたりこの地の痕跡を彼らの作品に残しました。その他、オーストリア・ハンガリーの皇妃エリザベス(シシ)も来たことがあるそうです。そのバーデンバーデンに、企業家でもある男爵が19世紀の後半に居城を建設することに決めたのです。そしてそれは保養都市の静かな住宅地に建つ優雅な堂々とした建物になりました。ホテルのパンフレットには次のように書いてあります。「特にフランスの富裕層が多く訪れてフランス語が話されたため、今でも街のあちこちにパリの雰囲気が感じられます。このホテル・べレポクは、バーデンバーデンが“ヨーロッパの夏の首都“と呼ばれた華やか...ホテルべレポク(美しい時代)

  • 城館カフェ ロレットベルク

    フライブルク市郊外の話です。17世紀中頃の歴史書に初めて現れて、数々の戦争の場となったロレットベルクという地域に建つのがこの城館カフェです。「・・・ベルク」というように小山の頂上にあるのです。フライブルク市内の一角・ロレットベルクからの景色この地所には19世紀に建てられた「兄弟ハウス」という料理店がありましたが、訪問者が多くて手狭になった20世紀の初め、その隣にユーゲントスタイルの「ゲストハウス・ロレットベルク」=城館カフェが出来ました。この城館カフェが現在の姿になったのは1988年以降だそうです。この建物が昔の城館ではないことは明らかですが、なぜ「城館」と名付けられたのかは分かりません。そう見える建物だからかな?タクシー運転手も城館カフェのサーヴィススタッフも同じ意見でした。城館カフェ1&2城館カフェ3...城館カフェロレットベルク

  • レストラン 〈ヴォートウム〉

    ここ2、3年で私たちの住むハノーファーの外食環境が充実して来まして、ミシュラン2つ星のレストランが2軒、1つ星が1軒あります。そして市の中心部にある2つ星レストランが〈ヴォートウム〉なのです。州議会議事堂の一角を占める広々とした空間で少々冷たい印象ですが、スタッフはみんな暖かいサーヴィスをしてくれます。私たちのテーブル・レストランの内部6品のコースメニューから希望により5品または4品にすることが出来、その他アップグレイドの料理としてロブスターとキャビアの2品を選べます。そして好みにより、それぞれの料理に合うワイン又はアルコールフリーの飲み物が提供されます。我々は4品のコースメニューにロブスター料理を付け加えて5品にし、それぞれの料理に合うノンアルコールの飲み物を頼みました。アペリティフアペリティフももちろ...レストラン〈ヴォートウム〉

  • 森の小さなお城

    講演をした町から次の講演をする町に移動する途中で、小さなお城風のホテルに宿泊しました。その昔、北ドイツのクリヴィッツとシュヴェリンの間にあった「森の小さなお城」に旅人が立ち寄ることが出来なくなって50年以上経った時、そこに新しいホテル・レストランを建設しようと1996年に礎石をおいて1998年に開業したのがこんにちの「森の小さなお城」です。2014年に開業16年を祝い、経営者が2代目になりました。正面玄関・右斜めから左斜めから・右真横から裏側森と畑が交互に現れる平野を走る道路脇にポツンと一軒だけ立つ「森の小さなお城」に入ると、暖炉と応接セットといくつもの人形を置いているフロアがあります。少し想像をたくましくすればお城の雰囲気がないこともないですね。レセプションとロビー・ロビーの一角20しかない客室の中で私...森の小さなお城

  • バストホルスト城館

    依頼された講演に行く途中で、家屋が十数軒の村のはずれにある城館ホテルに一泊しました。バストホルスト城館は、もともと19世紀の前半に建てられた農場付属の住宅を20世紀になると同時に城館に改装した建造物です。2、3度所有者が代わった後ナチスの時代の所有者は農場経営を近代化し、城館を家族の住居にしました。終戦と同時に所有者の家族が皆西ドイツに逃亡したあと、お城はまずその土地の人々に荒らされ、そしてソ連軍に差し押さえられて沢山の設備品が略奪されました。その後戦争難民の宿舎になったのです。1948年に最後の難民が出て行った後城館内に50のベッドをもつ結核療養所が出来、1970年にそれが東ドイツの保健省に属する予防的健康管理施設に転換されました。その後1977年にシュヴェリン行政区が城館および付属の施設と庭園を記念文...バストホルスト城館

  • ザ・リッツ・カールトン大阪

    この秋に一時帰国して大阪に2週間滞在したのですが、そのうち4泊を大阪のザ・リッツ・カールトンで過ごしました。利便性を考えて北区梅田にしたのですが、4連泊するので広い部屋が良いと思い、スタンダードより少しだけランクの高い部屋で43平方メートルあるこのホテルにしたのです。滞在中に義弟夫婦とホテル内にあるミシュラン一つ星のフレンチレストラン〈ラ・ベ〉で私の誕生会を兼ねた食事をしようと思い、ハノーファーの自宅から予約を試みましたが、残念ながら満席。それでやはりホテル内の〈スプレンディード〉というイタリアレストランに席を予約しました。食物アレルギーの有無などに関して個人的に連絡を取ってくれ、「さすがザ・リッツ・カールトン」と思わされる対応でした。正面玄関前広場ザ・リッツ・カールトン大阪は、ホテル王セザール・リッツの...ザ・リッツ・カールトン大阪

  • ホテル ヴィラ フローリ

    この夏、スイスとの国境に近い北イタリアの山岳地帯にある町ティラーノからドイツに帰国する為ミラノ空港に行く途中で、コモ湖の西岸にあるホテル〈ホテルヴィラフローリ〉に宿をとりました。19世紀のヴィラを改装した宿泊施設で、パーケットフローリングのエレガントな客室(大理石のバスルーム付)を提供しています。庭・庭から見るホテルこのヴィラフローリの歴史は、19世紀中頃にライモンディ侯爵が彼の娘とイタリアの司令官ジュゼッペ・ガリバルディの結婚式の贈り物として、そこに元々あった建物を復元することを決めたときにさかのぼります。その結婚はうまく行かず、数年後に侯爵は別荘をフローリ家に売却しました。20世紀の中頃に別荘はホテルになり、今世紀も10年が過ぎた頃に全面的に改装されました。ホテルにはジュゼッペ・ガリバルディにちなんで...ホテルヴィラフローリ

  • トリフェルス城塞

    ドイツの中堅都市カイゼルスラウテルンから南東に50km離れた場所にあるトリフェルス城塞の歴史は、おそらく11世紀中頃にさかのぼります。初めて文献に現れるのは11世紀末です。そして12世紀前半から200年間、帝国城塞(皇帝の命令によって建てられた中世ドイツの城)の地位を保持し、歴史的出来事の中心地でした。この当時、城は著名人のための刑務所としても機能していました。その後所有者がたびたび代わり、城は次第にその重要性を失い、17世紀初めに落雷後の火事で大部分が焼失してしまったのです。三十年戦争(1618年-1648年)の前半城跡は避難所として機能していましたが、ペストの流行後に最終的に放棄されました。その後この複合施設は採石場として周辺地域の住民から悪用されました。つまり、城の建築材料であった砂岩を持ち帰り、自...トリフェルス城塞

  • ナンシュタイン城塞

    ドイツの中堅都市カイゼルスラウテルンからほぼ真西に約20km離れた丘陵地帯に、ナンシュタイン城塞の廃墟があります。正面・模型要塞として建造されたこの城の歴史は12世紀にさかのぼります。時が経つにつれて領地はもはや封建領主に戻ることはなくて世襲制になり、その後の相続で財産は徐々に小さな単位に分割されて、最終的にはいくつかの家族が城を共有するようになりました。その為さらなる居住空間が必要となり、城は恣意的にそして非体系的に拡張されて行きました。その結果、城塞の防御能力が低下していったのです。15世紀後半、城の共同所有者になったある騎士が他の共同所有者からその権利を買い取って、城を個人所有することに成功しました。そして16世紀の後半にこの騎士の子孫が戦いに敗れてナンシュタイン城に退却したのですが、近隣の帝国諸侯...ナンシュタイン城塞

  • ランデック城塞 と シュリュッセル城塞

    ランデック城塞はドイツの金融都市フランクフルト・アム・マインから西南西に車で約1時間半、フランスとの国境まで約20分の位置にあるクリンゲンミュンスターという小さな町の郊外に建つ城の廃墟です。丘の上にあります。この付近は城の廃墟が多く存在するところで、ランデック城塞とシュリュッセル城塞とハイデンシュー城塞を結ぶ「3城塞ハイキング」と名付けられた、整備の良いハイキングコースがあります。私たちはその中のランデック城塞とシュリュッセル城塞を訪れました。ハイキングコースと私の後ろ姿圧倒的多数のラインラント・プファルツ州の城と同様に、ランデック城の正確な設立年は不明ですが、その建築様式の特徴は1200年頃の時代を指している様です。ランデック城が文献に現れるのは13世紀前半です。16世紀になるまで、ランデック家の急速な...ランデック城塞とシュリュッセル城塞

