「わたしのJPO時代」第三弾として、国連開発計画UNDPの西郡俊哉さんのお話をお届けします!民間企業で学んだビジネススキルを駆使し、モンゴルでのJPO制度を完了されたのち、モンゴル政府、そして国際労働機関ILO勤務を経てUNDP正規職員になられた方のお話です。
西郡俊哉(にしごおりとしや)国連開発計画(UNDP)駐日代表事務所 広報・渉外スペシャリスト
カリフォルニア大学サンディエゴ校アジア太平洋国際関係大学院卒。北京新亜研究学院への語学留学を経て、三井物産株式会社に入社。2003年JPOとしてUNDPモンゴル事務所にて民間産業振興官。モンゴル通商産業省, 国際労働機関(ILO)アジア太平洋地域事務所(バンコク)を経て2007年9月より現職。日本国内における広報および民間企業などとのパートナーシップを担当。
国連開発計画(UNDP)・駐日代表事務所 西郡俊哉さん
~民間商社からモンゴルのUNDP貧困削減チームへ、「JPOブルー」を乗り越えて~
JPOとして最初の赴任地であるUNDPモンゴル事務所に着任したのは2003年5月ですので、今年で丸12年が経ちました。それまでは民間商社に勤めており、厳しくも恵まれた社会人生活を送っていましたが、9.11同時多発テロやアフガニスタンでの戦争で世界が大きく揺れ動くのを目の当たりにし、現代世界の根底にある貧困や格差などの社会課題に取り組みたいとの思いから国連に飛び込みました。
UNDPモンゴル事務所では貧困削減チームに配属され、民間産業振興官として貧困層の雇用創出や所得向上の支援をすることになりました。そうはいっても予め案件が用意されている訳ではないので、しばらく試行錯誤の時期が続きました。最初の転機は、隣の環境チームで同僚が産休を取ることになった時です。畑違いでしたが、彼女の臨時代理に立候補したことで、プロジェクト・マネジメントを学ぶ機会を得ました。また40人足らずの小さい事務所でしたので、調達委員会から職員のためのスタッフカウンシルまで、求められれば何でも引き受けて、国連の組織やルールを学ぶことができました。
モンゴルでの研修光景
2年目の夏にはUNDPモンゴル事務所代表から直々に大きなイベントの担当を任されました。短い準備期間に数々のトラブルが発生するなど苦労の連続でしたが、これが自分のキャリアの試金石になると覚悟を決めて遂行したことで、マネジメントの信頼を得られました。そして3年目には零細事業主や中小企業を支援する新しいプロジェクトの立案から実施まですべて任せてもらいました。また日本政府から資金を頂き、日本発の取組みである一村一品プロジェクトも立ち上げることもできました。
一村一品プロジェクトの調印式、モンゴルにて
ちょうど3年目の任期が終わる時に、当時のモンゴル首相が一村一品運動を国策として実施する方針を打ち出したこともあり、JPO終了後はモンゴル通商産業省に席を移し、国際アドバイザーとして半年間、立ち上げを手伝いました。その間にバンコクにある国際労働機関(ILO)アジア地域事務所の地域開発専門家として採用されることになり、3年7か月におよぶモンゴルでのJPO(と延長戦)を終えました。
途上国のフィールド経験のないまま民間企業から国連に移るのは大きな挑戦に思われますが、JPOは経験を積むための制度なのでまったく問題になりませんでした。むしろ仕事を始めてから、民間企業で学んだビジネススキルは国連でも評価されることに気付きました。仕事に求められるアウトプットこそ利益か社会貢献かで違いますが、論理的に考える力やコミュニケーション力などはどの組織でも必要であり、ビジネスで学んだことはすべて役に立ちました。この点、若手の育成に定評のある日本の企業や組織で鍛えられた人は自信をもっていいと思います。
むしろ大きな挑戦はJPOの後に来ます。JPOの終盤には、仕事に手ごたえを感じながらも、常に次の仕事を考えながら働き続けられるのか、将来を不安に感じる時がありました(私はこれを「JPOブルー」と呼んでいます)。その時に前に進む原動力となったのは、自分のプロジェクトが支援した村々で温かく迎えてくれた人々の笑顔でした。
モンゴルのフィールドワークにて
新米の国連職員時代に、貧しくとも真摯に日々を生きる人々の尊い姿に触れられたことは、自分の人生にとって何物にも代えがたい経験になりました。これからも働く組織や場所は変わっても、JPO時代の原体験を忘れずに、自分の信じるいい仕事を続けていきたいと思います。