画面上の左右の方向に、ポジティブとネガティブの意味を与える。そして、画面上の物質をベクトルと動線として考える。
そのような画面の構成法では、クライマックスはどのように演出されるのでしょうか?
黒澤作品『隠し砦の三悪人』を取り上げて考えてみたいと思います。
「滅んだ武家の姫君が家臣とともに御家再興の為の金塊をもって友好国まで逃げる」と一言でまとめられる、目的も目的地もはっきりしている物語です。
その道中で迷走せずに、突っ走ったら、15分くらいで終わってしまうでしょう。
それゆえ、ひたすら迷走がつづきます。
その迷走ぶりは
右に進んだり、左に進んだりの右往左往する画面に委託されているようです。
迷路のような複雑さを『隠し砦の三悪人』の画面は見るものに感じさせはしますが、
最初に言ったとおり、物語自体は、ものすごく単純です。
そして、どうやって、この迷路を画面上に作り出しているのかというと、
本来脇役の凸凹コンビに、主役並みの待遇を与え、物語の進行をぐちゃぐちゃにしてしまうと言う手法を黒澤は用いています。
古い日本映画ですから 画面の進行方向は →方向です。
高貴な身分の方は、→の方向に進もうとするのですが、凸凹コンビは←の方向に物語を進めようとするのですね。
で、この二組が一つの対立を示しているのですが、その外側にははっきりとした敵が存在する、図形的に表すとそういう物語構造です。
高貴な二人と凸凹二人は、敵味方ではなく、対立軸であり、ある意味トムとジェリーのように仲良く喧嘩を続ける間柄です。
自分のように、物語が画面上の右サイドと左サイドのせめぎ合いという観点に留意していると、これは極めて分りやすいことなのですが、
そのような事に着目せず映画を見るなら、凸凹コンビが自発的に進もうとしたときには、無意識的に「嫌な予感がする」という事になるでしょうか。
そして、なぜ嫌な予感がするのかというと、凸凹コンビがイニシアチブを取る時は画面が ←ネガティブ方向に動いているのですね。
そして、更には、
凸凹コンビの進行方向に色、欲、生きたいという本能を重ね、
三船とお姫様の進行方向に、禁欲的な物語の進行とハッピーエンドへの予感を重ねています。
このような構造の映画なのですが、
とにかく四面楚歌でどっちに行ったらいいかわからない。うまく行ったと思ったら、実は間違った方向に行っていた。 同行者を信じていいのか分からない。 大失敗と思ったら、そこから道が開ける。 そんなことの繰り返しの中、
物語が爽快に進行する場面はわずか二箇所のみ。
1時間半のところで、三船敏郎演ずるサムライ大将の身元が割れて、その正体を知った敵を馬で一気に追って切り殺し、そのまま敵の陣地に馬で乗り込む。
もう一箇所は、最後に敵国の関所を抜けて安全の地に馬を疾駆させる場面。
目的地に近づけない、目的地がどこか分からない、そういう映画は、進行方向に沿って動くことが出来ず、その動きの停滞は見ている側へのストレスへと転換されます。
それが、一気に→方向への疾走の場面を見せ付けられると、
恐ろしく解放された気分になる。
しばらく我慢していた尿意を一気に開放できたような爽快感、まあ下品な言い方ですが
物語が進展することを、画面上の→方向への移動として明快に示されている映画です。
そして、その爽快な画面上の動線は、物語が極めて単純である故に、極めて清々しくシンプルに描かれています。
「隠し砦の三悪人」は限られたの爽快感に賭けた映画でして。
いかに、これが気持いいかは、「隠し砦の三悪人」のレビューをいくつか読んでみれば、よく分かるだろう、と自分は思います。みんな同じシーンについて何か一言書いているのですね。
スピルバーグは黒澤のフォロワーとして有名ですが、
『隠し砦の三悪人』で見られた画面上の左右への迷走を繰り返したあとに、爽快に→方向にポジティブに画面を走らせるクライマックスは、
『E.T.』の自転車が空に飛び上がるシーンとそっくりに見えるのですが、どうでしょう?