  • ステニコ城

    宿泊地から車で10分かからない所にあるステニコ城は北イタリアのトレントから真西に約30km離れた、同じ名前の村を見下ろす丘の上に位置しています。遠目・その拡大この地域は戦略的に重要であった為、先史時代からいくつもの要塞が築かれてきましたが、その流れの中で13世紀初頭に、今も要塞構造として堂々とした重厚な外観を残しているステニコ城が誕生しました。その後城所属の荘園の所有権がトレントの公爵司教の手に渡り、建物は絶え間ない拡張と変更にさらされ、領土を支配する公爵司教の邸宅に変わりました。(公爵司教=公爵の地位を持つ司教;神聖ローマ帝国では、公爵司教は司教として教区の霊的指導者であり、公爵として君主であり、したがって政治的影響力も持っていた。)外観1&2外観3&4外観5それからほぼ6世紀の間、この地域はトレントの...ステニコ城

  • ベルヴァルトシュタイン城塞

    ベルヴァルトシュタイン城塞はドイツの中堅都市ザールブリュッケンとカールスルーエを結んだ直線の真ん中あたりにあります。どちらの都市からも車で1時間程度です。ここはフランスに近く、国境まで10kmぐらいなのです。全体像(ウィキペディアより)・正面さて、12世紀中頃に初めて文書に登場したベルヴァルトシュタイン城は、強盗男爵(中世ヨーロッパにおいて男爵の身分を持ちながら強盗や盗賊を行っていた者)の城として波乱万丈の時代を経験しました。というのは、13世紀に城に住んで管理していたベルヴァルトシュタイン家の当主が強盗の罪で告発されたため、アルザス地方の都市ストラスブールとハーゲナウの軍隊によって占領され、破壊されたのです。その残骸は親戚に引き継がれて売却され、数回転売された後14世紀に部分的な復元がなされましたが、1...ベルヴァルトシュタイン城塞

  • ベスタ宮殿

    我々が滞在するティラノ郊外の宿から曲がりくねった山道を15分程走ると、山の中腹にテイリオという人口4500人ぐらいの町がぽつんと佇んでいます。そしてその町の入り口にルネッサンス様式の邸宅であるベスタ宮殿(PalazzoBesta)があるのです。正面の入口中庭1&2中庭を見下ろす位置にある2階部分・中庭に面した建物の上部この建物は中世の時代にこの場所に存在していた建造物の基礎の上に15世紀前半に建てられ、次々に装飾が施されて行きました。20世紀前半に宮殿はイタリア国によって購入され、博物館としての開館を考慮しながら同世紀を通じて建物の修復作業が行われました。現在博物館として多くの訪問者を惹きつけています。私たちはこの地方の観光案内所を見てベスタ宮殿の存在を知ったのですが、行って見て、こんな小さな町にこれほど...ベスタ宮殿

  • ティラノの民泊宿

    スイスとの国境にごく近いティラノ町(マドンナディティラノ)が属する北イタリアのロンバルディア州ソンドリオ県は、ワインの産地としても知られているところです。今年の夏、ティラノの郊外に1週間滞在して古城巡りとハイキングを楽しみました。その時に利用した休暇用民泊宿が興味深かったのです。なんでも、宿のホストの曽祖父がむかし大規模なワイン醸造所を営んでおり、我々が利用している住居は当時の倉庫の一部を改造した建物なんだそうです。ワイン醸造所の当時の絵倉庫(左)とホストの家(右)・倉庫の外壁の絵ワイン醸造所の入口・我々の住居の入口さらに、ワイン醸造に使っていた様々な器具を展示した「個人博物館」を作っていて、長い時間をかけて詳しく説明してくれるのです。博物館運営の為に寄付は募りますが、原則として無料です。おかげで、思いが...ティラノの民泊宿

  • サン・ファウスティーノ城塞 と ヴィスコンティ城塞

    北イタリアのティラーノから北東のボルミオに向かって渓谷沿いの一本道をほんの10分ほど走ると、山の中腹に時代が異なる二つの城塞、サン・ファウスティーノ城塞とヴィスコンティ城塞の廃墟が見えてきます。本日はこれらの城を見学して付近をハイキングします。丘の上のサン・ファウスティーノ城塞(サ城塞,左)とヴィスコンティ城塞(ヴ城塞,右)サ城塞・ヴ城塞二つの城を見下ろす町に車を停めて、太陽の照り返しが強い石の道をヴィスコンティ城塞の方に降りて行きました。高い二重の城壁と草の緑で覆われた敷地が印象的な城です。ヴ城塞への道・城の全体像ヴ城塞の入り口・ヴ城塞から停車した町を見るヴ城塞の二重城壁の間1&2ヴ城塞と下の町堂々とした要塞であるヴィスコンティ城塞は、変化する戦略的ニーズに対応することを目的として14世紀中頃から後半に...サン・ファウスティーノ城塞とヴィスコンティ城塞

  • マセニャ城館

    マセニャ城館(CastelloMasegra)は北イタリアの山岳地帯、昔私の従姉妹が住んでいて私も2週間ほど滞在したことのあるソンドリオという町にある城館です。昨年の夏休みと同様に北イタリアで山歩きをすることにしたので、その機会に立ち寄ってみました。ソンドリオソンドリオを見下ろす高台にあるこの城は中世にその起源を持つ町で唯一、無傷で今日まで使用されている施設です。その機能と構造は何世紀にもわたって何度か変更され、現在の多層的で異質な外観はこの地方の過去700年の歴史の複雑さを表しています。全体像第一城門・パノラマ道第二城門1&2マセニャ城館は中世の城で、ソンドリオの地主であるカピタネイ家の封建権力の中心でした。13世紀と14世紀に何度か損傷を受けて再建され、15世紀から16世紀にかけてはカピタネイ家の相続...マセニャ城館

  • ヴァレール城塞

    ヴァレール城塞は北イタリアのボルツァーノから南西に車で1時間走った所、ノン渓谷の高さ約600mの丘の上にそびえる13世紀後半に建てられた中世の城です。15世紀にシュパウル家の2つの家系によって分割され、徐々に2つの独立した城に変貌しました。それぞれ上城と下城とも呼ばれています。ヴァレール城塞は天守閣の周囲に同心円状に連なる建物で構成されており、2つ、場合によっては3つの防御壁に沿って建てられています。この城はイタリアのアルプス地方で最も保存状態の良い複合施設の1つとして知られているのです。城のリビングスペースの合計3300㎡は15のベッドルーム、14のバスルーム、5つのキッチンを含む88の部屋に分かれています。建設当時からずっと、城はこの地方で有名な伯爵家であるシュパウル家が住んでいたのですが、2017年...ヴァレール城塞

  • トゥーン城塞

    スイスにも同名の城がありますが、我々が訪れたのは北イタリアのトレントから真北に30kmほど行った丘の頂上にあるトゥーン城塞です。16世紀中頃の火災のあと城は再建され、銃器に対抗すべく砲台、城壁、巨大な稜堡塔などを備えた要塞になりました。そして数年後には新しい城門が造られて、さらなる補強が行われたのです。ゴシック様式で建造された城は当初は軍事目的で使用されていましたが、後にルネッサンス様式の城に改築され、20世紀の終わり頃から18年以上の歳月をかけた修復が終わって、2010年に博物館としての開館式が行われました。ヴァル・ディ・ノン(ノン渓谷)に位置していて、城から見下ろす平地には春にリンゴの花が咲き乱れるそうです。実はこの城塞は13世紀半ばに建てられ、13世紀後半から20世紀の後半にズデンコ・フォン・トゥー...トゥーン城塞

  • ホテル リヴァラゴ

    ミラノ空港からレンタカーでトレント方向に行く途中、北東に約100km走ってイセオ湖畔の小さな村で一泊しました。イセオ湖と村1&2イセオ湖と村3〈ホテルリヴァラゴ〉という、19世紀のヴィラを改装したロマンチックで高級感のある4つ星の宿泊施設です。今世紀の初め頃から、もともとイセオ湖畔出身の家族によって運営されています。スパークリングワインの産地フランチャコルタから真北に車で20分ほどの所です。ホテルの入口実は私たちはこの魅力的なホテルに早い午後に着いて、湖畔のテラスでお茶をする予定でした。ところが、ハノーファー空港で預けた2個のスーツケースがミラノ空港に着かないのです。しかしその所在は分かっており、その日のうちにミラノに着く便に乗せたとのこと。我々の宿泊地に届けてもらうのに2日かかるとの事だったので、結局ミ...ホテルリヴァラゴ

  • 古代都市 ペルジェ

    古代都市ペルジェはアンタルヤから北東に16㎞離れたところにあります。今ある廃墟はギリシャ期からローマ期の都市の施設で、こんにちまでその当時の雰囲気を保っています。人が住んでいた痕跡は、なんと、紀元前4000年までたどれるとのことです。紀元前1000年から800年にかけキプロスとの接触が深まるにつれて、ペルジェはギリシャの特色を帯びた居住地になっていきました。この地方の中心都市のひとつであったペルジェはアレクサンダー大王に降伏した後、複数の統治者を経てローマ帝国に属するようになったのです。紀元後1世紀頃にはこの地方の首都になりました。メインストリート1&2泉の跡・遺跡のいち部1遺跡のいち部2&3遺跡のいち部4&51970年からイスタンブール大学が発掘を続けているのですが、大きな建物の遺跡はだいたい紀元前3世...古代都市ペルジェ

