上画像はJR廿日市駅の裏手にある洞雲寺の昨日の風景画像で、イチョウの葉がきれいに黄葉していた。次画像は2008年11月に撮影したものであり参道のモミジの紅葉もあり絵になる風景であった。また、春も冬も絵になる風景であったが・・・洞雲寺の紅葉
上画像はJR廿日市駅の裏手にある洞雲寺の昨日の風景画像で、イチョウの葉がきれいに黄葉していた。次画像は2008年11月に撮影したものであり参道のモミジの紅葉もあり絵になる風景であった。また、春も冬も絵になる風景であったが・・・洞雲寺の紅葉
遥か昔、昨日紹介した折居の厳島神社前を通って、室谷地区の山中にある菊花紋のある墓碑を発見した人に案内してもらったことがある。墓碑の主は元治元年(1864)に葬られたようであるが俗名は刻されていなかった。山中であり菊花紋がみられるので山中で稼業していた木地屋の墓碑と思われるが、この地での木地屋の挽造活動についての資料は見当たらないのである。(西中国山地の木地屋参照)菊花紋の墓碑
浜田市折居町の国道9号線から県道303号線(一の瀬折居線)に向かって行くと道路脇に祀られている厳島神社で、弁天島と称されていたようであるが由緒などについては定かでない。ここの本殿も出雲大社の影響を受けているものとみられ本殿は大社造りに似た造りとなっている。各地の厳島神社㊲-折居の厳島神社
浜田市金城町七条に祀られている青原厳島神社で石見国神社記によると仁安3年(1168)9月17日安芸厳島より勧請したようである。明治43年(1910)に火災で全焼のため現在の社殿は大正6年(1917)に再建されたようで、本殿は出雲大社本殿と同じような大社造りで造られている。各地の厳島神社㊱-青原厳島神社
佐伯区楽々園で作陶されていた芸州焼西本瑛泉さんの夏茶碗を求めたもので、鶴首花瓶も同作者のものである。21日付の中国新聞文化欄に芸州焼を継承されている西本直文さんの東京での個展についての記事が掲載されており、西本瑛泉さんの作品も展示されているようである。(下画像)抹茶碗で一服⑤-芸州焼
以前に訪れた岩国市周東町祖生にある新宮神社の絵馬の中に厳島神社を描いた絵馬が掲額されている。明治18年(1885)に奉納されたものであるが、絵図には本地堂や鐘楼が描かれており廃仏毀釈以前の様子が描かれているのである。(厳島を描いた木版画参照)当神社は江戸期の地誌によると安芸の厳島勧請で祭神は三女神とあり、厳島神社との関わりがあったようである。厳島神社絵図の絵馬
宮島サービスエリアから久しぶりに見た平良丘陵開発の現在で、展望所からみるとクレーターのような大きな穴がみられ徐々に埋め立てられているようであった。西側方面(下画像)の手前現場では法面の工事が行われているようであった。平良丘陵開発の今
山陽自動車道の側道脇に立てられてい電柱の電線に黄色い養生がしてあり何の為だろうかと思っていた。ウォーキング途中に見てみると法面の雑木が伐採されているためのようであった。山林を崩し多くの樹木を伐採して自動車道が築造されたのであるから法面の雑木はそのままにしておけばと思ったのであるが・・・山陽自動車道の法面雑木伐採
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社の昨日のイチョウの紅葉状況で、もう少し先に見頃となりそうだ。近くの田んぼでは稲のひこばえに実がついているがこれから寒くなるので実ることはないだろう。河野原大歳神社の今
親の時代に田んぼの減反政策で梅やカリンの木を植えていた。古くなったカリンの木に今年も5~6個のカリンの実がなっていた。カリンは芳醇な香りをもっているが、生で食べようにも硬くて渋いため食べれないので、毎年ほったらかしにしているのである。カリン(花梨)
袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に二周回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引で結んで完成である。新米の米俵は今年も元気であった証としてしかるべき所に・・・米俵づくり②
今年もやっと秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作りはじめた。まず稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。藁のくずをアクタと親から聞いているが、地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというそうである。俵の胴体部になるコモを編む自作機具で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結んで中に筒型を入れ、コモの片端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていき袋状にする。米俵づくり①
速谷神社境内の昨日の紅葉状況であるが、モミジもイチョウももう少し先が見ごろになるのではなかろうか。境内には七五三参りのお子さん連れの参詣者が多く見られた。速谷神社境内の今
以前に棹干ししていた陸稲・陸植2代目黒米を少量であり機械は使用できないので手作業で脱穀した。上画像は陸稲で籾摺り・精米すれば少しは食べられそうである。下画像の陸植2代目黒米は空籾が多く、来年の陸植3代目黒米は無理かもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
ブログのネタが枯渇気味、一服飲んで・・・はるか昔、若い頃に耶馬渓の青の洞門や羅漢寺を訪れた時に、吉村松月園・耶馬渓焼の窯元があったので訪れた記念に求めていたものである。抹茶碗で一服④-耶馬渓焼
上画像・中画像は、かつて江波の二本松、瀬戸内の舟、安芸の小富士を描いた江波焼であるといわれていた皿で、一時江波焼に関心を寄せる人たちが多くコレクターも多くいた。しかし、佐賀県嬉野市塩田町の窯跡から採集された焼物片の中に、以前に江波焼とされていたものが含まれていたのである。また志田焼展にも江波焼であるといわれていた絵柄の皿がみられたのである。まぼろしの江波焼皿
