オリジナル長編小説『白泉光』 1/14 - 物語る亀

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オリジナル長編小説『白泉光』 1/14

 白泉光を食べたい。
 それが母の最後の言葉だった。

 



 今日子さんが迎えにきた日は母の葬儀も納骨も終えて、もう二度と会わないであろう親戚一同がすっかりわたしの存在を忘れて普段の生活に戻っていった頃だった。
 テレビで見た仮設住宅の方がまだ新しい分ましだと思うような古い木造一戸建て。見ただけでうちのアパートとそう変わらないとわかる。
「ぼろいところでごめんな」
 その言葉に首を振って答える。
「うちも似たようなところでしたから」
 引き戸を開けて家に入ると黒電話が迎えてくれた。入ってすぐ隣には、前住んでいたぼろアパートよりはましだが、タイル敷の十分見窄らしいトイレ。ただ、前の家と違って洋式だった。そのすぐ隣にタイルのはがれかけた、浴槽の小さな風呂場があったが、脱衣所なんてものはない。
 正直年頃の娘が暮らすには最も不向きな家だったが、今日子さんが言うには十メートルもしないところに交番があり、この周辺は不審者もなく、それなりに治安もいいらしい。
「ただいま。景虎(かげとら)、大事な話があるよー」
 靴を蹴るように脱ぐと、すぐに家の中へと入っていった。どうすればいいかわからないため、靴を整えてそっと立ち尽くす。玄関には汚れた元々は白だったであろうスニーカーがひとつと、それよりも若干小さい同じ靴が置いてあった。
「なにしてんのー、はいっておいでよ」
 その声につられてのろのろと足を踏み入れると、床がギリリと音をたてた。太めの男性が乗ったら抜けてしまいそうだ。
 ふすまを挟んで奥の部屋は和室で畳敷きだが、一枚は禿げており、藺草の香りなどわたしが生まれた時にはすでになくなっていたんじゃないかと疑わせるような代物だった。ふと天井を見上げると、日本海が描かれたペナントが何枚か貼ってある。
 テレビがあったが二十インチもないテレビデオ、その上には地デジのチューナーがのっていたが、そんなテレビでは地デジの美しさなど全く関係ない。それでも、前の家にはテレビも置物でしかなかったうちと比較したら、それだけでこの家は生活水準が高いのかもと感じてしまう。
 そこには掛け蒲団を被り、寝転がりながら愛くるしい寝顔をうかべ、すやすやと寝息をたてる男の子がいた。小学生だろうか、背はそこまで高くない。口元の涎もまたかわいらしい。 今日子さんはその子を眺めてそっと口元を緩ませた。とても美しく、かわいらしく、輝いた笑顔を少年にむけ、そして。
 その頬を軽く蹴った。
「ほら、起きな」
 びっくりして声も出せないでいると、うーんといううめき声の後に、ゆっくりと景虎が目を開く。うっすらと開いた目がまたかわいい。
 帰って来た今日子さんの姿を見ると、再び瞼がとろんと落ちた。無理もない、時間はすでに午後十一時を過ぎており小学生は寝る時間だ。
「景虎。大事な話がある。起きな」
 今度は額をぴしゃりと叩いた。力を込めていない、スナップを利かせて顎のラインを剃るような叩き方。派手な音こそするが、頭が揺れることもないその叩き方ひとつで、今日子さんが子供の怒り方ではなく、叱り方を知るひとだとわかった。
 景虎は再び瞼を開くと、そっと周囲を見渡す。正面から見ると今日子さんにそっくりな、大きくてちょっとつり目で、だけどきらきらと輝く眼がわたしに止まる。
「今日子さん、まだ夢の中にいるみたい」
 その言葉に頭を蹴飛ばす。
「……柴田勝頼ばりのサッカーボールキックだね。現役の頃から衰えてないようで」
「生意気な口利いてんじゃないの。そういうことばかりよく覚えるもんだ」
「まあね、保護者が今日子さんですから」
 そういうとのっそりと起き上がってこちらを見つめる。まだ頭が働かないのだろう、頭がぐらぐらしている。
「こっちは景虎。景虎、今日から一緒に暮らすことになった暁(あきら)だよ」
 ぐらぐらしていた頭がわたしに固定され、じっと見つめられる。なんだかちょっと恥ずかしい。
「驚いた。家族がひとり増えると聞いていたから結婚かと思ったら、今日子さん、女の子に興味があったんだ」
「馬鹿いってないで挨拶しな」
 そう促されてとてとてと近づいてくる。並ぶとよくわかるが、身長は顔ひとつ分低い。
「はじめまして、こんばんは。景虎です。よろしく」
 そういって手を差し出すと、そっとその手を握る。小さく、柔らかな手だった。
「……相原暁…です」
「そう硬くならなくてもいいよ。これから一緒に暮らしていくんだ、暁」
 年下の少年に初めて出会って急に呼び捨てにされたのに、不思議と苛立ちのようなものは湧いてこない。景虎はにっこりと笑いかけると、今日子さんの方へと振り向いてかわいらしい唇を開いた。
「夕飯はこたつの上にラップしてあるけど、残念なことにひとり分しかない。どうする?」
「なんでひとり分しか用意してないの?」

