suishiこと中塚浩が撮影した1940年代〜80年代の東京の写真を中心に紹介するブログ。
中塚浩(suishi)(1916-1997) 中央大学専門部法学科、日本大学文学部芸術学科卒業後、1944年NHK入局。音楽資料整理・収集のエキスパートとして活躍。趣味はカメラで1940年代〜1980年代まで東京を中心に多くの写真を残す。
Twitter1か月限定でやってます。#1945年8月の家計簿 で毎日つぶやいています。 https://twitter.com/suishi1916
以前紹介した記事(2012.03.20 公開:昭和の交通標語) の現在の姿を撮影してきた。 飯田橋駅周辺のビルが増えたこと以外、あまり変わっていない風景。 交通標語は、1984年の「バイクもヘルメットをかぶろう!」という
いつもsuishi's photoを応援いただきありがとうございます。 毎月1回更新はしばらくお休みし、ツイッターアカウントで1日1枚suishi写真に専念します。 毎日1枚ずつsuishi写真をアップしてきたこ
【神奈川県大和市下鶴間 上:1979年 下:1999年】 私は1979年から1984年まで大和市つきみ野に住んでいた。住んでいたマンションの廊下から見えるお城のような建物は一体何なのだろう?と幼心に感じていた。お城にはロイヤルと書
【【上:1994年 下:2016年 岡山駅地下改札】前回に引き続き、岡山駅地下の今昔比較。 新幹線乗り場のある表玄関としての東口と、奉還町方面など下町風情を残した西口とを繋ぐ東西連絡通路。西口側には大規模な地下自転車置き場があるこ
suishiは晩年岡山に住んでいた。70歳代後半になると撮る写真の枚数も減ってきたが、撮る視点は昔と何も変わっていない。 前回の投稿で紹介した1994年のJR岡山駅地下改札の様子を大きな写真でもう一度。90年代の写真なんてまだ最近
2016.12.7 suishi生誕100年 なぜ写真を撮り続けていたのか
【1964年 カメラを下げるsuishi48歳】 2016年12月7日、私の祖父であるsuishiこと中塚浩が生まれて100年の日である。 先日、suishiゆかりのお寺である、岡山市北区の蔭凉寺で「中塚浩が遺した写真〜
suishiの遺品の中から1冊のノートが見つかりました。ノートは五線譜でピアノやバイオリン、合唱の曲が書かれています。これらの曲はすべてsuishi自作で、1940年から1943年、日本大学文学部音楽学科(現日本大学芸術学部)在籍時に作曲さ
【イベントのお知らせ】中塚浩が遺した昭和の写真〜戦前・戦後の東京の日常〜
今年は私の祖父、suishiこと中塚浩が生まれて100周年。来年年明けは没後20年となります。 私はsuishiが遺した膨大な量の写真の整理と管理をしています。その数おそらく2万枚以上。これらの写真を4年前からブログやツイッターに
【1963.11 方南町環七通り付近】1964年の東京オリンピック前後で東京の姿はガラっと変わった。この写真はオリンピック1年前、環七通りと方南通りを立体交差させるための工事の様子だ。 工事完成後の様子は以前投稿したのでそちらを参
【渋谷NHK:1975.3.14】suishiの職場、渋谷にあるNHKの会議室のひとこま。キャプションには「音楽家の呼び方会議」とある。一体何の会議なのだろう?と調べてみた。 NHKでは放送番組に登場する外国の音楽家や演奏団体の呼
写真上 1956年9月撮影写真下 2015年5月撮影 71年前の8月6日、広島に原子爆弾が投下され多くの尊い命が犠牲になった。広島平和記念公園には、原爆ドームを望むアーチ型のモニュメントがある。原爆死没者慰霊碑の名前で知られている
今から58年前の1958(昭和33)年7月11日、昭和天皇がsuishiの職場であるNHKを見学された。当時の新聞記事によると、陛下による最新のテレビ放送システムの見学がメインだったようだ。約1時間の見学時間の中で、ちなみにこの頃のNHKは
suishiの方南町シリーズ、今回は地下鉄開業当時の写真を紹介する。 方南町に地下鉄が開通したのは1962年3月のこと。地下鉄丸ノ内線の中野検車区と中野工場への引き込みも兼ねて、支線の形で建設された。支線建設当初は、中野工場すぐ近
杉並区方南町2丁目の今昔比較第2弾。前回1枚目に紹介した写真を180度向きを変えたのがこの場所。(元記事 http://suishi.jugem.jp/?eid=101)【杉並区方南2丁目 上:1964年 下:2016年】50年の月日で建物