広島市中区の江波山の東斜面に祀られている衣羽神社で、祭神は宗像三神(市杵島姫神・多紀理毘売神・多岐都比売神)のようである。当神社は安芸国神名帳にみられる佐東郡廿前・三位七前の衣羽明神とされているが、江戸期の地誌には明神社と記されている。旧暦6月17日に行われる厳島神社の管弦祭に江波の漕ぎ伝馬と阿賀の舟が管弦船を曳いており、看板表示によると当神社では漕ぎ伝馬に曳行される御座船と暗夜の火炎が織りなす火祭神事が旧暦6月29日に斎行されるようである。衣羽神社
江津市後地町尾浜地区の高台に祀られている厳島神社であるがどのような経緯でこの地に祀られたのかは定かでない。本殿脇には大岩があり古くは磐座信仰がされていたものではなかろうか。各地の厳島神社㉞-尾浜の厳島神社
親の時代に植えていた梅の木が枯れて数年になり、昨日草刈りをしていたら2本の枯れ木にサルノコシカケが出来ていた。また、草の中に下画像のようなクソナバが生えていたのでGoogleレンズで検索してみるとヒイロタケによく似ているが・・・サルノコシカケ
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。現在見る限り橋梁の各ジョイント部分の工事と各橋脚上部部分の工事が行われているようである。看板表示によると来年4月14日までの工期のようである。広島はつかいち大橋の今
子供の頃に使用した上画像のような歯磨き粉(今は缶のみ)を知っている人は少ないであろう。現在は歯磨き粉と言えばチュウブ式のものが主流である。歯磨き粉のおかげで現在24本の歯が健在であり歯科衛生連絡協議会から8020達成記念の記念品・表彰状を頂戴した。歯磨き粉空き缶
時折り紹介していた陸稲と陸植2代目黒米を刈り取って棹架けをしている。右側の3束陸稲は稲穂がなんとかついているが、左側の陸植2代目黒米は稲穂が実っているものが少なく陸植3代目は無理だろう。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
山形県南陽市にある東北の伊勢・熊野大社といわれている熊野神社境内には30柱の祭神が祀られているようであり、そのうちの境内社に厳島神社がある。看板表示によると祭神は市比島姫命、水難除けの神と記されていた。遠く離れたこの地にどのような経緯で祀られているのかは定かでない。各地の厳島神社㉝-熊野神社境内社の厳島神社
市道堂垣内広池山線の工事で可愛川に架かる橋の西岸橋脚を設ける(橋脚下部工事)ための準備作業が行われているようである。市道中央線の東側でも道路改良工事が行われている。市道堂垣内広池山線工事の今
山形県鶴岡市羽黒町の羽黒山にある出羽三山神社への参道を登り切って鳥居があり、すぐに出羽三山神社御開祖を祀った蜂子神社に並んで厳島神社(中画像左側)が祀られている。看板表示によると祭神は宗像三神(多紀理比売神・市寸島比売神・多岐津比売神)と津速魂神が祀られているようである。どのような経緯でこのような地の当境内に祀られたのかは定かでない。各地の厳島神社㉜-出羽三山神社境内の厳島神社
昨日もしめ縄づくりの準備作業を行ったが、連休初日でもあり神社には七五三参りのお子さん連れの人達が多く見られた。境内のモミジやイチョウの紅葉はもう少し先のようである。速谷神社の境内
年末に速谷神社へ奉納する注連縄を作るための稲わら藁そぎ(藁のあくた取り)が、温かいうちにとOld俱楽部の人達や有志などにより始まった。拝殿、斎館、儀式殿、注連柱、岩木神社、稲荷神社などに架ける大小8本の注連縄i用の準備作業である。速谷神社のしめ縄準備作業
昨日紹介したデコ芝居といわれる説教源氏節人形芝居で、三味線や太鼓のお囃子に合わせて襖が次々と左右に引かれ御殿座敷がいくつもあるようにみせる「はったんがえし」という舞台装置が見どころである。デコ芝居-はったんがえし
昨日触れた民俗芸能伝承館で眺楽座により演じられた演目は石井常右衛門「土手八丁五人斬りの段」で、語り太夫の独特の節回しで三味線太夫の三味に合わせ物語を語っていくのである。デコ芝居-説教源氏節人形芝居
原小学校に隣接している民俗芸能伝承館で昨日眺楽座により説教源氏節人形芝居が公演された。伝承館前のイチョウの木の紅葉はもう少し先になりそうだが今年は剪定されており下画像のような紅葉は見られない。廿日市市民俗芸能伝承館t眺楽座)
安芸高田市吉田町の街並みにある高林防の本堂に吊り下げられている喚鐘で、刻銘によると天保15年(1844)5月に廿日市の山田氏が鋳造したことがわかる。しかし山田氏の誰が鋳造したのかは定かでない。現在判明している限り廿日市鋳物師山田氏最後の鋳造作品である。廿日市鋳物師の鋳造作品⑫-高林坊の喚鐘
厳島神社西廻廊の曲がり角から陸地側に架かる反り橋には10ケ所の擬宝珠がありこの内1ケ所に廿日市鋳物師が鋳造したものがある。刻銘によると安永5年(1776)3月に廿日市鋳物師の山田氏藤原貞利が鋳造している。解体修理前は廻廊側に取り付けられていたが、解体修理後はなぜか陸地側に取り付けられているのである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑪-厳島神社反り橋の擬宝珠
ウォーキング途中の道路脇の畑にパパイヤ2本が植えられており今年も大きな青い実がふさふさと生っていた。数年前最初に見た時は何の実だろうかと思っていたが熱帯性植物でも育つものだ。パパイヤが!
昔ながらの稲ハデ架けをしており、先人から「ハデ廿日」と言われていたので、一昨日助っ人を得て稲こぎを行った。昔ながらの稲ハデ架けといってもハデ杭はアルミ三脚でナルは鋼管を使用しているのである。強制的に乾燥させたものでなく自然乾燥のおいしい米を今年もたっぷりと食べれそうだ。稲こぎ―脱穀
当プログ主は旅行で訪れた地のローカル新聞を求めるようにしているが、ただ集めるのみ・・・河口湖畔のホテルで山梨日日新聞を貰った。伊豆白浜のホテルではネット時代を反映してか経済紙・全国紙の一部のみでローカル新聞は置かれてないようであった。ローカル新聞-山梨日日新聞
鶴岡八幡宮境内にある祖霊社の鳥居で柱と笠木が円形で貫が長方形の靖国鳥居という鳥居の形式のようであるが柱に傾斜がある。靖国鳥居は別名が招魂鳥居、二柱鳥居とも呼ばれているようである。下画像は靖国神社の靖国鳥居である。鶴岡八幡宮-靖国鳥居
復元された箱根関所手前の道路に設けられた側溝であろうか、彩色された見たことがないような側溝蓋?がみられた。駅鈴、合鑑、御用提灯・十手、駕籠など旅に関する絵柄が表されていた。彩色側溝蓋?
