71年前の今日、昭和20年1月27日、命拾いをした話 - 認知症になった夫との日々の記録
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71年前の今日、昭和20年1月27日、命拾いをした話

 昨日1月26日、東京メトロ日比谷線の銀座駅構内で白煙が立ちこめる騒ぎがあった。
ちょうど銀座のそのあたりから日比谷あたりまでの都心に、71年前の今日、昭和20年1月27日、米軍の空襲があり、たくさんの爆弾が落とされ、多くの名だたる建物が破壊され、多数の人命が失われた。

 最近の夫は、せん妄状態に陥っていることが多い。
 語ることも、妄想が多くなり、日本語に違いはないけれども、意味不明ということが日常茶飯事だけれども、次に記したのは、この昭和20年1月27日に、夫が辛くも命拾いをした話である。
 これは夫が認知症を発症したごく初期の頃から、何度も繰り返し聞いた話をまとめたものである。
 既に認知症を発症した後のことなので、毎回話すことが微妙に違っていたり、中には他の記憶と混線しているのでは?とか、事実に誤りがあるかも?と思われる事柄もあるけれども、夫の体験としての真実がそこにはあると思う。
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 昭和19年9月から、当時小学5年生だった夫は、埼玉県のある村のお寺に学童疎開をしていた。
 昭和16年12月に始まった大東亜戦争の戦況が厳しくなり、本土空襲のおそれが切迫していたためである。
 疎開先では、食糧が慢性的に不足していた。
 したがって、勉強は午前中だけで、午後からは生徒たち皆で近くの農家の畑作業の手伝いに行き、サツマイモ等を分けてもらいながら食いつないでいた。
 いつもいつも腹ぺこだった。
 正月を前にした昭和19年12月末、夫は、疎開先から東京・本所区石原町(現在の墨田区)にあった自宅へ帰省した。
 妹2人と弟1人は、母親の実家(農家)の茨城へ縁故疎開しており、一番下の妹(当時2歳半)だけが両親と祖父母だけ本所の自宅に残っていた。

 年が明けて昭和20年の正月も過ぎ、疎開先へ戻らねばならなかった。
 けれども、疎開先の食糧不足や家族と離れて暮らすことの辛さから、疎開先へ戻るのを延ばし延ばしにして、ついに1月下旬となってしまう。
 さすがに、もう戻らねば・・・。
 疎開先に戻る前に、何か映画でも見て、友達への土産話にでもしようか・・・

 昭和20年1月27日土曜日の昼前、一人、本所区石原町の自宅を出て、錦糸町駅から省線電車(後の国鉄、現在のJR)に乗り、秋葉原駅で乗り換えて、有楽町駅で下りた。
 日比谷にある映画館に入り、上映を待っていた。
 ところが、警戒警報が発令。映画上映は中止となった。
 「今日見られなかった券はどうなるのか?」と映画館の窓口で訊くと
 「明日来なさい。そうすれば、この券で見られますよ」と言われ、
 券に証明のための判子を押してもらう。
 映画館を出て、足早に省電の有楽町駅に向かった。
 有楽町駅は、警戒警報のため家路に急ぐ人たちが駅に詰めかけ、押し合いへし合いしている。
 仕方なく電車に乗るのは諦めて、宮城(きゅうじょう:現在の皇居)側にある日比谷壕-馬場先壕-和田倉壕の脇の通りを歩いて秋葉原駅へ向かった。
 途中、ドォ~ン、ドォ~ンという、つんざくような地響きが何度もした。
 ところが、空を見上げても、雲が低く垂れ込めていて、敵機は見えない。
 ようやく秋葉原駅まで出た。
 何とか電車に乗り込み、出発するのを待っていると、突然、ドォオ~ンというもの凄い地響きがあがり電車ごと揺れた。
 座っていた乗客たちも、皆、慌てて立ち上がり、伸び上がって、音のした方角を見ていた。
 黒煙が上がっている。
 今日はもう電車は動かせないようだ。
 仕方なく、秋葉原駅を出て、また歩き始めた。
 隅田川にかかる両国橋を渡り、本所にある自宅まで歩いて帰った。
 家では、母が心配して待っていた。
 「ああ、どこへ行っていたの? 無事だった? 心配していたのよ!」
 「大丈夫でしたよ。」
 そう言って、自宅の2階に上がり、爆弾が落ちた位置を確認してみた。
 自宅から比較的近い浅草方面にも黒煙が上がっているのが見えた。

 爆弾が落ちた所って、どんなふうなんだろう?

