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2008/07/22

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  • あばたも

    あばたもえくぼ。恋する者の目には、相手のあばたでもえくぼのように見えてしまう。贔屓目に見れば、どんな欠点でも長所に見えてしまうものだということの喩えだ。といっても、土木施工においてはそうはいかない。「あばた」は欠陥。しかも施工不良がもとで生じる欠陥のひとつだからだ。こと土木の世界では、どこからどう見ても「えくぼ」に見えることはない。先日、お城下でひらかれた「よいコンクリート」をつくる施工技術の講習会に行ってきた。斯界の第一人者であるTさんが来ると聞き、自ら志願をしての参加だ。特段あたらしい発見があったわけでもなく、基礎技術を学び直したという形だが、歳を取ると、覚えていたことを次から次へと忘れていくのだから、こうやって再確認するのもわるくない。特にそれが基礎的なことならなおさらだ。途中、施工不良による不具合...あばたも

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その18 ~令和6年のファックス通信~

    ある人のデスクに置かれていた一枚の紙は、どうやらファックスで送られてきたもののようです。表題に惹かれ何気なく内容を確かめていたぼくの目が、次の一文に釘付けになりました。「申込については、下記URL(申込みフォーム)から必要事項を入力のうえ、◯月◯日までに送信してください」文末には、そのサイトのURLとQRコードが貼ってあります。はて?これを受け取った受信者各自は、いったいどのような対応をするのだろうか?想像をめぐらしてみました。紙に記載されたURLをひと文字ずつ入力してサイトへ飛ぶ?まさか、スマホで写真を撮ってURLのテキストをクリックするとサイトへジャンプするという技を知っていたりするのだろうか?どうしてもぼくの想像は、ファックスというその情報伝達手段ゆえに、受け取り手を勝手に情報弱者と決めつけてしまっ...〈私的〉建設DX〈考〉その18~令和6年のファックス通信~

  • 不「不惑」

    どうも勘違いをしていたようだ。『論語(為政)』に記された孔子の言葉、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(みみした)がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えずにおける年齢の解釈を、である。この言葉に対して、ぼくが次のように書いたのはつい一週間ほど前のことだ。古代中国における平均寿命が、いったい幾つなのか、今となっては知る由も調べようもないが、ごく大雑把な感覚としても、そこにおける70を現代の90と置き換えても、なんら不都合はない気がするし、むしろ、プラス20ぐらいがちょうどよい加減のような気もする。(中略)となると、まもなく60と7つを数えるぼくの場合は、「天命を知る」少し前ということになろうか。つまり、そこになってはじめて、自...不「不惑」

  • ぼくと娘とヒノショーヘイ

    「火野正平に似ている」これまでに幾度となくそう言われてきた。以下は、そんなぼくとぼくの家族のあいだで、かつて繰り広げられた「ひの的エピソード」だ。******「宅急便が届いちゅうよ」「誰から?」「自分がなんか注文したがじゃない?」「いやー覚えがないなぁ」大きなその荷物の送り先を確認しようと持ってみると、やけに軽い。「これだから、Amazonってやつはイヤなんだ」これまでに、いく度口にしたか知れない独り言をまたつぶやきつつ、送り先を読もうとして愛用の遠近両用メガネをかけていないことに気づく。まこと年寄りというのは面倒くさい。メガネをかけて仕切り直すと、その大仰な図体に比して異様に軽い荷物は、予想に反してAmazonではなくZOZOからだ。表書きには、首都圏に住む次女の名前が記されていた。さては…「父の日のプ...ぼくと娘とヒノショーヘイ

  • 16.43835616

    今朝、ブログ編集画面を開くなりまっ先に、左上隅にあるブログ開設からの日数を表示する箇所に目がとまりました。ふだんなら気にも留めないところです。だなのになぜ・・・理由は、考えるまでもなくすぐに判明しました。ブログ開設から6000日。たまさかの、きれいに丸まった数字にふと思いつき、365で割ってみました。答えは、16.43835616。かつてのように「ほぼ毎日」となることは二度と再びないでしょうが、もう少しつづけようと思っています。以上とりあえず、ご報告まで。16.43835616

  • 土木と濁音

    2つの語が結びついて1つになるとき、後ろにつく側の頭の静音が濁音に変化することを連濁と呼びあらわす。手紙(てがみ)、日差し(ひざし)、戸棚(とだな)、人々(ひとびと)などなど。いくらでもその例が思いつく。といってもそれは、あくまでも原則であり、例外もまた多くある。その例外について、ひとつの法則を見つけ出したのは、明治政府に「お雇い外国人」として招かれたベンジャミン・スミス・ライマン(本職は鉱山学者)。後ろの単語に濁音がある場合には連濁が起きないという、いわゆるライマンの法則を発見した。はる+かぜ≠はるがぜ→はるかぜ(春風)おお+とかげ≠おおどかげ→おおとかげ(大蜥蜴)もっとも、本邦では既に賀茂真淵や本居宣長によってこの法則が見つけられていたらしいのだが、本題ではないので、ここでは触れるだけにしておく。とこ...土木と濁音

  • いごっそう〈考〉

    先日の高知新聞にあった「球児監督粋な振る舞い」という記事は、安芸球場で秋季キャンプ中の阪神タイガース藤川球児監督(高知市出身)が、地元企業や飲食店の協力を得て、選手や球団スタッフ、報道陣らに高知県地場産のごちそうを提供しているという内容で、その意図について「人をおもてなしする高知の文化は、僕も大切にしているところ。メディアの方々には少しでも楽しんでもらいたいし、選手やスタッフには癒やしの時間になってくれればうれしい」という藤川監督の言葉が紹介されていました。それ自体はじつにけっこうなことで、文句をつける筋合いのものではないどころか、むしろ拍手をもって称えるべきものでしょう。ところがぼくは、思わず「?」となってしまった。その原因は記事中、某スポーツ紙記者が言ったというこの言葉です。「監督のいごっそうな心意気...いごっそう〈考〉

  • ひとは人生で平均4回しか引っ越ししない、ってホントか?

    「ねえ知ってる?ひとは人生で平均4回しか引っ越ししないんだって」というCMをはじめて目にした。ホンマかそれ。と思ったぼくがさっそく検索したのは言うまでもない。国立社会保障・人口問題研究所が5年に一度行っている人口移動調査の最新データ(第9回、2023年)の結果によると、日本人の平均引っ越し回数は3.24回。男女別にみると、男性が3.29回に対し女性が3.19回と男性の方がやや高くなる傾向がみられる。つまり、川口春奈さんには申し訳ないが、「ひとは人生で平均4回しか引っ越ししないんだって」という彼女の言葉は正しくなく、ホームズのあのCMは、「ねえ知ってる?ひとは人生で平均3回しか引っ越ししないんだって」と修正されなければならない(笑)。年齢別にみると、20歳代前半から40歳代前半にかけて急速に増加し、60~6...ひとは人生で平均4回しか引っ越ししない、ってホントか?

  • 人間は考える葦であった

    ******たとえば、かつて編集者のみなさんと会食中に、お定まりのダイエット談義となり、ついつい話の流れで「デブ」という言葉の語源に及んだことがあった。(中略)しかし、このごろではどうなるかというと、考える間もなく一斉に、ロボットの知識を頼るのである。つまり、考える前に調べてしまう。デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが、どうやら進化を遂げたロボットは、世の中の疑問のたいていをたちまち解いてくれるらしい。はっきり言って、つまらん。それではまるで、ろくに考えもせずにクイズの解答を見てしまうようなものではないか。あるいは卑近なたとえをするなら、翌日の新聞でレース結果を見て、同時にあっけなく散財を知るようなものではないか。科学者はどうか知らぬが、文科系の思考回路を持つ人々は、結論に重きを置かないものであ...人間は考える葦であった

  • 惑い惑わされて

    孔子の時代ですら50才で天命を知るくらいですから、いまの長寿時代なら60才くらいで不惑、70過ぎてからようやく天命を知るのかもしれません。わたしも70代に向けて迷走、道草を楽しみたいと思います。ぼくよりひと回りほど年下の敬愛してやまない知人が、フェイスブックに投じた文章に、我同意せりとついつい膝を打った自分自身に思わず苦笑。それが20年も前ならば、「チャンチャラおかしいや、老兵は消え去るのみだ」と鼻で笑っていたかもしれないことを思えば、まことに身勝手なことこの上ない。しかし、恥かきついでに言わせてもらえば、その位置に立たなければわからないことが確かにある。年齢と、それを重ねたことによってちがってくる感覚や自己評価などは、その最たるものかもしれない。ちなみに、孔子が七十余年の生涯を閉じたのは、今からざっと2...惑い惑わされて

  • 宗旨替え

    なぜ動画?と思っていたのは初めのころだけで、すぐに、動画でされたそれには心がシャッターをおろしてしまい、まったく脳内に届かなくなってしまった。チュートリアルというかハウツーというか、どの表現が正しいのかわからないが、動画でツールやアプリケーションの使い方を教える、あ、そうそう教材ビデオ的なものに対してだ。それでも、先生役が顔を見せて説明する形式なら、すぐ退屈はするが、受け入れられないことはない。しかし、PC画面だけを見せられながら操作手順を説明する類のものは、まったくといってよいほど届かない。なのに、ぼくが発するその手の疑問や質問に答えるのにも、動画でもって返事をされることがある。「動画、アップしときましたから」なんだかなぁ、と思いながら、その労を考えると無下にするのもしのびなく、向き合ってみるにはみるが...宗旨替え

  • Take it easy

    長いあいだ稿を投じなくても、このブログのアクセス数には、更新の有無によってそれほど大きな差異があるわけではない。具体的には100uuほどもなく、数十といったところか。いや、日によっては、何もしていないのに、毎日更新しているときより多いアクセスだということもある。という事実から、ここを目当てで訪れてくれる方たちの数を大まかに推定することができるのだが、だからといってがっかりするどころか、相も変わらず付き合ってくださる奇特な方たちに対しては感謝の念しか湧いてこない。そこからわかるのは、検索ワードからここへ辿り着いている人が、比較として多いということだ。16年半に渡って有象無象を書き散らかしてきた結果、けっして爆発的とはならないものの、それなりにヒットする記事がこの場所にはあるということの表れだ。ひとえにそれは...Takeiteasy

  • 他者と生きる

    ひとの行為が意味をもつためには、誰かの反応が必要です。誰かの反応があったとき、自分の行為が他者にどのような影響を与えたのかがわかり、その結果として自分にとっての意味が生まれ、そうやって生み出された行為の意味は、それへの反応、またさらなる反応という反応のキャッチボールが、次の行為、次の反応を引き出し、あらたな意味が付与されながら変化していきます。それはすなわち、あるひとの行為がもつ意味は、他者の反応に依存しているということに他なりません。そこにあるのは相互作用です。そのなかでひとは、自分の行為の意味を見つけたり、自分の行為に意味を見出したりするのです。たとえば誰かに喜んでもらおうとしたとします。「喜んでもらう」ためにしたその行為は、自分自身の存在意義を他者との関係性のなかで見出すためのひとつの方法であり、他...他者と生きる