  • シデ

    シデはアンタルヤから東南東へ約60kmの所に位置しているのですが、町の入り口に古代の劇場があり、そこから海に向かって町の中心部が開けています。劇場1&2劇場3・劇場の外側町の中心部1&2海1&2だいたい紀元前7世紀ごろに開かれた町で、紀元前2および1世紀にシデはこの辺を荒らしまわっていた海賊にしばしば襲われたそうです。現在残っている遺跡の主なものは紀元後1から2世紀にかけてローマ帝国に支配されていた時代の建造物です。その他の重要な建物は5–6世紀にシデが司教座の所在地であった時代の遺跡なのです。シデの町は30km離れた川から飲み水を水路によって確保していたのですが、その水路の一部が町のあちこちに残っています。アポロン神殿の遺跡・遺跡1その後、おそらく10世紀ごろに住民がこの町からどんどん出て行ったそうです...シデ

  • 古代都市 テルメッソス

    アンタルヤから40kmほど北西に行くと、標高約1000mの高さに国定公園として保護されている古代都市テルメッソスがあります。公園の入り口で入場料を払い、細い舗装道路を13㎞登って駐車場に車を置き、そこから急こう配の山道を約20分歩くと着く、到達しにくい古代都市遺跡です。駐車場、ここから徒歩・遺跡の入り口このあたりは紀元前3000年頃から人が住んでいたと考えられていて、ギリシャの都市国家群がアナトリア西部に築かれる前からリキアという国が栄えた場所だということです。テルメッソスは山奥の要塞都市ともいえるところで、あのアレキサンダー大王が紀元前333年、アジア遠征の中で唯一陥落できなかった地だそうです。ところが、5世紀と9世紀に起こった地震のため廃墟となったのです。貯水槽・劇場1劇場2・墓地の石棺1墓地の石棺2...古代都市テルメッソス

  • アンタルヤの近郊

    アンタルヤ市の中心部を散策したのは1日だけで、その郊外や近くの町村をレンタカーを使って見てまわりました。トルコはG20に入っている国なので一応交通規則も道路標識もしっかりしていますが、ドライバーの走り方はかなりルーズな面があります。信号無視やスピード違反を時々見ました。一方通行の道路を逆走する人が(私自身を含めて)3人もいたのです。ただ、全体的にスピードをあまり出さない人が多いような印象を受けました。市街地から郊外に抜ける道路に面白い標識がありました。制限時速82㎞。なぜ80㎞ではいけないのでしょう?道路標識・オレンジの街路樹ドイツでは道路が汚れるので果実のある街路樹は禁じられていますが、アンタルヤ郊外の村の道路にはオレンジの木が植わっていました。シメシメと思って10個ばかり持って帰りましたが、非常に酸っ...アンタルヤの近郊

  • ミシュラン 2つ星

    我々の家から車で10分の所に、興味をそそるレストランがあります。その建物には以前〈四季〉というレストランが入っていて数回行ったことがあり、結構良い味の料理を提供していました。そしてその建物に比較的最近〈ヤンテ〉という名前の、ミシュラン2つ星をもつレストランが入ったのです。これは行くしか無いでしょう、、、ということで、行って来ました。入り口入り口の位置が変わっていましたが、内装は根本的に同じです。古い建物で、趣のある入り口です。近年高級レストランで普通になって来た、格式にこだわらないサーヴィスをここでも採用しているようです。一言でいうと、自然体での接客ですね。サーヴィスに関して面白い発見がありました。高級レストランでは通常料理ごとに新しいカトラリー(洋食で使うナイフ・フォーク・スプーンなど、料理を口に運ぶた...ミシュラン2つ星

  • フレヒティンゲン水城

    フレヒティンゲン水城は、私の住んでいるハノーファーから真東に100㎞少々離れたところにある人工湖の畔に建っています。昔の東ドイツに属する土地にあり、第2次世界大戦後の1945年に東ドイツ政府に収用されるまで、シェンク・フォン・フレヒティンゲン家の先祖代々の居城でした。その歴史ですが、何でも14世紀の初め頃に近くの採石場の石を用いて造られた天守閣や防御壁を備え、要塞化された城として建てられたそうです。15世紀後半の火事で深刻な被害を受けた後、古い城の一部を組み込んで後期ゴシック様式の建築要素を追加することで、フレヒティンゲン城の複合施設は最初の大きな構造変更を受けました。その100年後、防御態勢がもはや中心的な役割を果たさなくなった城はルネッサンス様式で再設計されたとのことです。そして狩猟小屋、農場の建物、...フレヒティンゲン水城

  • ショェーニンゲン城館

    ショェーニンゲン城館は私の家があるハノーファーから東南東に1時間20分ほど走った、昔の東西ドイツ国境の西ドイツ側にあります。14世紀中頃に狩猟小屋兼国境の要塞として建設されました。その後16世紀から17世紀にかけてルネッサンス様式で改築されて以降、武器庫が取り壊され住居として使用されていました。ところが19世紀前半にこの地方の行政機関がショェーニンゲンから他所に移されて以来、城は荒廃して行ったのです。20世紀の後半になってやっとショェーニンゲン市が城館を復元して一般公開しました。さらにバロック様式の庭園と城の建物に隣接する公園を整備し、現在はホテルレストランを持つ複合施設になっています。城館1&2庭園・中庭裏門・街の様子ショェーニンゲン市は小さいけれどこぎれいで、軽い傾斜のある都市です。城館は街の賑わいの...ショェーニンゲン城館

  • ヴァルベルク城塞

    ヴァルベルク城塞は私の住むハノーファーから東南東に約100km、かつての東西ドイツ国境の西ドイツ側であるニーダーザクセン州東部のエルム山脈の東端に建っています。城と堀の一部1&2この堀のある城は13世紀初頭に某貴族によって設立され、何世紀にもわたって先祖代々の本拠地でした。その後17世紀前半の三十年戦争でひどく損傷しましたが、より要塞化されて再建されました。全体像正面・右斜め城と池何度か所有者が代わった後、20世紀の前半に某学校協会が商業学校を運営するために城の複合施設を買収して大規模に再建しました。第2次世界大戦中は軍病院として、戦後の数年間はヘルムシュテット地区の結核病院として使われた後、20世紀の後半からは農業貿易技術学校の訓練センターとして利用されて来ました。そして今世紀に入って何度か改修工事が行...ヴァルベルク城塞

  • ヴァンツレーベン城塞

    ハノーファーから東南東に走って約2時間、かつての東西ドイツ国境を超えると間もなくヴァンツレーベン町に入ります。この町の北の外れにヴァンツレーベン城塞は建っているのです。城に属する公園はそのまま広大な森につながっています。というか、城とヴァンツレーベンの町が森の中にぽつんとあるのです。城門をくぐると真ん中に塔がある広い中庭で、そのまわりに円を描くように低層の城の建物が並んでいます。原型ではなく新築または修復した建造物ばかりのようです。さて、最初にヴァンツレーベン城塞の存在が述べられているのは10世紀の古文書だそうです。当時二重の溝と城壁を備えた丸い城として建てられ、ヨーロッパ最大の低地に建つ城のひとつです。13世紀に建てられた高さ30メートルを超えるロマネスク様式の天守閣は、今日この地域の象徴(シンボル)に...ヴァンツレーベン城塞

  • アンタルヤ

    クリスマス休暇で、2週間弱をトルコの地中海沿岸の町アンタルヤで過ごしました。30年以上前に来た時は人口数十万の地方観光都市に過ぎませんでしたが、今では人口2百万人を越す大リゾート地に成長しています。イギリス人とドイツ人を筆頭に西ヨーロッパの人々、それに加えてロシアやアジアからの観光客が大勢訪れているのです。観光街を歩くと以前はお土産店やレストランの客引きから「こんにちは!」と声がかかっていたのに、今回は例外なく「ニーハオ!」か「アニョガセヨ!」です。中国語を掲げた店もあります。日本人観光客の影が非常に薄くなっているようです。市域のはずれの公園にある滝・その公園から見た観光船海岸の景色さて、この地域にはコーカサスとメソポタミアから来た人たちが紀元前4500年頃から住んでいました。紀元前9から7世紀にギリシャ...アンタルヤ

  • ベルゲドルフ城館

    ハンブルクに現存する唯一の城はその郊外のベルゲドルフという所にあり、何世紀にもわたって、例えば17世紀初頭、17世紀後半、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてゴシック様式やネオゴシック様式、あるいは地元のスタイルを使って拡張され再建されてきました。城館1&2堀に囲まれたベルゲドルフ城の起源はまだ明確には明らかにされていませんが、「堅固な家」が14世紀に初めて文書に登場しました。ある伯爵が13世紀はじめにビル川を堰き止めて水車小屋を建設したので、その時に最初の保護構造としての城が建設された可能性があります。恐らく二重の堀と跳ね橋を持ち柵で囲まれた複合施設であったでしょう。内部には他のドイツの低地の城と同様に、攻撃を受けた場合の退却場として巨大な塔があり、厩舎と井戸を備えた農場と住宅の建物もありました。...ベルゲドルフ城館