 母の目を盗んで、浅草まで、一人、自転車を走らせた。
 爆弾が落ちたところでは、警備隊が出て、消火活動をしていた。
 見た目には普通の火事と変わらないようにも思えた。
 この時は、まだ、本当の空襲の怖さというものを実感できないでいたのだ。

 そして、翌1月28日。
 昨日見損なった映画を見に行こうと、判子を押してもらった映画券を握りしめ、再び日比谷の映画館へ向かった。
 ところが、省電は有楽町駅では停車せずに、新橋駅まで行って停車した。
 昨日、有楽町駅に爆弾が落ち、駅構内が激しく破壊されたからだった。
 帰宅を急ぐ人たちで押し合いへし合いしていた多くの人たちが、爆弾の直撃を受け、吹き飛ばされて、無残な姿で亡くなった。
 もし、昨日、あのまま電車に乗ろうと混雑する有楽町駅にとどまっていたら、爆弾にやられて死んでいたかもしれない。

 新橋駅から日比谷の映画館に歩いて向かうと、あちこち爆弾が落とされ、名だたる建物が破壊されていた。
 映画館も被害を受けたのか、外に机と椅子が出されていて、そこに映画の案内の人が居た。
 握りしめた映画券を見せると、「ここでは上映できませんが、浅草や上野、新宿の映画館で見ることができます。そちらへ行ってご覧ください」と。

 結局、夫は、他の映画館に映画を見に行ったそうだが、そのあたりは記憶が曖昧。
 その数日後、夫は、埼玉県のお寺の疎開先へ戻った。

 そして、その1ヶ月とちょっと後、3月9日深夜から10日未明にあった下町の東京大空襲によって、本所区石原町にあった夫の実家は全焼してしまった。
 自宅に残っていた家族は奇跡的に全員無事だったが、隣近所の多くの方々が亡くなった。
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 戦後生まれの私には、戦争中の市井の人々の日常の様子というものが、なかなか想像できない。
 開戦からわずか4ヶ月後の昭和17年4月に東京に初空襲があり、その後、昭和19年11月くらいから東京にもボツボツ爆弾が落とされ始めていた。
 そのような中にあっても、映画館で、「普通に」映画が上映されていることや、そもそも「暢気に」映画を見に行こうという人たちがあったことに、驚きを禁じ得ない。

 ネットで調べてみたら、ちょうど同じ日に、父親に連れられた少年(たぶん夫と同年齢)が、日比谷で映画を見ている最中に警戒警報が出て、上映が中止になり、慌てて避難したという体験談を見つけた。

 やはり映画を見に行っている人が居たんだなあ ( ‘o’)

 一般国民の間では、この頃はまだ、それほどの切迫感はなかったということなのか…?

 ずっと平和な時代を過ごしてきた私にとっては、もしたった1発でも、東京に空から爆弾が落ちる等ということがあったとしたら、もう、それだけで、明日から怖くて外を歩けない。
 家に籠もって泣いているかもしれないし、家族の誰かが外へ出歩くことも、心配で、心配で、耐えられないと思う。
 ましてや小学生が一人で、空襲があるかもしれない、爆弾が落ちてくるかもしれない街を歩き回っているということ自体、信じられない。

 夫の話に「暢気さ」を感じてしまうのは、昭和20年1月27日の時点では、まだ本格的な空襲を体験していなかった東京の人々の心象風景があるからなのかもしれない。

 だから、「爆弾が落ちた所ってどんなふうになっているのだろう?」
 と、興味津々で、わざわざ自転車に乗って見に出掛けたのだろう。

 おまけに、爆弾が近くに落ちて上映中止になった映画館で、映画を見に来る客のために案内人が外に出ていて、他の映画館を案内していたという話も、なんだか、とぼけた感じでおかしい。

 そんなにみんな暢気だったの? 
 戦争というものが、日常生活に中にあって、当たり前だったから・・・?