  • 仙人

    一部の人たちから「師匠」と呼ばれるようになって久しい。もちろんそれは、いわゆるニックネーム、愛称のようなものであり、当然ながら、ぼくのことを本当に師であると思い定めてくれた人は、そのうちのごくごく僅かな人たちにすぎない。呼ばれはじめた当初は、なんだか尻がこそばゆく、ついつい苦笑いを浮かべてアタマをぼりぼりと掻いていたものだが、いつしかそれにも慣れ、今では「師匠」と呼ばれると、「ハイ」と返事をしてしまう。いやはやどうにも困ったものだが、それはそれで御愛嬌の部類だろうと観念している。そんなぼくを「仙人」と呼ぶ人がいる。はじめてそう呼んだのは、とある地方自治体の土木部幹部だった。いくらなんでも「仙人」はないだろうと、聞こえないフリをしていた。その後もそれはつづいたが、ぼくのどこをどう見たらそのような表現となるの...仙人

  • 螺旋式

    日曜の朝は、しばしば『ボクらの時代』というテレビ番組を観ます。観るか否かの判断は、その出演者が既知である場合は誰が出ているか、また未知の人であるときは、それが何を生業としている人間かによります。20日ほど前は、山田孝之、仲野太賀、岡山天音という3人の男性俳優がそれでした。仲野くんはぼくが気に入っている役者です。観ない手はありません。以下、10月13日放送『ボクらの時代【山田孝之×仲野太賀×岡山天音】』より一部分の文字起こしです。******山田何か新しいことを挑戦するっていうときに、やっぱり、特に今の時代はネット、SNSがあるから、批判の声を恐れて行動できないことが多いんだけども、でも、初めてやることって下手くそで当たり前だと。だから、とりあえずやってみたらいいじゃん。で、何をやったって「つまんねぇ」とか...螺旋式

  • 劣化と付き合う

    自信家でした。もちろん人というものは、ある一面だけで成り立っているものではなく、ましてやぼくは、たぶん他人よりも多面性があると自認しているのですから、自信をもてない自分というものを内に抱えながらではあったものの、基本的には自信家でした。その最たるものは記憶力です。誰にも負けない、というほど世間知らずではありませんが、そんじょそこらの連中が束になってかかってきても、おいそれと勝ちは譲らないほどには自信がありました。しかし、すでにお気づきのように、すべて過去形。近ごろのぼくときたら、往時をしのばせる欠片もなく、「認知症になりかけているのでは?」と感じることもしばしばです。といってもそれは、高齢者となればたぶん大方の身の上に起こるものの範疇を出てはいないでしょう。しかし、かつてのぼくを知るぼくだからこそ、その落...劣化と付き合う

  • どっこい生きている

    近ごろ流行りのNetflixというやつに登録した。『極悪女王』(白石和彌監督)を観るためだ。全5話を観終わった流れで、間髪を入れず『1985年のクラッシュギャルズ』(柳澤健著)を読んだ。ふだんは下線、折る、書き込み等々なんでもありで、読了するころには購入時の見る影もなくなってしまう本たちが、今回にかぎってはほぼそのままなのは、『極悪・・・』をべたぼめしていた息子や娘が読むかもしれないと考えてのこと。だが、そんな目論見も、「あとがき」になってあえなく潰え、思わず知らず端っこを折ってしまったページに書かれていたのは、こんな文章だった。******人の心を動かすには、その人がその人自身になるしかない。欠点も、弱点も背負った上で、「私は私です」と、開き直ったその人自身を、見せていくしかないのだと思う。(雨宮まみ期...どっこい生きている

  • 会社のため

    数ヶ月前、十数年ぶりに会った知人と談笑中のことです。「会社のためを思ってやっていたら、いつのまにかクビになっていた」そう話す彼は今、フリーランスです。その場にはもうひとり。これまた数年ぶりに顔を合わす知人がいました。「ぼくも同じ。会社のためにがんばってたけどクビ」顔を見合わせて笑うふたりに挟まれたぼくはしかし、軽く苦笑いを浮かべただけでした。彼らに心底同意をすることができなかったからです。「会社のため」と語る彼らの言葉に含意するのは正義です。しかし、その形態が解雇なのか退職勧告なのかはわかりませんが、「クビ」を突きつけた側はそれを不義ととった。正義を善意、不義を悪意と言い換えてもかまいません。いずれにしても、正義と不義、善意と悪意は対極にあります。正反対です。今風に言えば真逆です。なぜそう受け取られてしま...会社のため

  • ボツの逆襲

    朝、起き抜けにアイフォンにあらわれた現場ではたらく男の写真に、「ほぉ、いいじゃないか」と独り言ち、あらためてながめてみる。全体を見る。ディテールを見る。申し分ない。「あれ?ひょっとしたらこれは」と思い、インスタグラムの過去投稿を探してみる。案の定、ない。「はて、オレはなぜこれをボツにしたのだろう?」と首を傾げ、あらためて見てみる。やはり、まごうことなきぼくの好みだ。今となっては、確たる理由は定かでない。たぶん、そのときに撮ったであろう一連の写真群や、前後の投稿とのバランスなどを考慮した結果、「ボツ」という判断が下ったのだろう。インスタグラムを主戦場(というか今のところ、ほぼそれしかない)とするぼくの場合、よくある話だ。そして、その時々の主観でハジかれたもの(たとえ客観的に判断したにしても主観を排除すること...ボツの逆襲

  • その怒り、いったん棚上げしてみたら?

    「急に怒り出すというけれど、それまで我慢してたんだよ」ある知人がSNSにアップしたひと言です。その彼にはじつに申しわけないと思いつつ、ついつい吹き出しそうになったのは、それがかつての自分だったからに他なりません。「急に怒り出した」と感じたのは他者です。「それまで我慢してた」は自己分析です。他者の関心事は、「怒り出した」しかも「急に」という現象にあり、それに伴って生じる感情がポジティブなものとなる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。対して「我慢してた」自分は、それゆえに、怒りの発露を当然のもの、または仕方がないものとして捉えています。この場合、我慢という自らの内的行為は大きなポイントでしょう。ですから、むしろ悪いのは、それまで我慢させていた相手であり、抑えこんでいた怒りを沸点まで上げ、表出せざるを得な...その怒り、いったん棚上げしてみたら?

  • 口中にて

    初めて見聞きする、という言葉と出会うことがよくある。その度に「知らなかった」と己の浅学を嘆くのだが、考えてみれば、SNS全盛の今は、日々あらたな言葉が生み出され、人の目に触れるところとなっているのだから、大方の場合のそれは、別に嘆くことはないし、ぼくの学びが浅いわけでもない。そんななか、先日聞いたのが「口中丼」。ふむ。初耳ではあるが、意味は容易に想像できる。そして実際、そのとおりではあった。白飯を主食とし,主菜,副菜,汁から構成される日本の食事様式は室町時代に完成した(らしい)。その基本的な食べ方は、飯と汁、飯と菜を交互に食べていくというものだ。つまり、飯と汁や菜を交互に食べ、口の中に残る汁や菜の味で、味が薄い白飯を食う。この食べ方を「口中調味」と呼ぶ。いつからそう呼ぶようになったかは定かではない。定説に...口中にて

  • 私的「読む」の現在地

    ぼくの「読み」が、ほぼ電子書籍になってからどのくらいの月日が経ったのでしょう。探し出すあてもないのですが、いずれにしても、十年ではきかないはずです。しかし、最初にそれをしている人を見たのは、しっかりハッキリと覚えています。山手線の車内でした。席に座ってiPadで本を読んでいるのは、四十代とおぼしき男性でした。「ふ~ん、これが噂の電子書籍というやつか」指でスワイプしながら本を読んでいる男を、珍奇なものを見るかのような目で見ていたであろうぼくの手には新書(もちろん紙です)がありました。『日本辺境論』(内田樹)です。その男の姿は、多大な影響を受けた新書の外観とともに、ぼくの網膜にしっかりと刻みこまれ今に至っています。「やっぱ紙やないと」そう思ったぼくの「読み」が、その後、ほぼKindleに変貌してしまうとは、ま...私的「読む」の現在地

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その17 〜新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です〜

    三遊亭圓丈発「新作を演じるのに必要なのは、プロの芸と素人の発想だ」3年前に亡くなった三遊亭圓丈の言葉だそうです。現代新作落語のパイオニア(同じ「新作」でも圓丈以前と以後では大きく異なっているような気がするので)であり旗頭であり大家として、あとにつづく噺家たちに大きな影響を与え、一部では神のように崇め奉られるほどの存在だった圓丈がどのような意味でそう言ったのか、今となっては定かではありませんが、ぼくはこれを「芸」=「技術」と置き換えることで理解し、耳にするなり、ぼくが求めてきたのはまさにそれなのだと膝を打ちました。もちろん「芸」は技術を含みはしますが、「技術」のみをもって「芸」だとするのはあまりにも乱暴にすぎる解釈でしょう。技術はあくまでも芸の一部であり、「芸=技術」でもな「芸く技術」でもなく「芸>技術」で...〈私的〉建設DX〈考〉その17〜新しい技術を活かすのはプロの技術とシロートの発想です〜

  • キレる老人

    きのう受講した、とある講習会でのことです。講習会といっても、業界で通常よくあるような技術者もしくは技能者を相手としたそれではなく、ある「業」の登録資格にからむものであったがゆえに、受講者の年齢層も比較的高いように見受けられました。おそらく、4時間という限られた時間内で定められた内容のすべてを伝えるように命ぜられているのでしょう、おまけにそのあとには試験がついているときているものですから、講師はおそろしく早口で、そのなかに重要なポイント(つまり試験に出る)の伝達が入るのですから、「聞き逃すまいぞ」とばかりの受講生たちの真剣さが会場に充満していました。さてそれは、始まって1時間も経っていたでしょうか。「ここ大事ですからね。チェックをしておいてください」講師が言いました。間髪を入れず会場の静寂を打ち破るような声...キレる老人

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その16 ~揺り戻し~

    YAHOOニュース9/176:44配信より******【シリコンバレー共同】米IT大手アマゾン・コムは16日、従業員に原則として週5日、職場に出勤するよう要請したことを明らかにした。来年1月からこのルールの適用を開始する。アンディ・ジャシー最高経営責任者(CEO)は従業員宛ての書簡で「企業文化と社内チームを強化するため」と狙いを説明した。******Amazonでは今、少なくとも週3日の出勤が義務づけられているのだといいます。それに2日をプラスする、つまり、コロナ禍を契機として全世界にリモートワークが広がる以前の状態に戻すということ。しかも、職場に各自が作業をするためのデスクを割り当てる制度も復活させるというのですから、「へぇーあのアマゾンがねえ」と思わず二度読みをしたことでした。同じく共同通信が、4月2...〈私的〉建設DX〈考〉その16~揺り戻し~

  • 発気揚々

    ♪これがネたまるかネよんべの夢にねーとチャッチャッ好きなあのこの手をひいておんしゃなんならおらシバテンよおんちゃん相撲とろとろうチヤチャッチャッはっけよいよいはっけよいよいはっけよいよいはっけよいよいソレのこったのこったまだまだのこった♪「しばてん踊り」の一節です。シバテンとは高知県や徳島県に伝わるカッパのような姿形をした妖怪のことで、全身が毛深く、背は子どものように低いが怪力の持ち主です。だからでしょうか、その最大の特徴はといえば、人間を見ると相撲をとろうとすること。「おんしゃなんなら(オマエはなに?)」という問いかけに対し、「おらシバテンよ」と名乗り、間髪を入れず「おんちゃん(おじさん)相撲とろ」と挑んでくる上記の歌詞は、まさにその様子をあらわしたところです。といっても、土佐に古くから伝わる妖怪シバテ...発気揚々

