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ブラックフライデー
ohnosakiko.hatenablog.com
トランス女性の女性スペース問題で、「TRA」と「TERF」(トランスの権利擁護の活動家とトランス排除的ラディカルフェミニスト。いずれも蔑称とされているようなのでここでは「」付きで使う)は激しく対立している。対立というか並行線だ。 この話題をめぐって昨日、「TERF」の女性にはオートガイネフィリアに対する忌避感があることについてX(Twitter)で言及したら、いろいろな反応があったので、主なものを紹介したい。 とりあえずこれまでで、オートガイネフィリアについて私が最初にXで目にしていたのはこの動画である。 ⚫︎「オートガイネフィリアとは?」ヘレン・ジョイスの解説(日本語字幕) www.youtube.com 一貫して反「TRA」の立場から語られており、オートガイネフィリアは女装するだけで満足せず、女性スペースに入り女性として扱われようとする人々とされている。この動画が拡散されて、女装したオ
飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2023年下半期の歌です。 まあまあのも今ひとつのも全部上げました。気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。俳句も少々あります。 ◆ 七月 仲直りするには一におやつだよ二によしよしでおやつを付ける めんこい子見たら待ち伏せしてるけど来る確率は三割くらい リビングで岩合さんのネコ歩き見てるな俺と遊ぶの忘れ ひとくちで食べるおやつを「ふたつね」と割ってくれても量は変わらぬ AIは向日葵の色知ってるか * 雨雲の切れ間の散歩あちこちで人はいそいそ犬はのんびり 一匹の蟻が仲間に君たちはどう生きるかと問う庭の隅 * うだる夜早くビールが飲みたくて散歩は短いコースにしたね 苦瓜の木陰は涼し気持ち良し今宵はここで月眺めたし 雨上がり夜風と月と街灯に伸び縮みする我らの影と 青い鳥消すならせめて柴犬に戻してくれりゃよかっ
『自称・救援ノート 救援される前に読んどく本』が刊行されました。私は執筆と編集で関わっています。BOOTHで冊子概要と目次を公開していますので、是非ご覧ください。https://jisyokyuennote.booth.pm/items/5270402 「自称」とは「自称・救援会」から来ており、「自称・救援会」は当時救援対象だった「自称・室伏良平」に倣っています。 活動家のハンドブックとして歴史の長い冊子『救援ノート』と似たタイトル・外見にしたのは、パロディではありません。当該本が担ってきた役割を評価しつつも、それが基盤としている左派の運動の構えとは距離を置き、別の視点を提示しようとする我々のスタンスを示すものです。 今回、初公開の情報が多いので、一連の事件や救援活動についてTwitterなどで概略は知っていたという方も、是非「はじめに」から順を追って読まれることをお勧めします。 【参照】
飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2023年上半期の歌です。 まあまあのも今ひとつのも全部上げました。気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。俳句も少々あります。 ◆ 一月 神様がスポットライトを気まぐれに誰かに当てる平らな世界 何千という始まりの朝迎え最後の朝に終わりへと跳ぶ * 凍てついた僕らの冬を溶かそうと蝋燭の炎色の薔薇咲く おばさんが良い出汁とりたくなるように良い土見ると俺は掘りたい 猫二匹ふぐりを冬の陽にあてる 甘噛みは暴力じゃない信頼を試してるだけもっと噛ませて * 微生物たちがそわそわ騒めいて石が湿ってもうすぐ雨だ 晒し首みたいに残った白菜が一列小春日和の畑 * 無を閉じ込めた鉄柵に冬光る すっぱりと頭切られた大根の面の白さよ土の黒さよ 寒波前 野薔薇は花も葉も赫く 寒波だよ寒波が来るよと怖がってないで今すぐどっかに逃げよ