 それにしても、夫が見ようとしていた映画は何だったのかな?
 夫に訊くと、
 「はっきり覚えていないけれども、劇映画ではなくて、ニュース映画を見ようと思っていたかなあ?」

 まだテレビ放送がない時代、大東亜戦争の戦況や銃後の記録映像をニュースとして上映していた。
 ニュース映画上映専門館もあったそうだ。

 夫の暮らしていた本所区の錦糸町駅近くにもニュース映画専門館はあったから、この日、わざわざ日比谷まで出向いたのは、劇映画を見ようとしたのではないのかな?

 いろいろ想像し、夫に訊いてみたのだが、そのあたりの記憶は定かではないようだ。

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コメント

突然のコメント失礼致します。

偶然こちらのブログを見つけ、拝見させて頂きました。

実は私の祖母も戦時中本所石原に住んでおり、東京大空襲の前後に茨城の親類の家に疎開をしたと聞いております。ちなみに祖母達はそのまま茨城に定住し、私も茨城で生まれ育ちました。
ブログを読んでひょっとしたら、ご主人と私の祖母は知り合いだった可能性もあるのかなと想像しておりました。
私の様な若輩が何か言えたような義理ではないのですが、ご主人の事様々なご苦労がおありになると思います。
奥様はお体など崩されませんよう、どうか御自愛下さい。

尾関さん

コメントありがとうございます。

本当に知り合いだったかも知れませんよね。

 夫の弟妹たちが、母の実家の茨城に疎開をしており、夫は学校の疎開先にいましたが、食糧不足のため、時々、茨城の母の実家を訪ねて滞在し、しばらくそこで食べさせてもらったりしていたそうです。

 その茨城で、夫は、機銃掃射に遭ったこともあるそうです。

 お祖母様のお家は石原町何丁目だったのでしょうか?
 うちの夫の家は石原町4丁目でした。

 このブログの下記のページにも書きましたが、すみだ郷土文化資料館に、昭和6年頃の石原町の町の様子が手書きで再現されていました。残念ながら夫の記憶を呼び起こすことはできませんでしたが・・・

 『あの日を忘れない 描かれた東京大空襲』の本の中で、「自宅前で爆風に吹き飛ばされる人々」を描いた女性も、本所区石原町4丁目で用品店をなさっていたお家の方だと書かれてあります。
 夫と年齢が近く、知り合いだったのではないかと思うのですが、夫に名前を見せても、絵を見せても、今ひとつはっきり思い出せず、ちょっと残念・・・

 http://awakibi.blog.fc2.com/blog-entry-168.html

 それにしても、戦時中の大空襲をくぐり抜けて、こうして生き延びてこれたお祖母様やうちの夫も含めた人々、その体験を語り継ぐことは大事なことですよね。

 私も、もっと、夫から話しをたくさん聞かなければ・・・と思いをあらたにしました。

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プロフィール

アワキビ

Author:アワキビ
夫と2人暮らし。子どもはいません。
それに現在は猫1匹の家族。
夫、要介護5。アルツハイマー型認知症。生まれつき耳が聞こえない。
父は2018年秋に特養に入所。要介護4。毎週木曜日に実家へ介護タクシーで帰り、2泊3日。土曜日の朝、特養へ帰るという生活も、コロナ禍でずっと特養のみの生活に。特養での看取りも視野に。
母は要介護1で、認知症。弟家族と同居していたが、コロナ禍を期に、我が家に同居することに。記憶障害がだいぶ進んできていて、話したそばから忘れるが、身体は元気。

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