  • 爺と少年

    夏のあいだぼくに課せられた任務のひとつに孫との川遊びがあります。やらなければならないことは幾つもあるのですが、そのなかでも重要項目として位置づけされるものです(ちなみに誰に頼まれたわけでもないのですが)。「爺いの出る幕ではないのでは」とお思いの方もたくさんいるでしょうが、そこはそれ、今という時代の子どもたちが相手なれば、昔なら先輩たちの姿を目で見て覚えたようなことでも、大人がていねいに教えてやった方がよいことが多々あります。見るところ、「川で遊ぶ」というのはそのうちの一つでしょう。そう思うがゆえに自らにその任務を与え、数年が経ちます。もちろん、相手は年々成長し、こちらは年々衰える。これが自然の理なのですから、いつまでもつづけることはできないでしょうが、ただ今のところは、まだまだ大丈夫。ということで、淵、瀬...爺と少年

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その15 ~バランシングバー~

    ******中島西部邁先生がよく言っていたのは、現代というのは非常に変化が激しいので、まさにサーカスで綱渡りをしているようなものである、と。綱渡りをするときに、非常に重要なのは何かというと、あのバランシングバーである、と。あの棒というのが、死者からやってきた「伝統」とか「基準」というもので、これがあるがゆえに、細い、危なっかしい道を渡ることができる。みんな、バランシングバーには意味がないというふうに思いがちだけど、これが大切なんだと言っていたんです。(『ええかげん論』土井善晴、中島岳志、P.160)******公共建設業におけるDXを考えれば考えるほど、アナログを捨ててはいけないという思いが強くなってきているぼくには、このメタファーが腑に落ちます。そもそも、デジタルとアナログを二項対立的な図式で語るのが、...〈私的〉建設DX〈考〉その15~バランシングバー~

  • 心変わり

    そのメッセージが届いたのは4年前の夏の夜でした。届け主は14歳。中学2年生です。インスタグラムメッセージ上での長いチャットをかいつまみ、最重要事項だけピックアップすると、「高校を卒業したら礒部組に入りたい」と、そういう内容です。「待ってます」と返したぼくも、さすがにそのことをずっと覚えておけるはずはなく、いつしか忘却の彼方へと消え去っていました。突然思い出したのは数日前です。あの子は今、何年生だ?足し算をすればすぐにわかることですが、念のため指を折って数えてみると、ちょうど高校3年生です。さっそく連絡をとってみました。「進路は決めましたか?」しごくあっさりと、県外の建設会社に就職する旨の返事がありました。「がんばりや」と返したぼくはもちろん、彼の心変わりを責める気はありません。なんとなれば、「歳歳年年人同...心変わり

  • プロだぜ俺は

    渦中の兵庫県知事が、予約制夕食を当日に取りたいと言い出し、断られたあげくに激怒してこう言ったというニュースが全国を駆けめぐりました。「オレは知事だぞ」真偽のほどは定かではありませんが、本当だとしたら、それはもうタチの悪い冗談としか受け取れないソレを指して、ある芸人が「そんな言葉は人生で一回も使わない」とコメントしたとか。「そうでもないぞ」とぼくは思います。その手の言葉や態度を何度か見聞きしたことがあるからです。たとえば「オレは社長だぞ」すぐに幾人かの顔が思い浮かびました。その他、権力をもつ人が言いがちなのがその言葉「オレは◯◯だぞ」です。一方、ただの平社員が「オレはひらだぞ」と大見得を切ればそれはそれで格好がよいのですが、そんな人はそうそう存在するものではありません(と言いつつ、ぼくの親父がそうだったこと...プロだぜ俺は

  • 贅肉

    Audibleで藤本義一の講演録『言葉と文字』を聴き、打ちのめされたのは先月の初めでした。にもかかわらず、それから3度も繰り返して聴いてしまったのは、そのショックが真っ当な言説を聴いたがゆえのものだったからでしょう。言葉と文章はちがうと氏は言います。例として挙げたのが次の言葉です。私は妻と結婚して三十年がたった。氏によると、これは文章ではなく言葉なのだそうです。理由は、贅肉がつきすぎているから。ではどうすれば文章となるのか。この言葉を例題として、段階的に贅肉を削ぎ落としたのが次の流れです。まず「私」という主語を切る。妻と結婚して三十年がたった。しかしこれではシロート以下だそうです。次にするのは「妻」を切ることです。結婚して三十年がたった。これがわかるのが、ものを書き始めてだいたい5年ぐらい経ったころだとか...贅肉

  • おじさんたちの「ちゃんづけ」

    つぐみちゃん月に一度の社内安全パトロール日は、同時に数少ない外食ランチの日でもあります。先月のそれは、ぼくよりひとつ年上の労働安全コンサルタントさんと、四十代前半の男女4名、計6名が参加して先々週の半ばに行われました。問題が起こったのはその席でのことです。向かい合った前期高齢者ふたりの会話は、時節柄もあって、自然とパリオリンピックの話題になりました。「つぐみちゃん、帰って来るらしいねえ」「えらかったねえ、つぐみちゃん」4名のうちのひとりが口をはさみます。「誰ですか?つぐみちゃんって」ぼくとコンサルタントさんは、思わず「え?」という顔を見合わせ、ほとんど同時にその声の方を向きながら、ほぼ同じタイミングでこう言いました。「つぐみちゃんはつぐみちゃんよ」「だから誰ですか?」どうしようもない年寄りたちだという顔を...おじさんたちの「ちゃんづけ」

  • 「慣れ」の力

    昨夜、たてつづけに鳴ったLINEの着信音に、早めの就寝を決めこんでいたぼくが起こされたのは10時になる前でした。目を閉じて1時間も経っていないというのに、なぜだか不機嫌にもなることなく、パッチリと目が覚めたので確認してみると、娘からです。送られてきたのは、400字詰め原稿用紙3枚に綴られた孫の読書感想文でした。最初の3割ほどは、きれいな字で書かれており、文章もまあまあしっかりしているのですが、集中力がつづかなかったのか、あるいは気力の限界ゆえか、その後がいけません。見るからに、そして読めばなお、どんどんとまとまりのない文章になっていくのがあきらかでした。とはいえ爺バカです。内容はわるくないのになあ。ついつい身びいきしたくなってしまうぼくがいました。そのあと幾つかのやり取りがあり、しばらくして、送られてきた...「慣れ」の力

  • 詰める〈考〉その6/6 ~あしたはどっちだ~

    はじめから読んでみてあげようかという人はコチラからどうぞ↓↓その1その2その3その4その5ぼくにとって「なぜ?」は「詰める」の代表選手ですので、問題を「なぜ?」という「詰める」の一手法にしぼってきましたが、そろそろ結論とするために、ここらで「詰める」に戻すこととします。「詰める」を「責められている」と感受するのには、もうひとつの理由があります。それに思い当たると、「オレはよかれと思っている。そう受け取るのは思いこみにすぎない」とばかりも言ってはおられません。じつはそれは、あながち見当違いではないからです。「詰める」には権力の行使という側面があり、その根底に支配欲があります。ついつい詰問という形式になってしまうぼくの「詰める」には、たぶんそれがあるのでしょう。それゆえに、多くの場合にぼくの「詰める」は、他者...詰める〈考〉その6/6~あしたはどっちだ~

  • 詰める〈考〉その5 ~ものごとはそもそも複雑である~

    かつて、「なぜ?」の発し手であるぼくが抱える最大の問題は、その「善かれの思い込み」にもとづく無自覚かつ脳天気な態度にありました。そのことについて、薄れかけた記憶をたどり、色々と考えをめぐらせているうちに、あるひとつの、しかし大きな要因であると思しきものにたどり着きました。TOCとぼくが出会ったのは2006年12月ですから、今から18年も前のことになります。その基本的考え方はこうです。******TOC(TheoryOfConstrains:「制約理論」または「制約条件の理論」)は、「どんなシステムであれ、常に、ごく少数(たぶん唯一)の要素または因子によって、そのパフォーマンスが制限されている」という仮定から出発した包括的な経営改善の哲学であり手法です。(中略)この仮定からまず読み取れるのは、「制約にフォー...詰める〈考〉その5~ものごとはそもそも複雑である~

  • 詰める〈考〉その4 ~指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ、自分の失敗。~

    本来、物事をよい方向にみちびき、問題解決を図るための「なぜ?」の使用が、どうしてわるい方向へと行ってしまうのでしょうか。その要因のひとつに、「なぜ?」を受け取る人それぞれのマインドセットのちがいがあります。人は失敗を隠します。正しくは、隠そうとするタイプと、オープンにして次へ活かそうとするタイプとがあるのですが、基本的性質は「隠す」だと考えて差し支えないでしょう。理由は、自分の身を守るためです。人は失敗をします。失敗をしやすい人とそうでない人がいますが、失敗をしない人間なぞは、誰ひとりとして存在しません。失敗は自分の力を伸ばすうえで欠かせないものとしてごく自然に受け止めることができるマインドセットであればよいのですが、その一方で、失敗は自分の無能力の証拠であり恥であるという思考傾向をもつ人は、失敗を隠そう...詰める〈考〉その4~指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ、自分の失敗。~

  • 詰める〈考〉その3 ~〈なぜ〉がやめられない~

    たとえば「なぜ?」あるいは「なんで?」ときには「どうして?」Whyは、かつてのぼくの口癖のようなものでした。過去形にしたのは、意識をしてそれを少なくするようにして今があるからです。もちろん、悪気はありません。たしかに自分自身に生来備わっている底意地のわるさは認めますが、むしろ善意にもとづいたものであることが多かったはずです。しかし、こちら側の悪気の有無はことの是非には関係がありません。いやむしろ、「善かれの思いこみ」、しかも〈上〉が〈下〉に対するそれは、考えようによってはタチがわるいとさえ言えます。「少なくなった」といっても、今でもいつも、心のなかに「なぜ」は芽生えます。それを心中で飼うか殺すか、あるいは口から表出させるか。それだけのちがいであり、数が少なくなったわけでもなければ、一切なくなってしまうこと...詰める〈考〉その3~〈なぜ〉がやめられない~

  • 詰める〈考〉その2 ~「詰める」は悪か~

    皆さんがご想像するとおり、あきらかにぼくは「詰める側」の人間でした。過去形にしたのは、現在は少しばかり様相が異なってきたのではないかという自己認識があるからです。とはいえ本質的には変わらず「詰める」人間です。気質としてもそうですが、立場もまたそうです。しかもかつてのぼくは、そうすることにまったく悪意がなく、当然罪悪感も感じてはいませんでした。その一方で、立場という側面から見れば、かつてはぼくもまた、多くの場合で「詰められる側」にあったことにちがいはありませんし、なんならば今も、妻との関係では、「詰める」よりも「詰められる」方の比率が高いと言えます(冗談です。内緒にしておいてください)。対して現在の社会的立ち位置は、けっして「詰める」方ではないでしょう。そこに身を置かないようにしているといった方がよいでしょ...詰める〈考〉その2~「詰める」は悪か~