 今日子さんは服を乱雑に脱ぎ捨てながら答える。
「出るときに、今日にも連れてくるとは一言もいってないからだよ。ちょっと出かけてくる、だけでふたり分の夕飯を作っておくわけがないじゃない」
「直人に似て頭いいんだからそれくらい察して」
「無茶をいわないで欲しいな。ボクは神様じゃないんだ」
 そういいながらも和室を抜けて台所に向かうと、独身者向けの小さな冷蔵庫を開けた。その中を一瞥し、冷凍庫も開ける。
「塩辛とビールと……あとは食べごろの白泉光の実があったけど、それでどう? 今から作るのもなんだし」
「何でもいいよ、腹が膨れれば」
「塩辛って腹が膨れるのかなぁ……あと、普通、塩辛には日本酒とかじゃないの?」
「子供にはわからない良さがあるんだよ」
 こたつの中に入ると、さすがに暑い今の時期に掛け布団こそないが、上にのっていたお盆の中の煎餅を手に取ると、拳で叩き割って欠片を一口食べた。
 やがて景虎は発泡酒の缶をひとつと塩辛を手にして戻ってきた。
「暁はどうする? ご飯食べるかい?」
 首を横に振る。ほとんど食事が喉を通らない日々が続いたが、食欲は一向に湧いて来ない。
 今日子さんはこちらをじろりと見ると、こたつの上のご飯を指差した。
「食べなさい。ご飯は食べられる時に食べるものだ」
 そう睨まれると逆らうに逆らえず、そっとこたつの前に正座する。ラップに包まれたオムライスをじっと眺めると、ゆっくりと剥がしていく。お酒と一緒に持ってきてくれたのだろうか、いつの間にかスプーンが用意されており、それを手にするとじっと見つめる。
 黄色い卵の外側にケチャップがかけられている。一般的な、どこにでもあるオムライスだ。だけど卵がすこし破れているそれは、母の教えてくれたいつものオムライスと違う物だ。
 当たり前だ。
 そっと一口食べる。チキンライスの味が若干濃い気がする。それに母はオムライスににんじんを入れなかった。
 もう一口食べて、スプーンを置いた。口の中に広がるのはケチャップの鉄の固まりを放り込んだような絶望的な味と、身が溶けて消えてしまうようなほど甘いオムレツの味だった。口の中でまだねちゃねちゃと音をたてているのは、バターか何かが冷えて固まったのだろうか。
 これはオムライスといえるものではなかった。
「食べられないか」
 悩みなんか何一つないような顔で、アイドルとお笑い芸人が馬鹿みたいな解答を連発するクイズ番組を、下らなそうな視線を向けながらいう。
「食べられるうちに食べといた方がいいよ」
「今日子さん、それ二回目だよ」
「大事なことは二回いうもんだ」
「はいはい」
「はいは一度」
「大事なことは二回いう」
 ぐう、と唸りながらテレビを消す。お笑い芸人の大きな口を開けた姿が残像としてテレビに残る中、横になった。
「この年頃の女の子は夜更けにご飯を食べないものじゃない?」
「わたしは夜中にバリバリ食べてたけどね」
「そりゃあ、レディースは活動時間が夜だもの」
 そういいながら、こちらにそっと少年の輝く瞳をぶつけられ、子犬のように濡れたその眼を見ていることなど出来ずに視線をそらす。
「今日食べとかないと明日後悔するはめになるよ」
 そういわれても胃袋はうんともすんともしない。そんな姿に笑いかけながら、瞳は今日子さんへと移った。
「捨てるのもったいないから食べなよ」
 ゆっくりと起き上がり、スプーンを手に取ると、かぶりつくようにオムライスを口に入れる。その様子を眺めていても食欲どころか唾液ひとつわいて来ない。
 そんな視線に気がついたのだろう、口の端にケチャップをつけた今日子さんは咳払いをひとつしたかと思うと、そっとオムライスを一口こちらに近づけた。
 一口だけ。
 そう唇が動く。脂ですこし光っている唇が艶かしい。それでも頑として口を開けなかったが、更にスプーンを突き出されると仕方なく口を開いた。
 口の中に脂と卵の匂いが広がり、噛むとにちゃにちゃと音をたて正直美味しいとは思えない。それでも何とか飲み下した時、わたしを見つめた今日子さんの笑みに、たぶんわたしは母が死んでから初めて笑い返した。

 

 

 

 

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