1.『改訂版 全共闘以後』(外山恒一、イースト・プレス、2018) 1950年代から60年代末にかけて盛り上がった学生運動は、72年のあさま山荘事件以降衰退し、若者は政治への関心を失った‥‥というこれまでの見方を否定し、主に80年代以降のメインストリームではない若者たちによる社会運動を、多くの関係者への丹念な聞き取りと自身の体験を元に”通史”として描き出した、本文だけで600ページ近い労作。 序章では全共闘の「前史」と本書に通底する筆者の問題意識が示され、第一章から第五章までは、80年代から90年代の左派から右派までの有名、無名の人々のさまざまな動きや現象を、内在的な批判を交えつつ活写している。第六章と終章はゼロ年代以降の話となっており、80年代生まれの活動家たちへの若干の距離感が見られる。 縮めて言えば、50年代半ばに革命への意志を失ったそれまでの左翼を否定して登場した新左翼運動と、その
いずれはまとまったテキストにするために、ここに関連ツイートを置いておく。 ※スレッドになっているものが多いので、興味のあるツイートがありましたら是非スレッド全体をお読み下さい。随時追加の予定。 「正しい性知識」がないように「正しい性表象」もない。むしろどんな知識や表象も、性に関する限りすべて少しずつ間違っている。私は最初の快楽を少し間違ったものから調達し、誰かを少し間違った像で愛する。性において自由であることは怖いし、不自由であることは苦しい。私はいつもその間にいる。 — 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2018年9月13日 昔あるフェミニストは「すべてのセックスはレイプである」と言いましたが、仮にセックスの原型がそのようなものであっても人はセックスすることをやめないし、むしろより性欲を高め快適なセックスするための様々な文化を編み出してきました。根底にあるのが「暴力性」だ
罵倒系占い師 良い占い師は、占い結果をそのまま伝えるようなことはしないという。 例えばある人について、「今年は仕事を干される」という占い結果が出たとすると、「今年はあまりがつがつ働かず、充電期間に当てましょう」。「恋人にフラれる」と出たら、「今の相手は運命の人ではないかもしれません」。 占い師も商売している人だから、相手に致命的なショックを与えず、有り難いことを聞いたという気にさせて、ちゃんとお金を取れるよう創意工夫を凝らしている。一時的な精神安定剤を売っているようなものだ。それに、どうとでもとれるような曖昧な言い方をした方が、当らなかった場合にうまく逃げられるし。 たまに、すごく不吉な内容‥‥「身内に不幸があるでしょう」「一生異性に縁はない」 「死相が出ている」といったあまり聞きたくないことを、ズバズバ言う人もいるらしいが、サービス業としては儲からないのではないかと思う。 さてそういう癒
去る5月1日、大阪で行われた合宿勉強会「集まるのが大事vol.2」(テーマ=反抗)の二日目に登壇し、以下のような内容で90分ほどのトークをした。 「反抗 vs 反抗 」の外へ―性的表現と性差別批判の弁証法― 【概要】 美術に現れる女性の裸体表現は、かつては神話の文脈と宗教の縛りの間にあったが、次第にその制約を離れ、個としての性表現へと変化・多様化してきた。一方フェミニズム批評による美術史の読み直しにより、作品中の男性視点や性規範が指摘されるようにもなった。近年は強い反発と撤去要請が起こるような事案も散見される。 議論を呼んだ主な女性ヌード表現及び批判の文脈を辿り、「反抗 vs 反抗」の隘路から「外」に出る視点について考える。 【内容】 ① 「女を見る」をめぐる男/女の非対称性 ② 西洋美術における女性ヌードの位相 ③ 近代日本の西洋美術、性道徳の受容 ④ 「性差別」という批判の始まり ⑤
飼い犬のタロ(柴のオス)が詠み手という想定の「犬短歌」をTwitterで詠み出して、半年経った。短歌や俳句に関して私はまったくの素人でほとんど作ったことがなかったが、偶然、主体が犬の俳句ができたのをきっかけに、面白がって始めた。 俳句もいくつか作ったが、短歌の方が圧倒的に多い。最初は犬画像とセットで出していたので、画像がないと若干意味不明になっているのも最初の方にはある。 「これはかなり制約だな」と思ったのは、人が抱くような複雑な感情を詠めないことだ。その代わり、子供目線は持てる。犬目線とは、私にとっては子供目線に近い。 もちろんそれも、私が勝手に想定している実はありえない犬の目線だ。私の「犬短歌」とは関係妄想の産物である。 途中で、歌人の荻原裕幸さんが目に留めて下さり、「タロのキャラクターがわかるようなのもほほえましいが、タロなのか大野さんなのかわからないようなのが、短歌としてはいいと思