  • 詰める〈考〉その1 ~鬼詰め~

    「鬼詰め」なる言葉があるそうです。「そうです」という以上、もちろん、つい最近知りました。昨夜、『隠し剣鬼の爪』という映画をテレビで観たのですが、もちろんあの美しいドラマとは何の因果も関係もない「鬼詰め」です。といっても、一般的に流布されているとは言い難い語句のようです。なんとなれば、Google日本語入力で「おにづめ」と入力しても変換されて出てくる感じは「鬼爪」ですし、「鬼」と「詰め」に分けて「鬼詰め」と変換した上で検索しても、まともな情報はヒットしません。しかし、次のような記事があるにはあるので、やはり使われていることにちがいはないのでしょう。******私が社会人3年目、初めて営業部長になった時毎週月曜日の11時が大っ嫌いでした。なぜなら、鬼詰めされるからです。笑目標が達成できていないなら当然のように...詰める〈考〉その1~鬼詰め~

  • うけとってくれる他者

    湯船につかりながら本を読むという行為は、以前からしていたのですけれど、もっぱらそれは電子書籍にかぎってのことでした。湿気に弱いという特性を考えたとき、紙の本ではできないと決めつけていたからです。ある日のことです。ふと、だいじょうぶなのではないかという思いが沸きあがり、試してみようと思い立ったのは。たぶんそれは、手にしていたその本の質が比較的硬質だったからでしょう。そこでぼくは、環境をそこそこに保っていさえすれば、そこそこいけるのだということに気づきます。それは只今のところ、令和6年度最大の発見でした。というのは少々大げさですが、近ごろ、それまでの「ほぼKindle」とは一転し、旅や出先以外では極力電子書籍読書を避けているぼくが歓喜雀躍したのは言うまでもありません。ですが、何と言おうと紙は紙です。湯がかかっ...うけとってくれる他者

  • コメント乱

    そのコメントが届いたのは10日ほど前のことでした。あいかわらずコメントがこないブログなので、たまに来ると、オッと目を見開いてびっくりしたりするのですが、今回もまた例に漏れず、すぐに到着を知らせるメールに記されたアドレスをクリックしてみたのです。同時に、「頭悪そう」というコメント主の名と、「ふざけてるな」というタイトルが目に飛び込んできました。この時点で既にぼくの心はゲンナリとしていますが、「なら、あなたの部下が亡くなったら責任取れますか?」というコメント本文を目にして、さらにその思いが強くなりました。その元記事は、『熱中症は「甘え」か?』というタイトルで書いた2018年7月19日のものです。どのようなことを書いたのかについては、ハッキリと記憶にありましたが、念のために読んでみることにしました。その稿は、か...コメント乱

  • ハゲにシャンプーブラシ ~無意味のなかの意味~

    猫に小判を与えても、その価値がわからないので何の意味もありません。ですから、どんなによいものでも、その値打ちがわからない者にとっては無価値であるということをたとえて、「猫に小判」と言います。と、いかにもと勿体をつけて書かずとも、日本語を話せる大人ならば、それぐらいのことはほとんどの人が承知していることでしょう。さて、古今東西これに類する言葉は、主体となる動物を変えていくつもありますが、皆さんはどのくらい言えるでしょうか。豚に真珠犬に論語馬の耳に念仏牛に麝香(じゃこう)兎に祭文そんなことを考えていたのは昨夜、日付が変わる少し前のことです。夕方から、中学校の同窓会がありました。5年に一度会おうと決めている会なのですが、ご多分に漏れないコロナ禍で65歳の年の開催を断念。おまけにぼくは、その前の会に参加することが...ハゲにシャンプーブラシ~無意味のなかの意味~

  • ぼくの確証バイアス

    8月8日16時43分日向灘を震源とする地震が発生県外に住む数人の方に「だいじょうぶか?」と心配するメッセージをいただいたきのうの地震ですが、会社がある奈半利町は震度1で津波もなし。地震の規模とここからの距離を考えれば、それぐらいで済んでいるのが不思議な感がありました。そんなものですから、当方落ち着いています。宮崎で地震、とわかった直後、まずは情報を確認。震源が日向灘とわかると、少しばかり緊張が走ったのは、そこが静岡県沖からつづく南海トラフの延長部にあたり、巨大地震の想定震源域に含まれるからでした。各地の震度を確認します。最大は日南市で震度6弱。それこそ震源域の端っこで起こった地震のようです。意外なことに高知の西南地方で最大は宿毛市の震度3、そのとなりである土佐清水市は震度1でしかありません。この地震を受け...ぼくの確証バイアス

  • 道の選択

    道はたくさんあります。そして、どの道を選ぶかは人それぞれです。たとえばAとB、ふたりの人間がいて、おなじ環境おなじシチュエーションに置かれていたとして、おなじ道を歩くとはかぎりません。そこには必ず、〈選択〉という行為があり、選ぶ主体の好みや考え方などが反映されます。「いや、オレには選択肢はなかった」とおっしゃる人は数多いかもしれません。たしかに、選ばざるを得なかったというのは、世の中の多くの局面であり得ることです。しかし、そこにも必ず〈選択〉という行為はあったはずです。そしてその行動の主体は、まぎれもないその人自身なのです。であれば、最後は自身が〈選択〉をしている。少なくとも、その理を無視して、そうせざるを得なかったことに大きく影響をおよぼした他人や環境に責任を押しかぶせるのが、筋ちがいであることは承知し...道の選択

  • もうひとつの〈2024年問題〉

    大事なことに気づいた→金曜日のつづきさて、そこでぼくは、とても大事なことに気づいてしまいました。(というか、けっこう以前からもやもやとしていたことが、ハッキリと形をもって脳内にあらわれたというのが正しいのですけど)ポイントはここです。******ところが、如何せん能力がない。いや、そうは認めたくないが、そう認めざるを得ない現実に、何度も天を仰いで嘆息したものです。しかし、あきらめ切れなかった。その経緯の一つひとつを詳らかにするほど覚えてはいないのですが、牛のように、ゆっくり歩いては立ち止まり、立ち止まってはまたゆっくり歩きをつづけているうちに、気がつけば、「なんとかまあまあ」というぐらいのレベルにはたどり着いたようです。ところがこれは、何より効率を重んじるビジネスの世界では非常によくない。〈時間対効果〉を...もうひとつの〈2024年問題〉

  • 諦めがわるい男

    このごろは、あたらしい現場の3次元お絵かきをしているのですが、自分で言うのもなんなのですけれど、「やっとここまで来れたな」と、少しばかり感慨深げなのです。そして、「つくづく時間がかかる男だな」と、我ながら可笑しくもあります。といっても、それほど大したレベルにあるわけではありません。どころかむしろ技術的には、まったく大したことがないと言った方が適切なぐらいのレベルでしょう。それでも「やっと」なのですから、あとの言葉が「つくづく」となるのです。かつて、〈3次元〉の必要性と重要度に気づいたぼくが、まず最初に起こしたアクションは、外部講師を招いての社内研修である『グーグルスケッチアップの基礎』講座でした(当時はGoogleだったのです)。2011年の夏、今からちょうど13年前のことです。その実習講座は、ぼくの目論...諦めがわるい男

  • ついつい〈初老〉という語句に反応して書いてみた。

    去る29日、パリオリンピック総合馬術団体で銅メダルを獲得した日本代表のメンバーが、チームの愛称を〈初老ジャパン〉と名づけて話題となりました。そもそも馬術という競技にさしたる興味もないぼくは、ふ~ん歳を取っているのだろうなと受け流し、その内容を確かめもしなかったのですが、よくよく聞いてみるとメンバーのうち最年少は38歳で最年長は48歳、4名の平均が41.5歳だというではありませんか。いやいや、いわゆるアラフォーではないか。それが初老などと・・・ではオレはなんなんだ?思わずそう問い返したくなるほどに、今の40歳は若い。いくらなんでもそれはないだろうと思い、〈初老〉の定義を辞書で引いてみると、「古くは40歳の異称であり老人の域に入りかけた年頃」だとあります。たしかに、『論語』において孔子が、自らの人生を顧みて人...ついつい〈初老〉という語句に反応して書いてみた。

  • チームの種類(2)

    答えは・・・そのうち見つかるのでしょうか、はてさて如何あいなりますやら。ぼくの場合、山々が産気づいても結局出てきたのはネズミ一匹、なんて例は枚挙にいとまがありません。ゆるゆると考えていくこととしましょう。と、いかにも未来に期待を抱かせるような書きようで締めくくったきのう。その一助とすべく、試しにと『ぼけと利他』を開いて、くだんの箇所までページをめくってみると、なんと、そのあとにすぐ、一応の「答え」はあったのです。あゝ、なんとしたことでしょうかと嘆きつつ、きのう引用した最後の部分も含めて、ふたたび引いてみることにします。******冒険には焚き火が必要ですが、生活は意志の力だけではどうにもなりません。生活において偉大なのはむしろ気分の力です。「こうしよう」と威勢のいいかけ声をかけるリーダーシップ、あるいは自...チームの種類(2)

  • チームの種類

    『ぼけと利他』(伊藤亜紗&村瀬考生、ミシマ社)に次のような記述があります。というか、その箇所を写真に撮ってスマホに納めていたことに、不要な画像を削除していたきのう、気づいたのです。書き出しは「チームにはふたつの種類がある」です。******ひとつ目は、みんなで火を囲んで同心円状に集まる「焚き火」タイプ。これは「意志」によって焚きつけられた集団で、お互いの顔が見えています。火の近くは熱いくらいですが、遠ざかるにつれて、徐々に熱は弱まっていきます。もうひとつはみんなで同じお湯に浸かっている「温泉」タイプ。温泉に入ると他人同士無言で、お互い目が合わないようにしていたりもするけれど、お湯という同じ「気分」には浸かっています。お湯に入っていさえすれば、温度はどこもだいたい同じです。冒険には焚き火が必要ですが、生活は...チームの種類

  • 認めて許せ

    ある日の朝餉でのことです。箸立てから自分のものをとろうとしたとき、「ん?どっちだ?」とアタマをひねったのは、そこにいつものぼくの箸と似た色のものが隣り合わせていたからでした。念のためにと、ひと揃えずつを合わせ、確かめてから席につき、おもむろに味噌汁をすすります。なんとしたことでしょう。口に入れた途端、念を入れて揃えたはずのその箸が、ちがう組み合わせだったことに気づきます。しかも、よく見ると似た色だと思っていたそれは、ただ暗色だということだけが同じで、柄もちがうしサイズもちがう。どこからどう見れば似ていると思えるのか、不思議にさえ感じるほど異なった物なのでした。あいやこりゃまたどうしたことかと、あまりのバカさ加減に思わず吹き出しそうになったぼくは、そんな恥ずかしいことはゼッタイ妻に悟られてはならないと、笑い...認めて許せ