喜生園跡の源範頼の墓福蔵寺の源範頼の墓昨日、修善寺温泉街はずれにある、源頼朝の異母弟で源義経の異母兄である源範頼の墓を訪れたことを紹介したが、源範頼は当地と何らかの関りがあったものとみられるのである。かつての桜尾城は源範頼の後裔である吉見氏が築城したと伝えられている。また佐伯区三宅の喜生園跡に源範頼の墓といわれる五輪塔があり、西区古江上の福蔵寺にも源範頼の墓といわれる五輪塔がある。源範頼の墓
伊豆半島に位置する修善寺温泉街を散策した。一行は竹林の小径から修禅寺を参詣して河原にある独鈷の湯などを見物した。当ブログ主は放浪癖が疼きだし源範頼墓、指月殿、源頼家墓、登録有形文化財の新井旅館・甘泉楼外観などを見物した。修善寺温泉街散策
富士山5合目に祀られている小御嶽神社社殿前の鳥居で、通常みられる明神鳥居の両側に脇鳥居を取り付けたものである。三輪鳥居によく似た形状であるので三輪形鳥居と称した。小御嶽神社の三輪形鳥居
富士山5合目を訪れたが雨と濃霧で散策することも出来ず小御嶽神社を参詣して裏手の樹木を見るとみたことがないような不思議なものがみられた。寄生植物?コケの一種なのだろうか?外国の人が多く売店内では外国にいるのかと思うような状態であった。不思議な植物???
昨日は河口湖畔のホテルに宿泊した。晴れていれば富士山が見えたのであるが曇天で・・・富士山五合目も雨天であり何も見えなかった。外人ばかりで、外国に居るのかと・・・慣れないタブレットより更新。富士山周辺部観光
昨日は岩国空港から羽田空港を経て鎌倉見物した。東京に居る孫が来てくれ久しぶりにあった。宿泊は河口湖畔。明日はどこに行くのだろうか。慣れぬタブレットより更新。鎌倉見物
陸稲陸植え2代目黒米田んぼに植えた稲は稲刈りが終わった頃であるが、当ブログ主菜園の陸稲と陸植え2代目黒米はもう少し先に稲刈りとなりそうである。陸稲は稲穂が実っているので来年用の種籾は採れそうであるが、陸植え2代目黒米の稲穂はまばらであり来年用の種籾は採れ無いかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植え2代目黒米
休耕している田んぼをイノシシが掘り返すので鹿威しを作ってみた。しかし竹が小さくてイノシシを威嚇するほどの音が出なかった。心地よいリズムでイノシシはやりたい放題掘り返していた。鹿威し
早朝ウォーキングをしていると日の出前の朝焼けがきれいであった。道中の田んぼではハデ杭とナルを使用した伝統的なハデ架けがみられた。当ブログ主はアルミ三脚に鉄管を使用したハデ架けでありあまり絵にならないのである。稲のハデ架け
一昨日は速谷神社の例祭(阿岐祭)で本年は創建1800年奉祝奉幣祭が斎行された。昨日は神輿の巡行が行われ、境内には一区から三区の子供会による俵神輿が集った。当地区の子供会の人数が少ないので子供会OB達の協力を得て行われた。速谷神社秋祭り
昨日は速谷神社の例祭(阿岐祭)で本年は創建1800年奉祝奉幣祭が斎行された。夜には有福神楽保持者会による奉祝神楽が「四剣・尊神・茣蓙・天蓋・柿本・人倫・恵比寿・神武・大蛇」など演じられた。速谷神社奉祝神楽
上画像はウォーキング途中の平良・原地区境付近に設置されていた貯水槽の現状で、途中の道路では順次配管埋設工事が行われているようである。下画像は原低区配水池の現状で看板表示によるとこれから両ケ所で電気機械設備工事が行われるようである。原低区配水池工事
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)で本年は創建1800年奉祝奉幣祭が斎行される。境内入口脇には新調された幟が立てられ、道路沿いの各所に小さな幟が立てられている。以前は講中で幟を各所に立てていたが、講中組織が無くなり幟が朽ちて幟が立てられなくなった。そこで各自が立てられるようにと小さな幟を発案され、各家の前に立てられているのである。関連行事として奉祝神楽・餅まきなどが行われる。速谷神社-秋祭り(阿岐祭)
原地区を早朝ウォーキングしていたら伊勢神社の奉納神楽案内のポスターが掲示されていた。「よごろ」に伊勢神社神楽団によって奉納される演目は安芸十二神祗神楽の形を忠実に伝承されていることなどから広島県無形民俗文化財に指定されている。下画像は過去に演じられていた時の画像である。伊勢神社奉納神楽
来る12日の創建1800年奉祝奉幣大祭の前に神門の大しめ縄が新しく作られたしめ縄に架け替えられた。出雲大社神楽殿の大しめを制作されている島根県飯南町の大しめなわ創作館で作られたものである。(下画像)速谷神社神門の大しめ縄
秋祭りも近づいて昨日幟立てを紹介したが、天神山の天満宮では干しダコに似たような独特の吹き流しが吊り下げられている。天神山は街中にある高台であり天満宮の吹き流しは街の各所から見ることができ、秋の訪れを知らせてくれる風物詩である。下画像は以前の画像で風になびく吹き流し。天神さんの吹き流し
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)であり、当ブログ主の組内の人達により昨日幟立てが行われた。今年は速谷神社においては創建1800年奉祝奉幣祭が斎行され、関連行事として桃祓祭、奉祝神楽、餠まき、奉祝神輿、子供神輿などが行われる。秋祭り-幟たて
地御前神社近くの民家の外壁下部に木造船の底板部分とみられる舟板が使用されていた。潮に漬かっていたので耐久性があるのだろう。下画像は琵琶湖畔の長浜市街並みで見た蔵造りの外腰壁に大量の舟板が使用されていた。舟板を使用した建物
江津市の旧市庁舎で著名な建築家吉阪隆正氏が設計したピロティ式のユニークなデザインの建物で、構造設計者は苦労したであろう。歴史的に貴重な建築物として注目されているが、市の財政状況などから耐震補強などをして市が保有することは困難なようであり、民間譲渡をする方針のようである。石見路探訪―旧江津市庁舎
