加賀の千代女の朝顔の句と辞世の句。
「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます」
こんな張り紙が男子用トイレにあるのを見るとムカつくという意見が、だいぶ前の『YAHOO!知恵袋』にあった。
それよりも「きれいに使いましょう」とか「KEEP CLEAN」とストレートに言うほうが全然いいそうで、「慇懃無礼で無言のプレッシャーを感じる」と賛同する人もいた。
むろん、この貼り紙は褒めて良い特質を伸ばす子育てのような意図であり、他の利用者もきれいに使っているというメッセージも伝わるので、実際に効果があるそうだ。
飛び散りを最小に抑える小便器のデザイン試作。 写真提供: ウォータールー大学(ミア・シー)
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さて、日本人は物事をストレートに言わないで、柔らかく風流に言う伝統文化がある。
昔、男子用トイレにこんな貼り紙があったそうだ。
朝顔の 外にこぼすな 棹の露
クマ「ご隠居、ちょっと意味が分からねえんですが」
隠「熊さん。朝顔というのは、花が咲いたときの形を考えなさい、男子用の小便器のことだよ」
クマ「あ、そうか。朝顔、つまり小便器の外にこぼすな、一歩前に出なさい、ということですか。するってえと『棹(さお)』とはアレのことで、『露』ってえのは勢いよくジャージャー出ねえご隠居みてえな排水状態を言う」
隠「うむ、情けない。歳は取りたくないなあ。しかし熊さんや、これはだな、有名な俳句もじっているのだが、知っとるか?」
クマ「はいはい、苦もなく知っていません。つゆ知りません」
隠「その句は『朝顔に つるべ取られて もらひ水』。どうだ」
クマ「朝顔に鶴瓶(つるべえ)がなんかを盗られたので、水をもらいに行ったというオチでしたかね」
隠「笑福亭じゃあない。鶴瓶(つるべ)は井戸水を汲み上げる桶(おけ)のことで、竹ざおや縄紐で上げ下げするが、その鶴瓶に朝顔のつるがクルクル巻き付いている。つるを千切ったり解(ほど)いたりしたらかわいそうだから、加賀の千代女さんが近所の井戸まで水をもらいに行ったという句だよ」
クマ「お、千代女さん、優しい」
隠「そう。この句には朝顔の美しさを愛でる気持ちの他に、日本人の持つ優しさ、気遣い、奥床しさ、自然を愛する気持ちがよく表れている。鈴木大拙という明治時代の仏教学者が、『彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓(つる)を外そうとしなかった事実によってうなずかれる』と言って大絶賛しとるよ」(『禅』所収)
クマ「そうですか。でも朝顔って『この世のものならぬ』ほど、そんなに美しい花でしたかね」
隠「そうだな。じつは千代女は三十五歳の頃、この句を詠み直している。こうだ。
『朝顔や つるべ取られて もらひ水』。どう違うかね」
クマ「へい、『朝顔に』が『朝顔や』になってます。にやッ」
隠「熊さん、『朝顔や』の『や』は切れ字といって、一度ここで文が切れる。そのため『朝顔』と次の『つるべ取られて もらひ水』がすぐには結びつかないので、つるべを朝顔に取られたことが分かりにくい。だが、『朝顔や』にすると朝顔が単独に浮かび上がるので、朝顔が強調される」
クマ「なるほど」
隠「ネットを検索した限りでは、朝顔の美しさに千代女は感動したと説明されていた。鈴木大拙と同様だ。だが、あたしは、ほの暗い朝から朝顔が桶のつるべに巻き付く生命力の美しさに千代女は感動したと見た。熊さんや、か細い草花が必死に健気に生きるってことは、美しくて崇高なことなんだよ。だから千代女は『朝顔に』では説明的で弱いと思い、『朝顔や』にしたと思うな」
クマ「そうか、芭蕉の『古池や』も、『古池に かわず飛び込む 水の音』じゃあ説明的になって深みがなくなるってわけですね。ということは、すぐ意味が分からねえってんでムカつくようじゃあ、ちょっと情緒が乏しいですかね」
隠「ま、現代人は忙しいから、すぐ意味を知りたい場合もあるよ。ところで熊さんや。面白いのは、古く万葉の時代は、『朝顔』は朝に咲く花の総称だったようで、奈良時代は桔梗や槿(むくげ)のことだった。その後、支那から牽牛子(けんごし)という花が伝わると、これが朝しか咲かないので現在の『朝顔』になったそうだ」
クマ「言われてみると、『朝顔』って名も風流なもんですね」
「朝顔や」になっている。https://yushu.or.jp/s_data/03jpn/03furu/031003f1.html