『隠し砦の三悪人』では馬を疾走させるシーンが二回出てきます。そして『E.T.』にも自転車が空を飛ぶシーンが二回出てきます。
『E.T.』はアメリカ映画ですから進行方向は→です。
そしてもう一箇所の自転車が空に上がるシーンでは、
空に飛ぶ前に 長々と ←方向への移動が続きます。
そして、ああもうだめだというその時、
自転車の進行方向は、さりげなく →向きに変わっており、
この先んじた方向転換が、次に自転車が飛び上がる予兆として観客に提示されています。
映画のクライマックスって何だろう?と考えると、
なるべく、太く、長く、速い ポジティブ方向のベクトルを画面上に描けばいいのではないか?という事に思い当たります。
そのようなシーンは、観客にはクライマックスと感じられはしなくとも、非常に重要なシーンであることは無意識理に伝わるようです。
『スウィング・ガールズ』
ジャズバンドを始めたものの、失敗続きでどうしていいかわからないときに、横断歩道でバックビートを体得するきっかけをつかんでからあとの3分50秒間、画面は←方向に進み続けます。
あっ、画面が走りまくってる! とみてて感じるのですが、リアリズム的には誰も走ってない。むしろ後ろ向きに歩いています。
スーパーの前で演奏して、みんなから喜ばれるシーンですが、
注目したいのが、バンドの後ろで一輪車に乗ってる子供二人。
くるくる周遊しながら漕いでるはずなんですが、 画面上には ←方向の動きばかり映します。
こうやって、画面上の←の流れを増幅させてるわけです。
さらに言うと、二曲目の演奏の前に一輪車の数が増えまして、その時は→ と ← の動きが交差しています。
この左右の流れの混沌とした画面が、
一度バンドから離れて別の方向に高校生活の充実を求めた仲間たちが戻って来るための補助線として機能しているようです。
そうした画面上の混乱が、バンド内の混乱の比喩に見えますし、
それが、一つの流れにまとまっていくのは、バンドの人間関係が固まっていく過程の比喩にも見えます。
演奏中のシーンでは、一輪車以外にも
スーパーに入店するエキストラの群れ、管楽器の向き、宙を舞う雪片などにより、←方向の流れが示され続けます。
『デンジャラス・デイズ〜メイキング・オブ・ブレードランナー』
- 作者: ポール・M.サモン,品川四郎,石川裕人
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彼がブレードランナーから得た教訓というのは、
「人間性を大切にしよう、レプリカント見たいな機械に成り下がってはいけない、女を背後から撃つような卑怯なことをしてはいけない」
だそうです。
なんか微妙に違うような気がするのですが、
ポール・M・サモンが指摘する女レプリカントが撃たれる場面を見てみましょう。
アメリカ映画ですから 画面進行は →方向になります。
ブレードランナーから逃げるレプリカントは→の方向に走ります。
画面上の進行方向を意識すると、映画は何を用いて→方向の線を画面に描くのかによって、その映画の重要な何かが示されてしまう類のものであり、
この女レプリカントの走りは、大きく、長く、速いゆえに 重要であると思わされます。
なぜ、彼女が走っていたのかといえば、デッカードに殺されたくなかった、つまり、死にたくないから生きたいから走っていたわけですが、
この映画のテーマは、生きるの意味とは生きたいと願うこと とでも言いたいのでしょうか?
『デンジャラス・デイズ』の中でも、完成した映画があまりにも分けがわからないので、宣伝担当者が、恐怖の殺人アンドロイドとの戦いというような分りやすそうなキャッチコピーをつけて観客を騙そうとした、という小話が出てきます。
今となってこの映画を見れば、そんな安直な映画では無いことは誰でもわかりますが、
まあ、それはともかく、
女レプリカントーは必死に逃げます。最初の一発目は、彼女の逃げる方向に撃たれますが、
致命傷となる2発目は、彼女の走る方向と反対向きから撃たれます。
そして、このカットのつなぎから、ブレードランナーはどこから撃ったんだろう?と女レプリカントの行き先にワープして先回りできたのだろうか?と迷う観客はいるでしょうか。
おそらく、2発目も背後から撃ったのでしょうが、この画面の方向の転換が示すところは、生きたいと必死になって走る姿とただ流されるままに銃を撃つような態度をネガティブな評価として画面上に提示したかったからでしょう。
→の方角に必死に逃げていた彼女が、動けなくなって倒れたとき、もう生きる方向に走れなくなったため、彼女の向きは←とネガティブ方向に切り替わります。
臨終シーンを表現するに典型的なカットのつなぎ方です。
そしてレプリカントを→方向に力強く走らせ、臨終シーンをこのように丁寧に描いていることからも、
ポール・M・サモンが言うような
「レプリカント見たいな機械に成り下がってはいけない」という教訓はこの映画にはありえないだろうと、私は結論します。
つまり、画面上の方向やベクトルで示されるメッセージは、観客には無意識にしか受け止めることができず、
ベクトルの方向が変化したとき、「何かが変わった」ことに無意識に気がつきはしても、「何が変わったのか」についてまでは明確に示すことがなかなかできないようです。
また、『デンジャラス・デイズ〜メイキング・オブ・ブレードランナー』には、カットされたこのようなシーンも紹介されています。
そのユニコーンが頭を振った動線をなぞるように彼も頭を動かす。
つまり非実在の人工的に作られた動物と同様に、主人公も実は人工物らしいという暗示的シーンです。
本来言葉で明確にしなくてはならない情報を、画面上の無意識的メッセージで説明しようとすると、
「分からない」と批判されるのが映画のようです。
結果として、『ブレードランナー』が最初に公開されたときにはラストが差し替えになりました。
そして、それでも、よく分からない映画として低い評価に甘んじました。
『ブレードランナー』が傑作の評価を勝ち得るのは、初公開から何年もたってからのことです。
また、監督のリドリー・スコットは、撮影前に絵コンテを用意して、画面上の動線をち密に計算するタイプの監督です。
それゆえでしょうか、無意識的な画面上のメッセージに重きを置きすぎる結果となり、
一般的な観客にとっては分かりにくい作品が出来上がることが多いようです。
『テルマ&ルイーズ』のラスト
Thelma & Luise - Alternative Final Scene
別のヴァージョンが用意されていたようです。