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公立高校が定員割れなのに不合格

2024-11-27 04:09:34 | 地域
 

 沖縄県の公立高校の不合格者の数は全国一だった。全国では定員に余裕があるのに不合格になった人は2004人もいたのだ。その中で沖縄が226人と最多で、福岡が同153人、高知が同130人と続く。東京や大阪、北海道、埼玉など9都道府県はゼロだった。

 これはどういうことなのだろう。まさか全国的に統一見解がされていないということなのだろうか。まったく 驚いた数字だった。文科省は定員割れが起きないように、できるだけ入学させるように指導はしているらしい。教育の独立性と言うことで、各県に判断の権限がある。

 公立高校に定員に余裕があるにもかかわらず入学させない理由は、一体どんな理由なのだろうが。学力が高校で学ぶ為に達していない。と言う理由が多いらしい。それを決めるのは、各県知事でもなく、教育委員会でもなく、各高校の校長が決定するそうだ。初めて知る意外なことだった。

 「校長には生徒が心身ともに安心安全で卒業まで過ごせる環境を提供する責任がある。障害がある子を受け入れるには専門知識がある教員を配置するなど、人的・物的なサポートがないと厳しい現状もある」 これは元校長の言葉である。間違った考えに思える。

 そんな理由で校長が努力しないで良いものだろうか。定員に余裕があるならば、当然教育を受けたいというものを受け入れ手から考えるべき事だ。それが教育者の姿勢ではないだろうか。校長本来教育者としての思想を持っていなければならない。

 高校教育を受ける意欲や学力がないとするならば、それをどうやって補いその能力を付けさせる努力を、学校側が努力し行う義務があるだろう。校長はまず教育員階にそのことを申し出ある必要がある。校長にそれは出来ないと言う能力の足りない校長なら、教育委員会は出来るという校長に変える必要がある。

 教育を受ける権利は義務教育でない高等教育であっても、日本国民にはある。だから公立高校の無償化が言われているのだ。国公私立問わず、高等学校等に通う所得等の要件を満たす世帯の生徒に対して、授業料に充てるための高等学校等就学支援金を給付することになっている。

 社会全体としても、一人でも多くの国民に、高校教育を受けてもらった方が望ましいからだ。問題は、高校教育を学習する能力が足りないとされた生徒にたいして、高校は何をどう指導するかである。その教育の目的が少し歪んでいるのだ。

 高校で能力が問われるというのは最近の日本の姿を現している。社会で有用な実業能力を教育しようと言うことになる。そしてそれは大学に進学すると言うことが第一目標とされる。高校が大学の予備校化しているのだ。予備校というのは受験教育である。

 受験教育であれば、高校の授業について行けない生徒は多いだろう。ここに高校の教育の目的が間違っている原因がある。本来教育は人間教育である。その意味で高校の3年間は人間になるためには、一番重要な時間になる。それは受験勉強やスポーツに情熱を燃やすのも一つではある。

 しかし、もう少し違う高校で学ぶべきものがある。人間の生き方である。それぞれがどんな人生を選択するのかを決める若者の大切な3年間である。好きなことを見付ける3年間である。今の社会が歪んでいて、良い大学に行くとか、良い職業に就けるようにとか、そういう発想に洗脳されているのだ。

 人間の生きる意味が労働の意味が、コンピュター革命後の社会では大きく変る。生産性が一変する分野も増えるだろう。つまらない装飾画など、一舜にしてコンプュターが描いてくれる。労働は人間でなければ出来ない労働に特化して行くはずだ。

 産業革命で、鍬で耕すことがトラックターに変わり、作業効率は100倍にもなったのだろう。それに類するように、人間の働き方はコンピュターで大きく変るはずだ。人間一人が今の10倍以上の生産性を上げられるようになるはずだ。人口減少など何の問題も無い。

 人口減少が問題にされるのは、資本主義末期の一時的現象に過ぎない。こうした中での高校の教育は、より人間の生きる意味を問うものに変らなければならない。そこでは大学受験に必要な学力は、高校教育の一部の目的に変るだろう。

 高校の在り方も大きく変って行くことを見据える必要がある。障害を持った生徒を入学させることを、専門職員がいないという理由で拒否するなど、将来はあり得ないことになる。そういう理由があるとすれば、そういう職員を一定の高校に配置すべき努力をすべきだ。

 学校の矛盾は社会の矛盾が凝縮される。社会の矛盾、学校の矛盾は、生徒の上に降りかかることになる。生徒はその被害者になる。それをどうすれば解決できるかを、社会全体で考えるのは当然のことだろう。もうそう言う瀬戸際まで時代は来ている。

 沖縄の高校はやはり特殊だと考えたほうがいいのだろう。人口から考えたならば、あまりに多すぎる数だ。何かその背景には沖縄教育界独特の理由があるのではないか。日本の1%ぐらいの人口の地域で、不合格者の数は11.7%なのだ。その特殊事情を考えなければ成らない。

 家から通えないという事情がある。八重山地域では石垣島にしか高校はない。他の島から通うことは出来ない。学校としては、下宿や寮生活の生徒の指導に難しいところがあると考えていないだろうか。学力が不足している生徒の場合、卒業まで続かないことが多いと考えられる。

 教員の熱意はむしろ高いと思う。学校田の関係で教員の方と接する機会が多いが、一生懸命の先生が多い。農業高校の先生とは何名か知り合いになったが、素晴らしい方が教員として織られる。その事が却って、学力不足の生徒を受け入れない方が良いと言うことに繋がっているのかも知れない。

 また沖縄全体の学力の遅れがある。学力テストでは最下位なのだ。その理由は様々あるのだろうが、強化以外のことに力が入る傾向がある。郷土芸能クラブなどいつも全国トップクラスである。東大入学よりも、とぅらばーま優勝の方が地域では話題になる。

 それが沖縄の素晴らしいことで有り、沖縄の人達の魅力に繋がっているのだと思う。所が、学校への見えない圧力がある。NHKのニュースなどでも学力テストで、沖縄の小中学生が、どこが延びたかなどと最下位のことは避けるように報道している。

 学校としてはどうしても学力向上に力が入るのではないか。そのために学力の低い生徒を受け入れる余裕がなくなる。高校教育の本来であれば、沖縄で生きる生徒を育てれば良い。何も都会に出て行くための学力を付けること画工工の目的ではない。

 ユイマール精神を育て、東アジアの交流拠点になるべく、高校教育を独自のものにして行けば良いのではないか。学力のことにあまりこだわらず、沖縄らしい緩やかな教育を目指せば良いのではないだろうか。少なくとも、追いつけ追い小瀬のような教育は止めた方が良い。

 
 

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