  • 老人と髪

    人は歳をとります。そして老いていきます。その向こうには死があります。誰しもが避けようがないこの事実を、ぼくはようやく実感として認識できるようになりました。現代日本における「老」をめぐる問題でもっとも切実なもののひとつが介護でしょう。その程度をあらわす指標として、「要介護度」があります。といっても実感としてピンとくる人はそうそういないのかもしれません。そういうぼくも、その言葉自体はよく聞くにしても、くわしく説明せよと言われるとたちまち答えに窮してしまうにちがいないのですから、他人のことを言う資格はないのです。ということで、きちんと調べてみました。介護レベルや認定区分という呼び方をされることもあるそれは、かんたんにいうと「介護の必要性の程度をあらわす指標」、公的介護保険制度における要介護認定申請の際に判定され...老人と髪

  • 母子あり

    先日、羽田から高知空港へ向かう飛行機のなかでのことです。グループ5の内側席だったぼくが、ほとんど殿(しんがり)で乗りこむと、当然のことながら窓側と真ん中には既に先客がいました。幼い姉妹を2人連れた若い女性です。もっともそれは、想定をしていたことでした。というのも、ぼくが予約した1週間前にはほぼ満席だった座席には、ぼくの選択肢が入る余地はほとんどなく、横も幼児、前も幼児という、多くの人が敬遠しがちな席を指定する他、みっつかよっつしか空きがなかったからです。といっても、ぼくがそれを嫌がっていたわけではありません。なんとなればぼくは、他人より増して子ども好きであり、狭い飛行機のなかで乳幼児が泣いたとしても、もちろんそれを気にしないことはないのですが、それが原因でイライラすることはありません。なんならば、周囲に気...母子あり

  • オレ記念日

    ぼくがぼくをあらわす一人称は、ここでは「ぼく」ですが、会社や家庭ではちがいます。大まかに分けるとそれは、フォーマルあるいはオフィシャルには「わたし」で、カジュアルもしくはプライベートでは「オレ」、となります。つまり、「ぼく」という一人称は、ここだけで用いられる特殊なものなのです。「わたし」については、それを使いはじめた頃の確たる記憶があります。社会人になってすぐのことです。当時の上司との会話のなかで自らを「ぼく」と称したぼくに、「それは社会人が使うものではない。私と言いなさい」と嗜めると同時に指導した7つ年長の彼の言葉にしたがって以来、ぼくは「私」になりました。一方オレは、いつの頃からそうなったのか。これについては確かな記憶がありませんし、何か信念めいたものがあったわけでもありません。わかっているのは、ど...オレ記念日

  • 時間が速くたつ理由

    「人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する」これをジャネーの法則と言います。たとえば「1年」を例にとりましょう。現在ぼくには3人の孫がいますが、最年長は10歳。66歳のぼくと、その約7分の1ほどしか生きていない彼とでは体感時間がまるでちがいます。というように、歳をとるにつれて自分の人生における「1年」の比率がちいさくなるので、体感として時間が早く過ぎると感じてしまうということです。以前、このことを調べていたとき、北祐会神経内科病院『北祐会ブログ』というサイトでわかりやすい表をみつけていたので、ちょっと拝借してみますね。これによると、1歳の赤ちゃんにとって1年は365日ですが、10歳にとっては37日、66歳のぼくに至っては、なんと6日でしかないということになります。彼我の比は37:6≒6:1。...時間が速くたつ理由

  • 「たがや」という落語があります。「たが」は箍。主人公は箍をつくる職人。つまり箍屋です。舞台は両国の川びらきに打ちあげられる花火見物客でごった返す橋の上で、ご存知「た~まや~」という掛け声と、「たがや」とをかけたダジャレで終わる地口オチの代表格ともいえる古典です。箍とは、桶や樽の外側を締める木や鉄でできた輪っかのことです。今では意匠としてしか存在しないものが多いのですが、ぼくがちいさかった頃にはまだ、タガが締まってなければその機能を発揮しない桶や樽が現役のモノとしてありました。そこから派生したのが「タガを締める」や「タガがゆるむ」、あるいは「タガが外れる」といった言葉です。「タガを締める」。ゆるんだ気持ちや規律を引き締めることを指します。対して「タガがゆるむ」は、緊張が弛んで締まりがなくなることを言います。...箍

  • 「継続は力なり」を考える

    「継続する力」があるかないか「継続は力なり」と言います。例によって、ある日ふと疑問に思ったのです。「はて、何がちからなのだろうか」と。1.継続するという行為が「力」を生み出すから「継続は力なり」なのか。2.「力」がなければ継続することができないから「継続は力なり」なのか。いったいどちらなのだろうかと。今さらではあるのです。そして、そんなことも知らずに使っていたのかオマエは、と笑われそうです。もちろんぼくとて、闇雲に使っていたわけではないのですが、「ではあらためて」と検索してみたのです。正解は、みなさんご存知のとおり、一般的には1です。ぼくの考えももまた同じでした。たしかにそれは、まちがいではありません。とにかく「つづける」。そうすることによって、結果がついてくる場合は、たしかに数多くありますし、ぼくもまた...「継続は力なり」を考える

  • メガネをなくした爺さん

    「目をなくしたカバ」という寓話が教えてくれるものは、「やみくもの愚かさ」でもあります。闇に雲と書いてやみくも。名詞または形容動詞としては、先の見通しもなくむやみに事をすることや、そのさまを指す言葉です。「むやみやたらに」という副詞としての使い方もあります。いずれにしても、褒められたことではありませんが、世の中には、ついついそうなってしまうという類の人間がいます。誰あろう、このぼくもその内のひとりです。たとえば「目をなくしたカバ」に登場するバカなカバのように、なにかを失くしてしまったとします。といってもそれは、本当の意味で失くしたものではありません。どこかに置いてあるけれど、その場所がわからない、という意味での「失くした」、つまり、きちんと探せば見つかるという種類のものです。そうそう、ぼくは今、『ぼけと利他...メガネをなくした爺さん

  • 「目をなくしたカバ」ふたたび

    目をなくしたカバきのう、かつて『「目をなくしたカバ」が教えてくれたもの』というテキストを書いていた(2021年6月11日)のを教えてくれたのは、当ブログのスマホ画面の下の方にある「人気記事」一覧でした。どうやら、「検索」でアクセスしてきた人が相当数いたようです。そういえば・・・と思い起こすと、そのような記事を書いた記憶がよみがえってきました。「目をなくしたカバ」とは寓話のタイトルです。せっかくですので、3年前と同様に、内容を『座右の寓話』(戸田智弘、ディスカヴァー携書)から引いてみましょう。******一頭のカバが川を渡っているときに自分の片方の目をなくした。カバは必死になって目を探した。前を見たり、後ろを見たり、右側を見たり、左側を見たり、体の下を見たりしたが、目は見つからない。川岸にいる鳥や動物たちは...「目をなくしたカバ」ふたたび

  • 令和6年のモデルチェンジ

    じつに私的極まりない「建設DX」についての論考を書いているうちに、このブログをはじめてから丸16年が過ぎ、17年目に突入していました。といっても、15年という節目を迎えた昨年には、いったんやめるという選択をしたあと、3ヶ月が経過してまたリスタートしたのですから、これを連続したものとして捉えるかどうかは、ビミョーなところがあるのも事実です。ともあれ16年です。オギャーと産まれた赤ん坊が高校一年生になってしまうほどの歳月であり、ニキビヅラの高校球児がベテランプロ野球選手と呼ばれるようになってしまうほどの歳月であり、65歳で定年退職した爺さんが、八十過ぎの爺さんになってしまうほどの歳月です(どっちも爺さんですが)。漫然とつづけるだけでは、惰性に陥ってしまうのは必至です。それがマイナーチェンジかフルモデルチェンジ...令和6年のモデルチェンジ

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その14 ~ 階上、階下を笑うべからず。

    いったん「お終い」としてケリをつけたつもりでしたが、案の定、というべきか、いつものように、というべきか、気がつけば、思い出したかのように思索を進めている自分がいます。とあれば、当然のことですが出力せねばなりません。13回で終わった連続物としての『〈私的〉建設DX〈考〉』とは別に、随時つれづれなるままに綴っていこうと思います。ですから、便宜上の通し番号(その〇〇)は振っていますが、ここから先は、必ずしも「前項を受けて」とはならず単発です。いや、そうなるかどうかさえ定かではありません。なんとなれば、そう思いついたはよいが今日このテキストを最後にあとはなし、ということにもなりかねないのですから。ということで、『〈私的〉建設DX〈考〉』、前回までとつながってはいますが、直接的に「その13」を受けてはいない「その1...〈私的〉建設DX〈考〉その14~階上、階下を笑うべからず。

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その13 〜 余録です

    余録です。結局のところ、(デジタル化を手段として)「変わりつづける」ことで、「あらたな仕事のやり方」を見つけ(それもまた「変わりつづける」のですけど)、組織の文化を変えていくことが、ぼくの考える(中小建設業の)建設DXなのです。という締めくくりでこの連投を終えたあと、手にとった本は南直哉『刺さる言葉』でした。といっても、何の関連もありません。ただの思いつきです。しかも、初読ではありません。二度目です。思うところあって、初読再読を含め、直哉さんに浸ってみようかと考えていたからです(と思い立ってから3冊読んだあと、ミシマ社の「利他本」を2つ読んでいるのですから、相変わらず移り気ではありますが)。読み始める、すぐに出会ったのがこんな文章でした。******「好きでやっている坐禅は凡夫だな。しなければならなくてや...〈私的〉建設DX〈考〉その13〜余録です

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その12 〜 結(のようなもの)

    あらためてことわっておきますが、ぼくは、デジタル化をすればそれですべてが上手く行くなどという、能天気な考えの持ち主ではないし、デジタル化の行く末にあるのがバラ色の未来だとも思っていません。心の底を吐露するならば、むしろ懐疑的な想いのほうが強い。しかしぼくは、こと土木という仕事においてはデジタルに賭けてみようと思い、それを実践するという道を選びました。であれば、そこにおいてのぼく自身は、引き裂かれた己と向き合うことを余儀なくされてしまいます。とはいえぼくという人間は、それがデジタルであるかないかにかかわらず、テクノロジーというやつを全肯定できない心持ちを常に自らのなかに抱えながら土木「工学」と向き合ってきました。土木には、「工学」としての側面とそれだけでは測ることができない部分とがあるというのが、土木屋とし...〈私的〉建設DX〈考〉その12〜結(のようなもの)

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その11 〜 テセウス・パラドックス

    ぼくたち公共建設工事を生業にしている者の大元締めは、言わずと知れた国土交通省です。その国交省が「インフラ分野のDX」を推進しているのですから、同業者同士の会話のなかで「建設DX」が話題にのぼることが少なくないのは当然のことでしょう。しかし、そのなかで、何故だか誰もが触れたがらないところがあることを、はたして皆さんは認識しているでしょうか?その呼称は各企業で色々さまざまでしょうが、いわゆる総務部門のデジタル化についてが、ぼくたちがDXの話をするときに話題の中心となることは、ほぼないのです。なんてことを言うと「オレたちゃ技術系だから当然でしょ」という答えが返ってくるのかもしれませんが、それだけでしょうか?ひょっとしたら、そこがあまりにも旧態依然すぎて、アンタッチャブルなものになっているからなのではないかと、ぼ...〈私的〉建設DX〈考〉その11〜テセウス・パラドックス

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その10 ~ 後方2回宙返り1回ひねり

    かつて、近年のレベルやセオドライト(トランシット)はもちろん、かの日本測量界の父である伊能忠敬が使っていた象限儀に至るまで、測量機は「のぞく」ものというのが相場でした。【のぞく】(デジタル大辞泉より)1.物陰やすきま、小さな穴などから見る。2.装置を用いて物体を見る。3.高い所から低い所を見る。4.ひそかにようすをうかがう。また、隠しごとや秘密にしている物などをこっそりと見る。etc・・・言わずもがなですが、この場合の「のぞく」は2。望遠鏡を覗くの「のぞく」です。コペ転の起点となったのは2012年、株式会社トプコンが自動追尾・自動視準のトータルステーションPSシリーズを発売したことでした。これが「のぞかない」測量の萌芽です。さらにトプコンは、2014年、建設現場における杭打ちや墨出し作業を「誰でも簡単に1...〈私的〉建設DX〈考〉その10~後方2回宙返り1回ひねり

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その9 ~ ライダー・・・へんしん!!

