わたしのJPO時代(17) - 国連広報センター ブログ

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わたしのJPO時代(17)

 

「わたしのJPO時代」第17弾は、国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所で化学品・廃棄物プログラム調整官を務める吉田鶴子(よしだ・かくこ)さんのお話をお届けします! 「環境という国境のない仕事に関わりたい」という大きな志を抱き、自然保護NGOからJPOを経て国連機関へとキャリアを積まれてきた吉田さん。「グローバルな課題に取り組む難しさと醍醐味を同時に味わっている」と語る言葉からは、一つひとつの仕事に真摯に取り組む姿勢が伝わってきます。

 

 

  国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官

                                     吉田 鶴子(よしだ かくこ)さん

 

                                       ~無駄な経験など何一つない~

             

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「アジア地域の廃棄物処理に関するセミナー」で講演する吉田さん。開催地はモデル都市であるマレーシアのペナン(2016年)

 

吉田鶴子(よしだ かくこ):国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域事務所 化学品・廃棄物プログラム調整官。米ジョージア州立フォート・バレー大学動物学部野生動物保護科卒、スコットランド スターリング大学環境政策学部卒。青年海外協力隊平成6年度3次隊、生態学隊員としてケニアに赴任。1999年より世界自然保護基金(World Wide Fund for Nature, WWF)イギリス本部に勤務。南・東南アジアの環境保護、持続的開発プロジェクトの発案、実施管理に携わる。2001年、国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOとして赴任。環境モニタリングや持続的開発指標を政策に取り入れる援助・研究部門に所属。2004年、P4正規職員となる。2009年からバンコクのUNEPアジア太平洋地域事務所に勤務、現在に至る。

 

 

JPO挑戦は2回目で、「今回だめだったら次は応募しないだろう」と内心思っていたのは、2000年夏のこと。ジュネーブ国連本部の天井の高い一室で受けた面接の質問のうち、記憶に残っているのは2つだけ。1つ目は「治安が不安定な赴任地で、どうやって安全を確保しますか」。青年海外協力隊OGの私にとって、これは拍子抜けするくらい簡単な質問でした。これまで様々な分野や経歴を持った元JPOの国連職員に出会いましたが、開発途上国で働いた経験が、特に国連に入る上で有利に働いているように感じます。

 

2つ目の「どうして国連で働きたいのか」という問いには、「環境という国境のない分野の仕事には、国連でしかできないことがあるから」と答えた私。その後、晴れて2001年4月にメキシコ・シティー国連環境計画(UNEP)ラテンアメリカ地域事務所にJPOで赴任して以来ずっと、この答えが間違っていて、それでいて正解でもあることを実証するような仕事を続けています。

 

JPO試験の合格通知を受け取ったのがWorld Wide Fund for Nature(WWF)の英国本部で働いている時だったため、日本での赴任前研修に参加する時間や経済的余裕はありませんでした。唯一の準備といえば夫婦で受けた週1回のスペイン語クラスのみ、それも3カ月ほどの短い期間でした。このクラスでさえ、赴任前に電話で挨拶をした未来の上司に、「スペイン語ができないと勤務に支障が出る」と言われ、慌てて個人レッスンを引き受けてくれる人を見つけるといった後手の対応でした。メキシコ・シティーに到着した日、3週間足らずの仮住まいとなるサービス・ホテルで見たテレビのニュースが全く理解できず、かなり不安に感じたのを覚えています。スペインのスペイン語中南米スペイン語の違いなど、基本的なことも当時は全く分かっていませんでした。

 

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                                                    JPOに赴任して間もない頃(2001年)

 

 

JPOでまず学んだのは、国連では自分から動かなくては何も始まらないということ。着任予定日の1カ月前になってもUNEP本部からは何の連絡もありませんでした。当時勤めていた職場との契約の都合もあったので、待ちきれずに日本の国際機関人事センターに連絡すると、赴任資金・必要書類等は数カ月前にUNEPに送付済みとのこと。人事センターでは赴任準備が順調に進んでいると思っていたようです。後で払い戻しをするからと言われ、引越し業者から航空券まで全てを自分で手配しメキシコに着いたものの、空港には聞いていた事務所からの迎えは現れず、立て替えた経費の払い戻しにも1年近くかかった記憶があります。

 

仕事の内容もしかり。まず自分に何ができるのかを示し、自分の業務範囲を開拓していかなくてはなりませんでした。中南米カリブ海の38カ国を取りまとめる地域事務所は、ナイロビ本部と各国の環境省との中継地点にあたる、いわば要の位置づけです。各国政府や地域・多国間組織などが出す環境白書やデータ出版に技術・資金援助する部の所属になった私は、支援要請を汲み上げ、本部からの予算とのマッチングをし、足りない分は資金集めも行い、プロジェクト実施の間は担当官として技術協力もする、という業務に携わりました。オフィサー・ポストが2つ、ロジのローカルスタッフ・ポストが1つ、あとはコンサルタントという、UNEPでは典型的な規模のセクションでの勤務でした。当時P4だったこのセクションの責任者がとてもやり手だったため、活動資金は潤沢にあり、政府や専門機関からの信頼も厚かったのを覚えています。この“できる”上司のもと、彼以外の同僚は全てスペイン語が母国語という状況で、自分がいかにできないかを日々再確認させられる、マイナスからのスタートでした。

 

