『徒然草』の「鼻のほどおこめきて言ふ」は現代にもある風潮だ。
ものみな進化するのが自然界の法則なら、精神も進化しているはずだ。
ところが、現代人は真実を語る「良心」の点では進化どころか、停滞したままか、むしろ退化しているように思える。
というのも、いまから七百年ぐらい前にも現代と同じような風潮があるからだ。
それが吉田兼好が見た三タイプの「虚言」。これがけっこう面白いのですよ。
『徒然草』第七十三段 (下段は現代語訳)
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
世の中に語り伝わる話は、真実を言うと面白くないからか、多くはみな嘘話である。

かつあらはるゝをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。
すぐ嘘話だと知られるのをかまわず、口から出まかせに語り散らすのは、やがて根拠のない嘘話だと分かる。
また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおこめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。
自分でも真実ではないと思いながら、ひとの語った通り、鼻の辺りにおどけた表情を浮かべて話すのは、その人の嘘話ではなく、受け売りである。
げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。
本当っぽく、所々を曖昧にし、よく知らないふりをして、それでも、うまく辻褄を合わせて語る嘘話は、恐ろしいことである。
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
世の中に語り伝わる話は、真実を言うと面白くないからか、多くはみな嘘話である。

かつあらはるゝをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。
すぐ嘘話だと知られるのをかまわず、口から出まかせに語り散らすのは、やがて根拠のない嘘話だと分かる。
また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしまゝに、鼻のほどおこめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。
自分でも真実ではないと思いながら、ひとの語った通り、鼻の辺りにおどけた表情を浮かべて話すのは、その人の嘘話ではなく、受け売りである。
げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。
本当っぽく、所々を曖昧にし、よく知らないふりをして、それでも、うまく辻褄を合わせて語る嘘話は、恐ろしいことである。
「ブラック・ライブズ・マター」をどう訳すか。
近年、黒人が白人警察官に命を奪われる事件がアメリカで相次いでいる。
黒人の12歳の子供がおもちゃの銃を持っていたり、黒人の高校生が夜の買い物でフードをかぶっていたり、黒人の中年男性が違法なタバコを売っていただけで白人警官に殺されたが、いずれのケースも警官は起訴されなかった。

非武装の黒人男性が3人の子供の前で白人警官に7発撃たれた(2020.08.25)
警察による暴力を調査する民間グループ『マッピング・ポリス・バイオレンス』によると、米国では2020年に1127名の命が警官の手によって奪われた。
白人と黒人・中南米系に対する警察の扱いには明らかな差があり、武器を持たずに射殺された黒人の比率は白人の4倍以上というデータもあるそうだ。
ソクラテスの三つのふるい。信じてよい情報とは?
誰かの名誉を損なうツイートをそのままリツイートするのは、単に「リツイートボタン」をクリックまたはタップしただけだから "責任はない" だろうか。

大阪地裁(令和元年9月23日)の判決では、コメントなしの単純なリツイートは「当該投稿に賛同する表現行為」として、リツイート者は元ツイート者と同じ責任を負うと判断された。
ただ、この判決には違和感を感じる人もいるだろう。というのも、リツイートやシェアといった「拡散」はSNSの基本的な機能であり、投稿記事に批判をしたい場合もあれば、単に話題の情報共有をしたい場合もあり、またタイムラインに流れてきた投稿記事につい条件反射的に反応して気軽にクリックしてしまう場合もあるからだ。
しかし大阪高裁(令和2年6月23日)の判決では異なる判決理由が示された。
すなわち、リツイートとは「元ツイートの内容をリツイート者のフォロワー(登録読者)に閲読可能にすること」であるとされた。
つまり元ツイートに他者の社会的評価を低下させる内容が含まれる場合、リツイート者は自分のフォロワー複数に拡散したのだから(基本的に例外的な特段の事情が認められない限り)その経緯や意図、目的、動機などを問わず、不法行為の責任を負うと判断された。
嘘も数多く言えば真実になる。それゆえに、情報は「ふるい(フィルター)」に掛けて良いものを選別する必要があるが、その点で『ソクラテスの三つのふるい』が参考になりますよ。
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ホームレスは天使だった。映画『あなたに降る夢』
ギャンブルは全然関心がないのですが、一度だけ宝くじの10枚セットを買ったことがあります。
銀行の窓口で顔見知りの新人女性行員から勧められ、すぐ断ったのですが、座って待っている間、ひょっとしたらノルマでもあるのか、無下に断るのも愛想なしでかわいそうという気になり、「当たったら山分けしましょう。幾らですか」と聞いて財布を出しました。

その後、もし100万円でも当たったら、他の銀行員に分からないよう手渡すにはどうしたらいいか、たぶん返されるだろうから、どう手紙に書いたらいいか、といろいろ考えたものです。
当選番号発表後、その行員から「どうでしたか」と訊ねられ、「当たりました」と目でニッと笑って、「……300円」と答えたのですが、山分けも小分けも夕焼けも胸やけもしなかったことがいまだに少し気になっています。わかるかなあ。わっかんな・・・(笑)
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さて、アメリカに600万ドルの宝くじが当たった警察官がいて、知り合いのウェイトレスに約束した通り、本当に山分けした話があり、映画化されました。
主演はニコラス・ケイジとブリジット・フォンダ。すでに映画を観た方がおられるかもしれませんが、天使が現れたような奇跡的なストーリーで、宝くじにまつわるエピソード自体は実話ですから、大変感動的な映画になっています。