    前回の締めくくりでぼくは、DXへと至るプロセスとして提示した3パターンのうち「メタモルフォーゼ」を、ローカルで生きる中小建設業が「建設DX」を考えるうえでの対象外としました。どう足掻いても、たとえば「ケータイからスマートフォン」というイノベーションなど起こしようがないぼくたち小規模建設業者には、そのイノベーションが実現したことによって手に入れたデジタルテクノロジー(ツール)を自分のものとして、どのように活用できるかが勝負の分かれ道だと考えるからです。しかし、そのデジタルツールの使途として当初の想定にはなかった活用方法を考え出し、自分たちの仕事のやり方を変え、さらにそれを発展させていくということは、ローカルかつ小規模な企業や、そこではたらく個人であっても、十分に実現可能なことです。ぼくが、ぼくやあなたのよう...〈私的〉建設DX〈考〉その9~ライダー・・・へんしん!!

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その8 ~ ラテラルで行こう

    ラテラル思考、といってもピンとこないひとは、またオマエわけのわからない言葉をひねり出したな、と思われるかもしれませんが、残念ながらそうではありません。ラテラル(lateral)とは「横に向かった」「水平な」という意味で、論理を縦方向に深く掘り下げるロジカルシンキングに対して、発想を横にひろげる、つまり、常識や既成概念や固定観念に固執せずに自由な発想でアイデアを生み出す思考法のことです。その起源はけっこう古く、今から60年以上前、マルタの医師であり心理学者でもあるエドワード・デボノが提唱した考え方で、一般に、ラテラルシンキングまたは「水平思考」と言います。ぷっ、じゃあなぜ、わざわざラテラル思考と呼称を変えたんだよ、と口に含んだコーヒーを吹き出しかけたそこのあなた、いやいや、有り体に言えば特段の意味はなんにも...〈私的〉建設DX〈考〉その8~ラテラルで行こう

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その7 〜 コペ転

    前回は、「ケータイからスマホへ」を例にとってデジタイゼーションあるいはデジタライゼーションからDXへと昇華する形態として、メタモルフォーゼを挙げました。メタモルフォーゼ(変態)を遂げてトランスフォーメーション(変形)へと至る、というのもおかしな話ですが、とにかくその進化と有り様は、まさにメタモルフォーゼと表現するのがふさわしいと感じたからです。では、メタモルフォーゼだけがデジタル化を起点としてDXへとステップアップする形態なのでしょうか?いくつかの例をつらつら考えてみるに、どうもそうではないようです。いや、むしろそのパターンは希少なのかもしれません。なぜならば、メタモルフォーゼを遂げるためには、さまざまな偶然や因果が関係し合う必要があるからです。つまり、自らの意思や行動のみでそうなることは、ほとんどないと...〈私的〉建設DX〈考〉その7〜コペ転

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その6 ~ ケータイのメタモルフォーゼ

    ここで、いったん建設DXという枠から外へ出てみます。デジタルテクノロジー(ツール)がどのようにして世の中を変え、デジタル・トランスフォーメーションを引き起こしたかについて考えるとき、その代表的な例として思い浮かぶのがスマートフォンです。そうそうそういえば一昨日のことです。職長のGoくんと同じセミナーを聴講した帰路、会場から出るか出ないかぐらいのタイミングで彼がこう言いました。「イチバンはスマホの進化なんですよね・・・」たしかに。得たりと膝を打ちました。ぼくもまたそのセミナーで受信したことは数々あったけれど、スマートフォンをどうやって仕事に活かせるかがキーポイントだな、という思いを抱かされたセミナーではあったからです。スマートフォン以前ーーー今から思うと、ビフォースマートフォンとかアフタースマートフォンとか...〈私的〉建設DX〈考〉その6~ケータイのメタモルフォーゼ

  • 〈私的〉建設DX〈考〉 その5 〜 余談です

    前回まではこちら→『〈私的〉建設DX〈考〉その1~序』→『〈私的〉建設DX〈考〉その2~これってDX(じゃん)』→『〈私的〉建設DX〈考〉その3~DXってむずかしい』→『〈私的〉建設DX〈考〉その4~デジタル三段跳び』昨晩9時過ぎ、布団に入り、少しだけ読んでから寝ようと手にしたのは、南直哉『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』でした。******人が理解し合えないのは当たり前です。まず自分をわかって欲しいと思わないことです。自分だって自分のことをよくわかっていないのに、他人にわかるわけがありません。自分以外の人間には絶対になれない以上、他人のことは決して全部わからないのです。もし、相手のことをわかったと思うのなら、あるいは、自分を理解してもらえたと感じるのなら、それはしょせん誤解にすぎません。「理解」...〈私的〉建設DX〈考〉その5〜余談です

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その4 ~ デジタル三段跳び

    前回まではこちら→『〈私的〉建設DX〈考〉その1~序』→『〈私的〉建設DX〈考〉その2~これってDX(じゃん)』→『〈私的〉建設DX〈考〉その3~DXってむずかしい』DXという言葉ばかりがクローズアップされるため、一般には馴染みが浅い言葉ですが、デジタル化を語る概念としてデジタイゼーションとデジタライゼーションがあります。それがどういう意味なのか、いくつかの定義を紹介するとことから今日の稿をはじめます。まず、国連開発計画(UNDP)では次のように定義しています。・デジタイゼーション:既存の紙のプロセスを自動化するなど、物質的な情報をデジタル形式に変換すること。・デジタライゼーション:組織のビジネスモデル全体を一新し、顧客やパートナーに対してサービスを提供するより良い方法を構築すること。令和3年の『総務省情...〈私的〉建設DX〈考〉その4~デジタル三段跳び

  • 〈私的〉建設DX〈考〉その3 ~ DXってむずかしい

    前回まではこちら→『〈私的〉建設DX〈考〉その1~序』→『〈私的〉建設DX〈考〉その2~これってDX(じゃん)』日本の建設業で「生産性向上」が叫ばれはじめて久しくなりました。とりも直さずそれは、こと「生産性」という側面でわが建設業は、圧倒的に他産業(ぼくの見るところ、どうもそれは製造業をあらわしているようですが)の後塵を拝しているという現状があったからです。生産性向上については、色々さまざまな説明がありますが、ひと口に言ってしまえば、限られたリソース(人員、資機材、時間)のなかでより多くの成果を生み出すこと。これで差し支えないでしょう。人員や資機材が同じならば時間を短く、時間が同じならば人員や資機材を少なく。それが実現したときの状態を、生産性が向上したと言いあらわします。繰り返しますが、その実現を図る武器...〈私的〉建設DX〈考〉その3~DXってむずかしい

  • 〈私的〉DX〈考〉その2 ~ これってDX(じゃん)

    きのうの稿。→『DX〈考〉その1~序』「デジタル技術を活用して、業務フローの改善や新しいビジネスモデルの創出を通じて、それまでのあり方を変え、より良い未来を創造する取り組みがデジタル・トランスフォーメーション、すなわちDXであるらしい」とぼくは規定しました。末尾の「らしい」は単なる照れ(のようなもの)であって他意はありません。大上段に振りかぶってはみたものの、ちょっとばかり照れくさくなってアタマを掻いてみただけのことなのです。なので、一般的には上記説明でなんら問題はないはずです(たぶん)(これも同様)。以前からぼくは、「あらたな仕事のやり方/あたらしい技術」という分数モデルを提示し、「あたらしい技術」という分母をいくら大きくしたところで、分子である「あらたな仕事のやり方」がちいさいままでは、その効果は部分...〈私的〉DX〈考〉その2~これってDX(じゃん)

  • 〈私的〉DX〈考〉その1 ~ 序

    DXという言葉を見聞きしない日がないのは、今のぼくが、地域の土木建設業というビジネスの中心にそれを置いているからであり、それがそのままパソコンの画面に反映されるのがインターネットというものの仕組みである以上、致し方のないことではあります。それにしても、このインターネットというやつは相当に気をつけていなければ、物ごとの移ろいを見誤ってしまうものだと、近ごろつくづく思います。俗に言うトレンド、つまり流行り廃りでさえも、客観的なそれがそのとおりに反映されてぼくたちのスマホやパソコンに表れ出てくるわけではありません。そこでの情報は、あくまでもその検索主体であるぼくたちの嗜好や意向が反映されているものにすぎませんし、それがたとえばGoogleが大成功をおさめたビジネスモデルそのものであるにもかかわらず、多くの人はそ...〈私的〉DX〈考〉その1~序

  • 一に止まる

    「正」という字は「一」に「止まる」と書く。この場合の「一」は、何かを「正しい」と思うぼくやアナタの「正」である。己が言を正論だと信じて述べるのはよい。そうでなければ自信をもって発言することはできないのだもの、そうすることになんら不都合はない。だが、そこに「止まる」のはよくない。なぜならば、「正」が未来永劫まで「正」のままいるとは限らないからだ。あしたのアナタやぼくは、今日のぼくやアナタではないかもしれないように、ぼくたちが置かれている状況もまた同じではないかもしれない。いや、人の世のみならず、地球上に生きとし生けるもののすべてが諸行無常に万物流転だ。だとしたら、そもそも同じだと捉えること自体に無理がある。であるにもかかわらず、その「一」に「止まっている」としたら、いったんは信じた「正」が正しくなくなってし...一に止まる

  • いわく「ド天然」またいわく「ド正論」。他にも「どストレート」や「どハマリ」などなど。近ごろの巷には、「ど」を頭につける表現があふれている。いや、名詞や形容詞の前につけて強調の意味を込める「ど」という接頭詞は、今に始まったものではない。いわく「ど根性」またいわく「ど真ん中」。他にも「どケチ」や「ド素人」、「どえらい」「どでかい」「どぎつい」「ど派手」などなど。もともとは、近世以来の上方俗語であるらしい。二十歳前後という若い時分に大阪ぐらしをしていたぼくにとっては、馴染み深いものである。しかし、近ごろのこの氾濫は、いささか「ど」が過ぎているような気がして、どこかで苦々しく感じていた。そしてそれは、最近の風潮だとばかり思っていた。そして、それへのアンチを表そうとしてこの稿を書くことを思いついた。で、その論を補強...ど