JPO期間の初めの3カ月を終了した頃に外務省に提出したレポートを見返してみると、「やっと部門の業務内容が把握できたという気がする」「業務は直属上司のアシスタント的業務がほとんどだ」などと書いてあります。言葉もできず、地の利もなく、“使えない”部下だったであろうことは想像に難くありません。この時の上司とは今でも交流がありますが、気の短い彼にしてはかなり忍耐強く、時々ため息をつきながらも指導してくれたことに、心から感謝しています。

 

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   JPO勤務の時のチームと。忍耐強く指導してくれた上司(右から2番目)には今も感謝している(2003年)

 

 

どんな人でも一人で食事をしているのを見過ごせない―。メキシコ人をはじめ、ラテン系のノリが全開の熱い事務所のおかげで、言葉の方は半年を過ぎた頃にはどうにかなっていました。この時期に一緒に働いていた同僚たちは、地域事務所自体が移転したためパナマに移ったり、ナイロビ本部や他の国連機関に転勤したりで世界中に散らばっていますが、いまだに家族ぐるみの交流が続いています。また、JPO時代にスペイン語で仕事ができるようになったのは大変好都合だったと思います。

 

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                                     ナミブ砂漠でアルゼンチンの乾燥地帯専門家たちと(2006年)

 

 

最初は英語で業務のできるカリブ海の国々のプロジェクトを担当し、その後は徐々に他の案件にも関わり始めます。ただ、プロジェクト・マネージメントの基本を学ぶ機会はほとんどなく、即戦力であることが期待されていました。国連に入る前に務めていたNGOの職員教育のおかげで、一般的に使われているツールやドナー用レポートの書き方など、基礎はその時に学習していました。「持続可能な社会」や「エコリージョン基盤の生物多様性保護の理論・実践」の最先端にいる人たちに揉まれたNGO時代がなかったら、私のJPO時代の肩身はさらに狭かったことでしょう。JPOの2年目が終わる頃には、「環境と健康」という新しい分野において地域事務所全体を束ねる担当者に立候補し、おかげで世界保健機構(WHO)など他の機関との仕事も増えていきました。現在勤務しているアジア太平洋地域事務所でも同じテーマの担当をしているので、無駄な経験など何もないということを、つくづく実感しています。

 

JPO面接で「環境には国境がない」と答えましたが、砂塵、スモッグ、海洋汚染など、1つの国の問題が周辺地域に被害を及ぼす案件を頻繁に担当しています。特に、地球温暖化や有害廃棄物の違法取引などは、地球レベルや多国間での協力があって初めて対処策が見えてきます。でも、実際に環境問題対策の法整備・法遵守を可能にするのは各国政府のみです。直接NGOや企業とプロジェクトを立ち上げるのに比べたら時間はかかるかもしれませんが、中央政府や地方政府自体が環境問題を重要課題として認識しない限り、大きな向上は期待できません。いくら国連がやきもきしても、どうしようもないのです。ラテンアメリカカリブ海地域で合計9年間を過ごしましたが、各国の環境省出身の同僚たち、あるいはキューバ人やブラジル人の上司たちからは、国連加盟国それぞれのニーズに応じた協力を行うことの重要性を叩き込まれました。南米アマゾンの8カ国の政府や有識者と共に環境白書を作った際には、「アマゾン」の定義についての話し合いから始まるなど、中立な専門官兼コーディーネターとしての難しさと醍醐味を同時に味合わせてもらいました。

 

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フロンガス規制のための冷媒分析器の使い方を指導する吉田さん。タイのパタヤで開催したワークショップには、アジア太平洋の25カ国の環境省職員たちが参加した(2010年)

 

 

JPO期間の1年の延長後、11カ月の短期契約を経て、JPO枠で勤務した部署の正規職員ポストに応募しオファーをもらいました。ラテンアメリカカリブ海の出身者ばかりの事務所で、他の地域出身者が空席に応募して採用される可能性は低いのではという意見も聞いていたので、採用はかなり幸運だったというしかありません。その後、UNEP内で赴任地を2度、ポストを2度替わり、今はアジア・太平洋地域事務所で化学品・廃棄物・大気汚染プログラムの取りまとめをしています。

                       

環境が経済や人権などと同レベルで取りざたされるようになってきましたが、開発途上国では最初に経済発展ありきという観念がいまだに根強いですし、それに便乗するセクターも多く存在します。大気汚染や公害など多くの環境問題は、健康被害や水源汚染が起きてしまってからの対処では、国の現在の財源に負担を強いるだけでなく、将来の開発を担う人的資源さえ奪ってしまいます。環境保護は投資であり、リスクヘッジです。そのために資金や人が集まる社会になるよう、これからも微力ながらお手伝いしていければと思っています。

 

 

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   2016年に着任した国連環境計画(UNEP)のエリック・ソルヘイム事務局長とバンコクにて(2016年)

 

 

私にとってJPO期間は国連で仕事をしていくスキルを磨き、適性を見極めるのに必要な時間でした。国連はその名前の通り多くの国の集まりであり、国の上に立つスーパー連合ではありません。ただ、一般企業、NGOで働いた経験から言えることですが、国連機関に対してのみ開く扉があり、その扉の先に環境に優しい開発があると信じています。自然科学や環境工学の専門知識を持った人たちがキャリア構築を考える時に、国連を一つの選択肢に入れてくれればと願っています。