「さいたま国際芸術祭2020」https://art-sightama.jp/jp/の中の「市民プロジェクト」の一環として作られた批評誌に、拙文を寄せております。 芸術祭は新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、開催を延期したまま当初予定されていた会期が昨日終わっていますが、批評誌はあちこちに置かれているようです。 note.com 個人的に名古屋圏であまり配れませんでしたので、とりあえず拙文だけここにアップしておきます。 ● 対話が隠蔽する「加害」としての芸術 「現代美術の場における対話」で必ず思い出される、30年以上前の体験がある。 1980年代、名古屋の中心街からやや外れた場所に、A.S.G.という「実験的」なギャラリーがあった。オーナーの意思で商業ギャラリーではなかったそこが「実験的」と見なされていた理由は、一階の画廊スペースの経営が二階にある居酒屋の収益によって賄われていたこと
鉄を素材に彫刻を作り続けている藤井健仁の個展「ABJECTION X」が、来週から日本橋高島屋S.C.本館6階美術画廊Xにて開催されます。DMに掲載された拙文を、作家の了承を得てこちらに転載します。 ● 加害の引き受けと陥没のエレガンス 労働 アートと呼ばれるものの輪郭がすっかり曖昧となった現在、絵画と彫刻はそのモダニスティックな形式を依然として維持し、「芸術の場所」を確保しているかに見える。彫刻というオーソドックスなジャンルからスタートした藤井健仁は、その「芸術の場所」が排除してきた様式であるお面と人形を、自身の制作の中心に据えてきた。 お面とは、顔面に装着することで何者かになり代わるアイテムであり、人形は小さな人型に何者かが託されたものである。いずれも代替物としての役割を果たすがゆえに、何の役割を果たさずとも「芸術の場所」を占めることのできる彫刻にはない通俗性や商業性を帯びることになる
あいちトリエンナーレ2019と同時期に開催された「なごやトリエンナーレ」について、『情況』2019秋号の「あいちトリエンナーレ逮捕事件の真相 謎の団体を解剖する! なごやトリエンナーレ」というインタビュー記事の後に、論評「「なごやトリエンナーレ」への視角」としてテキストを寄せています。 発売から一ヶ月以上経ちましたので、こちらに拙テキストの全文を掲載しておきます。 ● 受動的「自由」の拒否から立ち上がる世界への「強制」 芸術は能動的な行為とされている。美術ならば物やイメージに働きかけ、その結果としての作品によって観客や社会に働きかける。今年のあいちトリエンナーレはまさにそのような芸術の能動性を寿ぐものだった。だが「超芸術」を標榜するなごやトリエンナーレに、芸術的能動性はない。唯一の能動的行為として当初からあったのは、サイトに掲載された「無上の時代」というステートメントのみである。 7月31
映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最期に微笑む」第41回は久々の邦画です。 キム・カーダシアンの例のKIMONO騒動を枕に、着物、お茶つながりで樹木希林と黒木華が共演した『日日是好日』(大森立嗣監督、2018)。 今わからなくてもいつかわかる。師から教わるお茶と人生の妙味 - ForbesJAPAN (画像はイメージ) 日日是好日 通常版 [DVD] 出版社/メーカー: Happinet 発売日: 2019/06/04 メディア: DVD この商品を含むブログを見る 原作は、森下典子のエッセイ「日日是好日─『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」。一人の女性の約二十年に渡る歳月が、シーンごとの季節の移り変わりの中で、水彩画のようにスケッチされています。 雨など自然の水の描写、水の音が印象に残ります。水(湯)を使う茶道でも、密やかな水の音が。水音の映画と言ってもいいくらいです
※この数日のツイートをそのまま並べた(横道にそれたもの、言及先のあるものは除く)。 ●広告に批判 Loftのバレンタイン特設ページが炎上気味と聞いて見てみたが、特別厭な感じは受けなかった。ただ、全体のセンスが何となく古臭い。女芸人が女子あるあるネタで散々やったような感じ。それにもう平成も終わりなのに、まだカレシ用のチョコ買うのかい自分用でなくてという。‥‥いや別にいいんですけど。 ポップな感じの絵にちょびっとダークな要素混ぜるのって凡庸だよね。どうせなら彼から彼へ、彼女から彼女へというパターンも作りゃいいのに。まあLGBTの商売利用として批判されるかもしれないけど、ヘテロ恋愛関係で散々商売してきてるんだし、そのくらい誰も思いつかんのかということが不思議。 あれは「サブカル」という指摘を見て、ああだから古臭いんだと思った。サブカル的な内輪受けっぽい「毒」入ってますよというスタンス。もう10年
