「喝采」11月1日
人生相談欄に、『やりたいことが見つからぬ』と題された26歳女性の相談が寄せられていました。『アフリカに単親渡ってみず不足を解消すべく起業した30代後半の女性、国境なき医師団に加わり紛争地で働く同郷の女性など、履歴書に書けるような「やりたいこと」を追いかけ、実際に行動している人を見るとうらやましく焦りを感じてしまいます』と述べる相談者に対し、ジェーン・スー氏の回答は素晴らしいものでした。喝采です。
ジェーン・スー氏は『やりたいことがなくてもまったく問題ありません』『大きな使命に燃え、やりたいことをやり、夢に向かってまい進している人ばかりではありません』『やりたいことを仕事にしている人の方が少数です』と言い切っています。
そして痛快なのは、『やりたいことを仕事にする方が幸せになれるという風潮、これは世間がなんらかのお金もうけをするために人々を煽っているだけです。やりがいの有無を問うて他者をコントロールしようとする輩もいます』と喝破していることです。
そしてご自身について、『やりたいと思って目指したことは一度もありません。信頼できる人が「やってみたら?」と声をかけてくれたのでやってみたら、意外と続いているだけです』と述べ、相談者をふんわりと諭していらっしゃるのです。
相談者のような若者が増えているように思います。その一因は、過剰に「やりたいこと」を絶対視する、昨今のキャリア教育、職業教育にあるように考えます。やりたいことが明確で具体的なのは善、やりたいことが不明確で抽象的なのは悪、という価値観が問題なのです。そうした状況下では、単にテレビドラマで見た主人公がかっこよかったから、という理由である職業になりたいというような、大人から見たら危なくてしょうがないような「やりたいこと」を語る子供が〇で、今はしっかりと勉強して土台を作る時機、何をしたらいいかは考えていないというような子供は×、となってしまうのです。そして「×」を付けられた子供は、不要な劣等感を植え付けられ、早く「やりたいこと」を見つけなくてはと焦り、自分を追い込んでしまうのです。
経験したことや学んだこと、形作られてきた自分の性格や人間関係、そうしたものがどこでどのように作用するのか分からない、それが人生です。決して流されるままに生きるということではなくそのときそのときを一生懸命に生きるということです。そうした人生観の方が幸せをもたらすような気がするのです。
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