連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(3) - 国連広報センター ブログ

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連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年 特別企画~(3)

連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」第3弾は、三上俊生さんです。国連世界食糧計画国連WFP)と国連本部に20年以上勤め、船や航空機による輸送サービスの調達に従事されてきました。普段、新聞やテレビで目にすることはあまりありませんが、調達部は、国連の活動を裏で支える縁の下の力持ち。救援物資の供給や平和維持活動に必要な発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂などを現地に送る、まさに心臓ポンプの役割をしています。三上さんのお話からは、民間企業で得た仕事に対する厳しい姿勢と、国連という豊かな多様性に裏付けられた貴重な人生論がにじみ出ていました。


                        第3回:国連調達部運輸課 三上俊生(みかみ としお)さん

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【1956年三重県生まれ。1979年関西学院大学経済学部卒。大阪商船三井船舶(現商船三井)に10年勤めた後に1989年より世界食糧計画(本部・ローマ)運輸部門海上輸送課に勤務。10年の勤務後に2000年から2012年まで国連事務局(ニューヨーク)調達部運輸課などに勤務。2012年から2013年まで横浜国立大学非常勤講師。2013年より早稲田大学非常勤講師。】

 

国連職員になるきっかけは何でしたか?

1980年代後半の日本はバブル景気でした。社会人10年目の私は、当時働いていた会社での仕事のやり方に窮屈さを感じ始めていたので、転職ブームを追い風にして、ダメもとで憧れの対象でしかなかった国際機関への転職を画策しました。日本の企業の海外駐在員のようなひも付きの海外赴任ではなく、自分の力だけで世界を舞台にどのくらい通用するのか試してみたかったのです。2,3年国際機関で働いて、ハクをつけて帰国しようと目論んでいましたが、この目論見は、バブル崩壊で見事に外れました。国連で働き続ける以外家族を養っていく道がなくなってしまい、気づけば日本に戻ることもなく23年も国連に勤めました。

いくつかの国際機関の求人広告に募集をし、ある機関では面接までこぎ着けました。手ごたえがありました。結局、国連世界食糧計画国連WFP)のリクルートメント・ミッションが東京に来たとき、外務省に設けられた試験場で筆記試験、面接を受けました。合格通知の電話は忘れたころに職場にかかってきました。

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                                  国連WFPの援助物資のエアードロップ(UN Photo/Isaac Billy)

 

―学生時代に留学を経験されていませんが、英語力はどこで養ったのですか。

中学時代から英語には力を入れてきました。幼い頃に見たアポロ11号の月面着陸のときの、名人による同時通訳が、幼な心に魔法のように映った記憶があります。大学生の一時期、同時通訳に憧れしばらくの間大阪にある同時通訳養成スクールに通っていたこともあります。しかし、そこでブースに入ってヘッドフォンをつけて、骨子のあらかじめ決まっている国際会議の通訳のまねごとをしているうちに、徐々に自分の求めているものと違うという違和感が生じやめてしまいました。社会人になってからは、幸いにも英語をとても多く使う部署に配属され、日本にいながら仕事で使える骨太の英語を身に着けることができました。夜中まで、電話で石油製品の売り買いの交渉をロンドンのブローカーとやっていて、数字を聞き違えたり、製品のスペックを誤ったりすることが許されない状況でした。相手の言っていることを、分かったふりでやり過ごすことができない、真剣勝負でした。

 

―海運会社の仕事と国連での仕事がどのように関連しているのですか。

海運会社は平たく言えば運送屋。他人の荷物を預かり外航船で別の国まで運び対価として海上運賃を受け取ります。輸送につかう船舶を用船(チャーター)することもあります。

国連WFPは、国連の食糧援助機関。多量の援助食糧を援助国から被援助国に国際海上輸送します。国連WFPでの船積み担当官としての私の仕事は、海運会社の時とは逆に食糧を海運会社に託して輸送してもらうことでした。海運会社が要求する運賃が妥当か、使用される船舶は安全基準や環境基準を満たしているか、などを判断しつつ海運会社と輸送契約を結ぶ仕事をしていました。