温泉津温泉は5年ぶりであり以前は向かい側の薬師湯に入湯したので今回は元湯温泉湯治の湯に入湯した。昔からの湯治温泉であり、現在の温泉場のように洗い場も完備されてなく熱い湯舟とぬるい湯舟、適温の湯舟があり、長年の温泉成分がこびり付いた味わいのある温泉である。元湯温泉裏側には温光寺の薬師堂と地蔵堂がある。石見路探訪―温泉津温泉
鞆ケ浦は石見銀山開発当初に銀鉱石が積み出された港のようで、海上交通の安全を祈った厳島神社が鞆ケ浦入口の鵜の島に祀られている。厳島神社に参詣しようと思ったが鵜の島への橋脚が老朽化のため通行止めとなっていた。(厳島神社画像―鞆館HP画像より)鳴き砂の琴ケ浜には遥か昔に訪れたことがあるが、琴ケ浜のはずれ付近を久しぶりに訪れた。石州路探訪―鞆ケ浦・琴ケ浜
アナゴといえば瀬戸内産・・・ところが島根県はアナゴ漁獲量が全国有数の産地で、その半数は大田市で水揚げされているようである。久しぶりに大田の大アナゴの穴子寿司と穴子丼をそれぞれ食した。我が市内で穴子弁当を買ってみたら瀬戸内産でなく外国産の穴子が使用されていたのにはびっくり!石州路探訪―大田の大アナゴ
2014年10月3日撮影2015年9月22日撮影助っ人頼りで久しぶりに石州路探訪をし、大田市温泉津町西田地区で伝承されているヨズクハゼを見に行った。「コミュニテイ・よずくの里」の敷地内に大小2基、隣接する田んぼに大小4基のヨズクハゼが建てられていた。以前に訪れた時には多くのヨズクハゼがみられたが現在は休耕田となっているのだろうか。石州路探訪―ヨズクハゼ
今月22日に種蒔きした廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根の双葉が出てきたので、もう少ししてから間引き最終的には5株位にして育てる予定である。桜島大根は鹿児島旅行した際に切葉松本地大根は信州旅行した際に種を購入して育てその種を毎年採っているもので、食もせず手間暇かけてこの地でどのように育っていくのか見るだけ・・・まさに遊びの菜園である。遊びの菜園―桜島大根・切葉松本地大根の今
宮島線線路わきに上画像のような見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索すると熱帯性花木のデュランタのようであり、観賞用に植えられたものであろうか。下画像の花はウォーキング途中でみかけた小さな花で、Googleレンズで検索するとアルバルコウのようである。路傍の花―デュランタ・アルバルコウ
広電宮島線のマクラギで地御前駅から地御前神社前の間ではPCマクラギの間に木製のマクラギが1~3本設けられているところがあり、従来の木製マクラギが連続して設けられているところもあった。広電宮島線のマクラギ
早朝ウォーキングで宮島サービスエリア展望所に行き広島湾を遠望。手前は平良丘陵開発用地で、左側山向こうには五日市港の自動車運搬船がみえる。その先斜め線上には津久根島から安芸の小富士(似島)、灰ケ峰がみられる。中央島影のくびれた先には四国の石鎚山系の山並みがうっすらとみられる。宮島SAから広島湾遠望
広電宮島線の架線用電柱はコンクリートポールとなっているが、所々に以前からのレトロな鉄骨柱が残されている。地御前駅から地御前神社前の間に数か所みられ、路面電車開設当時に使用していた段付きレール(ステップレール)を利用して組立てた柱やI型鋼の柱などがみられる。広電宮島線の架線電柱
昨日紹介した関連で、厳島図会などの絵図にみられる地御前神社の釈迦堂は現在の地御前小学校の地にあった。(赤丸ケ所)明治18年(1885)に地御前小学校設置のために旧国道と山陽本線の間の現在地に移転されたようである。(釈迦如来坐像画像―廿日市の仏像より)絵図中の地御前神社釈迦堂
昨日紹介した、かつて地御前神社にあった梵鐘が架けられていた鐘楼(鐘撞堂)が厳島図会などの絵図にみられる。(赤丸ケ所)厳島図会には鐘楼「古鐘は天文年間大内義隆の寄付なりしが、宝暦年中囘禄に罹れり」とある。かつての鐘楼は現在の地御前小学校付近にあったものとみられる。絵図中の地御前神社鐘楼
福山市沼隈町にある西光寺の梵鐘は天文13年(1544)6月29日に地御前神社の梵鐘として大内義隆・佐伯景教が施主で大工直家が鋳造したものである。江戸期の地誌によると宝暦年中に地御前神社が焼失し、その後この梵鐘は四日市村(東広島市西条町)の真光寺にあったようである。看板表示によると幕末の梵鐘供出で流転していたものを明治中頃に当寺に求められたようである。大工の直家は他の鋳造作品などから類推すると久枝直家とみられるのである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑩-西光寺の梵鐘
秋祭りには子供会で俵もみをするようで俵もみの歌の練習が始まった。当地方で先人たちが伝えてきた歌を伝承しているのである。俵神輿を上げる前に花を頂いた方々にお礼の所望と木遣り口上、俵神輿を担いで練り歩くく時の流し歌などなどを練習している。俵もみの歌
佐伯区湯来町の湯の山温泉の後方に祀られている湯の山神社の本殿に吊り下げられている釣燈籠で、刻銘によると寛延3年(1750)5月に廿日市山田氏が鋳造している。吉長公御代記によると藩主浅野吉長が水内湯明神鉄燈籠の寄進について廿日市鋳物師の平左衛門に褒美銀が下賜されているので、山田平左衛門貞幹が鋳造したものとみられるのである。※平成18年(2006)6月22日に当ブログを開設してから本日で6666日目となりました。多くの方々の御来訪に支えられながらこれまで継続することができ、これからもできる限り更新していきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。同じ数字が並んでなんだか今日は良いことがありそうだ・・・廿日市鋳物師の鋳造作品⑨-湯の山神社の釣燈籠
彼岸に入ったけれど例年ならウォーキング途中の田んぼの脇に上画像のように彼岸花が群生している。しかし今年は長引く酷暑の影響なのだろうか下画像のように数本しか咲いていないのである。彼岸花が夏バテ!!
