聖書と「世の終わり」

「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 聖書預言の『世の終わり』は、「白髪三千丈」語法だ。 


マスコミは、大げさで、仰々しくて、針小棒大な誇張表現の名人だ。

飲食店の食材は、「秘伝の」、「こだわりの」、「厳選された」が決まり文句。
ちょっとした技術があると、すぐ「達人」、「匠」、「・・・界のカリスマ」と言う。
スポーツ紙は気軽に「世紀の決戦」とか「運命の対決」「死闘を制す」と書く。
昔からあるプロ野球は、なんとまあ、「スーパーベースボール」超野球である。

昨今、「超」の字が、超やたらに超使われていると思うことが超ないだろうか。

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じつは聖書にも、超誇張表現の預言が多いのだが、真摯純朴なる聖書研究者たちは、それを字句どおりに受け取り、大変な解釈間違いをしている場合がある。

今回は久々に聖書の話。「世の終わり」なんてものは無いがテーマです。

 予言の雛形あるいは予表理論。 


占いや予言とは、「小」を見て、「大」を探ることか。

ドイツの水族館所属のサッカー占い師が国際的な名声を得たことがある。
パウル君という名のタコが、EURO2008で全6試合のうち4試合を的中。
W杯南アフリカ大会では、計8試合の勝敗をすべて的中させた。

パウル君が死亡した直後、アルゼンチンの監督ディエゴ・マラドーナは、
「予言タコが死んで嬉しい、W杯で負けたのはお前のせいだ」と言った。

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コーヒー占いというのもある。

人間の意識の下には「不安」がある。
人は、まだやってこない未来を知りたがる。
手のシワをみたり、鉛筆を転がしたり、字画をみたり、予知法は実に様々だ。
今回は《ある特定の国から世界の将来をみる》という考え方をテーマにした。


 キリストの「贖い」は、なぜすべての人を救わないのか。 


「イエスを信じなさい、そうすれば救われる」
とはキリスト教の決まり文句である。Google検索では50万件以上ヒットした。

だが宗教心というものは、人が生まれついた土地や環境に深く根ざしている。
イスラム圏や北朝鮮に生まれた人が、キリスト教を信じることは極めて難しい。

こんな疑問を抱いたことがないだろうか。
 キリスト教徒でないと救われないのは、不公平ではないか?
 それはキリスト教会だけに都合のいい教えではないか?
 神は愛だと言うが、なぜ神はすべての人を救わないのか?
 
今回は、キリスト教の「贖(あがな)い」についての疑問と、そして、
ものみの塔は「救い」をどう教えているかを考えた。
※基本的に聖書は新共同訳を引用

エッシャー e
Maurits Cornelis Escher

 男のエゴを暴いたスアドの『生きながら火に焼かれて』。 


娘殺しの「因習」に、モーセの「律法」との共通思考を見た。

中東のある村には、家族と家長の「名誉」を守るためには、
実の娘を処刑するという悲惨な慣習がある。

その村の「因習」を支えている忌まわしい「掟」の背景には、
旧約聖書の「律法」の背景にある倫理観と共通する思想があるように思われる。
それは、ひと言で言うなら、男のエゴ、特に「名誉心」である。

今回の話は、『生きながら火に焼かれて』という本から、
男の「名誉心」の害悪を、特にエホバの証人の階級組織に関連して考えたい。

生きながら火に焼かれて11 (1)

スアド著・松本百合子訳「生きながら火に焼かれて」


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