  • 市営墓地 ゼールホルスト

    ハノーファーにある私の自宅のすぐ近くに、数か所にある市営墓地のひとつ、ゼールホルストがあります。ここは1920年に開設され1960年には正門が移設されて、訪問するのに市電を利用しやすくなりました。開設時の旧正門・旧正門を抜けて敷地の中央部に近いところ63ヘクタールの敷地はハノーファー市で最大の墓地で、約3万5千の墓があります。通常の個人の墓の他、ユダヤ人犠牲者の慰霊碑、戦没者やオランダ人徴用労働者の墓が並ぶ場所、そして少ないながらベトナム人や中国人など仏教徒の墓がある所があります。さらに1990年からは立木を墓標にした埋葬箇所もあるのです。墓石と埋葬して間もない墓(ドイツは土葬)・ユダヤ人犠牲者の慰霊碑戦没者のモニュメント・オランダ人徴用労働者の墓仏教徒の墓集団埋葬の場・集団墓木春は桜、夏は並木道の緑のト...市営墓地ゼールホルスト

  • クリスマスマーケット

    ドイツでは各地でクリスマス前の時期にクリスマスマーケットが開かれます。小さな観覧車など子供のための乗り物やコンサートなどもありますが、中小規模の屋台で手工芸品やクリスマスの装飾品、そしてグリューヴァイン(赤ワインに甘味と薬味を入れて熱したもの)に代表される季節の飲み物や食べ物が販売され、みんな立ったままで和気あいあいと談笑します。クリスマスマーケットは中世の時代にミュンヘンで始まり、その後各地に広がったようです。本来は寒い季節に備えて食料や生活用品を買う機会を市民に与える市場でした。そこには子供の玩具、かごやざる、クリスマスのお菓子やその他の甘いもの、そして栗やナッツやアーモンドなどの木の実も売られていたそうです。こんにち各市町村がそれぞれの伝統を生かし、かつ工夫を凝らしてその集客力を競っています。私が暮...クリスマスマーケット

  • 倉庫群 (シュパイヒャーシュタット) にある「水城」

    北ドイツの最重要都市ハンブルクの港湾地域にある倉庫群(シュパイヒャーシュタット)は世界最大の歴史的な倉庫群で、1991年に世界遺産に登録されました。植民地時代の遺産の一部であるこの倉庫群は19世紀後半から20世紀の前半にかけて建設及び拡張されて行きました。1948/49年時の「水城」と運河の様子(パンフレットより)倉庫と運河1&2倉庫と運河3・運河と新旧の建物そのシュパイヒャーシュタットの真ん中、2つの運河に挟まれた半島に、本来の城ではないけれど「水城」と呼ばれる1905年から1907年にかけて建てられた歴史的建造物があります。それは歴史あるシュパイヒャーシュタットで最も美しく、最も写真に撮られている建物のひとつです。この4階建ての建物は昔油圧貯蔵ウインチのメンテナンスと修理を行う港湾労働者の宿泊施設と作...倉庫群(シュパイヒャーシュタット)にある「水城」

  • ホテル イル ・ グラディアトレ

    バイエルン地方の中堅都市アウグスブルクで講演をするのに長距離なので列車で行くのですが、この国の鉄道は運休や遅延がよくあるので一日前に行って駅のすぐ近くのホテルに泊まりました。〈古い公園のそばのホテル〉という名前のホテルです。キリスト教会が運営している施設で、このホテルの他に病院、小さな公園、老人ホームなどがあります。同じくこの施設に属するレストラン・バー・ラウンジで夕食をとりました。モダンで殺風景な建物ですが、優しそうな笑顔が魅力的な若おばさんのサーヴィスで心が和みます。裏の入り口が病院の入り口と向かい合わせになっているので、入院患者らしきお客さんもいます。鼻に管を差して体に袋を下げた人、何らかの器械を体に付けた人、車椅子の老人を囲んだグループ、、、、。宿泊客はここで食事をすると飲み物が一杯無料ということ...ホテルイル・グラディアトレ

  • ヴェンドリングハウゼン城館 & バルントループ城館

    17世紀の前半にヴェーザー・ルネッサンスのスタイルで水城として建造されたヴェンドリングハウゼンという名前の城館および大農園は、ハノーファーから南西に100kmくらい離れたところにあります。当初からある家族が住んでいる個人所有の城館です。今世紀の初めに大々的な修復が行われました。ヴェンドリングハウゼン城館の入り口・城館1城館2&3城館4&5お城に属する広大な小高い山林を歩いていて見つけた看板によると、その山林自体が大きな墓地のようです。火葬した灰を有機質の骨壷に入れて埋め、そばの立ち木にプレートを下げるシステムです。その看板の近くに池があり、そのほとりで妻の手作り弁当を食べました。墓地の看板・池弁当グリーンピースご飯に昆布と黒ゴマが混ざります。おかずは大根と干しイチジクの酢の物、ハム入り卵巻き、シイタケの甘...ヴェンドリングハウゼン城館&バルントループ城館

  • グラフェンスティーン城塞

    ベルギーのフランドル地方にある人口3万5千人程の町イーペルで3年に1度、5月の第2日曜日に開催される1938年から続く「猫祭り」に妻の弟と彼の奥さんが日本から来るというので、ブリュッセル国際空港で落ち合って一緒に行くことにしました。妻の仕事の都合で家を出るのが夕方だったので、ブリュッセルまでの途中で1泊したのです。ビジネスホテルのようなホテルでしたが充実した朝食ビュッフェで、ハム入りオムレツを作ってもらいました。前日に泊まったホテルの朝食ブリュッセルから真西に約140km離れたイーペルへのほぼ道半ばにゲント(ヘント)という古都があり、その中心部にグラフェンスティーン城塞(ドイツ語で「グラフェンシュタイン城塞」)はあります。街の様子と城・塞城と中庭の一部1城と中庭の一部2&3城と中庭の一部4&5城と中庭の一...グラフェンスティーン城塞

  • ヘメルシェンブルク水城館

    私の住むハノーファーから南西に60km離れてヘメルシェンブルク水城館があります。お城に付属する芸術収集品、庭園、水車、農舎、教会を含めて、かつて栄えたヴェーザー・ルネッサンスの代表となる施設です。15世紀の初めごろからこの地には城塞がありましたが、それが壊され、16世紀の終わりから17世紀の初めにかけて水城である現在のヘメルシェンブルク城館が新しく建造されました。17世紀前半の30年戦争の時幸運にも惨禍を免れ、続いて起こった7年戦争の被害も最小限に抑えられて、お城は今日までほぼ完全な形で残っています。現代人が住むのに適するように19世紀と20世紀に改装が行われましたが、歴史的外観は全く損なわれていないそうです。個人の所有であるお城の一部は50年前から私立博物館として公開されています。そこにはルネッサンスや...ヘメルシェンブルク水城館

  • グランドホテル ハイリゲンダム

    18世紀の終わり頃、ある公爵が主治医に勧められてこの地で泳いだことにより、ドイツで最初の海水浴場が誕生しました。その主治医は海水浴がいろいろな病気を治すことを知っていたのです。なぜハイリゲンダムが海水浴治療に適しているかというと、気候が良いからです。すなわち、埃を含まない湿った空気、小さい寒暖の差、深いブナの森林にかこまれていること、そして潮の干満がないことです。その後19世紀の後半にかけて多くの建物、中でも現在グランドホテルになっている大規模な保養宿泊施設が建てられたのです。ハイリゲンダムはその誕生からドイツで最も洗練された海辺の保養地という名声を博し、1930年まで数多くのヨーロッパやロシアの貴族や著名人が避暑をする地で、死ぬまでに一度はハイリゲンダムに行くべき、とまで言われたそうです。第2次世界大戦...グランドホテルハイリゲンダム

  • シュピッケル城館

    長方形で化粧塗装をほどこしたシュピッケル城館の原型となった城塞は、16世紀に建てられました。その後17世紀の中頃に30年戦争の結果としてこのリューゲン島はスウェーデンの領地となり、スウェーデン人が城塞の所有者になったのです。同時に、もともと防御のための堀に囲まれていた城塞はルネッサンス様式のシュピッケル城館に改造され、スウェーデン特有の赤色に塗られました。4隅にある丸い塔が今だに城塞の印象を与える建造物です。19世紀初頭にリューゲン島がナポレオン軍に占領されたとき一時的にフランス人が住みましたが、数年後に城館はプロイセン王国に属するようになりました。そして第2次世界大戦終了まで、ある侯爵の所有だったのです。お城は終戦後約20年間にわたり荒廃するままにまかされていた後、史跡保護の観点から包括的に修復がなされ...シュピッケル城館