田んぼの脇でチョロチョロする小動物がおり、画像を撮ることが出来たのでGoogleレンズで検索してみるとシベリアイタチのようである。今年もスイカはことごとく食われてしまい一口も口にすることが出来なかった。アナグマやシベリアイタチにやられたようだ。シベリアイタチか?
早朝ウォーキング途中で今まで気が付かなかったが、道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索するとキカラスウリの花のようであり、実がなるようなので気を付けてみていこう。路傍の花―キカラスウリ
熊本地震で壊滅的な被害を受けた熊本城では各所で復興に向けての復旧工事が行われていた。現在は復旧工事に支障のないところに見物用の通路が設けられており、復旧が終わっている天守閣に汗だくで登った。天守閣の下層には巨大なブレースが設けられており最上階は新しく築造されたようであった。復興中の熊本城
休憩で道の駅阿蘇に寄ったので隣接する豊肥本線の阿蘇駅に向かった。駅前ロータリーには黄金色の不思議な像があった。ウソップ像というようで詳しくはネット検索してみてください。丁度ホームには宮地発肥後大津行きの列車が入ってきた。前日通った道沿いには豊肥本線のスイッチバックがあったようだ。豊肥本線―阿蘇駅
阿蘇中岳火口を訪れたのは何十年ぶりであろうか。現在はシャトルバスで火口まで訪れるのであるが以前はロープウェイで登っていた。阿蘇山ロープウェイ仮事務所と表示された建物があった。ロープウェイがあった名残りが表示として残されていた。阿蘇中岳火口
先日、サントリーの熊本・阿蘇ビール工場を見物したことを紹介したが、当工場は阿蘇山からの天然水を使用して製造されており、天然水のビール工場と称されている。工場内はオートメ化されており、作業をする人影は一部でみられるのみであった。ビールには関係ないがサントリーの前身である寿屋時代のTORYSの空瓶が物入の中にあった。(下画像)サントリー(天然水のビール工場)熊本・阿蘇
若い頃に岡山方面を巡り備前焼の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、この茶碗は備前焼窯元興楽園14代木村友敬の作品である。備前焼関連で先日由迦神社の鳥居と狛犬を紹介した。抹茶碗で一服④-備前焼
昨日は地域のお世話をしている人達とサントリー熊本工場を見物した。当方は飲めないので試飲はノンアルコールを・・・慣れないタブレットより更新熊本方面旅行
原地区の川末側と泉水峠側から林道工事が行われていることは以前にも紹介したが、山中の工事であり進捗状況は定かでなく現在の遠望画像である。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線開設工事の遠望
若い頃に北九州の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、福岡県田川郡赤池町(現福智町)上野皿山にある上野焼は遠州七窯の一と言われ三窯元を巡ったように記憶している。この茶碗は高鶴窯の高鶴夏山の作品である。抹茶碗で一服③-上野焼
公共工事に伴って取り壊された土蔵に設けられていた龍と弁財天が表されている蔵飾りで、取り壊しの際に蔵飾り部分を切り取っておられた。他の場所に新築された物置の妻壁面にこの蔵飾りが復元設置され彩色も施されている。通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称している。移設保存されている蔵飾り
岩国市錦町宇佐にある宇佐神社本殿脇に祀られている境内社で厳島大明神夏焼社と表示してある。江戸期の地誌によると夏焼地区に中御前社がみられ、祭神は市杵島姫命、祭日が6月17日とある。明治期に中御前社と他二社とが合祀し夏焼社と改号し、いつの時代かに境内社として祀られ厳島大明神夏焼社と称されるようになったようである。各地の厳島神社㉛-宇佐神社境内社の厳島神社
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右エ門が鋳造している。この梵鐘も喚鐘と同じ山田貞栄が鋳造している。この梵鐘は鐘楼内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑧-国前寺の梵鐘
田んぼの稲は穂が実りつつあるが、畑に植えた陸稲と陸植え2代目黒米の現在である。陸稲の背丈は低いが穂が出つつある。上画像の左側の陸植え2代目黒米は背丈も低く稲穂は出ないかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園―陸稲の今
早朝ウォーキングで宮島サービスエリアに行き平良丘陵開発地を遠望すると、以前に仮設建物のようなものが築造されていると紹介したことがある。仮設の足場状の所にディスプレイが設置されており何かの画像が放映されていた。早朝の用地内で誰もいないところで(?_?)平良丘陵開発の今
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の庫裡に架けられている喚鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右衛門藤原貞栄が鋳造している。この喚鐘は庫裡内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑦-国前寺の喚鐘
吉野山に設置されている中電の高圧線鉄塔(画像向こう側)が移設されることを以前に紹介したが、現在画像の手前側に見える掘削機があるところで基礎工事がおこなわれているものとみられる。吉野山の鉄塔移設工事の今
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。岩国市美和歴史民俗資料館に展示されている生見の鉄燈籠で、以前に訪れた時は美和町生見中村の覆屋の中に設置されておりその時に作図した。当時は鉄燈籠の腐食が激しかったが後に修復されて歴史民俗資料館に展示されるようになった。腐食が進んで鉄燈籠の鋳出銘文は見えないが、江戸期の地誌に「天文十五丙午八月吉日廿日市之住大工綱家」とあり、天文15年(1546)に廿日市鋳物師の久枝綱家が鋳造したことがわかる。(覆屋鉄燈籠画像―山口県文化財要録より)廿日市鋳物師の鋳造作品⑥-生見の鉄燈籠
台風一過、早朝ウォーキング途中で原小学校プール脇の原低区配水池工事現場では配水タンクの設置工事中であった。また川末川に架かる下ケ原橋からここの場所までの道路にはアスファルトの切断がされていたので給水パイプの埋設工事が行われるのであろう。原低区配水池工事の今
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市西区草津本町にある浄教寺の鐘楼門に架けられている梵鐘で、狭い鐘楼内で画像が撮りづらかった。刻銘によると享保元年(1716)に山田治右衛門貞能が鋳造しており、中帯下段には唐草文様が抽出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品⑤-浄教寺の梵鐘
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。三原市幸崎能地地区にある善行寺の本堂に架けられている喚鐘で、刻銘によると延享3年(1746)に山田次右衛門貞幹が鋳造している。草の間には唐草のくずし文様が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品④-善行寺の喚鐘
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市佐伯区湯来町の多田地区にある多田八幡神社の鰐口で、寛保2年(1742)8月に上多田四原総氏子中が寄進している。冶工は廿日市山田氏と鋳出されているので、当時の鋳物師山田次右衛門貞幹が鋳造したものとみられる。廿日市鋳物師の鋳造作品③-多田八幡神社の鰐口
先日、田んぼの防護柵を壊してならず者が田んぼの中を歩き回っていた。まだ稲の穂が出たばかりであり稲の被害はなかったがもう少し実ってくると大変だ。一昨日捕獲檻のセットをして貰いならず者を御用とした。6月以降この場所での捕獲は7匹目であり吉野山には多く生息しているものだ。ならず者御用だ!
