ものみの塔が「神の組織」かどうかの見分け方。
聖書には、真の預言者を見分けるための、簡単明快な判断基準がある。
「もし預言者が神の名において話しても、
その言葉が実現せず、その通りにならなければ、
それは神が話されなかった言葉である」―――申命記18:22
この聖句は、非常に簡潔明快なことを言っている。
すなわち、聖書預言の解釈が、当たれば本物、外れれば偽者ということだ。
ものみの塔はこの聖句を無視し、出版物にほとんど引用したことがないが、
この聖句は非常に重要である。
エホバの真の預言者が、預言の解釈を間違えることなどあり得ないからだ。

今回は、ものみの塔が「唯一の神の組織」かどうか、その見分け方を考えたい。
ものみの塔の統治体は、本当に「忠実で思慮深い奴隷」級か。
前回は、神が人々を個別に導いてきたのであれば、
ものみの塔が主張する「神の地上の唯一の組織」という教理は
あり得ないことを考えた。
今回は、続編として、
1.マタイ24章の「忠実で思慮深い奴隷」級は、実在する聖書的集団か?
2.使徒15章の「エルサレム会議」は「統治体」の存在を証明しているのか?
という点を論じたい。

ものみの塔は、神の「唯一の地上の組織」か。
「神は地上にご自分の組織を持つ」と主張するキリスト教教団がある。
それは、ものみの塔協会(エホバの証人)とローマ・カトリック教会だ。
ものみの塔協会は、「統治体はキリストの代理機関である」と言っている。
そして、神とキリストの他に組織(統治体)も信仰するように教えている。
カトリック教会は、「ローマ法王は使徒ペテロの後継者である」と言っている。
そして、神とキリストの他にマリアや聖人も尊ぶよう教えている。
共に組織の権威は絶対であり、階級制度は厳格であり、構造は相似形だ。

スポーツカーは、コックピットのメーターデザインで決まる。
スポーツカーは感性と気分の乗り物である。
個人的な好みを言うなら、屋根は別にオープンにならなくてもいい。
操縦のキビキビ感と加速の良さがあれば、最高速は130キロも出れば十分。
いわゆるエンスーのように、エンジン構造や懸架装置、ショックアブソーバ、
エキゾーストまでのこだわりもあんまりない。
絶対に必要なのは、コックピットのしゃれっ気と色気だ。
特にステアリングを通して見えるメーターまわりが平凡なら、
単なる事務用品の延長的自動車であり、スポーツカーとは呼びたくない。

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