世界は人のために存在しているのか。アンスティル・ライフ。
※池澤夏樹『スティル・ライフ』(第98回芥川賞受賞)の冒頭文を見たら、啓発を受けまして、
無謀にもその続きを書きたくなりました。小説本文からの引用部分は青色字にしています。
世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、
それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜ん
でいる。世界のほうはあまりきみのことを考えてはいないかもしれない。
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世界はきみのことを考えていないといわれると、がっかりするかもしれない。
でも、この意味は、世界はきみの人生には干渉も仲裁もしないということで、つ
まりは、世界はきみが自由意思と自分の力により生きることを期待しているのだ。
しかし世界はきみを愛している。このことは信じていいし、信じたほうが少な
くとも毎日を過ごすのがずっと楽になる。
ただし世界は自分だけを特別にひいきにしてくれる、と期待してはいけない。
期待とは、あることが実現するだろうと心待ちにすることだが、それは運任せ
とか神頼みといった、能動性と生産性のない迷信や盲信を育て、生き方の自由と
発展性を妨げる。
無謀にもその続きを書きたくなりました。小説本文からの引用部分は青色字にしています。
世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、
それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜ん
でいる。世界のほうはあまりきみのことを考えてはいないかもしれない。
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世界はきみのことを考えていないといわれると、がっかりするかもしれない。
でも、この意味は、世界はきみの人生には干渉も仲裁もしないということで、つ
まりは、世界はきみが自由意思と自分の力により生きることを期待しているのだ。
しかし世界はきみを愛している。このことは信じていいし、信じたほうが少な
くとも毎日を過ごすのがずっと楽になる。
ただし世界は自分だけを特別にひいきにしてくれる、と期待してはいけない。
期待とは、あることが実現するだろうと心待ちにすることだが、それは運任せ
とか神頼みといった、能動性と生産性のない迷信や盲信を育て、生き方の自由と
発展性を妨げる。
芥川龍之介の『芋粥』。五位が萎えた原因のバーソ解釈。
平安時代、五位という身分の、小心で、風采の上がらない中年の小役人がいた。
彼は、無上の佳味「芋粥(いもがゆ)」を思う存分に飲むことが人生唯一の欲望で、日がな一日その願望達成を夢見ながら生きていた。
ある青年の豪族から、芋粥を飽かせ申そうと招待され、五位は彼の越前の館に泊まるが、翌朝、山芋を二三千本も見て、釜から立ち昇る湯気の匂いを嗅いだら、口を付ける前から満腹感を感じ、芋粥の銀器を出されたときは食欲が失せていた。
五位は、ここに来る前、京にいた頃の自分を懐かしく振り返った。
それは同僚から愚弄され、子供からも「この鼻赤めが」と罵られていた自分であり、同時にまた芋粥に飽きたいという欲望を後生大事に守っていた幸福な自分であった――――というのが芥川龍之介の『芋粥』のあらすじです。
―――――――――
隠「さあ、熊さんよ、五位はやっと念願の芋粥を腹いっぱい飲めるチャンスが来たときに、なぜ気持ちが萎(な)えて、幸福感が失せてしまったと思う?」
クマ「ご隠居、芋粥って、芋の入ったお粥ですよね」
隠「いや、山芋を甘葛(あまかづら)の煎じ汁で煮た甘いデザートで、当時は上流貴族や特別な客にしか出さない希少なものだった」
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『表現の不自由展・その後』中止は、いったい何が悪いのか。
(人もすなる時事話といふものを珍しく私もしてみむと思ひました。(笑)
たった三日間で中止になって話題になっているのが、
『あいちトリエンナーレ2019』の「表現の不自由展・その後」である。
慰安婦少女像や焼かれた昭和天皇の写真など、反日思想作品を展示したからだ。
中止については、二種の意見がある。
①「表現の自由は民主国家の基本的条件だ。人が暴力で中止させようとし、県が
脅迫に屈するのは、自由主義に対する日本人の認識の未熟さを示す」
芸術や思想に対して暴力的な脅迫をする人間は非常に悪い。だが、だからといっ
て簡単にイベントを中止するなら、今後なにか気に入らない企画があったときは
脅せばいいということになる。それでは「県はペンより弱し」と言われてしまう。
企画趣旨は、「議論が分かれる『表現の自由』という現代的な問題について議論
するきっかけを作る」ことだったという。だったら反対は当然予期できたわけで、
腹を据え、堂々と持論を主張し、万全の警備をして展示を続けるべきだった。※1
②「表現の自由といっても社会的倫理観や規範があるべきだ。個人の展示会なら
まだしも、県が公金を使って反日思想の展示会を主催するのはおかしい」
芸術監督津田大介は朝日新聞の論壇委員で、実行委員会のメンバーは左系で構成。
少女の慰安婦像は反日運動の象徴で、昭和天皇の写真を焼いて踏みつける映像は、
他国の国王であれば国際問題になり、イスラムの偉人なら暗殺指令が出かねない。
せめて左派・右派の両方の作品を展示すれば、公平だと言い訳できたのだろうが、
偏向と虚偽の作品を表現の自由の名の下に公共自治体が主催するのは問題だ。※2
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190803/k10012020451000.html
この少女像は、2002年に米軍装甲車が轢死させた2人の女子中学生を悼んだモニュメントとして
製作されたが、米国大使館の反発を受けてお蔵入りさせていたものを慰安婦像に転用したもので、
だから被害者の椅子が2つあると言われる。韓国は強い国には強く当たらない点にも注目。※3
雨を線で見た浮世絵と、事象を点で見る視点。
永い永い間、西洋の風景画はピーカン待ちであった。
すなわち、画家は “雨の絵” は描かなかった。
伝統的な写実画法では、雨をうまく描くことができなかったからだ。
一筋の雨は一滴の水から成り、その形は涙滴状ではなく、ほぼ球状をしている。
人が雨を線と見るのは、眼の残像効果で細い線のように見えているに過ぎない。
西洋画は、輪郭線で描かないので、雨を線で描くことを思いつかなかったのだ。
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19世紀、日の出ずる処の絵師が、日の沈む処の画家に絵の新しい描き方を示した。
黒船が太平の夢を破った如く、日本の浮世絵が西洋に渡り、彼らの目を開かせた。
あまりに遠しふらんすに、空前のジャポニスムブーム到来。
ついに西洋は、浮世絵により、 “雨の絵“ を驚嘆とともに知った。
すなわち、“点” を “線” で見る視点を得て、「雨雨ふれふれ、もっと降れ」、
さらに「都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる」の芸術意識になったのだ。
立体感を表さず、左右不均衡の大胆な構図のなかに、輪郭線で図柄を描く浮世絵。
この画法は多くの画家、アール・ヌーヴォー、グラフィックなどに影響を与えた。