スポーツカースト制 先日電話で知人の20代後半の男性と、例のエビちゃん系や文化系について話しているうち男子の話になり、 「むしろ男子の方がモテるモテないの階層格差がはっきりしていてキツいですよ」 と言われた。 彼によると、常にモテの上位にいるのは、スポーツ万能なさわやか体育会系男子である。サッカーなんか得意だったらもう文句なし。 それに比べて、スポーツが今いちな男子は文化方面に走るが、女子にはあまりキャーキャー言われない。そういう上下の格差が厳然としてある中で、一番下層にいるのはもちろん運動も文化方面も苦手な男子。 文化方面と言っても「ガリ勉君」「ロック少年」「文学少年」「オタク」などいろいろあるが、部活で毎日グラウンド走り回っている男子に比べると地味である。文化祭でステージに立つロック少年だって、瞬間最大風速的にモテはしてもサッカー少年に比べると出番が少ない。やはりサッカー少年は、クラス
絵を描く人々 第12回 日本・お絵描き・女の子 - WEBスナイパー(18禁サイト) マンガ・アニメやイラストから現代絵画に至るまで、今ほど女の子の絵が盛んに描かれ、見られている時代はないのではないか‥‥‥この十年近くずっと抱いているそんな印象から書き起こしています。 一口に「女の子」や「少女」と言っても、描く人、選ぶジャンルやスタイルによって、その動機や思い入れは違うことと思います。 しかし百年くらいの大きな流れの中で見た場合、「少女」のイメージや「女の子」的な要素は、日本のビジュアル表現シーンに繰り返し現れています。 性別を問わず多くの人が「女の子」あるいは「少女」の表象を愛し、そこに夢を見ているのはなぜなのか–––– 今回のイラストは、私の7歳(1966年頃)の時のものを模写してみました。 本絵はこんなの↓です。自分では覚えていませんが、高橋真琴のイラストにディズニー絵本の動物を組み
週一平均できものを着始めて2年と9ヶ月。きものの持つ拘束感にはまっている大野です、こんばんは。 ボンデージ(拘束)のコスチュームはいろいろありますが、全身を締め付ける特殊なものを除くと、基本的に洋装下着が原型になっていますよね。ブラジャー、コルセット、ボディスーツ、ガードルは、乳房と臀部を丸く持ち上げ、主にウエストを締めつけて、女っぽくセクシーなボディラインになるよう身体を成形するアイテム。 もっとも強く締めつけられるのは、今も昔もウエスト近辺でしょう。私も昔、ウエストマークのスカートのホックが掛からなくなって、泣く泣くウエストニッパーで締めつけたことが。あと、寄せて上げる系のブラも、胃のあたりが結構きついですね。年齢的に、もうそういうのはしないけど。 きものの場合、洋装のように身体を誇示する思想がありません。基本的かつ古典的な洋装女服は、下着で成形された身体ラインを活かすように立体裁断、
もうほとんどの人が忘れたと思われる宮崎県日向市のCMへの「ルッキズム」観点からの批判、ルッキズムに囚われがちな一人として悩ましい部分があった。 たとえば、スマートな人の外見が(そうでない人より)好みだということと、それを一般化して語ることとは区別すればいい‥‥‥で本当にいいのか。 厳密に言えば、区別するのは難しい。世の中にスマート>デブという権力勾配がある中では、「私は太った人よりスマートな人が好きです」という"個人的"言明も、ルッキズムだと見なされるかもしれない。 ルッキズムは単に容貌差別(容貌至上主義)というだけではなく、太っているより痩せている方が、背が低いより高い方が、顔が大きいより小さい方が、鼻が低いより高い方が、目が小さいより大きい方が、肌が黒いより白い方が‥‥(相対化されてきた部分もあるが)という西欧中心的価値判断を含んだものだ。 「太っているより痩せている方が美しい」という
『パターソン』 Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved. プロではなくても現在、たくさんの人が仕事をしながら絵を描き、バンドや劇団に参加し、詩歌や小説を書いている。 『パターソン』は、そんな名もなき芸術家たちの一人であろう青年の、平凡にして非凡な七日間を描いた佳作だった。 ニュージャージー州パターソン市*1に住む、パターソンという名前のバス運転手が主人公。 こぢんまりした家に妻と愛犬と暮らし、朝起きて簡単な朝食を摂って仕事にでかけ、終日バスを運転し、帰ってきて妻の作った食事を食べ、犬の散歩に行き、バーに寄って一杯飲む。そんな日々の中で、パターソンはひっそりとノートに詩を書いている。 彼が見ている普段の情景映像に、ノートに綴られゆく詩の筆跡が重なり、そこに彼自身の呟きが重なっていくシーンは、生活の中で作品が生成
