ろくでなしの人でなし。日本人のくせに、日本人でなし。
渋谷の忠犬ハチ公が外人旅行客に大人気です。
なぜ人気になったかと言えば、リチャード・ギア主演『HACHI 約束の犬』としてハリウッドでリメイクされたのと、東京渋谷必見の観光スポットとしてハチ公像がSNSでシェアされているからでしょう。
でも、そもそもの原因は、亡くなった主人をハチ公が約10年間も渋谷駅で待ち続けたからです。
「忠義」という自己犠牲を伴った、相手に尽くす「利他的な愛」は、個人主義が流行るこのご時世でも多くの人々の心を打つのでしょう。
でも、その忠義心を知られる前は、浮浪犬のようにいじめられたそうですよ。
生まれたときからろくでなし。なぜならぼくはハチだから。(笑)
三好達治の『甃のうへ』は、人生の影を示しているか。
私はアミ教の信者。電子網の中を漁る時間を愉しく思う人間です。
三好達治の詩『甃のうへ』についてざっと検索していたら、世間から大バッシングを受けそうな、しかし非常に面白い解釈がありました。
それは大学入試で出題された、こんな質問です。
問い:詩の中に「をみなご」は何人いるか?
「をみなご」とは高校生ぐらいの少女という意味で、正解を先に言うと「2人」なんですが、どうしてそう言えるのかを考えるのが問題です。
まずはその詩の春うららの風情を味わいながら、その根拠を考えてみませんか。
ウィリアム・ブレイクの『ハエ』は幸福とは何かを示している。
ウィリアム・ブレイクは幻想的な絵を描く18-19世紀の鬼才ですが、詩人としても知られており、預言書『ミルトン』の序詞は曲が付されて聖歌『エルサレム』となり、イングランドの事実上の国歌になっています。
ブレイクの詩『ハエ』は、荘子やパスカルの思想を思い起こされる奥深いものですが、結語がわたしには腑に落ちなかったので、しばし考えてみました。
私の推論した解釈は、ざっと検索した限りでは他に見つからなかったのですが、初歩的なことだと思うかな、ワトソン君。
この詩は、詩人の「わたし」が、夏の日に遊んでいる「ハエ」を何も考えずに手で払い除けて殺してしまったとき、荘子が夢の中の蝶と自分を同化したように、自分とハエとを同一視したところから始まります。下線部が問題の結語です。
『ハエ』―――ウィリアム・ブレイク (私訳)
小さなハエよ、
お前の夏の遊びを
わたしはなにも考えずに払い除(の)けてしまった。
わたしはお前のようなハエではなかろうか。
お前はわたしのような人間ではなかろうか。
なぜなら、わたしも踊って、飲んで、歌っている。
いつか盲目の手がわたしの翅(はね)を払いのけるときまで。
考えることが命と強さと息をすることであり、
考えないことが死であれば、
では、わたしは一匹の幸福なハエである。
生きていようと、死んでいようと。
ハエも詩人も遊んで踊って歌っているときに、ハエは詩人の手によって、詩人は「盲目の手」によって、無思慮に翅を払い除けられて死んでしまいます。
「盲目の手」とは、命をつかさどる神の手ではなく、うっかり考えもなしに振り払われた手(不意の災い)という意味でしょう。
第2連で詩人は推論しました。「考えること」が命や力や息であり、「考えないこと」が死であるなら、「考えること」をしている "わたしは幸福な人間である" ―――となっていれば論理的な帰結で納得できるのですが、しかしここでは「わたしは幸福なハエである」となっているのです。
「幸福なハエ」は、おかしいでしょう。
なぜなら夏の小さなハエは(おそらく人間とは違って考えもなく)気分よく遊んでいたところを、思慮のない詩人からうっかり殺されてしまった "不幸なハエ" だからです。
結語は単語自体は簡単ですが、意味が難解なので逐語訳にしてみました。
それから である 私 一つの 幸福な ハエ もし 私 生きる または もし 私 死ぬ
Then am I A happy fly, If I live, Or if I die
まだ分かりにくいので『DeepL翻訳』で訳したら下記のようになりました。
そして、私は幸せなハエ、生きていれば、あるいは死んでも
冒頭の "Then" が「そして」と訳され、かえって分かりにくくなっています。
そこで『Google翻訳』で訳してみました。
それなら 私は幸せなハエですか、私が生きていれば、または私が死んだら
"Then" が「それなら」となり、疑問形に訳されました。
「それなら」は、続く文章で「…となる」と受ける順接の接続詞です。
第一連では不幸なハエについて述べ、第二連では詩人とハエを同一視していました。それなら、「わたしは(その不幸なハエではなく)幸福なハエである」と詩人は結語したのでしょう。
つまり、パスカルが人間を「考える葦」に喩えたように、詩人は自分を「幸福なハエ」に喩えたのです。「幸福なハエ」とは詩人自身の暗喩だと解釈すれば、納得できるのではないでしょうか。
疑問形で「ですか」と訳した場合は、詩人は「やはり幸福なハエなのか」と、ひとりごちたのでしょう。
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別の解釈がネットにありました。原語に忠実に訳すより、日本語として分かりやすいように意訳する翻訳家TN氏は、自分の解釈を入れて次のように訳しています。
それじゃ、おれは幸せなハエになろう。
生きているなら、死んじまうなら。
ここでは「それじゃ…なろう」がポイントです。「どうせ明日は死ぬのだから、それじゃあ、食べたり飲んだりしよう」と主張したエピクロス派(快楽主義)的な解釈がされています。
