「凡人も安心して」10月22日
『そこが聞きたい 研究力再浮上させるには』という見出しの記事が掲載されました。『近年は「研究力の低迷」が指摘されている(略)日本の研究環境の課題や進むべき道は』という問題意識の下、中部大特任教授沢本光男氏へのインタビュー記事です。
その中で気になる記述がありました。『「選択と集中」路線をどう考えるか』と訊かれた沢本氏は、『見直しは必要と考える。ただし、かつての「悪平等」に戻すのではない。選択と集中は間違いではない。何もしない人が給料をもらう悪平等を避け、中堅研究者に公平に配分する仕組みを残しながら、優れた研究者に集中的に息の長い支援をする』と答えていらっしゃるのです。
いたって常識的な見解です。ただ、私はこの見解には疑問を感じています。「何もしない人」っているのでしょうか。能力が低い人、実績を挙げられていない人はいるでしょう。しかし、何もしない人など、何年も組織に留まることなどできないというのが、世襲や家柄などで構成されているわけではない、現代の全ての組織に当てはまる事実です。
そして、組織が組織として維持され、機能していくためには、ある程度のレベルまでは、能力が低い人や実績を上げていない人を包含していく必要があるのです。もし、低い評価をされたら即免職=無給とされる組織があるとした場合、人は安心してその組織内で活動することはできません。
「恒産無ければ恒心無し」、この中国の言い伝えは今でも、全ての国の全ての人に通じる真理です。人は、今日と同じにしていれば、明日も雨を避ける家に住み、空腹に苦しまない程度の食にありつけるという安心感があるからこそ、不正に手を染めることもなく、目の前の職務をこなそうという意欲がわくのです。
能力の低い人、成果を挙げられない人には、昇給停止や僅かの減給をいう待遇を与えながらも、しばらくの間は囲い込む、免職前には数度の警告がある、というシステムが必要なのです。
研究者だけではなく、教員の世界にも、非正規雇用、有期雇用の「教員」が増えています。「来年は結構です」という悪魔の宣告を恐れ、戦々恐々として毎日を過ごす「教員」に、余裕をもって子供と向かい合うことを求めるのはないものねだりというものです。
私は、教委勤務時に、「指導力不足教員研修」を担当していました。研修への参加を命じられた者のうち、2年間で半数程度は離職していきました。彼らは、全都の教員の0.01%程度にしかあたりません。それが限界です。私は彼らの不安に揺れる心情と向き合ってきました。もし、能力不足を理由に、1割もの構成員が免職=無給という組織があれば、その組織は不安と疑心暗鬼が支配し、ほとんど機能しないはずです。
研究職も教職も、その多くは凡人であるはずです。スーパー教員と言われるような人はごく一部ですし、それぞれの分野で著名な賞を受賞するような研究者もごく一部でしょう。しかし、それ以外の凡人研究者、凡人教員が存在し、一定の裾野の広がりを維持しているからこそ、スーパー○○も生まれるのです。
国民の税金をつぎ込むのに甘い考えだ、と言われるかもしれませんが、不安が渦巻く組織の中から、業績を上げられる人など生まれてこないのです。
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