「カスばかり?」10月23日
『「公立 先生いなさすぎ」 中高生 学び・対応に不信感』という見出しの記事が掲載されました。1面トップと3面を占める特集記事です。公立校の教員が足りず、学校への不信感さえもつ中高の実態を紹介し、背景や対応を考える記事です。
記事では、『(欠員補充の影響で)たった1年間で4人の英語教員に教わることになった(略)先生が何度も交代しているのに、継続して学んだことや努力、それをどうやって公平に評価するんだろう』という高校生、『(不登校後の)別室登校が続いているのに、学校側が対応している形跡がない』『個別面談がしたければ「アポ」を取ることが必要』と不満をもつ中学生などの例が紹介されていました。
大変な状況です。しかし今回私が引っ掛かったのは、そうした状況とは直接関係しないある記述でした。教育社会学を専門とされる早稲田大名誉教授油布佐和子氏のコメントです。油布氏は、『教員の多忙さを放置すれば、高い志を持つ優秀な人ほど学校現場に落胆して教壇を降りてしまう』と述べていらっしゃるのです。
重箱の隅をつつく、揚げ足取りをしているという批判されるかもしれませんが、油布氏の指摘通りだとすると、今学校現場に残っている教員、これからも教職を続けて行こうとしている教員は、志が低く、優秀ではない人ということになってしまいます。それはいくらなんでも失礼でしょう。そんなふうに思われたのでは、今現場にいる教員たちの士気も低下してしまいます。
確かに、志が低く、教職に夢や希望を抱くことなく、公務員で安定して給料をもらえればいいと考え、子供の悩みや思いなど考えようともせず、教科書を読んで解説し、ペーパーテストの点数順に成績を付け、通知表のコメント欄は生成AIにお任せ、というような教員であれば、落胆も絶望もしないでしょう。そして、そうした教員が一定数いることも確かでしょう。
しかし私は、多くの教員はそうではないと考えます。私自身がそうだったからです。このブログで何回も書いてきたことですが、私はいわゆる「デモシカ教員」でした。子供が好きでも、教職に憧れたわけでもなく、大学入試で合格したのが教育学部だけで、そのまま周囲に合わせて何となく教員になったのです。そして、すごい教員になってやるというような野望も抱かず、教員生活をスタートさせましたが、数年経つうちに、気がつけば強制されたわけでもないのに、区の社会科教育研究会の主要メンバーになり、授業力向上のために授業記録をとるようになり、学級経営と児童理解のため毎週学級通信を発行するようになり…、というようになっていったのです。
周りの同世代の教員仲間を見ても、似たようなものでした。飲み会(愚痴会?)で、教員なんてつまんねえ、早く辞めたい、小憎らしいガキがいてさ…、などと言い合っていた仲間も、子供や保護者という人間同士のかかわりの中で変わっていったのです。
当時は、若い教員は暇でした。児童生徒数が多く、そのため学校規模も大きく、一校に多くの教員がいて、校務は先輩教員が負担してくれていたこと、保護者や子供の中に「先生」という存在に対する敬意が残っていたこと、障害のある子供や日本語指導が必要な子供が顕在化しておらず、個別対応に時間を割くことが少なかったことなど、さまざまな要因で、今よりも時間の余裕があったのは事実です。
そもそもどんな組織であっても、全員が優秀ということはありません。ほとんどが凡人なのです。教職も同じです。ただ、昔は余裕があり凡人は凡人なりに自覚し努力する余地があったのです。今も同じはずです。違うのは時間的・精神的な余裕の有無だけです。労働環境を改善し、教員に余裕を持たせれば、多くの教員は目の前の子供から、嬉しい、楽しい、分かった、できた、という反応が返ってくることに喜びを感じ、教員として成長しようとするのです。そこに、優秀とか志とかが関与する部分はとても少ないと考えます。
学校で頑張っている教員はクズばかりではありません。
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