消したことば - 答えは現場にあり!技術屋日記

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還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

消したことば

2023年11月29日 | ちょっと考えたこと

 

「どうしたら僕は、この組織から必要とされなくなるだろう?」

ぼくのスマートフォンには、12時きっかりに通知音とともにこの文字が浮き上がってくる。

iPhoneデフォルトのリマインダーアプリでそう設定しようと思いついたのは今年の5月末。

→『「どうしたら僕は、この組織から必要とされなくなるだろう?」という問いかけ

ある出会いからだった。そのココロはこうだ。

 

自らが「必要とされなくなる」ためには、自分のアタマで考え自分の身体で行動する人たちを育てなければならない。そういう人たちが育ったときに、自分自身の存在は「必要とされなくなる」。

 

それから半年のあいだ毎日、ぼくのスマートフォンは正午のおとずれを知らせるとともに、必ずその問いかけを発し、リマインドすることを主人であるぼくに強制しつづけてきた。

それに対して少々違和感を感じはじめたのは、ひと月ほど前からだったろうか。

 

いや、今でも「自らが必要とされなくなるためには、自分のアタマで考え自分の身体で行動する人たちを育てなければならない」というロジックがまちがっているとは思わない。ぼくが保たなければならない心持ちとしてそれは、相変わらず正しい。

しかし、自らが必要とされているにもかかわらず、それを拒絶するのは思いあがりではないのか。そう思い始めたのだ。またその逆に、ひょっとしたらそれほど必要とされていないにもかかわらず、「必要とされなくなるためには」などとは、少々不遜に過ぎるのではないか。そうも思い始めたのだ。

「仕事とは他人の需要に応えることです」とは、橋本治が『上司は思いつきでものを言う』で書いていた言葉だ。十数年前に出会ったとき、それまでぼくのアタマのなかにあったふわふわとして感覚的なものが、端的な表現としてかたちを伴ってインプットされた。以来、事あるごとに(特に若い人を中心とした)他人にも、そう説きつづけてきた。

「(他人に)必要とされる」ということは「他人の需要」が存在するということである。需要がそこにあるならば応えなければならない。そして出来得れば、「(他人に)必要とされる」人間としてありつづけたい。それがぼくの願望であり流儀であり生き方だ。であるならば、「必要とされなくなる」ために考え行動するというのは、あきらかにそれに反している。

ただし、需要への応え方は、自分自身が置かれている状況や立場で変化しつづけなければならない。それができないのもまた、「他人の需要に応える」ことができないのと同義だろう。

「必要とされなくなる」ときは必ずやって来る。それが明日なのか5年後なのかはわからないが、来ないということはあり得ない。ただそれは、「必要とする」主体が自分ではなく他人である以上、自分自身で決める筋合いのものではない。

繰り返すが、今でも「自らが必要とされなくなるためには、自分のアタマで考え自分の身体で行動する人たちを育てなければならない」というロジックがまちがっているとは思わない。ぼくが保たなければならない心持ちとしてそれは、相変わらず正しい。しかし、少なくともぼくのなかではそれとこれとを区別するべきだ。

そこに思いが至ったとき、毎日の正午きっかりに通知音とともにスマートフォンに浮びあがるメッセージへの違和感が消えた。そして、リマインダーからそれを消した。

どうか安らかにお眠りください。けっして無駄死ににはいたしません。

 

 

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