先日、東京都杉並区方南町かいわいを歩き、公開してきた写真の今の姿を撮影してきた。まずこの1枚(元記事 http://suishi.jugem.jp/?eid=98 )【杉並区方南2丁目 上:1963年 下:2016年】1963年はまだ道路が
【1984年10月:国鉄鎌倉駅】1984年10月、現在も健在の国鉄鎌倉駅が新築された。時計台が印象的な古都によく似合うレトロ風建築だ。suishiは鎌倉駅の旧駅舎も記録に残している。【1973年4月:国鉄鎌倉駅】1984年の駅舎と雰囲気が似
4月4日の記事(ここはどこなのか?—グーグルだけで古写真の現地を特定—)で1960年代の方南町界隈の写真を紹介した。この写真は前回紹介したカラー写真と同じフィルムに撮影されたもの。【1964年:杉並区方南町 方南通り】この写真は現在地はどの
ここ数年、ジャンプをして写真を撮るのが若者の間で流行している。あるストックフォトサイトで「ジャンプ」と検索すると写真が46591点もヒットした。ジャンプをした人物をテーマにした写真作品も人気を集めている。青山裕企氏は「ソラリーマン」というシ
【1963年:新宿駅】1963年夏の新宿駅にて、妻と子の松本への旅行の見送りの1シーンである。気動車急行「アルプス」か「白馬」か「上高地」のいずれかだろう。気になるのは2枚目の写真の「1」という表示。その下には「指定席車」というサボが掲示さ
【写真1 1964年:杉並区方南町】舗装されていない緩やかな傾斜の路地。周りにはうっそうと茂る草木。その間から除く住宅。suishiが記録した写真のキャプションによると1964年の方南町とある。このブログでも何度か紹介しているが、1960年
今回は東京を離れ、suishiが伊豆半島の南端、静岡県下田市を訪問した際の写真を紹介する。【長楽寺(静岡県下田市):1963年】1854年3月31日、日米和親条約の締結により長い間鎖国状態にあった江戸幕府に開国を認めさせたアメリカのペリー。
【1965年:国鉄渋谷駅北口】ずーっと工事しているイメージの強い渋谷駅。地上に地下、そして地空、日々その姿をダンジョンのごとく複雑に変え続ける渋谷駅。しかしその変容を解説するのはこのブログの趣旨とは異なるので、今回はこの1枚のみを紹介する。
【1964年:新橋】suihiは何を写したかったのだろう?初め、中央のオレンジ色の露店でドリンクや焼き鳥なんか入れられてる紙コップみたいな装飾テントが目立つ喫茶店を記録したものかと思ったが、どうやら違う。その隣の「UMEZAWA VIOLI
1968年、日本中が「明治百年」に沸いていた。封建社会から近代社会への転換地点となった明治のはじまりから百年。ときは高度経済成長まっただ中「昭和元禄」とも呼ばれていた未来永劫バラ色に見えた時代。全国各地で「明治百年」を冠したイベントや事業が
【1964年5月:方南町周辺か?】ずいぶんと存在感ある電話ボックスである。歩道の3分の1を占め、左の工事現場と挟まれ歩道スペースを圧迫している。写真先の2人組の少女「道狭いからあなた先に行ってよ」と話している風でもある。この電話ボックスはボ
このブログでは何度か上野駅を採り上げている。マイカー普及前、移動の手段はもっぱら鉄道であった。特に盆暮れの帰省シーズンになるとターミナル駅は今では信じられないくらいの人でごった返していたという。上野駅もそんな活気ある駅のひとつ。新幹線開通前
suishiの資料の中にこのような冊子があった。表紙には「放送禁止音盤目録」とある。昭和19年4月現在で、作成は国際局業務部資料班。1ページ目を開くとまず、どの段階で放送禁止となるかの基準が書かれている。例題一、停止トアルハ放送全般ニ使用停
1945年8月の家計簿、1日早く知っていた終戦【戦後70年シリーズ1】
戦後70年シリーズをお送りする。1回目は「1945年8月の家計簿」。suishiは詳細な家計簿をつけていたということは以前書いた。今回注目したいのは1945年、昭和20年の家計簿。戦争末期で物資が無かった時代のものとは思えないほどしっかりと
今から58年前の1957年7月6日早朝、東京都台東区谷中にある天王寺五重塔から出火、またたく間に燃え、全焼した。その原因は放火による心中事件であった。suishiの戦前のアルバムに在りし日の五重塔の姿があった。【1940年:谷中天王寺】当時
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