私は普段外食はほとんどしないけれど、夫が単身赴任先から帰ってくると、一緒に行く近場の店が何軒かある。 いずれも中年の夫婦でやっている、カウンター中心のこじんまりした和食屋や居酒屋。値段はわりとリーズナブルで料理は普通に美味しく、何よりくつろげて居心地がいい。 自分たちと年齢の近い夫婦がやっているからそう感じるのかと思っていたが、それ以外に共通点があることに気づいた。 包丁を握る旦那さん *1 は見かけノッソリしていてあまり喋らないが、こちらから何か聞いたおりに口を開くと、どことなくユーモラスな人柄がうかがえる。奥さんは小柄で、シャキシャキしていて明るい。 動物に喩えると、温厚なクマと利発なリス、みたいな感じ。 今月初めに観光で新潟に行き、夫のマンションの近くの鮨屋に連れられていったら、やや年代は上だったがやはり見事に同じパターンだった。良い店、旨い店はたくさんあると思うが、自分たちが安心で
※20日の記事に追記したら、なぜかもう一つ追記付きの記事が上がってしまいました。とりあえずこちらは追記だけにします。前の記事の続きとしてお読み下さい。 ●追記/この後、またやりとりがありました。そこで思ったことなど。 「差別」の定義が違うのかな。私が理解してるのは以下を満たすもの。 1. 偏見や先入観を元に、特定の属性をもつ人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。 2. 社会的権力関係を前提とし、マジョリティからマイノリティに対して現れる。https://t.co/p4W43bUEyh— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) 2017年8月22日 権力関係は社会的立場の違いに現れる。だから一般女性が男性政治家を「差別」することはできない。侮蔑、批判、抗議がせいぜい。無論それが不当なら批判される。また社会的には男性=マジョリティ、女性=マイノリティだが個別のシーンでは変わるこ
最近、Twitterで千野帽子さんとやりとりさせて頂いた。質問と回答が若干前後しているがそのまま掲載。 では人はいつ差別者となるのでしょうか? それは他人の属性に否定的な意味づけをするときです。つまり、差別者になるかならないかは、自分の選択なのです。 人が被差別者となるのは属性によってであり、差別者となるのは行為によってです。 多くのばあい属性は選択不可能、行為は選択可能です。— 千野 帽子『人はなぜ物語を求めるのか』 (@chinoboshka) 2017年8月19日 RT 差別行為が「選択可能」とは思わない。それは気付かぬうちにしてしまっているものだと思う。赤ちゃんは誰も差別しないが差別のある社会の中でそれを覚えていく。言葉を覚えるように。そのずっと後で初めて己が差別者であることを知り「差別しない」という行為が「選択可能」になると考える。— 大野左紀子 (@anatatachi_ohn
(※7/22追記あります) ラブドールを恋人代わりにする男性のことを初めて知ったのは、10年くらい前にあった某ブログ。彼女との「愛の生活」を綴った日記が面白いということで、一部で人気だった。私も一時期読んでいた。最初に、これ「ピグマリオン」だなと思った。古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に登場する、キプロスの王ピグマリオン(ピュグマリオン)の物語だ。 生身の女性たちに失望したピグマリオンは、完璧な女性を求めて彫像作品を作った。その出来映えがあまりに見事だったので、彼はすっかり彫像の女性に恋をしてしまい、毎日のように語りかけ、贈り物をし、ベッドを共にし、ついに彼女は自分の愛に応えてくれたのではないかと思うようになった。その狂おしい思いと彫像の素晴らしさに打たれたヴィーナスが、褒美として彼女に命を授けてくれた。 SF小説『未来のイヴ』から映画『空気人形』まで、さまざまな小説、映画など
