「その2」のつづきです。伊勢亀山城本丸の北西にある二ノ丸帯曲輪跡に向かいます。 現在、かつての二ノ丸跡には小学校や市役所などがあって改変されてしまっていま...
「その1」のつづきです。標高は218mの小谷城城域に入りました。 麓から見えた看板。第3郭の南側に設置されています。 その看板の南側は、帯郭が東西に伸びて...
兵庫県加西市の中心市街地の北条町北側の標高218mの城山山頂に、かつて小谷城がありました。有名な北近江の小谷城は「おだに」と読みますが、ここは「こたに」と...
「その1」のつづきです。善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。 主郭東側の虎口跡。一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になって...
もすぐ桜の季節になりますが、今回は2年前の桜のシーズンに訪れた善防山城を攻めます。今回も赤松氏の城です。善防山城はかつての播磨国、現在の兵庫県加西市にある...
古代城と中世城が混在する城山城。 その3 <主郭・井戸跡・石塁>
「その2」のつづきです。石塁のあった城山城Ⅱ区からさらに南下します。 説明看板が現れました。現在地と書かれているところがこの場所です。広い削平地になってい...
古代城と中世城が混在する城山城。 その2 <石塁・門の築石>
「その1」のつづきです。城山城跡の北側城域に入りました。 堀切と土塁と書かれた看板があります。 まあ、たしかに堀切っちゃあ堀切かな。薄いけど。 土塁です。...
古代城と中世城が混在する城山城。 その1 <古墳群・登山道>
西播磨を南流する揖保川と、北西より合流する支流の栗栖川が形成する平野を東に臨む標高458mの亀山(きのやま)の山頂に、かつて城山城がありました。ここは、奈...
「その2」のつづきです。楯岩城本丸エリアに入りました。 ここは北西段曲輪のいちばん下の曲輪です。本丸エリアは、頂上の主郭を中心に北西南の三方に段郭が伸びて...
「その1」のつづきです。楯岩城三ノ丸エリアに入りました。本丸、二ノ丸、三ノ丸といった呼び方は豊臣時代以降のものですが、麓にあった縄張り図と鳥観図にそう書い...
今回も播磨国の赤松氏の城・楯岩城を攻めます。別名「太田城」ともいいます。播磨の山城のほとんどは、赤松氏の嫡流、庶流のどこかに関連していますが、ここは、赤松...
光る君へ 第10話「月夜の陰謀」 ~花山天皇の出家(寛和の変)~
久しぶりに大河ドラマのレビューです。第10話では花山天皇の出家事件が描かれましたね。寛和2年(968年)6月23日の丑剋(午前1時から3時)花山天皇が秘か...
播磨守護赤松氏の本城・置塩城。 その4 <Ⅲ曲輪群(三ノ丸北曲輪群)~Ⅶ曲輪群>
「その3」のつづきです。置塩城の南側と東側を攻略したので、次は西側曲輪群に向かいます。 誘導看板には「伝三ノ丸跡」とあります。 虎口っぽい切岸を登ると・・...
播磨守護赤松氏の本城・置塩城。 その3 <Ⅳ曲輪群(二ノ丸北曲輪群)~Ⅰ曲輪群(主郭)>
「その2」のつづきです。Ⅱ曲輪群(伝二ノ丸)まで攻略したので、続いてその北側のⅣ曲輪群を歩きます。 Ⅳ-3郭です。何か水たまりがあります。井戸跡でしょうか...
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「その2」のつづきです。伊勢亀山城本丸の北西にある二ノ丸帯曲輪跡に向かいます。 現在、かつての二ノ丸跡には小学校や市役所などがあって改変されてしまっていま...
「その1」のつづきです。伊勢亀山城本丸多門櫓台石垣を見て歩いたので、そろそろ櫓に入りたいと思います。 櫓台に登る雁木。これは往時のものなのか、それとも後世...
今回は三重県亀山市にある伊勢亀山城跡を歩きます。「亀山城」という名称の城は、全国にたくさんありますね。有名なところでは、明智光秀の築いた丹波亀山城や、奥平...
もうすぐ紅葉が見ごろの季節ですね。そこで、今回は約2年前の令和4年(2022年)11月27日に訪れた紅葉が美しい摂津池田城です。池田城は室町時代から戦国時...
「その2」のつづきです。佐土原城中の道登山道を進んで、切通にやってきました。 切通です。これが見たかった。 両側は崖のようですね。お隣の薩摩のお城と同じく...
「その1」のつづきです。前稿で麓の遺構を歩いたので、佐土原城の山城に登る中の道登山口からのスタートです。 登山口に設置されていた説明板。 赤色立体図の案内...
宮崎県日南市の飫肥城を訪れたあと、夕方の飛行機までまだ時間があったので、空港のある宮崎市を通り過ぎて北上し、佐土原城に向かいました。ここも、飫肥城と同じく...
「その3」のつづきです。飫肥城城跡公園内はひととおり歩いたので、再び大手門を出て歩いてみました。 大手門の南側の通りは武家屋敷通りと呼ばれています。この日...
「その2」のつづきです。飫肥城旧中ノ丸跡(新本丸跡)をあとにして、旧本丸跡に向かいます。 石段を登ると、ドドーンと大きな枡形虎口があります。おそらく両側の...
「その1」のつづきです。前稿で犬ノ馬場から旧中ノ丸南門を進みましたが、もう一度犬ノ馬場に戻って、今度は西側の門から旧中ノ丸に入ります。なぜ中ノ丸に「旧」を...
過日、仕事で宮崎県に出張の機会があり、せっかく宮崎まで来たので、寸暇を惜しんで城めぐりに。出張と城めぐりはセットです(笑)。この日はあいにくの雨だったので...