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                                ジブチの港で救援物資を積むトラックと船(WFP/Thierry Geenen)

一方、国連事務局の調達部に移ってからは、PKO平和維持活動に関わる輸送が主な仕事でした。平和維持活動に従事する要員は加盟国から航空機で活動拠点に移動しますが、トラック、バス、救急車などの車両、発電機、無線設備、移動式の病院、移動式の食堂など重くかさばるものは海上プラス陸上輸送せざるを得ません。私のチームは、それらの物資を、公共入札を通じて業者を選定し輸送してもらう仕事をしていました。

また、輸送インフラが整備されていない平和維持活動の拠点では、迅速な輸送を実現するためにヘリコプターや飛行機を使用することが多いです。滑走路が未整備な場合は、ヘリコプターが活躍します。それらの航空機をチャーターするのも私のチームの重要な仕事でした。空と海とで違いはありますが、船のチャーターと航空機のチャーターは似通っているため、商船三井での経験が大いに役に立ちました。

このようにサラリーマン時代、国連WFP時代、国連事務局時代を通じて、国際輸送の仕事をしてきました。職場によって実際の職務内容は異なりますが、10年間のサラリーマン生活で叩き込まれた知識や仕事に対するアプローチが国連での仕事を可能にしていることは疑いがありません。

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                                              国連広報センターにて、インタビューの様子

 

―記憶に残る仕事上の思い出はありますか。

2011年4月4日、国連のチャーター機がコンゴ民主共和国の首都キンシャサ空港で着陸に失敗し乗員・乗客24人のうち23人が死亡するという悲惨な事故がありました。私は国連調達部で航空機のチャーターを担当していたので、事故調査のため技術専門家と監査専門家とともに航空機運航会社の本部のあるコーカサスのジョージアに出張しました。

航空機のチャーターの際には機体の安全性だけでなく、操縦士の飛行時間などを事前に書類審査するのですが、事故機の操縦士、副操縦士ともに最低飛行時間の必要条件を満たしていなかったことが、調査の過程で明らかになりました。この航空会社は、何とか国連とのビジネスを獲得するために国連に提出した書類を改ざんしていたのです。

そのほかにも問題点が見つかり、その会社は国連とビジネスができる業者としての資格の停止処分を受けました。

事故当日は豪雨で視界が悪く、このことが直接的事故原因ではないかというのが専門家の意見でした。しかし、提出された書類の改ざんを見抜く仕組みが国連の側になかったことも事実です。たとえ何パーセントであれ、そのことが事故に繋がったのではないのかと責任を感じました。後日技術部門の専門家とともに再発防止策を検討し上層部に提案しました。


もう一つ、国連WFP時代に思い出深いことがあります。国連WFPでは、現地にスタッフが赴き援助物資が援助を必要とする人々に確実に届いているかをモニターすることになっています。ところが、外国人に国内をあちこち動き回られることを嫌ったある東アジアの国の政府が現地でのモニターの範囲を厳しく制限すると言い出したのです。当時国連WFP事務局長だったアメリカ人女性は、これに驚きの反応を示しました。その国の政府に対し、自由なモニターができないのなら「援助を差し止める」と過剰とも思える通達をしたのです。私たちのチームがチャーターした船舶は、その時援助物資を満載してその国の港に向かっていました。あと数日で港に到着するという時点で、事務局長の通達が出たのです。職場の誰もが初めは外交上よくある口先だけの駆け引きだろうと思っていました。しかし、彼女は港に向かっていた船の目的地を別の国に変えることを指示し、船は本当に舵を切ったのです。私は、本当に援助を差し止めるのか、とビックリしました。船の針路が変わるや相手国側はあわててスタッフの現地入りを許可しました。手荒い方法であったかも知れませんが、そうしなければその国は動かなかったかも知れません。こういう決断力と結果に責任を持てる資質を真のリーダーシップと言うのだと感じました。

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スーダン・北ダルフールの国内避難民キャンプに援助物資を運ぶ国連WFPのトラック(UN Photo/Albert Gonzalez Farran)

 

―日本の若者へ何を期待しますか?