  • ラルスヴィーク城館 & リーツォヴ小城館

    ドイツ北東部のバルト海に突き出たような形のリューゲン島に、6kmほど離れて建つふたつのお城です。そのひとつ、ラルスヴィークという村にある同じ名前の城館は19世紀の終わり頃に新ルネッサンスの様式で建造され、20世紀の前半には厩舎が増築されました。ラルスヴィーク城館1&2ラルスヴィーク城館3・城館の入り口庭1&2ユーゲントスタイルの玄関ホール、階段、板張りの壁、ドアの取っ手、そして窓ガラスの内装は、昔のままの姿だそうです。このお城はある家族の所有でしたが、第二次世界大戦後に国家(東ドイツ)から公用徴収されて老人ホームとして、そしてその後ドイツ赤十字の管理下で身障者のための介護ホームとして利用されました。東西ドイツ統合のあと、ある別の家族が購入してこんにちの姿に改築したのです。玄関と内装は、いかにもお城、と思わ...ラルスヴィーク城館&リーツォヴ小城館

  • 狩猟の館 グラニッツ

    われわれがリューゲン島で滞在しているアパートメントから30分ほど山地トレッキングをすると、狩猟の館グラニッツに着きます。年間25万人以上の訪問客があるという人気のお城で、約1.000ヘクタールもの、前世紀の終わり頃から生物生息圏保護地区に指定されている森の真ん中にあります。山地を走る観光列車この地には18世紀の前半に3階建ての狩猟小屋が建てられ、19世紀の前半に取り壊されました。その後も何回か、建てられて撤去される、ということが繰り返されました。現在の〈狩猟のためのお城グラニッツ〉は19世紀前半に、北イタリアのルネサンス風城館に似せて建造されました。建物の四つ角と真ん中に塔を持つ建造物です。狩猟の館1&2真ん中の塔・壁の装飾このお城は昔からヨーロッパ中の貴族や著名人に愛された旅行先で、1944年まである家...狩猟の館グラニッツ

  • ラインスベルク城館

    宿泊している〈港ホテル〉から歩いて30分くらいのところにラインスベルク城館があります。湖畔のお城です。船上から見た城館・城館の対岸お城見学の前に、すぐ近くのレストランで昼食をとりました。入り口は殺風景ですが中は綺麗にしています。ミシュラン本の2018年版に載っているようで、レベルが高そうです(星は付いていない)。レストランまず、干しトマトとハーブが入ったクヴァルク(凝乳)とジャガイモで作ったパンが出てきました。パンがしっとりしていて、クヴァルクをつけて食べると結構いけます。クヴァルク(凝乳)とパン・カミツレ茶私はノンアルコール・ビールを、妻は昼間なのでさすがにワインではなく、カミツレ茶を注文しました。料理は昼食なので一品だけにしました。妻が食べたのはタラのフィレとルッコラをカボチャリゾットにのせた料理です...ラインスベルク城館

  • 港ホテル ラインスベルク

    ドイツ連邦共和国の首都ベルリンから北西に100km離れた所に、港ホテル・ラインスベルクはあります。ここは湖の多い地方で、そのうちのひとつの湖のほとりに建っているのです。森に囲まれたこの広大な施設は、2007年に開業したホテルと個人所有の別荘群から成っていて、各別荘には駐車場とボートの係留地がついています。ホテルの経営は簡単ではなく、現在3つ目の会社が運営しているそうです。別荘とボートホテルの前から1&2ホテルと別荘とボート左右対称の城館を思わせるホテルは、現代的な構造で広いロビーが印象的です。われわれの部屋はデラックス・ダブルルームです。港が見えるスタジオ風で、下が居間とバスルームで上が寝室。気分は良いけれども階段の上り下りは結構大変です。全部同じ階のほうがいいなー。ベランダもあります。ホテルのロビー私達...港ホテルラインスベルク

  • ガメール城館

    ガメール城館があるのはバルト海沿岸から内陸に少し入った農村地帯にある人口92人の袋小路の村です。ハノーファーから北東方面に約300km離れています。この城館(領主の館)は14世紀の後半からずっと600年以上にわたって恒常的に(この地が東ドイツに属していた時代を除いて)某家族の私有財産で、同時に先祖代々の屋敷なのです。19世紀の初めにいちど改築のために壊されて、同世紀の後半に現在の新ゴシック様式のお城が建てられ、多数の付属建築物をふくむ大農場の中心になっていました。しかし、1945年の終戦後に強制公用徴収されてしまったのです。そして東ドイツ時代は保育園、学校、アパートなどいろいろなことに利用されてきました。今世紀になって早々に元々の所有者の子孫(二人の直系子孫はどちらも法律家で現在ベルリンに住んでいる。)が...ガメール城館

  • 雲仙温泉の旅亭 〈半水盧〉

    島原半島中央に位置する雲仙温泉は日本初の国立公園(雲仙天草国立公園)にある温泉保養地で、雲仙妙見岳の南西、標高700メートルに位置しています。温泉街は噴気帯「雲仙地獄」を囲むように存在し、その地獄内に遊歩道が整備されているのです。30に及ぶ地獄の遊歩道沿いには真知子岩、婆石、鏡石、キリシタン殉教碑、聖火燃ゆ之碑といった奇岩・石碑が点在し、地獄展望台や足湯等も設けられています。雲仙地獄開湯は日本が国号を「日本」とした大宝律令成立の701年、行基によって温泉山満明寺が建立されたことに始まるそうで、温泉地として開発が始まったのは約350年前だとのことです。1653年には初の共同浴場が始まった、と言われています。江戸末期からは西洋人が足繁く通い、避暑地としても発展してきました。幕末には吉田松陰が当地を訪れ、またシ...雲仙温泉の旅亭〈半水盧〉

  • エッテルスブルク城館

    バッハ、ゲーテ、そしてシラーで有名な旧東ドイツの町、ワイマールは古典的な町として20世紀の終わり頃からユネスコの世界文化遺産に登録されています。そのワイマールから北に10km行ったところにある、人もまばらな田舎の村に建っているのがエッテルスブルク城館です。コの字型の旧館と新館が向かい合っています。旧館は18世紀の前半に狩猟のためのお城として建築され、その大広間でヨハン・セバスチアン・バッハが演奏をしたそうです。バロック様式で奇抜なデザインの新館が建造されたのは18世紀の中頃です。ゲーテ、ヘルダー、コロナ・シュロェーテル、ヴィーラントなど、多数の小説家、詩人、音楽家たちがエッテルスブルク城館の客人で、いっしょに演奏したり、読書会をしたり、踊ったり、議論を戦わせたりしました。ゲーテは戯曲である„Jahrmar...エッテルスブルク城館

  • ホーエンベルク城塞

    ドイツの南東部、チェコ共和国との国境であるエーゲル川まで歩いて行けるところに、12世紀後半に建造されたホーエンベルク城塞があります。15世紀前半のフス戦争で荒廃し、16世紀中頃のマルクグレーフラー戦争で部分的に破壊され、その後修復されて水道管の設備が取り付けられましたが、17世紀前半の30年戦争のときにふたたび部分的に破壊されました。そして19世紀初めごろのナポレオンによる数年の統治を経て、バイエルン王国に属するようになったのです。第2次世界大戦の前後20年ほどは学校の合宿所として利用され、戦後10年たった頃城塔を一時的にアメリカ駐留軍に接収されたり、東ヨーロッパからの引き上げドイツ人のための施設として機能したりしました。その後20世紀後半までドイツ-チェコ国境であるエーゲル川の国境監視所でした。そしてま...ホーエンベルク城塞

  • ホテル アンノ1433

    むかし岩塩の採掘と流通で栄えた町リューネブルクに講演に行って、おもしろい名前のホテルに泊まりました。〈ホテルアンノ1433〉というのです。annoとはラテン語で〈・・・年〉という意味なので、〈ホテル1433年〉となります。ホテル1433年12世紀ごろから経済発展を始めたこの町に、14世紀の前半から仕事用に建てられ始めた建物のうちの一軒です。名前からわかるように、この家は1433年に建てられた石材構造建築で、16世紀後半には住居としても使われるようになりました。何度も改築と所有者の交代があり、19世紀の後半にさらなる増改築が行われ、21世紀になってから昔の建築様式がいたる所で認められるように修復されたのです。2階に行くとレセプション-デスク・私の部屋〈ホテルアンノ1433〉は恐ろしくシンプルな内装のホテルで...ホテルアンノ1433

  • ヴェルニゲローデ城館

    ハノーファーから東に120km離れた旧東ドイツのヴェルニゲローデ市にあるヴェルニゲローデ城館は、旧市街を見下ろす100mの高台に建っています。おそらく12世紀の前半に建造され始めたと思われますが、13世紀の前半に初めて古文書に現れるそうです。15世紀と16世紀に断続的に建築が大規模に進められ、何度も所有者が代わり、17世紀にバロック風城館に改築されました。そして19世紀にはその時代を代表する様式に改築され、その特徴の多くはこんにちまで保存されています。20世紀初め頃から当市の侯爵家族が居住するようになり、それと同時に第2次世界大戦終戦までの間、城館施設の一部が一般見学者に公開されていたそうです。戦後侯爵家族の所有であった城館は土地改革によって公用徴収されてしまい、その上歴史的な武器や武装、軍人や勲章の絵画...ヴェルニゲローデ城館

