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ブラックフライデー
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先日、吉田尚記さん、石岡良治さん、有田シュンさんと『響け!ユーフォニアム』についての座談会に出席した。これはテレビアニメ版の完結編(『響け!ユーフォニアム3』)の最終回に合わせた企画だったのだけど、この座談会は原作小説も含めたシリーズ全体を語るものになった。今日は、前回この作品を取り上げた記事の続きも兼ねて、改めてこのセッションを通してこの作品について考えたことを書いてみたい。 さて、前回と座談会の議論をざっくりまとめるところから始めよう。この『響け!ユーフォニアム』という作品が、このクオリティで完結したこと、この10年の京都アニメーションの代表作になったことは、結果的にオタク文化史的な「意味」を発生させてしまっている。 『涼宮ハルヒの憂鬱』があの時期にアニメ化され、そしてEDの「ハルヒダンス」が一つの時代を象徴していったことはオタク的な感性の「建前」と「本音」のバランスが一方に崩れていく
僕が江東区の自民(維新)支持者だったら、(いろいろ文句はあるが結局)乙武さんに入れるしかないのではと考えるその理由 さて、今週末には衆議院の補選が3つある。与党自民党の「裏金」問題と、選挙区の情勢を掛け算すると、3選挙区とも立憲民主党が勝つ可能性が高い。それは妥当な結果で、長期的にはこの国の民主主義にプラスの効果をもたらすかもしれない。もちろん、島根のあの人が当選するのはむしろ旧自民党の封建的な土着支配を強化するだけじゃないか、とかいろいろな見方はあるのだと思うけれど、そういったことは僕よりも詳しい人がすればいいと思うので、置いておく。 さて、その上で考えてみたいのが東京15区だ。ここには、僕の友人の乙武洋匡が出馬している。よりにもよって、都民ファーストの副代表に就任して……ということなのだけれど、これについては出馬会見直後の動画で、本人と話したのでそちらを観て欲しい。 そして下馬評を見る
三宅香帆さんのベストセラー新書『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』を先日読み終えた。世評通りの力作で、日本の近代史における「労働」と「読書」の関係が手際よく整理されており、とても勉強になった。 この本を通じて、多くの「働いているので、本が読めない」人たちが勇気づけられて欲しいと、僕も思う。もちろん、懸命なる読書家のみなさんは既に100%理解されていると思うが、「読書論」や「教養論」を手に取り、それを読み、SNSに感想を投稿して満足してしまっては、「文化的な自分」という自己イメージを消費するだけに終わってしまう。 せっかく背中を押してもらったのだから、これから「働きながら」本を読みまくっていかないと勿体無い。最初に手にとるべき本は何がいいだろう? ごく自然に考えて、同じ著者、つまり三宅さんが翌月に発売する初の文芸批評本……あたりが妥当だと僕は思う。 さて、宣伝はこれくらいにして、本題だ。僕
要するにこれは揚平さんの短・中期的な日本の社会、経済予測をベースにその対策を社会のレベル(日本をどうする)と個人のレベル、つまり現役世代の自己防衛(私たちはどうする)という2つの議論を併置する……という講座で、いままで僕がまったくやってこなかったタイプの講座になると思う。僕は割といい加減に生きてきたところがあり、あまり人生をうまくやる、セーフティにする……といったことに関心をそれほど払ったことがないのだけれど、少し考えるところがあって、実験的にこういったタイプの講座を企画してみることになった。 今日はその理由のようなものを書いてみたいと思う。そして例によって結論から述べると、僕はここ数年でこの国は、(みんなまだ、それほどハッキリと口にしていないが)この国は(少なくとも向こう数十年の間についていえば)「もうダメだ」と感じていて、それぞれがもう社会をどうするかではなく、自己防衛のフェイズに入っ