夏の一匹の「ハエ」は生や死の意味を考えないで楽しく遊んでいるときに突然死んだが、人間だってハエと同じなのだから、生きている間はとにかく楽しく生きて幸福になろう、もしくは幸福であり続けようという積極的な人生志向は、これはこれで一つの生き方だと思います。
ただ、原文 "am I a happy fly" の "am" は「何々になる」ではなく、「何々である」の意です。つまり幸福になる努力をしなくても、いま現在、幸福であるのです。これは要注目ポイントです。
このフレーズは、キリストが福音書の『山上の垂訓』の中で述べた、「幸いなるかな、憐れみ深い者よ、彼らは憐れみを受けるであろう」という感嘆文を思い起こさせられます。(マタイ5:7)
つまり人は特に憐れみ深い者になろうと努力しないでも、いま憐れみ深い人は、いま現在の状態が(神から祝福されているので)幸福なのである、ああ、良かったね、とイエスは感嘆しているのです。
しかし、これを「(幸福に)なる」と解釈すると、人一倍の努力を勧める教訓詩になってしまいますが、幻想画家ブレイクはそんな平凡な詩は書かないはずです。
いずれにしても、人生とは愛憎あり笑いあり感動ありの舞台劇のようなもので、人間一人ひとりが様々な人生ドラマを何度も繰り返して演じている―――と考えると、その貴重な「輪廻転生」の特権を体験している "今この瞬間" は、じつはかなり幸福な時間であり、だからこそ、この『ハエ』の詩では「生きていようと、死んでいようと」と書かれているのか、と思います。
(原文)
"The Fly"―――William Blake
Little Fly,
Thy summer's play
My thoughtless hand
Has brush'd away.
Am not I
A fly like thee?
Or art not thou
A man like me?
For I dance
And drink & sing:
Till some blind hand
Shall brush my wing.
If thought is life
And strength & breath
And the want ("want of" は「欠乏」という意味)
Of thought is death;
Then am I
A happy fly,
If I live,
Or if I die.
※ "fly" は「ハエ」や「飛ぶ」という意味ですが、スラングでは "cool" や "awesome" 、つまり「いいね」「素晴らしい」の意になります。カーティス・メイフィールドの "Super Fly" という曲の意味は「最高だ」です。
※詩人の思考には、" 考えることは力強く生きていることである" と喝破しながらも、考えもなしに「幸福なハエ」を殺したアイロニー(皮肉)があるのが面白いところですが、ただ、この矛盾は地球上では誰の人生にもありそうです。
"The Fly"―――William Blake
Little Fly,
Thy summer's play
My thoughtless hand
Has brush'd away.
Am not I
A fly like thee?
Or art not thou
A man like me?
For I dance
And drink & sing:
Till some blind hand
Shall brush my wing.
If thought is life
And strength & breath
And the want ("want of" は「欠乏」という意味)
Of thought is death;
Then am I
A happy fly,
If I live,
Or if I die.
※ "fly" は「ハエ」や「飛ぶ」という意味ですが、スラングでは "cool" や "awesome" 、つまり「いいね」「素晴らしい」の意になります。カーティス・メイフィールドの "Super Fly" という曲の意味は「最高だ」です。
※詩人の思考には、" 考えることは力強く生きていることである" と喝破しながらも、考えもなしに「幸福なハエ」を殺したアイロニー(皮肉)があるのが面白いところですが、ただ、この矛盾は地球上では誰の人生にもありそうです。
いま一番大事な政策は何か。荘周の「涸轍鮒魚」。
『DeepL翻訳』は大変役立っていますが、ちょっと面白いことを見つけました。
それは全体の長文を訳す場合と、その一部だけの短文を訳す場合とでは、かなり日本語の訳文に違いがあることです。
その例として、『荘子』の「轍鮒の急」という興味深い故事を考えます。
『荘子』外物 第二十六(DeepL翻訳を参考にした日本語訳)
荘周が、貧窮したので、監河侯に粟(あわ)を借りに行った。
(註:粟は貧困者の食べる穀物。監河侯は河川を監督する高位の役人)
監河侯は荘周に、「近々領地から年貢が入るので、そのときに三百金を貸すことにしよう」と言った。
荘周は憤然として、こんな話をした。
「こちらに来る道中、私を呼ぶ声が聞こえました。見ると、水が干上がった車の轍(わだち)の中に死にそうな鮒(ふな)がいて、『私は龍神の臣下です。一升の水でいいから汲んできていただけませんか』と言うのです。
出典
そこで鮒に言ったんです。
『これから南方に旅するところだ。越の王に西江の水を運んでもらおうと思うが、それでいいかね』(註:西江は長江・黄河に次ぐ三番目の大河)
そうしたら鮒が怒りました。
『いまバケツ一杯の水があれば生き延びられるんですよっ』」