オリジナル短編小説『青梅』 - 物語る亀

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オリジナル短編小説『青梅』

『ねえ知ってる?』


 日に日に寒さを増す初冬の夕方に、公園の真ん中に置かれているゾウの滑り台の下の砂場に座りながら、笑顔を見せる望の言葉に朔はそっと小首を傾げた。
『え?』
『初恋の味』
 望は時折、こうした謎かけをする。その度にあれこれと考えるのがいつもの朔の役割だった。時々、やり返そうと望に謎かけをし返すこともあるけれど、答えを当てられてしまうこともしばしばで、答えに困った時はクスクスと笑いながらどこかへ走り去ってしまう。それを追いかけるのもまた朔に与えられた役割であり、結局のところいつも振り回されてばかりだった。
 けれど望が他の誰かに謎かけをしているところを、朔は一度も見たことがない。いつも他の人の前ではあまり喋ることもなく、じっと本を読んでいるか、外の景色を眺めているばかりだった。

 

 


『初恋の……味?』
『そう。初恋の味が、甘酸っぱい理由』
 今回の質問もまた答えることが難しくてウンウン唸りながら、隣で首をひねる。その姿を小さな手で口元を押さえながらクスクスと笑われてしまった。
『ぶー、残念でした』
 こう言っていつも答えられない朔を見て満面の笑みを浮かべる。誰かに笑われるのは気持ちのいいものではないけれど、なぜだかこの笑顔だけは朔も口元を綻ばせてしまうほどの魅力があって、この表情を知るのが世界中で自分一人だと思うと、朔は照れくさいような、誇らしいような、不思議な気持ちになった。
 そしていつものように小さな体の小さな胸を張りながら正解を教えてくれる。

『江戸時代はね、お風呂もなかなか入れないし、歯磨きだってなかなかできなかったの。だから女の人は好きな人と会う前、口の臭いを消すために梅の花や実をかじったの。その花や実が甘酸っぱい。だから初恋の味は甘酸っぱいの』
 両手で口元を隠しながらクスクス笑う。
『ねえ、それってなんだか』


『艶やかね /切ないね』


 二人は全く同じタイミングで、全く違う感想をあげたことに目を丸くしてお互いを見やり、そしてハハハ、と砂場いっぱいに響きわたるほどの大きな笑い声をあげた。他には誰もいないこの世界に、笑い声だけが二人を包み込んでいた。

 梅は酸っぱいから嫌だな、と朔がいう。
 味覚が子供なんだよ、と望がいう。

 こんな世界がいつまでも続くと、根拠のない確信が二人の世界には存在していた。


 ※※※


 朔は公園のベンチに座りながら昔のことを思い出していた。
 夕立をしのいだゾウの形をした滑り台も、大人では足が届いてしまう雲悌も、二人で漕いだ真っ赤な箱形のブランコも、遠い昔に取り壊されてしまって今ではガラリとした空き地になっている。砂場は残るだろうと望と二人して話していた時もあったが、結局犬や猫の糞の問題があり衛生上の観点から撤去されてしまった。
 それも二人の体が大きくなって滑り台の下では狭すぎるほどに成長した後の話だから遊ぶところに困ったということでもないが、こうして過去の思い出の詰まった場所に来るたびに寂寥の思いに襲われてしまう。
 すっかり陽の沈みも早くなり、まだ五時前だというにもかかわらず周囲はすっかり暗闇に包まれてしまった。あと一月もすれば冬至だと考えれば一年の歩みは早いもので、年々と時の足音が早まっていくのに、昨年と比べても歳を重ねるだけで何一つ変わらないような思いにとらわれて少し心がざわつくから、朔はこの時期が好きではなかった。
 ポケットの中の携帯電話が何度目かわからない着信を告げる。どうせ内容はすぐにわかっているから、それを無視することに決めていた。
 取らないならばと、電源を切るという選択肢もあったはずなのに、朔はそうしなかった。
 そうすることができなかった。

 東京へ行けばなんとかなるという、漠然とした思いを抱えながらこの町を出て行ったのは、もう何年前のことだったか、朔は思い出すことができない。もう十年以上も前のことだったような気もするが、年齢を考えたらそんなはずはない。
 田舎町の何者でもない人間でも、東京へ出れば何かになれると思っていた。
 だけど、今にして思えば、何になりたかったのか自分でもわからなくなっていた。
 結局の所、どこにいても自分は自分でしかないとようやくわかった時にはすでに時は流れすぎていて、何かを一から始めるには遅い年齢になってしまっていた。だが、全てを諦めるにしてもまだ若すぎる年齢でもあり、それが余計に朔を惑わせる結果になった。
 だから今日、帰ってきたのだ。
 逃げ出した、この町に。