  • 長崎の料亭 〈一力〉

    今年の春、一時帰国した際に長崎を訪れました。私は3回目です。江戸時代から第2次世界大戦終戦までの歴史が詰まっているし、異国情緒豊かな文化もあり、日本で最も興味深い都市の一つだと思います。55年ぶりに訪れた妻も大満足でした。大浦天主堂・グラバー邸出島・ちゃんぽんミュージアム夜景長崎といえばチャンポン、皿うどん、そして何といっても卓袱料理です。どうしても初めての卓袱料理を食したく、自宅のあるドイツから遠距離予約をして出かけました。入口長崎の料亭の中でも最古である200有余年の歴史を誇る〈一力〉という老舗料亭です。〈一力〉の長い物語の始まりは西暦1813年、町人文化が発展した化政文化真っ只中の折だそうです。京都に同じ名前の料亭がありますが、400年もの歴史がある京都の〈一力〉とは格違いだということで遠慮して、自...長崎の料亭〈一力〉

  • ホテル バッハマイル・ヴァイスアハ

    ドロミテから帰宅の中継地として、ミュンヘンの南50km、テーゲルン湖のほとりにある5つ星保養ホテルに一泊しました。若かりし頃はハノーファーまでいっきに走っていたのですが、途中で休むのが習慣になりました。このホテルは20世紀の終わりに、優雅さと心地良さとバイエルン州の田舎風をお客さんに提供しようとして建てられたとのことです。正面入口・ロビー兼図書室高級車が並ぶホテルの正面玄関を入ると、意外と質素なロビー兼図書室に驚きます。広大な庭のまわりにぐるりと客室棟が建ち並ぶ設計で、庭には礼拝堂があり、敷地の真ん中をかなりの水量の小川が流れています。われわれの部屋は思っていたよりシンプルで地味な、落ち着きのあるツインルームで、広さもわりとあるので住環境はたいへん結構です。中庭1&2礼拝堂実際に行くまでまったく知らなかっ...ホテルバッハマイル・ヴァイスアハ

  • シュヴェーデスドルフ城館

    16世紀の末、ニーダーザクセン州の州都であるハノーファーから西南西の方向に45分走った所にシュヴェーデスドルフ城館は建造されました。城は建設されて以来フォン・ミュンヒハウゼン家によって個人所有されていて、EUの資金援助により重要な文化遺産として良好な状態に保たれています。城は母屋とそれに垂直に隣接する建物で構成されています。17世紀初めに六角形の階段塔が増築され、19世紀には木骨造りの上層階が拡張されました。城の西側にはエキゾチックな木々が生い茂る庭園があります。数年前まで、フォン・ミュンヒハウゼン男爵とその夫人が老後を過ごす居城として機能していました。正面から・向かって右から向かって左から・人が住んでいると思われる棟2022年の中頃からシュヴェーデスドルフ城館が建つラウエナウ町では、個人投資家が城と付属...シュヴェーデスドルフ城館

  • ピエトラ城砦

    私たちが8泊したアパートメントは、プリミエロ谷にあるトランサックアという村にあります。ここはドロミテの南の方で、ドロミテ独特の奇岩の山々が見える地域の南端にあたります。トランサックア村は、川を挟んだフィエラという村や同じ川岸側にあるトナディーコおよびシロールの村々と共同体を成しています。奇岩の山々の一部朝・夕方フィエラ村1&2フィエラ村3&4フィエラ村5ピエトラ城砦はトナディーコ村にあるのです。北イタリアの他の地方に同じ名前のもっと立派な城塞がありますが、ここのピエトラ城砦は険しい岩山のてっぺんに築かれていて、今は廃墟なのです。ピエトラ城砦正面から・裏側から山を分け登って近づいて見ると巨大な岩にロッククライミングしている人たちがいます。ロッククライミング場自然の岩を利用した城壁の一部があり、上に登るのに鉄...ピエトラ城砦

  • 貴族の館 エルス・カルデラーズ

    昨年のクリスマスから新年にかけて久し振りにスペインのマヨルカ島で過ごしました。過去に比較的頻繁に行った時期があり、今回は7か8回目ぐらいです。ドイツでフィンカと呼ばれるかつての農家を賃借して10日間過ごしたのです。近くに住む大家の犬と猫がしょっちゅう遊びに来たり隣の農場の羊やロバたちが寄って来たりして、たいへん楽しく過ごしました。フィンカ・フィンカの広大な庭マヨルカ島滞在の主な目的はトレッキングだったのですが、その土地の文化に触れることも忘れませんでした。その一環としてエルス・カルデラーズを訪れたのです。館の外観・その入り口立派な犬小屋外庭・中庭エルス・カルデラーズはマヨルカ島のかつての邸宅で、現在は野外博物館として利用されており、当時の部屋を見学することができます。この邸宅は13世紀の後半にカルデラー家...貴族の館エルス・カルデラーズ

  • マロースティカ城塞

    ヴィツェンツァからドロミテの山間部のアパートメントに居を移す途中で、マロースティカという、人口一万四千人の小さな町を散策しました。旧市街の鳥瞰図見どころは、山頂にある上部城塞と平地にある下部城塞。そしてそれをつなぐ城壁が旧市街を完全に取り囲んでいる景観です。14世紀に築かれた数キロメートルの長さの城壁には、二十数本の防御塔があります。下部城塞(城壁の外から)1&2城壁(外側)教会と上部城塞1&2上部城塞1&2上部城塞3城壁1&2下部城塞(左)と城壁(真中と右)城壁の中には下部城塞の前にチェスボードを模した広場があり、数百年前から2年に一度、偶数年9月の第二週末に人間チェスが行われます。人間が中世の衣装を着てチェスの駒に扮するのです。下部城塞とチェスボード広場(コンサートの準備中)なぜ人間チェスが行われるよ...マロースティカ城塞

  • ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

    ノイシュバンシュタイン城やライン河下りと並んで最も知られたドイツ観光のハイライトのひとつが、南ドイツをヴュルツブルクからフュッセンへ縦断するロマンティック街道です。ロマンティック街道にある中世の町の中でも特に有名なのが、ニュルンベルク大都市圏の一部であるローテンブルク・オプ・デア・タウバー。市役所(左の建物)なぜこれほどまでに有名なのでしょうか?歴史的な町の中心部は要塞に囲まれ、タウバー渓谷の手付かずの風景に埋め込まれています。そしてほぼ完全に保存されている中世の旧市街に多くの歴史的建築物や文化財があり、第二次世界大戦による破壊と再建にもかかわらず、現代的な建物がほとんどありません。これがこの町の魅力なのでしょう。さらに、ローテンブルクは中世犯罪博物館など、いくつかの博物館でも知られています。私の姪が訪独...ローテンブルク・オプ・デア・タウバー

  • チッタデッラ と カステルフランコ ・ ヴェーネトの市壁

    ヴィツェンツァの近くのチッタデッラという小さな町を見学しました。歴史的な地域が、ほとんど完全な形で残っている市壁で囲まれている興味深い町です。チッタデッラの中心部チッタデッラは13世紀前半にパドヴァの軍事的前哨地として築かれました。そして13世紀後半から14世紀末にかけて近隣地域での戦略上の重要性を持つようになり、その影響が及ぶ地域が広がっていったのです。現在北イタリアであるこの地方は、18世紀から19世紀にかけてフランスに占領されたりオーストリアの一部になったりした後、19世紀の後半にイタリア王国に属するようになりました。市壁と水掘・出入り口のひとつ(外側から)出入り口のひとつ(門の内部)・出入り口のひとつ(内側から)市壁は直径約450mのほぼ円形で、円周は約1.500mあります。高さは14mから16m...チッタデッラとカステルフランコ・ヴェーネトの市壁

  • マドンナ・ディ・カンピーリョ

    海抜1552mの高さにある人口650人(2022年時点)のマドンナ・ディ・カンピーリョ村は、イタリア・アルプスで比較的大きな都市ボルツァーノの南西に位置しており、約100㎞離れています。同様の都市トレントから見ると北西にあたり、約70㎞の距離です。隣のボルツァーノ自治県にドイツ語話者が多いからでしょうか、この村にはドイツ語の名前もあり、ザンクト・マリア・イム・パインといいます。この場所は13世紀前半の文献に初めて、巡礼者や旅行者のために12世紀後半に建てられていた施設と共に言及されているとのことです。山から見たマドンナ・ディ・カンピーリョ村村の周辺の景色1&2村の周辺の景色3&4この施設が地域の観光の起源となっていて、650人の住民は主に観光業で生活しています。過去にはハプスブルク家のメンバー、特に皇后シ...マドンナ・ディ・カンピーリョ