  • 懴悔

    アナタは酒が強い。そう言われることがよくあったし、自ら認めてもいた。過去形なのは、加齢とともにお世辞にもそうとは言えなくなったと自認しているからだ。しかし、けっして強くはなくなった今でも「弱い」と言われることはない。どうにかこうにか、かつての体裁を保っているかのように見えているらしいのは、長い年月のうちに身についた酒席のテクニックゆえだろう。したがって、気を許すとイチコロだ。そんなものだから、強い酒は極力飲まないようにしているし、努めて酔わないような呑み方をしている。ところがきのう、泥酔をしてしまった。何年ぶりだろう。さいわい昼酒、しかも比較的短時間だったので、朝には回復し、無事出勤できたが、それほどに酔った記憶は、この二十年ほどのあいだであと2度しかないほどの大酔いだった。たのしくて気を許したうえに、冷...懴悔

  • 答えは現場にあり〈再考〉

    『〈問い〉の問答』(玄侑宗久・南直哉)のなかに、こんなくだりがあった。発言の主は南師である。******だから、何でも答えがあると思うこと自体が間違いだとおっしゃるのはその通りです。ただ、それ以前に「〈問い〉の扱い方」を間違えていますね。答えられる問題に構成し直そうと強引にするからおかしくなる。やはり、「何ともならない」「絶句せざるを得ない」状況を一度受け止めないといけません。これはとても苦しいことですけどね。それで、何度やってもうまくいかないという状況に耐えないと駄目ですよ。どういうことかと言うと、何もしないわけにはいかないから、自分で一生懸命に〈問い〉を問い直す。答えの出る問題に構成し直そうとしても、それはつねに失敗するということに耐えないといけない。そういったある種の知的忍耐力というか、精神的忍耐力...答えは現場にあり〈再考〉

  • すごいハゲ

    ぼくには男の孫が3人いて、ありがたいことにそれが皆、ぼくが先生役を勤める和太鼓教室の生徒だったりする。その内のひとりである長兄が、先日の稽古に友だちを連れてきた。「行ってみる?」と声をかけると「うん!」という軽いノリでついてきたのだという。以下はそのふたりの車中での会話だ。孫:オレのおじいちゃんってよ、ハゲながで。友:おじいちゃんっていうがは、みんなハゲながで。孫:いやいや、それがフツーのハゲじゃなく、すごいハゲながよ。クルマを運転しながら聞くとはなしに彼らの会話を聞いていた母親は、笑いをこらえきれずに思わず吹き出したらしい。稽古が終わり、娘の口からその短い会話を聞いたぼくは、なんだかとても誇らしくなった。言わずもがな、だろうが念のためことわっておくと、小学生が言う「フツーじゃなく」て「すごい」ハゲとは、...すごいハゲ

  • 再起動

    『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南直哉、新潮新書)で、やおら読書欲のスイッチが入ってしまったぼくが次に選んだのは、その気が再起動するのを今か今かと待ち構えていた「積ん読」本の数々ではなく新規購入。ぼくと同世代(片やひとつ上でもう一方がひとつ下)の玄侑宗久と南直哉というふたりの禅僧による対談本、『〈問い〉の問答』(佼成出版社)だった。そしてそれがまた久々に、ぼくの心にクリティカルヒットした。2冊つづけてのヒットである。思うにそれは、内容が素晴らしいのはもちろんあるが、文章生成AIが生み出す空虚な言葉に虚しさを覚えつつその可能性を探っているぼくの今がそうさせている(つまり無意識のうちに平衡を保とうとしている)のだという見立てもできるだろう。******南こんどちょっと取り上げて書こうかと思っていますが、『...再起動

  • 虹の七色

    虹は実在しない。見えはするが実際には存在しない。色はグラディエーションであり、その色と色との境界は見ている人の脳内にしかない。虹は七色と決まっているが、だからあの数は、てっきり比喩的なものだと思っていた。なぜならば、実際ぼくに見えているのは、包み隠さず言えば赤黄青の三色だけだと言ってよいからだ。といっても、上から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫という知識はあるので、その気になって見てみると、どうにか五色ぐらいにはなる。だが、どう贔屓目に見てもそれは、七色ではない。え?それってひょっとしてオレが色覚異常者だからか?そんなことを思い、ChatGPTに訊ねてみた。以下はそのQ&Aを落語チックに要約してもらったものである。******与太郎:「大家さん、あっしは虹が3色しか見えないんですけど、これっておかしいんですかね...虹の七色

  • いい加減

    『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南直哉)から、場所はホテルの喫茶店、隣席にすわる同僚とおぼしき男二人の会話である。******「だからさあ、そこはプラス思考で行こうよ。何事も前向きでやらんと、君みたいにネガティブに考えてたら、先に進まんもん」「はあ・・・」「ダメ、ダメ!変に考えすぎると、マイナスだよっ!」「ただ、対案を出すとき、もう少し詰めておくべきだったと・・・」「それは済んだこと!もう次を考えんと!ポジティブにいかんと!!」(P.206)******これを読んだだけで皆さんご察しのとおり、「!!」は年配、「・・・」は若い。ぼくはといえば、強烈な既視感を覚え、思わず苦笑いした。そこでの「!!」はぼく、「・・・」は・・・・書けない。が、ひとりではないことだけは確かだ。******「プラス」でも「マイナ...いい加減

  • コミュ力

    本日も南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』から。今日はコミュ力についての言葉を紹介しよう。「こみゅか」ではない。「こみゅりょく」だ。と、くだらないことを書いてしまったついでに、その理由を付け足しておこう。どうもぼくには、カタカナと漢字が同じに見えてしまう癖があって、たとえば「エ」(え)と「工」(こう)、「ニ」(に)と「二」(に)、そして「カ」(か)に「力」(ちから)。といっても、もちろん自分が読む際には区別ができるのだが、文字として書き表した場合に、きちんと読み取ってくれるだろうかと不安になる。つまり、コミュ力の例で言えば、「こみゅか」と読まれはしないかと想像し、その表現を採用することが憚られてしまうということだ。その結果、あえてコミュニケーション能力などという誰が読んでもはっきりとわかる言葉にしてし...コミュ力

  • 切なさの転換

    「ただの苦労話は自慢話と同じだ。聞いて面白いと思うヤツは誰もいない。頼まれない限り、するな。どうしてもしなければいけない時には、全部笑い話にしろ」南直哉師の父親の言葉だという。もちろん、子である直哉師に向けての言葉だ。そして、これには次のような前段があったと師は書いている。「オマエな、他人が『オレはうまくいった、得をした、褒められた』というような話を聞かされて、面白いか?そんなわけないだろ?いいか、他人が聞いて面白い話は、オマエが失敗した、損をした、怒られた、酷い目にあったという話だ。だから、そういう経験を大事にしろ。ただし・・・」のあとに冒頭の言葉がつづいたらしい。ついでにもうひとつ。師が失敗して落ち込んでいるときに父親に言われた言葉がこれだ。「まあしょうがないな。利口者は、他人から言われた時にわかる。...切なさの転換

  • 賢爺愚爺

    『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南直哉)のなかに『住職の地獄耳』という一文がある。晩秋のある夕暮れ、境内を掃き掃除をする直哉師が妙な気配を感じて振り返ると、そこには4、5歳とおぼしき男児が立っており、鋭い視線とともにこう言ったという。「あの、ぼく、なんでここにいるんですか?」******言うまでもないが、これは「お母さんが連れてきてくれたんでしょう」などという、阿呆なその場しのぎの答えが通用する代物ではない。彼は、自分がこの世に存在する意味を問うているのだ。私は、この種の問いも、それを言う子供も、絶対に舐めない。そもそも、これを問うなら、その人物は私にとって「子供」ではない。「小さい大人」である。私には、このような問いを何度も舐めた答えで誤魔化されてきた、痛恨の記憶がある。こういう時、大抵の場合、答え...賢爺愚爺

  • 読んでよかった

    今回の旅のお供は『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南直哉)。帰路の機中で読了した。「苦しくて切ない人たちへ」ぼくが触手を伸ばす類のタイトルではない。その上ごていねいなことに、表紙には「恐山の禅僧が説く、心の重荷を軽くするメッセージ」という添え書きがある。そうなると、読んでいるのを誰かに気づかれるだけで恥ずかしい。南直哉の著作でなければ、おそらく買ってはいないだろう。言い換えれば、南直哉著だからこそ買った。どうやらそれは直哉老師も同様だったようで、「事タイトルに関しては、編集者尊重主義者」の氏も、さすがにこれには抵抗があったと、のっけから記している。ところがどっこい。ぼくの方に故もあって、じつにタイムリーに胸に響く一冊となった。*******思うに、人は自分の生まれてくる理由も、目的も、意味も知らない。し...読んでよかった

  • 退屈しのぎ

    伊丹空港で高知行きの飛行機を待つあいだ、その時間の長さに退屈しきったぼくの脳内にふと浮かんだのはChatGPTに遊んでもらうというアイデア。そうかその手があったかと、ひとりニヤけながら選んだテーマが「利他」だったのは、その前の2日間をスーツの裏地に「利他の心」と刺繍しているわが盟友M氏といっしょだったゆえだろう(たぶん)。さて、と一瞬考えて入力した最初の質問は「『徂徠豆腐』という話を知ってますか?」私流ChatGPTとの会話のコツは、いきなり核心から入ることなく、じわりじわりと本題に入っていくことである。今回のようなテーマなら特にそう。徐々にこちらの土俵に引きずり込んでいくことが肝要だ。以下、ChatGPTの返答は省略して、ぼくがチャットの前半にした質問のみを記す。「講談話ですが落語でも演じられます」「落...退屈しのぎ

  • 宮崎にて

    宮崎市内の宿にいる。ゴータマ・ブッダは、在りし日に「一切皆苦」と言った。「一切」である。人が生きていれば、喜怒哀楽が世の常であろう。その全部をひっくるめて、ブッダは「苦」と言うのだ。嬉しいことも、楽しいこともあるだろうが、それでも「苦」なのだ。(略)笑い話を笑ってすませ切れない、拗れた苦しさが残る。同時に苦しいことの中に、何とかその意味を見出そうとする、滑稽な切なさがある。(『苦しくて切ないすべての人たちへ』南直哉、P.5)道中、機上で読んだこんな文章に胸を詰まらせ、「三方良しの公共事業カンファレンス2024宮崎」では、北の大地のボンと土佐の高知の若の発言に目を潤ませ、そのたびに、いやはやまったく焼きが回ったもんだわいと苦笑する辺境の土木屋66歳と5ヶ月。さて、出よう。宮崎にて

  • できるのか?

    高知県土木施工管理技士会主催の技術者研修会で話しをするようになってから、今年で12年になる。近年は、毎年県内3会場(以前は4会場だった)の日程が終わるたびに、もうこれでお終いかなと思うのだが、翌春になれば、その案に相違してまた声がかかる。声がかかるうちが花だと思い引き受けはするが、何をしゃべるか、これにはいつもアタマを悩ませており、ギリギリまで決まらないこともしばしばだ。最悪の場合はタイトルだけ告げて、締め切り寸前までその内容が決まらないこともある(というかその方が多い)。それが、いつもになく今年はすんなりと決まった。お題は、『現場技術者のための生成AI活用術』である。内容も9割方は固まっている。なんのことはない。自分自身が使ってきた経緯と活用の仕方を実例を交えながらしゃべればよいだけのことだ。その前段と...できるのか?