安全や安心ばかりを追い求めないで、もっと冒険してほしい。

今の若者は、私の若いころと比べるとよほどスマートで洗練されています。見知らぬ国に一人旅すると言っても、前もってウェブで調べることもできるので、前の世紀よりリスク回避のレベルが格段に上がります。国連で働きたいという夢を持っている有能な若者が、国連雇用契約期間の短さを知ると安定性に欠けるという理由で、進路を変えてしまう、というケースもあると聞きます。

そんな慎重派の人たちに知ってほしいことは、国連のどんな部署で働こうが仕事から得る満足感は、民間企業では決して得ることができない種類のものだ、ということです。人間には、人の役に立ちたいという根源的な欲求があると思います。偽善とか何かリターンを期待するのではなく、純粋に困っている人を助けたい、という気持ちです。一般的な会社では、会社にどれだけお金をもたらしたかで評価をされますが、国連だと「自分の仕事」に感謝をされると感じるのです。NPOやチャリティーなどでその種の欲求を満たすことも可能ですが、規模の経済、透明性、普遍性などを考えた場合、国連という仕組みほどよくできたものはないと思います。

国連で要求されるのは、ずば抜けた学力ではありません。日本には優れた専門知識、バランス感覚、勤勉さなどを兼ね備えた優秀な人材がたくさんいますが、外に出て行く若者が少ないと感じます。日本ではあまり知られていませんが、学部出身でも関連した職種での実務経験があれば国連に入る資格があります。「明日からオフィスで働いてくれたら自分の仕事が少し楽になるなぁ」と思える即戦力と、きちんとしたコミュニケーションができる人材が国連では求められているのです。

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        選挙物資を運ぶ国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)のスタッフ(UN Photo/Martine Perret)

 

―最後に、国連で一番感謝しているできごとや出会いは何でしょうか?

そうですね。国連のおかげで多くのことを学びました。とても重要なことを学んだなぁと感じるのは、無意識のうちに持っていた偏見や思い込みに気づけたことだと思います。

差別や偏見は悪いということは分かっていても、頭の片隅にステレオタイプや思い込みを多少なりと持っている人は多いと思います。例えば、ルワンダの人と初めて仕事をするときに、私はルワンダ人に会ったことがなかったので、どのくらい仕事を任せて良いものか、不安でした。相手にとっても初めて見る日本人が私だったかもしれないですね。しかし、彼はとても仕事をよくこなす人で、不安だった自分が恥ずかしかったですね。国連でさまざまな国籍の同僚と一緒に仕事をすることで、自分自身の中にあったステレオタイプや思い込みをひとつずつ解きほぐすことができたのは大きな宝だと思います。

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                                                             ルワンダ人のスタッフと

また、国籍もみんなバラバラの新しいチームで働いていたときのことですが、チームに大きな仕事が舞い込んできました。お互いの信頼関係もまだない不安なチームでしたが、厳しい期限に迫られ、ストレスによって、仮面が剝がれていく中で、お互いが素でコミュニケーションをするようになり、信頼が生まれました。仕事を一緒にやり遂げたときは、本当に嬉しかったです。達成感がみんなをひとつにし、チームを信頼することの大事さを肌で感じました。

大事なことをたくさん学ぶことができ、国連には本当に感謝しています。

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    2012年6月退官時の送別会で。スタッフの出身は東南アジアカリブ海、アフリカ、南米とみんな異なる。

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                               三上さんを囲んでインターン 伊藤啓太(左)とインターン 邱山川(右)