トーク・トゥ・ハー スタンダード・エディション [DVD] 出版社/メーカー: 日活発売日: 2004/02/16メディア: DVD クリック: 24回この商品を含むブログ (124件) を見るやっとDVDで見た(2002年、ペドロ・アルモドバル)。 ここでは女は、男に発見され一方的に見られ愛されるだけの存在だ。ほとんど男の幻想とフェティシズムの対象。ああやっぱりそういうことだったのかということです、身も蓋もなく言ってしまうと。 いずれも女の方が事故で植物人間になってしまった二組の男女。 片方はもともと男の方が片思い(ほとんどストーカー)だったべニグノ&バレリーナのアリシア、もう片方は恋人同士だった女闘牛士リディア&マルコ。女性がいずれも「一方的に見られる仕事」に関係しているのが、興味深いポイントだ。 そもそも二人とも、女とは一方向的な出会い方をしている。 ベニグノは窓越しにバレエのレッス
内輪の読書会の後の飲み会で、2人の知人に意見をもらったところから、ツラツラと考えたことを書き起こす(Twitterより)。 U氏とK氏は私の思想的基盤(らしきものがあるとして)形成にとって重要な人物だが、「美術家廃業から始まった大野の今のあり方はまだ不徹底だ」とU氏は言い、K氏は「逆に、世俗に塗れ悪魔に魂を売り渡して人並みに苦しんでないのが弱みだ」と言う。生き方について真逆のことを言われている。 共通するのはおそらく「楽なところで自己実現しようとするな」だろうと思う。「楽」かどうかは相対的なものなので措いといて、「書く」ことは自分にとって自己実現なのだろうか。という問題について、改めて考える。 自己実現を超えた価値とはどういうものなのだろうか。ある人は「社会を変えようと志すこと」だと言う。私の書くものにはそれが希薄だ、つまり自己実現に留まっていると。 たとえば、芸術には自己実現を超える価値
例によって少し前の呟きから抜粋(人のtweetに反応したものだが、単体で成り立つよう若干手を入れた)。 ● 差別(偏見や先入観などを元に特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをする)とは単に好き嫌いの感情ではなく、構造的な権力関係を前提としてマジョリティがマイノリティを排除したい時に現れるもの。 こうした社会的位相における差別と、個人的愛憎における区別とは異なる。人を愛することと差別に反対することは、個人の中で両立する。愛の反対は憎しみではなく無関心。儀礼的無関心に基づく平等というのもありうる。 そもそも人に「差別する自由」などというものはない。なぜなら、人はつい差別をしてしまうものであって、そこにするかしないかの選択の「自由」などないから。 差別感情は不条理且つ根源的なものゆえ、人の心から完全に消し去ることは難しい。だからこそ理性による制御が求められる、とされてきた。 近代は「人権」の時
変わったタイトルである。「無くならない」が大きく表示されてタイトルっぽく、「アートとデザインの間」がサブタイトルの扱い。 帯には、「20世紀の思想だったデザインやカウンターとしてのアートがある使命を終えようとしている。」の文言。「はじめに」では、アートとデザインの「ジャンル中間領域」の話でも、「両者の融合」ということでもないとある。 読み進めていくとわかるが、この「間」とは、「アート」として成立する以前、「デザイン」と呼ばれる以前の、名付け得ない行為を指している。今あるようなかたちのアートやデザインがなくなっても、その行為というか営みだけは「無くならない」ということだ。 「描く」という、人間の「無くならない」営みについて、「アートやデザイン以前」から根源的に考えようとする、非常に奥行きの深い内容だった。 著者の佐藤直樹は『WIRED』日本版創刊からアートディレクターとして関わり、長年デザイ
読了直後でかなり散漫な内容だがメモとして。 tweetをそのまま埋め込むと読みづらいので、文章のみコピペ(https://twitter.com/anatatachi_ohnoより)。 いろんな意味でおそろしい本だった。内容要約はしてないので、以下は未読の人には何がなんだかです。 ● ゲンロン0、第一部読了。哲学思想は興味あるところだけ気紛れに齧り歩いてきた自分のようなふまじめな読者にも、極めて親切設計で有り難い。< >についての注とか細かな気配りが。二層構造論が恐ろしくクリア。「こうである」と「こうありたい」が慎重に書き分けられている点もリーダブルだった。 「観光客」の可能性については正直まだよくわからない。政権の交替やテロの勃発で観光は簡単に影響を受けるし、「抵抗」として機能するのはやはり「哲学する観光客」に限られるような気も。ただ、ある限界を突破しようとする時、このくらい大胆な仮説を
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