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市安佐北区深川2丁目にある善徳寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、寛永11年(1634)7月に広島市中区の白神神社の鐘として山田次右衛門尉が鋳造したものである。どのような経緯で当寺に移ったのかは定かでない。梵鐘の中帯上部には仏型座像と中帯下部には蓮弁のくずし文が鋳出されている。廿日市鋳物師の鋳造作品②-善徳の梵鐘
昨日紹介した辻地蔵がある橋本はかつて石州往還道と山縣道が分岐する交通の要所で賑わっていたところである。辻地蔵はかつて道路向い側にあり、地蔵の基礎石には「是ヨリ右山縣道左石州道」とある。江戸期には『原で橋本田舎で名所、出馬入馬市がたつ』と唄われるほどの賑わいであったようで、昭和中頃まで役場、郵便局、農協、商店、医院、駐在所、理髪店、鍛冶屋などあったが今や商店一軒のみで閑散としている。橋本辻地蔵
昨日は原地区にある橋本辻地蔵の地蔵まつりが近所の人達で行われた。当ブログ主が子供の頃、地蔵まつりは原村の一大イベントで盆踊りや子供相撲などが行われ、一番の楽しみは麦藁クジで、麦藁クジは小さく小切った麦藁の中に当たりクジが入っていたものであった。最終のバスが通った後に道路一杯に麦藁が撒かれ一斉に我先にと搔き集めて当たりクジを探すもので、当たりクジがあれば生活用品が貰えていた。橋本辻地蔵まつり
先日紹介した蓮台寺の境内にレトロな車が置かれて「アンバサダー釈CARしゃ(インドの車)」と表示してあった。Wikipediaによるとヒンドゥスタン・アンバサダーはインドのヒンドゥスタン・モーターズが1958年から2014年まで生産した自動車で、インドの国民車として生産されていたようである。インドの国民車アンバサダーが!
家の周りを見たことがないような小動物がうろついていた。孫が画像を撮って何かと検索してくれたがすぐには分からなかった。夏休みで博多から来ている孫たちは携帯ばっかりいらっており何をしに来たのかと昭和初期人間は・・・しかし、色々と調べてくれ疥癬病を発症しているキツネではなかろうかと教えてくれた。疥癬病発症のキツネか?
瑜伽大権現は明治期の神仏分離令により由加神社と蓮台寺に分離されているが、山内の広くに蓮台寺の施設が散在しておりその中に由加神社の境内があり、神仏混合の瑜伽大権現時代の名残りである。客殿は本瓦葺裳階付入母屋造の堂々たる建造物で県の重文に指定されているようであり、多宝塔は県内最大の規模のようで県の重文に指定されている。瑜伽大権現―「蓮台寺」・由加神社
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上画像はJR廿日市駅の裏手にある洞雲寺の昨日の風景画像で、イチョウの葉がきれいに黄葉していた。次画像は2008年11月に撮影したものであり参道のモミジの紅葉もあり絵になる風景であった。また、春も冬も絵になる風景であったが・・・洞雲寺の紅葉
遥か昔、昨日紹介した折居の厳島神社前を通って、室谷地区の山中にある菊花紋のある墓碑を発見した人に案内してもらったことがある。墓碑の主は元治元年(1864)に葬られたようであるが俗名は刻されていなかった。山中であり菊花紋がみられるので山中で稼業していた木地屋の墓碑と思われるが、この地での木地屋の挽造活動についての資料は見当たらないのである。(西中国山地の木地屋参照)菊花紋の墓碑
浜田市折居町の国道9号線から県道303号線(一の瀬折居線)に向かって行くと道路脇に祀られている厳島神社で、弁天島と称されていたようであるが由緒などについては定かでない。ここの本殿も出雲大社の影響を受けているものとみられ本殿は大社造りに似た造りとなっている。各地の厳島神社㊲-折居の厳島神社
浜田市金城町七条に祀られている青原厳島神社で石見国神社記によると仁安3年(1168)9月17日安芸厳島より勧請したようである。明治43年(1910)に火災で全焼のため現在の社殿は大正6年(1917)に再建されたようで、本殿は出雲大社本殿と同じような大社造りで造られている。各地の厳島神社㊱-青原厳島神社
佐伯区楽々園で作陶されていた芸州焼西本瑛泉さんの夏茶碗を求めたもので、鶴首花瓶も同作者のものである。21日付の中国新聞文化欄に芸州焼を継承されている西本直文さんの東京での個展についての記事が掲載されており、西本瑛泉さんの作品も展示されているようである。(下画像)抹茶碗で一服⑤-芸州焼
以前に訪れた岩国市周東町祖生にある新宮神社の絵馬の中に厳島神社を描いた絵馬が掲額されている。明治18年(1885)に奉納されたものであるが、絵図には本地堂や鐘楼が描かれており廃仏毀釈以前の様子が描かれているのである。(厳島を描いた木版画参照)当神社は江戸期の地誌によると安芸の厳島勧請で祭神は三女神とあり、厳島神社との関わりがあったようである。厳島神社絵図の絵馬
宮島サービスエリアから久しぶりに見た平良丘陵開発の現在で、展望所からみるとクレーターのような大きな穴がみられ徐々に埋め立てられているようであった。西側方面(下画像)の手前現場では法面の工事が行われているようであった。平良丘陵開発の今
山陽自動車道の側道脇に立てられてい電柱の電線に黄色い養生がしてあり何の為だろうかと思っていた。ウォーキング途中に見てみると法面の雑木が伐採されているためのようであった。山林を崩し多くの樹木を伐採して自動車道が築造されたのであるから法面の雑木はそのままにしておけばと思ったのであるが・・・山陽自動車道の法面雑木伐採
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社の昨日のイチョウの紅葉状況で、もう少し先に見頃となりそうだ。近くの田んぼでは稲のひこばえに実がついているがこれから寒くなるので実ることはないだろう。河野原大歳神社の今