先週末に『ゴジラ-1.0』を観てきた。僕は山崎貴監督の、戦後日本的な「世間」の最小公倍数をマーケティングするような映画の作り方が苦手で、この映画の期待値もそれほど高くなかった。 しかし期待値が「-1」だったからこそ、鑑賞後の満足度はとても高かった。本作の完成度の高さについては、他の人がいくらでも書いてくれるだろうから僕は触れない。僕がここで書きたいのはこの映画が「よくできている」からこそ結果的にえぐり出してしまったものについて、だ。 結論から言えば、日本人はまず自分たちのアジアに対する蛮行を今一度正しく反省し、その上でアメリカに対しその戦時中の民間人虐殺についてしっかりと抗議するべきだ、というのがこの文章の結論だ。 誤解しないで欲しいが、この映画が提示しているのは素朴な反戦的メッセージと、巻き込まれてしまった人々への同情、そして作中の言葉を借りれば「貧乏くじを引くことになってしまった」こと
僕は基本的に「逆張り的なポリティカル・コレクトネス批判」を支持しないようにしている。理由はそれらの多くが、短期的にアテンション・エコノミーに勝利するためのパフォーマンスに過ぎず、長期的な効果を考えられていないからだ。ある作品の表現が不当に「狩られ」ないための闘争では「このように表面的な「叩きやすいもの」への難癖ではなく、実質的に差別や暴力を解消するためにこうした方向で運動しよう」という対話が本当は必要なところを、「ポリコレ」そのものへの保守反動的な批判に加担してしまうことが多い。いろいろ理由はあるのだろうが、そのうちの一つが、そのほうがアテンション・エコノミー的に「コストパフォーマンスがいい」からだろう。 実は僕が左派ポピュリズムと距離を置く理由も同じだ。 彼らもよく、「けしからん」誰かの発言を指弾して正義の名のもとに集団リンチの快楽を手にしている。僕は権力や大資本に対して声を上げることは
先週末の土曜日、つまり公開翌日に宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』を見てきた。今回はその鑑賞直後の雑感をかんたんに(といっても、それなりの分量にはなるだろうが)まとめたい。本作はおそらく宮崎の引退作になる可能性が高く、これまでの作品世界の総括的な内容になっている。したがって、余すところなく批評を試みようとすればそれは「そもそも宮崎駿とは」というところから始めなくてはならず、本一冊分の分量が必要になる。だからこれはあくまで、公開直後の鑑賞の雑感という前提で目を通してもらいたい。 『母性のディストピア』の答え合わせ? ここで僕が指摘したいことは大きく分けて2つだ。それは宮崎駿の作家としての自我の肥大が、彼の作品世界をより深く、広くするのではなくむしろ淡白かつ安易にしてしまっているのではないかということ、そして彼の圧倒的な存在感はそのことを誰も指摘できなくしてしまっているのはないかというこ
村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を、発売当日に電子書籍で購入してKindleで一気に読み通した。結論から述べるとこの作品は近年の、というか『1Q84』の〈BOOK3〉以降の自己模倣と内容の希薄化の延長にある作品で、彼の長編の中でももっとも記憶に残らない薄弱な作品の一つになってしまっていると言わざるを得ないだろう。 僕は半年前に出版した『砂漠と異人たち』で、この村上春樹について20世紀後半を代表するパーソナリティとして扱い総括的な批評を試みた。そしてこの『街とその不確かな壁』という小説は僕の『砂漠と異人たち』での村上についての総括から、半歩も踏み出していないように思う。それは、とても残念なことだ。 FacebookやTwitterで実績はないけれど自分を知的に見せたくて仕方がない人たちとは異なり、批評家とは天の邪鬼な生き物で常に作家に、正確には作品に「敗北」したがる生き物だ(そもそも
庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』について書く。知っている人も多いと思うが、僕は「仮面ライダー」シリーズの大ファンだ。映像作品としてはともかく登場するキャラクターの造形としては50年前に放映された初代『仮面ライダー』の、特に初期(旧1号編〜2号編の初期)あたりのものが至高だと考えている。なかでも仮面ライダー旧1号は現時点の世界でもっとも美しい存在ではないかと思うくらいだ。僕の私生活の何割かは確実に仮面ライダーのグッズ、特にフィギュアの収集と撮影とメンテナンスに費やされていて、同世代のなかではなかなかのレベルのコレクターではないかと思っている。 僕はそういう人間なので、前提としてこの『シン・仮面ライダー』については「生まれてきてくれて、ありがとう」的な感情を抱いている。徹底的にこだわり抜かれた仮面ライダーのリニューアルデザインは、発表当初こそベルトやコンバーターラングのメカニカルな意匠に違