  • とりあえず

    この三月ほどのあいだ、ぼくの「書く」は順調この上なかった。ところがなぜか近ごろでは、世をすねたような論調にしかならない。締めくくりさえポジティブであればそれもカバーできるのだが、そうやって終うこともできない。さて、しばらく書くことができないかもしれないなと思う。かといって心身ともに健康、会社でも社会でも、すこぶる付きでポジティブに生きているからご心配なく。と記して下書きのまま保存をしたのが4月9日18時33分。それ以来、きのうまでのひと月余りで、わずか8度しか稿を投じていなかった。ひょっとしたらこのまま消えてなくなるか・・・であればそれもそれ・・・と達観していたが、きのう突如、書く気になった。そうなると重要なのは今日である。今日というこの日をどうするかで今後がおおきく左右されてしまう。といっても、正直なと...とりあえず

  • The die is cast.

    「家では呑まない」というひとは少なくない。もちろん、その前段に「外では呑むが」という括弧がついたうえでの「家では呑まない」だ。その理由はひとによってそれぞれだろう。先日出会ったひと回り以上も年下の男性の場合はこうだった。「時間がもったいないから」「ナルホド、よくわかるなその気持ち」。一年365日、病気にでもならないかぎり家呑みをつづけるぼくが、そう言って即座に同意したのは、幾度となくそう感じたことがあるからだ。彼はなぜ「時間がもったいない」のか。ぼくはすぐ理解できたが、まわりはそうでもなかったらしい。その表情を見て取った彼は、すぐに言葉を足して理由をあきらかにした。「呑むとなんにもする気がなくなるから」「なんにも」といっても、本当に何もしないわけではない。だが、建設的な何かや生産的な何かをする気は薄れるし...Thedieiscast.

  • 積ん読 ~令和6年春~

    近ごろ、まとまった本を読んでいない。ちょこちょこと、エッセイのようなもののつまみ読みはしているのだが、まとまったものは読んでいない。とは言いつつ、読もうという意思がないわけではなく、先週の旅のお供には『道と日本史』(金田章裕)をもっていき、実際に読んでもみたが、6割ほど行ったところで中断した。推測するところその「読めない」は、もっぱらぼくの読書が、いつでも開けてどこでも閉じることができる電子書籍であることに起因するところ大なのではなかろうか。そう当たりをつけて、久しぶりに紙の本を買った。多くの方がお気づきのように、ここのところの論理展開はかなり大雑把で、たぶん見当外れにちがいない。だが、まあよいではないかと、紙の本を買った。あろうことか4冊もである。そのラインアップは『テクノロジーに利他はあるのか?』(未...積ん読~令和6年春~

  • 独り歩く

    雑踏のなかを独り歩くのが好きだ。大勢で歩くのでもなくふたりで歩くのでもなく、独りで歩く。かといって、ぼくがふだん住んでいる場所のように、外を歩いてもめったに人と出会うことがないようなところで、ひとり歩くのは好きではない。だいいち、それが夜の闇のなかともなれば、何が出てくるかわからず、独りでは怖くて歩けたものではない。何よりも雑踏、人ごみというのがよいのである。そしてそのときぼくは、決まって何かを考えながら歩いている。その何かの基となる対象は、そこで目に映るものであってもよいし、まったくちがうどこかの誰かのことでもよい。とにもかくにも、「独り」と「雑踏」という絶対条件の環境で「歩く」のである。逆に誰かと会話をしながらでは、そのたのしみがなくなってしまうし、独りであっても、周りが静かすぎるとたのしみは半減して...独り歩く

  • アナロジー思考でのぞむ「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」

    2つ以上の物ごとのあいだに共通点を見出し、そこに着目して自らが直面している問題の解決に応用する思考法をアナロジー思考という。ここで肝心なのは、その2つが、誰がどう見てもいかにも共通しているというようなものではなく、まったく異なっていると見えるようなことに共通点を見出すというところにある。独断と偏見で言わせてもらえば、ぼくたちが所属するこの業界、特に技術系には、それが苦手なひとが多いように感じる。いやいや、それは何も技術系ばかりではなく、経営層も事務方も含め、全体的にその傾向があるのではないか。そういう思考法を拒絶しているというべきだろうか。もしかしたら、そんな人間を侮蔑さえしているのかもしれない、と思わないでもない。オレ(アタシ)らとは畑違いでしょ。ぜんぜんカンケーないもん。だから参考になんかならないもん...アナロジー思考でのぞむ「三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎」

  • くさび

    ブログを更新せずにいたら、いつのまにか1週間ほどが経っていた。その前の週も似たりよったりなのだから、今月の更新カレンダーは、すき間だらけで目も当てられないものとなっている。なぜそうなったかというと、ここまで手が回らなかったからである。アタマが回らなかったと言った方が適切だろうか。どちらにしても、その根底にある問題は「ヤル気」である。このような場合、「ヤル気はあるのだが・・・」というのは言い訳にすぎない。そのあとにつづく文句が、「忙しい」であっても「他事忙殺」であっても、やらないということはすなわち、ヤル気がないというに等しい。思えばこういうのが、かつて多くの人がチャレンジしては挫けて折れた「ブログをつづけられない」(というこの場合の「ブログ」はもちろん象徴で、本来業務というか従来業務というか、それ以外の、...くさび

  • 金の茶碗

    ある事件を報じるテレビニュースに映し出されたその純金製の茶碗を見たとたん、ぼくの脳内に浮かんだのは三代目桂米朝の高座姿。演じているのは『はてなの茶碗』だった。******清水の茶店で安物の茶碗を見つめ「はてな」とつぶやいただけで帰ったのは、いかにも・・というような上品な身なり姿をした旦那。「あれは衣棚(ころものたな)の茶道具屋の主人である茶金さんや。ということはこの茶碗、値打ち物にちないない」と隣りで見ていた油売りが、有り金の二両を軍資金にして強引に茶碗を買って持ち帰り、茶金さんに買い取りを迫る。しかし、「あぁ、それなら傷もないのに漏るから、はてな、と首をかしげてながめていただけや」と聞いて意気消沈。それを目にした茶金さんは、地道に商売にはげめよと諭して三両で茶碗を買い取った。後日、こんな話がありましたと...金の茶碗

  • 選ばれる地域建設企業とは何か ~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

    毎年行っている「三方良しの公共事業推進カンファレンス」を、今年は宮崎市で5月16日に開催する。題して『選ばれる地域建設企業とは何か』。『誰もが働きやすく、地域に必要とされる企業になるために』という副題がつけられている。メニューは以下のとおりだ。まずはじめに、「ふるさと納税日本一」に輝く都城市の池田市長による特別講演。それにつづいて事例発表が3つ。最初が九州地方整備局大分河川国道事務所の取り組み、つづいて宮崎大学工学部の取り組み、3つめが地元で人気のスナックSUNの発表で、それらを受けたメニューの最後は、宮崎日日新聞社の編集局長を進行役に建設業若手経営者3人が語り合う座談会だ。そんななか、この企画にいっちょかんできたぼくでさえ興味津々なのが、都城市長の講演とスナックSUNの加藤ママによる発表だ。なんだ建設業...選ばれる地域建設企業とは何か~三方良しの公共事業推進カンファレンス2024宮崎~

  • 拗ね者

    やはりぼくは変わり者で捻くれ者だと、今日このごろはつくづく思う。それが世界的な時事であり、わが国の世相であり、あるいはごくごく卑近な出来事であっても、特別意図するところもないのに、気がつけば多数派の逆を考えていることが多い。こんなやつにもっとも相応しい生き方は、「世を拗ねる」だろう。それとも180度転がってその逆をいき、世を牽引する存在になるという手もないではない。だが、それにはそれ相応の能力や器量を有していることが必要だ。ということは、それ程の能力もなく器でもないぼくに、そもそもその道があるはずもなく、であれば、夜毎昼ごと酒を飲み、飲んでくだまき「世を拗ねる」というのが、それ相応の生き方だったはずのぼくを、なんとかマトモな社会人として踏みとどまらせてくれたのは、なんといっても、妻であり子らであり、つまり...拗ね者

  • ぜんぜんだいじょーぶ

    まず、ぼくの基本的な考えを表明しておく。時代の変化とともに言葉は変わる。あえて変える必要はないが、変わったとしても咎めだてをすることはない。これが言葉の使い方に対するぼくの基本的態度だし、それはこの場でも再三再四あらわしてきた(つもり)。とはいってもそれは、すべてに対してそうであるわけではなく、「ぜんぜんかまわない」とか「ぜんぜんだいじょーぶ」とかの、いわゆる「全然+肯定語」に対しては違和感が拭いきれず、これまでできるだけ使用しないようにしてきた。とはいえ、ここで「できるだけ」という曖昧な表現にとどめるのが、ぼくの優柔で煮え切らなさゆえで、周囲がそれを使うのになじんでしまったぼくの脳は、いけないこととは思いながら、ついついそれを口に出してしまったりもする。そんなものだから、他人がそれを使う分には、毎度耳に...ぜんぜんだいじょーぶ

  • I never make plans that far ahead.

    「まだはたらいてるんですか?たいへんですね」と言われたのは先々月、一回目の胆石発作で入院していたときのことだ。ベッドの脇にノートパソコンとモニターを置き、いかにも仕事に勤しんでいるかのようなぼくの姿を見た看護師の言葉である。一瞬、意味を計りかねたぼくは、その「まだ」が年齢のことをあらわしていることに気づき、妙齢の看護師に対して思わず苦笑いしながら、こう答えた。「そう、たいへんよ」そして、そうか世間一般では定年退職している齢なのだとあらためて思いが至った。もちろん、そう言った看護師になんらの悪気はなく、むしろその素直な物言いには好意すら感じられたのだが、はたしてそれは、ぼくのような年齢の男に対してもつ感覚として正しいのだろうか。すぐに調べてみた。『令和5年版高齢社会白書』によると、65~69歳の男性の就業者...Inevermakeplansthatfarahead.

  • 修業はつづくよ

    ずっと気にかかっている言葉がある現場のひとたちを撮るためファインダーをのぞくたびにその言葉が浮かんでくるといっても大げさではない。土木写真というジャンルがあるかどうかわからないが、あったとして、ぼくのそれは、いわゆる一般的に指すところの土木写真とはずいぶんと趣がちがう。意識して「顔」を撮るようにしてきたからだ。それがいつの頃からか、また、誰の影響でそうあろうとしたのかもはっきりとしている。山崎エリナさんが土木の現場を撮った作品を見たそのときから、ぼくもまたこうありたいと、人にフォーカスした写真を撮りはじめた。そういう意味で、彼女はぼくの師匠である。そうと公言したこともないし、本人の許可をもらってもいないが、歴然として師匠である。いや、「人にフォーカス」という意味では、その少し前から「現場ではたらく人」にフ...修業はつづくよ

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答えは現場にあり!技術屋日記
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