親の時代に田んぼの減反政策で梅やカリンの木を植えていた。古くなったカリンの木に今年も5~6個のカリンの実がなっていた。カリンは芳醇な香りをもっているが、生で食べようにも硬くて渋いため食べれないので、毎年ほったらかしにしているのである。カリン(花梨)
袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に二周回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引で結んで完成である。新米の米俵は今年も元気であった証としてしかるべき所に・・・米俵づくり②
今年もやっと秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作りはじめた。まず稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。藁のくずをアクタと親から聞いているが、地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというそうである。俵の胴体部になるコモを編む自作機具で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結んで中に筒型を入れ、コモの片端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていき袋状にする。米俵づくり①
速谷神社境内の昨日の紅葉状況であるが、モミジもイチョウももう少し先が見ごろになるのではなかろうか。境内には七五三参りのお子さん連れの参詣者が多く見られた。速谷神社境内の今
以前に棹干ししていた陸稲・陸植2代目黒米を少量であり機械は使用できないので手作業で脱穀した。上画像は陸稲で籾摺り・精米すれば少しは食べられそうである。下画像の陸植2代目黒米は空籾が多く、来年の陸植3代目黒米は無理かもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園-陸稲・陸植2代目黒米の今
ブログのネタが枯渇気味、一服飲んで・・・はるか昔、若い頃に耶馬渓の青の洞門や羅漢寺を訪れた時に、吉村松月園・耶馬渓焼の窯元があったので訪れた記念に求めていたものである。抹茶碗で一服④-耶馬渓焼
上画像・中画像は、かつて江波の二本松、瀬戸内の舟、安芸の小富士を描いた江波焼であるといわれていた皿で、一時江波焼に関心を寄せる人たちが多くコレクターも多くいた。しかし、佐賀県嬉野市塩田町の窯跡から採集された焼物片の中に、以前に江波焼とされていたものが含まれていたのである。また志田焼展にも江波焼であるといわれていた絵柄の皿がみられたのである。まぼろしの江波焼皿
広島市中区の江波山の東斜面に祀られている衣羽神社で、祭神は宗像三神(市杵島姫神・多紀理毘売神・多岐都比売神)のようである。当神社は安芸国神名帳にみられる佐東郡廿前・三位七前の衣羽明神とされているが、江戸期の地誌には明神社と記されている。旧暦6月17日に行われる厳島神社の管弦祭に江波の漕ぎ伝馬と阿賀の舟が管弦船を曳いており、看板表示によると当神社では漕ぎ伝馬に曳行される御座船と暗夜の火炎が織りなす火祭神事が旧暦6月29日に斎行されるようである。衣羽神社
江津市後地町尾浜地区の高台に祀られている厳島神社であるがどのような経緯でこの地に祀られたのかは定かでない。本殿脇には大岩があり古くは磐座信仰がされていたものではなかろうか。各地の厳島神社㉞-尾浜の厳島神社
親の時代に植えていた梅の木が枯れて数年になり、昨日草刈りをしていたら2本の枯れ木にサルノコシカケが出来ていた。また、草の中に下画像のようなクソナバが生えていたのでGoogleレンズで検索してみるとヒイロタケによく似ているが・・・サルノコシカケ
時折紹介している臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側海上部橋桁架設工事の昨日の進捗状況である。現在見る限り橋梁の各ジョイント部分の工事と各橋脚上部部分の工事が行われているようである。看板表示によると来年4月14日までの工期のようである。広島はつかいち大橋の今
時折り紹介している上平良河野原地区にある大歳神社のイチョウの葉が昨日の風で落ちて境内から周辺にかけて綺麗な絨毯状になっていた。木についた黄葉画像と思ったが少し遅かったようである。イチョウの葉絨毯
広原神社原神社佐古田神社先日紹介した大竹市の飛地である広原の広原神社・奥谷尻の原神社・後原地区の佐古田神社においては珍しい山鎮めの神事が行われている。悪霊を迎え神楽で囃しての鎮めの儀式で悪霊力を藁蛇に乗り移らせて神木などに巻き付けて鎮送するという神事が行われている。山鎮め習俗
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄の準備が地域のOLD倶楽部有志により始まった。境内の神池周辺のモミジは綺麗に紅葉していた。注連縄づくりには稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする作業で、藁のくずをアクタと先輩たちは言っておられた。地方によると藁すぼといわれ藁の芯を藁しべというところもあるようである。注連縄づくりの準備
①②③④大竹市の飛地である後原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落であり、広原、奥谷尻地区とは少し変わった道切り習俗である。この地域では関札は御幣(佐古田神社で祈祷した御幣)で集落に通じる村境と井手口に関札を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②③④画像は井手名不明であるが井手口に立てられた関札である。道切り習俗③-後原