今週の木曜日(10月20日)に、僕がこの2年間コツコツ書いてきた本が発売になる。タイトルは『砂漠と異人たち』、これだけ聞いてもサッパリ何の本か、分からないと思う。昨今のトレンドからすると「○○日で○○が身につく』といった「効用」を主張するタイトルや、あるいはSNSで他人に「これはいかがなものか」と石を投げることで自分を賢く見せたい人の材料になりそうな『(あまり知力のない人でも叩けそうな、いかがなもの)』とかを露悪的にタイトルにするほうがいいのだろうけれど、僕はあまりそういうのは好きじゃないので、このタイトルにした。 では、どんな内容かというと、それは現代の情報技術と人間との付き合い方を考えた本だ。ピーター・ティールという人物を僕はあまり好きになれないのだけど、彼が『空飛ぶクルマがほしかったのに、手にしたのは140文字だ』という言葉で表したかった、この情報技術への「いいんだけど、なんか違う」
安倍晋三元首相が暗殺された翌々日に昨日2022年7月8日に安倍晋三元首相が暗殺された。僕は政治家としての彼をまったく評価しない。むしろこの日本の凋落をもたらした戦犯の一人であると考えているし、長期安定政権にあぐらをかいて数々の不正を行いそれをもみ消してきた人物であることもほぼ間違いないだろう。しかし、それがこのような最期を迎えて良い理由には当然だがまったくならない(もっと長生きして、法の裁きを受けて欲しかったと強く思う)。彼に批判的な人々のごく一部には、いくら政治的に敵対していても、人間がこのような殺され方をしてよいわけがない、という最低限の倫理を欠いた発言が見られた。匿名のものが多く、いちいち取り上げないがそのような意味でも、この暗殺事件はこの国の民主主義や、それを支える言論空間にガタが来ていることを証明する事件になるだろう。 そして、本当にこういうことを考えるのも、書くのも嫌なのだが、
今日は今更だけどオリンピックのことについて書きたいと思う。僕のInstagramを見ている人は気づいていると思うけれど、この夏の僕は朝ではなく夜にランニングをしていた。その結果カブトムシには会いそびれ、代わりにタヌキに遭遇したのだけど、以下に掲載したのはこうした夜のランニングで撮影した国立競技場の写真だ。基本的に新国立競技場の周辺は関係者以外立ち入り禁止になっているのだけれど、ここだけは外壁ギリギリまで近づくことができる。もちろん、その前には警備の警察官がウロウロしていて、とても落ち着かない場所になっている。そして、僕はこの写真をあの日にーーオリンピックの閉会式が行われたあの日の夜に撮影している。そう、これはつい数時間前までオリンピックの閉会式が行われていた新国立競技場の写真なのだ。 そして、僕はこの写真をすぐにある友人に送った。彼とはその直前まで閉会式の中継を見ながら、やっぱり悔しいよな
2013年に二度目のオリンピックが東京にやってくると決まったとき、僕はこれをきちんと批判したいと考えた。この二度目のオリンピックには一度目(1964年前のそれ)とは異なり、なんの必然性もコンセプトも存在しないように思えたからだ。1964年の東京オリンピックは敗戦からの復興を象徴することで国威発揚を狙うと同時に、高度成長へ向けた首都東京の大改造を前提としたインフラの整備を「爆速化」するための錦の御旗だった。首都高速道路も東海道新幹線も、オリンピックに合わせて急速に整備されたものだ。この都市改造と国土開発自体の評価はさておき、少なくとも1964年の大会には議論に値する明確な意図が、テーマがあった。 しかし、2020年のそれには「何も」ない。斜陽の日本に明るい話題が欲しいといった類の森喜朗的なぼんやりとした精神論と、関係企業や団体のビジネスチャンスへの即物的な期待があっただけだ。そしてそれ以前に
ある水曜日の朝、毎週一緒にランニングをしている友だちから、とつぜんこんなことを言われた。 「宇野さん、カブを買いませんか?」 いったい何を言われているのか、分からなかった。僕はそれが原動機付自転車(原チャリ)のホンダ・カブのことを指していることを、まったく想像ができなくて、何かのインサイダー取引のようなものを持ちかけられているのではないかと思ってドン引きしたくらいだった。 きっかけは、放送中のテレビアニメ『スーパーカブ』だった。これは山梨県の片田舎に住む身寄りのない女子高生が、通学用にスーパーカブを買ったことをきっかけに、オートバイの魅力に取り憑かれていくという物語だ。友人はたまたまこのアニメの最初の数話を観てすっかり気に入ったのだという。その日の夜に、僕も第1話と2話を観た。そしてぐっと引き込まれた。僕は40年の人生で、乗り物を運転したいと思ったことがほとんどなくて、運転免許の類をまった