 ベンチから静かに立ち上がると、ゆっくりとした足取りで子供の頃、朝を迎えて望と共に歩いた道を辿っていく。この時期になると地面に霜柱が落ちて、黄緑色と栗色のランドセルを背負いながら二人してそれを踏み鳴らして歩いていたことを思い出す。
 そしてふと目線を上げると、そこには成長した彼の頭より低い柵に囲まれた小学校があった。

 ※※※

 その日、放課後の理科室に残っていたのは朔と望の二人だけだった。他の生徒はとっくに帰って友達と遊んだり、塾へ行ったりしているのだろう。
 そんな中、二人はじっと机の上にいる一匹の虫をじっと眺めていた。
 朔は虫はそれほど得意ではなく、カブトムシやチョウチョくらいならば触ることもできるが、バッタやコオロギとなると恐る恐る触れるという有様だった。それも触覚が手に触れるとその感触が気落ち悪くて、すぐに手を引っ込めてしまうほどだ。
 望は様々な昆虫を手に乗せては、ほら、と言いながら朔の方へと近づけていく。昔はそれほど虫が得意ではなかったはずだが、自分よりも怖がる朔を見ているうちに、それが面白くなったのか少しずつ慣れてきて、今ではほとんどの虫をその手に乗せることができる。
 そんな中でも望のお気に入りは、今机の上にいるカイコガだった。
 真っ白なタオルの上にいるにもかかわらず、それ以上に真っ白な体に大きな羽を広げて、細かいふわふわとした毛並みに包まれながら、真っ黒い大きな瞳で二人をじっと見つめている。時折羽を揺らしながら少しづつ移動するが、小さなプラスチック板の上からも飛び立つことなく、ただただ羽ばたくことしかできない。
 望は時折、先生に生物のスケッチがしたいと言ってカイコガを出してもらっていた。それにしばしば付き合っていくうちに、いつの間にか朔もこの虫は可愛らしく思えるようになっていた。
『ねえ、知ってる?』
 手のひらの上にカイコガを乗せながらこちらに笑みを浮かべる望。このころになると謎かけをされた後、朔は考えることもなくただ首を振って知らない、とアピールするようになっていた。
 その仕草に満足したようにクスクス笑いながら望は答える。
『カイコガって、人間が完全な家畜化した虫でね、人間の手がないと生きていくこともできないの。この真っ白い体はすぐに鳥や他の虫に見つかってしまうし、足は力がないから葉っぱにぶら下がることもできない。この羽だってね、羽ばたくことはできるけれど、飛び立つことはできないんだよ』
 望はすっと手をタオルの上に持っていくと、逆さまに手のひらを返した。すると慌てて飛び立とうと羽を大きく羽ばたかすが、結局飛び立つことも捕まることもできず、カイコガはタオルの上に落ちてしまう。
『ねえ、これって何だか』

『美しいね /残酷だね』

 その交わらない答えに望は目を開き、少し見つめあった後、口元を手で隠しながらクスクスと笑った。
 
   ※※※

 あの頃、誰でも自由に出入りできた小学校も閉まった門に鍵がされているようになった。多分休日の日が暮れていく時間では教師を含めて大人たちも誰もいないのだろう。
 朔はその門を乗り越えて中に入ると、校舎の半分は地域の資料を集めた保管場所になっていた。子供が少なくなって、この広い校舎もその役目を少しづつ終えていくのだろう。元々朔の時代でも空き教室が目立っていたのだ、それから何年も過ぎたのだから当たり前だ。
 そっと校舎の前に立つと、あれだけ大きくて一生手が届きそうにないと思えた玄関の天井に少し手を伸ばしただけ触れてしまった。中に残されていた靴箱も、あの頃と何も変わらずそこにあり一番上の靴入れでさえも今では頭の高さもない。
 すっと思わず玄関に手を触れようとしたが、警報機でも鳴り出したら面倒なのでやめておいた。
 
 再び門を超えて道に出ると、ゆっくりと通学路をたどる。
 途中、大きな一軒家の前を通りかかると少し身構えてしまった。いつもそこには大きな犬がいて、優秀な番犬だからこちらを警戒するように近づいてきた。子供たちがうっかり家に近寄ると、野太い大きな声で一つ鳴いて警戒するのだ。それで大体の子供がそこに近づかなくなる。
 動物はほとんど好きな望が唯一ダメなのが犬だった。怖いとかトラウマがあるというわけではなく、犬アレルギーがあったためで、親からも近づくことを禁じられていたし、何よりも一番痛い目に会うのは自分だからとあまり近づかないようにしていた。ただ、さらにかわいそうなことに、どんな動物でも好きだった望はやはり犬も大好きで、触りたいと近づきはするものの、その手をすぐに引っ込めてしまう。
 散歩中の犬や、この大きな番犬の前になると万が一にも望に近づいたら大変だからと毎日守っていたのが朔の役割だった。
 その犬も、もう、いない。
 