隠「日本人は古来、花が好きな民族だよ。『花鳥風月』と言って『花』が最初に来る。江戸時代は草花のかなりな品種改良が行なわれ、朝顔は空前のブームを起こした。今でも東京は台東区の入谷で行なわれる『朝顔祭り』にその名残がある」
クマ「朝顔市、行ったことあります」
隠「ロバート・フォーチュンというイギリスの植物学者が1860年に江戸を訪れて、こう言っている。『日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っていると見える』と大絶賛しとるよ」
クマ「日本人は自分たちの感性について、もっと自信を持ってもいいんだ」
隠「そうだな。江戸では下級武士たちが内職で、独自に朝顔の栽培と品種改良を行なっていたそうだが、世界的に見てもこれほど形態が変化した園芸植物はないそうだよ」
クマ「あッ、花好きのご隠居にちなんだ名句が浮かびました。千代女さんの『朝顔や つるべ取られて もらい水』をもじっています」
隠「ほう、面白い。言ってみなさい」
クマ「その前に、朝顔は井戸にありましたね」
隠「そうだ」
クマ「井戸は、少しはまわりに水がこぼれてますね」
隠「そうだな」
クマ「水がこぼれてると、足が滑りやすいですよね」
隠「そうだ」
クマ「歳を取ると転びやすいですよね」
隠「ええ~いッ、まわりくどい。遠回しでなく、ストレートに言いなさい」
クマ「では、ストレートに、『朝顔や つるっとすべり もらし水』。どうです? チビっと漏れるでせう」
隠「ああ、情けなし。『朝 顔の はなから葉から たらし水』」(泣く)
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「はな」は「鼻/花」を、「葉」は「歯」を掛けています。ただ、これがサゲではちと情けないので、加賀千代女(74)の辞世の句もご覧ください。
この句はどういう意味でしょう? 自分なら最後の夜に月を見たら、どう感じると思いますか。
「かしく」の意味は下の備考欄をどうぞ。
《備考》――――――――――――――――――――――――――――――――――
「かしく」には次の意味があるとされています(Perplexity AI)。
1)痩せ衰える。2)炊く。3)おそれおおいこと、つつしむべきこと。4)巧妙であること。5)賢明なこと。6)女性の手紙の末尾のあいさつ(かしこ)
北陸中日新聞によると、ある住職は、この辞世の句を「人生の終わりを迎え、社会に感謝して詠んだ」と解釈しています 仏教用語の「月愛三昧(がつあいざんまい)」という言葉があり、これは煩悩が消え、月の光のような静かな境地に至った状況を指します。また別の住職は「死を前にした千代女は、まさに月愛三昧だったはず」と解釈しています。
別の解釈では、「この世を去る」という意味にとられることもあります。
千代女自身の気持ちとしては、「一生懸命生きて何も思い残すことがない」という思いを込めてこの句を詠んだとされています。
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ひとの悪口を不当に言うのは自分の悪口になる。
私バーソも、ひどい嘘だらけの誹謗中傷をブログでされたことがあります。
前回は或る女性の学者が血道を上げているひどい誹謗中傷動画を扱いましたが、今回は私がされた中傷誹謗ブログについて二件書いています。
いずれも頭脳優秀な人物によるものですが、しかしその動機と言動にはちょっと常識では考えられないものがあります。
侏儒の言葉の「百足と蝶」と百田氏vs飯山氏の論争。
侏儒の言葉―――芥川龍之介
百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。
百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。
百足と蝶の論争だが、違いに相手の弱点を突いていて、勝負はお相子に見える。
しかしながら百足は羽根がないのでまったく飛べないのに対し、蝶は羽根を使ってジャンプしながらでもちっとは歩けるので、蝶のほうに若干の優位性がありそうだ。
文法的には蝶が言った「羽根でも飛んでみろ」の「でも」が気になる。そもそも百足には羽根がないのだから、「羽根で飛んでみろ」と言ったほうが良かった。
ここで蝶が羽根のない百足に対して「羽根でも飛んでみろ」と言ったのは、肉体に欠損のある障害者をイジメてからかっているようなので、これはイジメだ、虫権侵害だと思った人がいるかもしれない。
それで他者を誹謗中傷する人の妙な"動機"の事例を三件扱うが、今回は選挙に関する公的な事例を一つ挙げ、次回に私の個人的な経験を二つ説明したい。