note.com/wakusei2nd
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。いまやアジアの共通言語になっている「異世界転生」について考察した前回に続き、さらにそのストーリーテリングの本質を掘り下げます。 日本でのその隆盛の発信源となった「なろう系」の作品傾向で突出する、異世界で「2周目」の人生をやりたい放題に生きるという物語。たとえば2000年代には同じ人生を何十、何百周もやり直す「ループもの」が流行したのに対し、なぜ圧倒的に「2周目」なのか? ゲーム体験の掘り下げから、その疑問を分析します。 井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて 番外編 なぜ異世界は、100周目ではなく2周目なのかやたらと多い「2周目」の転生の物語 なぜ、異世界はやたらと「2周目」が多いのだろう。 3周目や、100周目の話も存在はしているが「2周目
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を公開初日に観てきた。以下はその雑感で、僕はこの直後からすぐに「ネタバレ」を、それも決定的なものをものすごくたくさん書くことになるだろう。だからそのつもりで読んで欲しい。 そしてその上で最初から結論を書いてしまうと僕はラストシーンに登場する実写映像を目にしたとき、とんでもなく空回りをしたものを感じた。そしてこのとき感じた空回りが、この映画の、そして2007年からはじまったこの新劇場版シリーズ全体を象徴しているように思う。巨大な空回り。それが僕のこのシリーズに対する結論だ。
周庭が逮捕された。彼女は僕の主宰するメールマガジンで長い間連載を持っていたが、彼女から申し出があり2020年の6月で休止していた。事情は、検索すればいくつも記事が出てくるはずななので、そちらを読んで欲しい。この逮捕によって、連載の再開は未定になった(と思う)。 本当は過去のメールマガジンの連載と出演動画を再公開しようと考えたが、本人の意志が確認できないのと、共通の友人のアドバイスに従っていったん見合わせた。その代わりに、僕がこの文章を書いている。今からでも僕らにできることはないか模索しているのだけど、最初に断っておくがここで僕は彼女の熱心な支援者だと主張する気はない。香港の民主化運動にもっと深くコミットしている日本人の支援者は山程いるし、彼女たちの理解者を名乗るに相応しい人や、彼女たちの運動の意義について語るべき人たちは他にたくさんいる。僕はほんとうに「たまたま」共通の友人を通して彼女と知
改めて述べる必要もないと思うが、『遅いインターネット』はシリコンバレーのプラットフォーマーたちのつくったSNS社会への批判を試みた本で、逆ではない。だったらそもそも「遅い」インターネットなどというタイトルはつけない。あまり情報社会や、近年の政治経済に詳しくない人がほとんど理解できない状態で、でもどうしても批判したくて無理矢理書いてしまった結果なのか、嫌がらせ目的で故意に虚偽を書いたのかは分からない。しかしデマを流された方としては、たまったものではない。 あなたが、阪神タイガースこそ最高の球団であると主張した本を書いて、タイトルに『君と六甲おろしを聴きたい』とつけたとしよう。しかし、その本がデイリースポーツ紙に「この本は巨人至上主義を訴えている」と内容を捏造されて、クソミソに書かれたら、どう思うだろうか。 ほぼ影響力のない媒体だと思うので、放置でもよかった。しかしちょっと内容が悪質だと思うの
昨晩にあたらしいウェブマガジン「遅いインターネット」をオープンした。オープンにあたってのことは、この記事やこの記事を読んでもらいたいのだけど、昨日は実のところコロナウイルスの流行の問題に、企業としてどう対応するかという問題に忙殺された1日だった。 知っている人も多いと思うけれどコロナウイルスによる新型肺炎の流行で、この数日である程度の規模のイベントは中止や延期が相次いでいる。僕個人としては「自粛」ムードが独り歩きしていると感じるところもあるけれど、リスクを高めに見積もっておいたほうがいい局面だという意見もよくわかる。実際に僕が関わっているいくつかのイベントが早々に中止になってしまい、これは僕たちPLANETSも何らかの態度表明をしないといけな、と思った。 正直に言うと、泣きたくなるような気持ちだった。僕たちは、この3月から有楽町のSAAIという新しくできたコワーキングスペースで、週に1度毎