「その1」のつづきです。二曲城主郭まで登ってきました。二の郭から主郭への道中も、小さな削平地が複数あったようなのですが、激藪で確認できず。主郭への虎口。主...
能登七尾城跡からの帰路、石川県白山市にある鳥越城跡に立ち寄ろうと思い立って高速を降り、30分近く車を走らせて道の駅「一向一揆の里」にたどり着いたのですが、...
「その5」のつづきです。七尾城安寧寺跡からさらに北へ向かいます。 七尾城北側の袴腰と沓掛との間の堀切。沓掛場は登城のための衣装を調えたと言われる場所です。...
「その4」のつづきです。七尾城三ノ丸から高い切岸を降りて、北西の安寧寺跡に向かいます。 安寧寺跡です。その名のとおり、ここにかつて安寧寺という寺院がありま...
「その3」のつづきです。七尾城本丸まで制覇したので、「その2」で見た再び遊佐屋敷跡と桜馬場に戻って、さらに北側の城域を目指します。 写真は桜馬場から北へ進...
「その2」のつづきです。七尾城本丸に登ってきました。 本丸には、「七尾城址」と刻まれた大きな石碑があります。裏面を見ると、「昭和十七年仲秋」とありますから...
「その1」のつづきです。能登七尾城調度丸から見た桜馬場北側4段石垣からスタート。 圧巻のロケーションですよね。セットバック石垣は高いところで4mに及びます...
金沢城を訪れた翌日、能登まで足を伸ばして能登畠山氏の居城・七尾城を訪れました。「七尾」という地名は、七尾城が築かれた七つの尾根に由来すると言われます。それ...
「その7」のつづきです。金沢城西側の兼六園を歩きます。説明するまでもないですが、水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園のひとつですね。 江戸時代の代表的...
慶長16年(1611年)3月28日、古希を目前にした徳川家康は、京の二条城にて19歳の豊臣秀頼と対面しました。関ヶ原の戦い以後、わずか65万石となり、実...
「その1」のつづきです。田丸城三ノ丸から西側を見上げると豪壮な石垣群が目に入ります。石垣を見て歩きましょう。 写真は本丸東下の石垣群。櫓台のような野面積石...
伊勢神宮を抑える要衝として築かれたという田丸城。太古の昔より、この地は伊勢神宮への参宮本街道と熊野街道の分岐点として栄えました。今回はその田丸城を歩きます...
関ヶ原の戦いに大勝利を収めた徳川家康は、慶長8年(1603年)2月12日に朝廷より征夷大将軍の職に任ぜられ、事実上、江戸を中心とした武家政権を開始しまし...
「その5」のつづきです。「その2」で見た松阪城裏門の南側にある御城番屋敷跡にやってきました。 ここはかつて、松坂城三ノ丸でした。 御城番屋敷は、松坂城を警...
「その4」のつづきです。松坂城本丸西側にある、きたい丸を歩きます。 きたい丸とは、古田重勝の子である古田重恒の幼名、「希代丸(稀代丸)」に由来するといわれ...
「その1」のつづきです。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、東西両軍15万人余の軍勢が衝突した関が原の戦いは、わずか半日、徳川家...
関が原で東西両軍が激突する4日前の慶長5年(1600年)9月11日、徳川家康は清州に到着し、翌12日もそこに逗留しました。ところが、中山道を進軍している...
「その3」のつづきです。松坂城本丸下段中御門跡に戻ってきました。 「その3」の冒頭で見た中御門は、さらに本丸上段に続いています。 まずは右折。 そして左折...
「その2」のつづきです。いよいよ松坂城本丸へ向かいます。 二ノ丸から本丸へ向かう中御門です。 ここを訪れたのは令和4年(2022年)7月2日。このとき中御...
阪神タイガースが38年ぶりの日本一になりましたね。あっ、38年ぶりのAREのAREですか(笑)。前回の日本一のとき18歳だったわたしも、56歳になってしま...
徳川家康とともに会津の上杉景勝討伐に向かった諸将に、上方で石田三成が挙兵したとの報せが入ったのは、慶長5年(1600年)7月20日過ぎのことでした。この...
「その1」のつづきです。松坂城外周を歩いて、再び表門跡に戻ってきました。 表門です。大手門ではありません。古地図の縄張り図によると、大手門はこの北西の水堀...
三重県松阪市といえば松阪牛・・・ではなく、松坂城です。松坂城は近江国日野城よりここへ移ってきた蒲生氏郷が築いた城です。 表門前の石碑には「松坂城」と刻まれ...
石田三成の失脚から約半年後の慶長4年(1599年)9月、今度は徳川家康を暗殺しようとする企てがあることが発覚します。その首謀者は金沢に帰国している前田利...
「その2」のつづきです。津城本丸跡の一角に、藤堂高虎の騎馬像があります。 藤堂高虎は、弘治2年(1556年)に、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に...
「その1」のつづきです。津城内堀外周をめぐったので、本稿では本丸内を歩きます。 写真は前稿の冒頭でも紹介した本丸北東の丑寅三重櫓。藤堂高虎が築いた櫓とは似...
豊臣秀吉の喪は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮に10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(15...
前稿で藤堂高虎が築いた伊賀上野城を歩きましたが、同時進行で高虎が伊勢国に築いた城が、現在の三重県津市にある津城です。高虎は関ヶ原の戦い後の慶長13年(16...
「その3」の続きです。伊賀上野城本丸西側を制覇したので、続いて本丸東側の城代屋敷跡を歩きます。ここは藤堂高虎が改修する以前は、筒井氏の城がありました。その...