大竹市の飛地である奥谷尻地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、広原地区と同じように集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札、③画像は東口に立てられた関札である。④画像は西口に立てられた関札であるが、以前は小瀬川の渡り口に立てられていたが県道の改修で現在は田んぼの脇に立てられるようになっていた。道切り習俗②-奥谷尻
昨日は勤労感謝の日で、速谷神社ではその年の新穀を神前に供えて収穫に感謝する新嘗祭が斎行され、境内には七五三参りの子供さん連れの御家族が多く見られた。境内参道のモミジの紅葉やイチョウの葉がきれいに紅葉していた。速谷神社の紅葉
①②③大竹市の飛地である広原地区は大野地域内山間部の中にある小さな集落で、古くから集落に通じる村境に悪霊や悪疫の侵入を防ぐため関札(広原神社で祈祷した御札)を立てる習俗が行われている。①画像は北口に立てられた関札、②画像は南口に立てられた関札である。西口には現在猪侵入防止の金網が設置してあり近づくことができないので最近関札が立てられているのかは不明である。③画像は過去に訪れた時の画像である。道切り習俗①-広原
山林を歩いていると倒木にみたことが無いような茶色と白色のくそナバが生えていた。Googleレンズで検索してみたが茶色のキノコはシュタケ、ヒイロタケ、アケボノオシロイタケ、マスタケなどのどれであろうか。白色のキノコはシハイタケであろうか。⁉倒木にキノコが‼
ウォーキング途中の原地区森宗から極楽寺山南麓を遠望。矢印のある高い山が中世の山城である星ケ城跡で広島湾、廿日市、五日市の平地部や石内筋が展望できる場所であり見張所的な城だったのであろうか。右側矢印ケ所は弥生中期から後期頃の高地性集落があったとみられている高尾山遺跡である。極楽寺山系遠望
平良地区と原地区の境にある標高156mの小山で、江戸期の原村の地誌に「ごごろ山」とある。戦前にゴゴロ山の西麓で弥生式壷形土器(下画像上側-廿日市の文化第1集)が出土したようであり、また、古くはゴゴロ山丘陵の先端であったと思われる田んぼで須恵器(下画像下側)が出土しているのである。ゴゴロ山
ウォーキング途中の原地区国実の県道294号虫道・廿日市線から瀬戸内方面を遠望。道路脇にあるイチョウが紅葉していた。県道の先にはゴゴロ山がみられその先には木材港南の広島ガスの丸いタンクがみられ、広島湾の先には安芸の小富士に似た江田島の大須山がみられる。瀬戸内遠望
平良丘陵開発用地に向かう市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋梁の下部工事が行われており、看板表示によると現在場所打杭の工事が行われているようである。この工事個所より東側では一部分の道路整備が進んでいた。市道堂垣内広池山線工事の今
今秋は比較的に好天に恵まれ秋の収穫が終わったので例年の如く米俵を作った。稲藁の芯を使うためにアクタを取り除いて準備をする。俵の胴体部のコモを編む機具(コモカセ・コモガセ)で、ヒモの上に藁をのせて紐を法則的に交差させ、藁の向きを交互にして必要目数まで順次編み上げていく。編みあがったコモを筒状に編み紐で結ぶ。コモの端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていく。片端部を編み上げて袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰める。米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げていく。胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を十の字として端部の編み上げ端を通し、横縄部分で一回りして他端中央で飾り縄に紐で結び、横縄を中央部に回して男結びとする。突起の飾り縄部分に色紙を巻き水引...令和5年米俵づくり
時折り平良丘陵開発予定地の山林が伐採されて一部掘削されている画像を紹介しているが、上画像は藤掛交差点付近からの遠望である。大きく掘削されている広池地区から右端の掘削されている間の山林も用地内であり伐採掘削されるのである。後方の高い山が星ケ城跡で右側が極楽寺のある山である。平良丘陵開発の今
以前に原地区水道施設について紹介したが、先日ウォーキングしていると原地区の市道50第一路線でアスファルト路面がカッターで切断されていた。上平良地区小原のポンプ所の敷地から送配水管の敷設工事が行われるようである。原地区送配水管拡張工事
ウォーキング途中の原地区橋本で芸陽醤油の創立以前に醤油醸造をしていた元西家の玄関脇に芸陽醤油の看板が置かれていた。この看板によるとかつて芸陽醤油では最上醤油という銘柄の醤油を醸造していたようであり、ここ西吉太郎商店で販売していたようである。芸陽醤油の銘柄看板が‼
上下の町は銀山街道の中継地点で代官所が置かれた天領の地で栄えていたようであり、町並みでは袖ウダツを設けた町屋がみられた。上下町並みの袖ウダツは脇町でみられたような重厚なものでなく形状もほぼ同じようなものが設けられていた。上下探訪-袖ウダツの町屋
昭和2年(1927)に開場したという翁座は芝居小屋、劇場、映画館として使用され昭和35年(1960)に閉館されたようで、現在国登録有形文化財になっている。翁座の公演記録は残されていないようであるが、当市上平良出身の女剣劇の女王「不二洋子」が公演していたかも知れないのである。上下探訪-翁座
今高野山の塔頭寺院である西福院跡に祀られている胡子神社であるが、以前は甲山の街中にあったものと思われる。8月の19日20日には甲山廿日えびす祭りが行われており、江戸期から続いている伝統的な祭りのようである。中世、廿日市の四辻にあった胡堂も御開帳がある廿日えびすの市立てが著名となって廿日市地名が出来たものと思われるのである。(廿日市地名について)今高野山-胡子神社
一昨日、地域のOLD倶楽部の人達と世羅町の今高野山と上下町方面を訪れた。紅葉の名所今高野山は色づいたモミジもあったが紅葉には少し早かった。開基1200年と云われる今高野山の丹生神社と龍華寺を参詣し境内を散策した。今高野山