このウェブマガジンはタイムラインの潮目を読んで、瞬間最大風速を強くすることだけを考えがちな今日のインターネットメディアとは距離を置いて、5年、10年と読み継がれる記事をグーグルの検索に引っかかりやすいところにおいておく、という一種の「ネットサーフィン復権運動」だ。 そしてワークショップのほうは、僕がこれまで培ってきたインディペンデントな「発信」のノウハウを読者に共有することを目的としている。そうすることでSNSのコメント欄や、ソーシャルブックマークで散見される揚げ足取り的で、後出しジャンケン的な質の低い投稿とは一線を画した発信の能力を身につけることを目的としている。 そして出版される僕の本は、このプロジェクト(「遅いインターネット計画」)を考え、進行する絵で考えたことをまとめた一種のマニフェストだ。民主主義のこと、情報技術のこと、そしてモノの消費や物語表現の受容のこと、たくさんの議論を総合
ここ2年あまり、僕と仲間たちは「遅いインターネット」というキーワードを軸に考え、行動してきた。ほんとうにことあるごとに、このキーワードについて書いて、語ってきたので、もう耳にタコができるくらい聞いた、その話はもういいよ、と思っている人も多いかもしれない。でも、これからしばらくはもっとそうなるはずだ。なぜならばまずは僕が「遅いインターネット」という題名の本をこの1年くらい書いていて、それが来月出るからだ。 そして(実はこっちのほうが重要なのだけど)同じくこの1年コツコツと準備していた「遅いインターネット」をコンセプトにしたウェブマガジンがオープンするからだ。そもそも「遅いインターネット計画」とはこのウェブマガジンと、併設するワークショップの両輪からなるプロジェクトだ。この計画で何を成し遂げたいのか。詳しいことは、この記事や、この記事やこの記事を読んで欲しいし、何より2月に出る本を読んで欲しい
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。
突然だけれども、今月から「発信できる人になる」をテーマにちょっとしたスクールのようなものをはじめることにした。 これは、端的に述べると「宇野がこれまで身につけてきた〈発信する〉ことについてのノウハウを共有する講座」だ。 情報収集、本の読み方、企画づくり、文章のストーリー構成、ライティングとコピーワーク、物書きとしての生き方、他人の才能を活かす編集術……1年位かけてぜんぶ教える講座を考えている。本当は来年1月からはじめる予定で準備を進めていたのだけれど、反響が大きいのと僕の方でもテストプレイがしたいので、PLANETS CLUBのメンバー限定で11月、12月とその入り口の基礎講座を試験的に2回開講することにした。 講師は僕一人だ。有名編集者や書き手を連れてきて、ワナビーを騙すようなスクール事業は悪質だと僕は思うので、まずは愚直に僕のスキルを共有することから始めようと思っている。そしてこれはラ
先日、菊池昌枝さんと岸本千佳さんと3人で、京都のこれからについて語り合った。なぜ京都、と思う人も多いと思うけれど、僕は実は若いころ7年ほど京都に住んでいたことがあるのだ。僕は父親が転勤族だったので、5年以上住んでいる街はこの仕事をするようになって住むようになった東京を除けば京都だけだ。僕にとっては人生ではじめて愛着が持てた街で、とても思い入れが深い。そして大学の授業を持っている関係で、この6年間春学期(4月-7月)は毎年隔週で東京から出張している。 青森県出身の人間が、それもたった7年住んだだけで京都について何か語るというと、生粋の京都人のみなさんに「青森県出身の評論家さんは京にお詳しいどすなあ」といった感じで嫌味を言われてしまうかもしれない。けれど、外部の人間だからこそ見えてくるものもあると僕は思っている。 もちろん絵葉書と同じ景色を背景にセルフィーを取って、名所旧跡でウィキペディアを引