  • ロミオとジュリエットの城塞

    北イタリアの旅行で次の目的地であるヴィツェンツァに行く途中、モンテッキオ・マッジョーレという町を通りました。そこで偶然に、〈ロミオとジュリエットの城塞〉があることを知ったのです。地元の人によると、シェークスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台になった町はヴェローナではなくてこのモンテッキオ・マッジョーレだ、とのことです。ロミオの城の実際の名前は〈CastellodellaVilla〉で、ジュリエットの城は〈CastellodellaBellaGuardia〉です。ウィキペディアの写真でロミオの城とジュリエットの城の位置関係がわかります。約300メートル離れているのです。二つの城の位置関係(ウィキペディアより)ロミオの城1&2ロミオの城からジュリエットの城を望むジュリエットの城1&2ジュリエットの城から...ロミオとジュリエットの城塞

  • 狩猟の館 〈森の平和〉

    大きな森の真ん中にある〈森の平和〉と名付けられたかつての狩猟の館は、こんにちホテル&レストランになっています。施設の入り口・ホテルホテルの本館1&2ハンブルクのほぼ真北約30㎞の所です。この建物はある船主のスタイリッシュな家屋として20世紀初頭に建てられ、現在でもその元々の小ぢんまり、上質、ロマンチックといった魅力を保持しているのです。最高級ではないが高級ホテルが会員である〈ロマンティック・ホテル〉という組織に属するホテル本館、別館のゲストハウス、庭に点在する催し物を行うコテージから成る施設です。ホテルと庭・庭とコテージ別館のゲストハウス本館はディズニーランドにあるような可愛い建物です。レストランの一角がレセプションになっていて、中年おばさんがテキパキとチェックイン手続きをしてくれます。私の部屋・そのバス...狩猟の館〈森の平和〉

  • ロッカ ・ ディ・リーヴァ水城

    リーヴァ・デル・ガルダという町はマルチェージネとならぶガルダ湖観光の中心です。ガルダ湖の北端にあり、人口約一万六千人。町は1919年までオーストリア・ハンガリーに属していて、第一次世界大戦後イタリアに属するようになったそうです。むかしの町の防御施設の大部分がまだ残っていて、見学できます。町の中央広場・山の中腹の歴史的建造物そのひとつが、港にあるロッカ・ディ・リーヴァ水城です。12世紀に建造され、14世紀に初めて記録に現れるそうです。この手の城の運命なのですが、度重なる戦争により色々な国の軍隊に占領されたり、掠奪されたり、焼き払われたりして来ました。こんにちの姿になったのは19世紀で、第一次大戦後にこの地方の基礎自治体の所有になったとのことです。城塞は水堀とガルダ湖によって周りを水に囲まれています。20世紀...ロッカ・ディ・リーヴァ水城

  • バイヒリンゲン城館

    バイヒリンゲン城館は私の住むハノーファーから南東に230km、旧東ドイツのテューリンゲン州にあります。城館の前庭と駐車場・入城門おそらく渓谷への重要な峠道を守るために建てられたと思われ、ある司教の11世紀初めの著書で初めて城として言及されました。それから数百年の間、武力紛争によって征服されたり破壊されたり再建されたりを繰り返すのみならず、貴族の間で売買されて来たようです。そして16世紀の中頃に、荒れ果てた城の基礎だけを残して利用する形でルネッサンス様式の城館に改築されました。その後も拡張と再建が続けられ、17世紀中頃の30年戦争によって受けた損傷も修復されました。城館がネオルネッサンス様式で根本的に再設計されて建てかえられたのは20世紀の初めです。城館施設内の建造物1城館施設内の建造物2&3第二次世界大戦...バイヒリンゲン城館

  • スカリジェロ城塞

    夏の休暇で山々に囲まれたイタリアで最も大きい湖、ガルダ湖に来ました。湖岸のマルチェージネという町に8泊するのですが、この町は人口約3.700人で、しばしば〈ガルダ湖の真珠〉と呼ばれる、ガルダ湖観光の中心のひとつです。マルチェージネの港・裏の山から城塞とオールドタウン今回紹介するスカリジェロ城塞は湖の交通を管理するのに良い位置、30mの高台にあります。最初の城塞建造は12世紀の前半と記録されているようです。何度も破壊と再建を繰り返してきて、18世紀から19世紀にかけてフランス人が占領したりオーストリア人が取ったり、はたまたイタリア王国に属したりしたのですが、1815年のウィーン会議の後オーストリア帝国に属するようになり、この時代、すなわち19世紀の後半に最後の根本的な改築がなされました。イタリアの独立戦争の...スカリジェロ城塞

  • シュヴァインスブルク城館

    私の住むハノーファーから南東に約350km、メッセで有名なライプツィヒから真南に約75㎞。旧東ドイツのこの位置にシュヴァインスブルク(豚の城)城館はあります。城館ホテルですので、昨年の夏ここに宿泊しました。昔は堀で囲まれていた城の建設は12から13世紀にかけて行われ、早くも13世紀中に城の所有者であり領主の家族は絶えたので、その後何度か所有者が代わりました。城は荘園の行政の中心地として機能し、15世紀後半からシュヴァインスブルクという名前が城に使用されるようになりました。17世紀中頃の30年戦争の際はスウェーデン軍の将軍の住居になったそうです。そして老朽化したシュヴァインスブルク城は18世紀の中頃バロック様式の城館に、さらに20世紀になってすぐの頃にネオ・バロック様式で改築と再建がなされたのです。城の外観...シュヴァインスブルク城館

  • B&B ホテル ベルクユヴェール

    ドイツのバイエルン州から国境を越えてオーストリアのチロル地方に入ると、山の中にフェルンシュタイン城塞があります。この城は13世紀の終わり頃に建造されたようで、おそらく、破壊、修理、再建、拡張などを経て現在に至るのでしょう。城に属するかたちで、美しい静かな湖があります。城はホテルになっているので、いつか宿泊してみたいと思います。フェルンシュタイン城塞・すぐ近くの湖妻と私はさらに南下し、〈ノイシュティフト・イム・シュトゥーバイタル〉という名前の村まで来ました。ノイシュティフトという地名はオーストリアにいくつかあるのでしょう。だから〈シュトゥーバイ谷にあるノイシュティフト〉というのです。この谷のことは妻も私も知らなかったのですが、奥の方に氷河が見える静かな良い谷です。さらに知らなかったことは、この村が草津町の姉...B&Bホテルベルクユヴェール

  • エフェンブルク水城

    昨年の夏は北ドイツに行く機会が多く、その都度古城を見学したのですが、そのひとつがエフェンブルク水城です。北ドイツの都市ハンブルクからほぼ真西に直線距離で約200km、オランダとの国境まで20km弱のところに、庭園に囲まれて建っています。城に続く並木道1&2最初のエヴェンブルク城は17世紀の中頃にバロック様式の水城として建てられました。実に精巧に設計された建物だったようです。ところが城は200年後の19世紀半ばには住民のニーズに対して小さすぎ、時代遅れになっていて、広範囲の修繕が必要でした。そして新しい城は2年間の建設期間で拡張と再建が行われたのです。城の外観1&2城の外観3&4城の外観5その際、新しい城には古い城の周囲の壁、いくつかの仕切り壁、地下室の曲面天井、そして玄関の大理石の床が再利用されました。新...エフェンブルク水城

  • クレメンスヴェルト城館

    昨年の5月、妻と一緒にクレメンスヴェルト城館を訪れました。我々の自宅があるハノーファーから北西の方向に直線距離で200km程、オランダとの国境まで30kmのところにあります。城館とパビリオンの航空写真菩提樹の並木道・中央の城館クレメンスヴェルト城は18世紀前半に建てられた狩猟小屋です。並木道の延長線上にある中央の城館とそれを囲む8棟のパビリオンからなるこの複合施設は、ヴェストファーレン・バロック様式の主要作品の1つとされています。8つのパビリオンのうち7つはゲストハウスと農場の建物として機能していました。20世紀の前半に某私企業の所有となり、主に資材の倉庫として使われていて長い間修復作業はなされていませんでしたが、20世紀の後半になってやっと複合施設の包括的な改修と修復が行われました。城館とパビリオンの一...クレメンスヴェルト城館

  • ヒュンネフェルト城館

    私の住むハノーファーから真西に3時間強走った所にある、北ドイツの平地に建つ水城に来ました。城へと続く道・複合施設の全体像(Wikipediaより)広大な森と草原と畑がある敷地の中、敷地を囲むように水路が走っています。この人家から離れてぽつんと建つ、堀に囲まれた城と農場から成る数棟の建物がヒュンネフェルト城館です。門が固く閉まっており"ビデオ監視"の表示もあり、非友好的な印象を受けます。城館1&2城館3この地に最初に建造された城塞が、12世紀の中頃にヒュンネフェルト領主の先祖代々の本拠地として古文書に言及されています。そして13世紀に2棟からなる堀のある城塞に建て替えられ、14世紀末の頃から16世紀末にかけて数度にわたり所有者がかわりました。農場と堀1&2城塞がヒュンネフェルト城館に改築されたのは17世紀の...ヒュンネフェルト城館