 坂道を登って、信号を渡って行きつけだった駄菓子も売っているゲーム屋を通り過ぎる。ここはあの頃から時代が止まっているようで、店頭には昔と同じマルチシステムのゲーム機が置かれていた。朔はベルトアクションのこんなゲーム、どんな子供がやるのやらと思わず笑ってしまったが、ふと見ると電源は入っていないようだった。昔から人が入っていない隣の中華料理屋は潰れているようだった。
 向かいのスーパーからは川本真琴の1/2が流れてきた。この選曲も何十年も変わってないのかもしれない。 
 川伝いに街路樹が植えらていたはずだったが、すっかり切り取られてしまったらしい。殺風景になってしまった景色を眺めながら、先ほどよりも足取りは重く進んでいく。

  ※※※

 小さい頃はなんとも思わなかったのに、ある日いきなり意識して、嫌になってしまうことがある。
 例えば学校の宿題。
 例えば親の口うるささ。
 別になんてこともなかったのに、意識をし始めてしまうとそれがたまらなく嫌で、だから毎日欠かさずやってきた宿題をサボるようになり、親に口答えをするようになってしまうことは、子供の頃なら誰にでもあることだった。
 そしてそれは、朔にも突然現れた。


『もう、一緒に帰らない』
 いつも当たり前のように隣にいて、当たり前のように歩いていた人間から突然放たれた言葉を聞いた時の望の表情を、朔は一生忘れることはないだろう。
 縁石ブロックの上をバランスを取りながら、後ろを歩いていた望は足を止めると勢いよく飛び降りて朔の顔をまじまじと見上げながら『どうして?』と言葉を返した。
『どうしても』
 朔にはそんな理由になっていない言葉を返すしかない。今にして思えばその言葉の真意はわかるが、この当時にはわかるはずもなかった。
 うつむいて顔を上げられない朔の表情を覗き込むように見上げる望。
『また誰かに言われたの?』
 首を横に振る。いや、それは間違っていない。朔と望の二人をからかう生徒はいるし、その言葉に傷ついたこともある。
 でも望は一切気にしていないかった。
 望の小さな世界では朔以外に必要な相手など、どこにもいなかったのだから。

『ねえ、知ってる?』
 その言葉に首を振る。もう聞きたくないと何度も駄々をこねるように。
 それでも、構うことなく言葉を続ける。
『男女の双子が生まれたら、それは前世で結ばれなかった恋人同士の生まれ変わりなんだって。だから、昔は男女の双子は生まれたその瞬間に結婚する相手が決まっていたんだよ』
 もう何度も聞いたこの言葉。
『ねえ、それって何だか』
 聞くたびに返したかった言葉。


『幸せよね』
『……絶望だよ』

 二人の言葉は、重ならなかった。
 

 ※※※
 
 それはただの成長だったのだろう。
 幼い頃は男女一緒に遊んでいても、いつかお互いの仲が悪くなる時が来る。
 男と女に分かれる時が来る。
 そしてその次に、お互いを意識し合う時が来る。
 
 望がすぐそばにずっといたから成長が遅かっただけで、その行動は普通のことだった。
 
 東京へ出ると決めた時、望は最後まで納得することはなかった。
 父親は男の子はいつか家を出るものだと言っていたし、むしろその決断を歓迎しているようだった。母親は少し狼狽する姿を見せたが、これも息子の成長だと最後には納得して送り出してくれた。
 そして東京へ出る最後の日、それまで何度も何度も反対意見を上げていた望は、朔の部屋へと入ってきて言ったのだ。
『どうせ帰ってくることになるよ』
 単なる恨みごとなのはわかっていたから、ずっと黙って最後の荷物を鞄に詰め込んでいた。
『朔はカイコだもん。成体になって一人前の体になっても、飛ぶこともできないカイコだもん』
 朔は何一つ言葉を返すことなく、ただただ荷物を積み込んで、その中身を確認するだけだった。
『朔は必ず帰ってくるよ。だって私たちは運命の二人だもん』
 そう言い残すと、そっと部屋から出て行き、自分の部屋へと帰って行った。
 
 ※※※


 真っ暗な夜道を薄明かりの街灯が照らす中、ゆっくりと足を進める。
「何が運命だ」
 久しぶりに帰る道をトボトボと歩きながら、誰に伝えるということもなく一人呟く。
「双子なんて畜生腹の呪われた存在じゃないか」
 
 最後の曲がり角を曲がると、嗅ぎなれた匂いがふわり、と鼻腔をくすぐった。それは近所の庭に植えられた、梅の花の香りだった。そちらに視線を向けると、真っ白な梅の花が一輪、狂い咲いていた。
 梅の花にそっと手を伸ばすが、朔は触れることもなくその手を引っ込めた。

 実家の前を見ると、そこには一つの人影があった。
「言った通りでしょ?」
 
 昔と変わらない満面の笑みを見つめながら、朔は言葉を返した。

「梅なんて大っ嫌いだ」


 了