来月チームラボの猪子寿之さんと僕との共著『人類を前に進めたい』が発売になる。これは僕のメールマガジンの連載をまとめたもので、この4年の間僕と猪子さんは月に1度、この連載のためにスケジュールの合間を縫って対談を続けてきた。対談はだいたいお互いの近況からはじまる。最近身の回りで起きたこと、世の中を騒がせていること、食べて美味しかったもの、観たり読んだりした「ヤバいもの」……だいたい最初の1時間は雑談で終わってしまう。そして1時間が過ぎたあたりでお互いの同席したスタッフの機嫌が悪くなってくる。猪子さんはスタッフのイライラをまったく意に介さずに「最近鍋に入れてうまかったもの」について延々と話し続けることができるけれど、僕は(こう見えて気を使う人なので)、できない。そして本当は最近買ったドイツの動物フィギュアについて語り倒したいのだけれど、無言のプレッシャーに負けて仕方なく対談の本題に入るように促す
■はじめに これは僕らPLANETSが毎週放送しているインターネット番組 #ブループリント の9月3日放送分の準備のためにつくったメモを再構成したものだ。そしてこの文章は僕のオンラインサロン「PLANETSCLUB」で先行公開している。こうした放送の下準備のメモのような文章は、よくクラブ限定のFacebookに投稿しているので、もし興味があったら(と、いうか僕らの活動を面白いと思って、支援してくれる人がいたら)ぜひ、クラブにも加入して情報発信を支援して欲しい。 さて、今日のお題は「N国」だ。この文章を書いている9月9日の夕方、NHKから国民を守る党、通称「N国」の党首の立花孝志が脅迫の疑いで警察に事情聴取されるというニュースが飛び込んできた。僕は思わず、この記事の内容を最新の状況に合わせて更新しないといけないと考えたが、すぐにその必要はないことに気づいた。なぜならば、この文章の趣旨は「N国
加藤浩次とは二年間、毎週木曜日の朝に彼が司会を務める日本テレビのワイドショー『スッキリ』で同席していた。 よく、ケンカしていた。 というか、基本的にワイドショーは議論すると悪評が立つので(まったくもってどうしようもないことだと思うが)、僕以外の誰も意見を述べていなかったように思える。だから森圭介アナウンサーも、コメンテーターの坂口孝則さんも、もちろんたいていのことについては意見を(それもかなり鋭いものを)持っているが、森アナは立場的に進行の管理に、坂口さんは議論の前提となるデータを差し込むことにそれぞれ集中している。そうなると、少なくとも僕が出演していた木曜日の出演者で、加藤さんと議論する出演者は僕以外あり得なかった。正確に言えば、僕には(そしておそらくは加藤さんも)ケンカしているつもりはなかった。意見は合わないことのほうが多かったけれど僕も加藤さんも、意見の交換を楽しんでいたと思う。 ワ
僕はいま、仕事で韓国に滞在している。ソウル市の主催するマンガ、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーの未来を考えるイベントに招待されたのだ。今年の春に僕の本(『若い読者のためのサブカルチャー論講義』)が翻訳出版されたことが影響しているらしい。滞在中は市のイベントに登壇するほかに、現地の出版社の企画したファンミーティングに出たりメディアから取材を受ける予定だ。そしてこのタイミングで日本から来た以上、必ずこの話題について尋ねられるだろう。そう、京都アニメーションの事件のことだ。 最初に断っておくけれど僕はこの件について、特に事件直後に話題を集めている段階で言及するのは本当に嫌だった。 僕は特に京都アニメーションの熱烈なファンというわけではない。けれどそれなりにこのスタジオの作品は見てきたし、感心させられた作品も多い。だからこの事件は本当に残念で仕方ない。いや、それ以前にあまりに卑劣な犯人の行為とそ
僕はいま、このPLANETSで毎平日にメールマガジンを(つまり週5回!)、毎週1回以上インターネット生放送を配信している。我ながら正気の沙汰ではない発信量だと思うが、もう5年もこの形式を続けている。このメールマガジンには僕だけでなく、僕の友人や仲間たちがたくさん寄稿してくれている。作家、研究者、官僚、起業家といろいろな分野のプレイヤーが集ってくれている。 有名どころではチームラボの猪子寿之や、SHOWROOMの前田裕二、投資家のけんすうこと古川健介などが連載を持っている。けれど、いわゆる「インターネットの有名人」が並んでいるわけではない。実際にいまの連載陣では丸若裕俊や、消極性研究会、橘弘樹といった面々の連載が人気だ。丸若は工芸や日本茶のアップデートを行っているプロデューサーで、消極性研究会は情報工学やゲームデザインなどの研究者がジャンル横断的に集まったユニットでその名の通り消極的なパーソ
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