  • 旅館 「ツム・バート」

    「プールへの入り口」という、日本人の感覚では変わった名前の、レストランを併設した宿屋です。休暇で北イタリアに行く途中で一泊した町にある施設で、この町は〈泉と水車の町〉とアピールしています。複数の泉から湧き出る水を集めて流れる小川があり、水車がたくさん回っていて、水泳と水遊び用のプールが充実しているようです。水車妻と私が旅装を解いたのはこの家族経営の旅館なのです。そのレストランは清水がふんだんに湧き出る泉の上に建っていて、10年くらい前からミシュランのひとつ星を持っています。我々の部屋はいたってシンプルですが、必要なものは全部あります。旅館-レストラン・客室レストランでは、泉と小川が見える一番良い席をもらえました。自分の仕事に関して良く勉強していると思われる給仕のお兄さんも他の給仕スタッフも愛想がいいのです...旅館「ツム・バート」

  • ブルク城館

    デュッセルドルフで講演をした帰途に、同市の南東30㎞程の所にある、刃物で世界的に知られたゾーリンゲンの郊外に建つブルク城館に立ち寄りました。それにしてもブルク(城砦)城館とは変な名前です。実は、半年ほど前に訪れた時は大工事中で、ほとんど見学出来なかったのです。今もまだ工事は続いていますが一部は見学可能だし、いくつかあるレストランも屋外休憩所も開いてます。しかしながら、まだ建物内に入ることは出来ないし博物館も閉まっているので、外観だけの見学になってしまいました。観光用にかなり整備しているため、古びた趣はまったくありません。駐車場からの外観1&2さて、この城館の歴史は13世紀まで遡るようです。元々の建物はノイエンブルクという名の城砦でした。が、14から16世紀にかけて戦争技術が変化して来た為、防御機能が不十分...ブルク城館

  • カッツェンシュタイン城塞

    カッツェンシュタイン(猫石)城塞は、11世紀に現在のバーデン・ヴュルテムベルク州に建造された城塞です。私の住むハノーファーから真南に500kmのところにあります。貴族の間で所有者が何度も代わり、17世紀中頃からは30年戦争などの争いに巻き込まれ、スウェーデン人やフランス人に攻略されたり、火災で破壊されたりしました。19世紀の初めから一時的にヴュルテムベルク王国の管理下に置かれ、その後約100年間の空き家状態から再び個人所有の城塞になりました。何度も所有者が代わり、その都度改装がなされ、その間市民に公開されたりされなかったりの繰り返しだったのです。ところが、20世紀の末頃に火災で部分的に破壊された後、閉鎖されました。21世紀になって数年過ぎたころ、ある夫婦が大改築を行い、城の一部を使って飲食店とお土産品売り...カッツェンシュタイン城塞

  • ホー ・ コェーニクスブルク城塞

    フランス中部を流れるロワール川の流域にある古城は40年くらい前にいくつか訪れましたが、このブログを始めてからは初めてフランスのお城を見学しました。アルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞です。フランス語ではChâteauduHaut-Kœnigsbourgと書きます。シャトーなんじゃらかんじゃらブールと読むのでしょう。模型・航空写真(ホームページより)ドイツと国境をはさんで接しているアルザス地方にあるホー・コェーニクスブルク城塞は、12世紀に建造されました。標高約800mの高台にあり、この地域の交通の要所であるライン河の流域を見渡すことが出来ます。城塞からの展望城塞は15世紀の中頃に破壊されて半世紀後に再建されたあと、17世紀の前半までその全盛期を謳歌しました。ところが、30年戦争の時、スウェーデン...ホー・コェーニクスブルク城塞

  • ヴァイベルホェフェ城館

    フランクフルトから南東に約50㎞離れた所に、約10ヘクタールもの公園をもつヴァイベルホェフェ城館はあります。13世紀中頃に建造された狩猟用離宮で、16世紀中頃の第二次辺境伯戦争と呼ばれる戦争で破壊され、5年後に再建されました。その後17世紀の後半から1990年まで牧羊農場が営まれていましたが、最後の農場主が亡くなった後、次の所有者が農場の歴史的価値を十分に考慮しながら、ウェルネスに重きを置いたヴァイベルホェフェ城館ホテルに改築したのです。そしてそのホテルのレストランは、ミシュランの2つ星を得たそうです。2016年から2017年にかけて、史跡保護の観点を考慮しながら建物の修復が行われました。母屋・母屋の裏側中庭1&2中庭3名もない(私が知らないだけなのですが)村のはずれに、大農場の面影が残る広大な敷地と建物...ヴァイベルホェフェ城館

  • ライネ城

    ライネ城というのは私の住むハノーファー市にある擬古典主義の城館施設で、1962年からニーダーザクセン州の州議会が入っています。柱廊玄関があるライネ城の前面1&2じつは、ライネ川沿いのこの地には13世紀の末に創設された修道院がありました。その教会財産が16世紀前半に世俗化(国有化)された後に教会だけが残されて、その敷地に城館が新築されたのです。その後修理や改装や建て替えが行われたのですが、19世紀に正面玄関に6本の円柱が建造されて擬古典主義的な建物となりました。第2次世界大戦時の空襲では100発以上の爆弾が城館に命中し、外壁を残して破壊されてしまいました。そして戦後、残った外壁を利用して城館は再建されたのです。21世紀に入って何度か近代化工事が行われました。ライネ城の前面を違う角度から・ライネ城の手前にレス...ライネ城

  • オスナブリュック城館

    ハノーファーから西に160km離れたところにあるバロック風のオスナブリュック城館は、17世紀の後半に建造されました。19世紀の初めから行政官庁の建物として使われ、20世紀前半のナチズムの時代にはナチの秘密国家警察(ゲシュタポ)が城の西の棟に入りました。ゲシュタポは地下に囚人房と拷問部屋をつくり、ユダヤ人のオスナブリュック市民を強制収容所に送るまでの間拘留していたのです。留置場にはその他、外国人の強制労働者と政治犯がいました。第2次世界大戦の時に城は破壊されて外壁だけになってしまいましたが、戦後再建されました。そして20世紀の後半に複数のカレッジが統合されて新しいオスナブリュック大学として開学し、それ以来大学の事務局と一部の学部が城館を使用しています。城館の建物と付属の庭園は史跡保護の対象になっているそうで...オスナブリュック城館

  • ゴーデス城砦 ・ その2

    ミシュラン1つ星のレストラン〈ハルベデルス・ゲストハウス〉も、やはり昔の貴族の別荘でした。レストランの外観とその内部ある種の緊張感をもって行きましたが、温か味のある居心地のいい内装で、どこかの裕福なお宅に招待されているような気持ちになりました。30歳前後の男性と60歳代と思われる女性の給仕スタッフは気さくで、常連客との会話が弾んでいました。私の席落ち着く隅のテーブルでアペリティフの発砲リンゴジュースを飲んでいると、60歳代後半ぐらいのシェフが出てきました。驚いたことに、シェフ自ら手書きのメニューを説明して注文を聞くのです。7品から成る4月のメニューがあり、省く料理があってもいいし一品料理を付け足しても良いとのことでした。それで、私は〈チーズの盛り合わせ〉をパスして6品のメニューにしたのです。ノンアルコール...ゴーデス城砦・その2

  • ゴーデス城砦 ・ その1

    かつて西ドイツの首都であったボンのバード・ゴーデスべルクという市域は、私には、各国大使館員とその家族が大勢住んでいた、という認識のところです。ここの中心部、海抜122mの小さな山にゴーデス城砦の廃墟はあります。町から見あげる城塔・ありし日の城砦の模型ゴーデス城砦の建造は13世紀の初めに始まり、建築と拡張が段階的に14世紀まで続きました。その後、16世紀後半のケルン戦争のとき、30mの高さの城塔だけが破壊されずに残ったのです。そして19世紀の終わり頃に当時の皇帝ウィルヘルムII世がゴーデス城砦の廃墟を当地のコミュニティーに譲渡しました。コミュニティーは20世紀の中頃、その廃墟に広々としたレストランを開いて今日に至っています。最近では4年ほど前に城塔は修復されたそうです。実際に階段と坂の小道を登ってみました。...ゴーデス城砦・その1

  • 下関市

    下関ではまず船で5分の対岸、北九州市門司区に渡りました。門司港レトロという歴史的重みをもつ建造物を残してある観光地域があるので、そこを見学するためです。関門海峡・門司港レトロここで昼食を、と思っていると、いたるところに〈名物〉という焼きカレーを食べさせる店があります。本当にしつこいくらいです。「元祖」、「専門店」、「市公認」、「本家」、「オリジナル」などをレストランの名に付けて権威をもたせようとしています。こんな〈名物もの〉は絶対美味しくないから食べないぞ、と思っていたのですけれども、他にめぼしいものもないし、あのカレーの香りは食欲をそそるんですよね。試しに食べてみました。焼き青カレー妻が頼んだのは〈焼き青カレー〉。生卵を埋め込んだご飯にタイ風味満載の青カレーとたくさんのチーズと色々なナッツ類をかけて、そ...下関市

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