新作JRPGとして登場した『メタファー:リファンタジオ』だが、蓋を開けてみれば、どこかで見た要素の詰め合わせだ。カレンダー。プレスターンバトル。その他にもたくさん。しかしどこにも「悪魔」がいない。本作は、この1点でもって新作として成立している。正にアトラスにしかできない表現技法と言えるだろう。
※本稿には、『メタファー:リファンタジオ』に関する軽微なネタバレが含まれている。具体的なストーリー展開は記述していないが、大枠の展開には言及している。留意して読み進めてほしい。
悪魔の不在と脱「東京」
『メタファー:リファンタジオ』は新作JRPGではあるが、実態としては 『3』以降の『ペルソナシリーズ』および『真・女神転生シリーズ』をかけ合わせたシステムとストーリーによって形作られている。
JRPGは、基本的にゲームメカニクスが他作品と大きく変わらないことを通じたプレイのカジュアルさを担保しつつ、ストーリーをはじめ、その他の差分で勝負するジャンルである。だが、本作はストーリーに関しても『3』以降の『ペルソナシリーズ』『真・女神転生シリーズ』の仕組みを大部分引用しており、ストーリーの大まかな筋書きそのものに独自性があるとは言えない。
なぜ本作が『ペルソナ6』もしくは『真・女神転生Ⅵ』という名前ではないのか……という問いの理由について、構成要素から読み取ることは難しい。しかし、実際にプレイしてみるとわかることがある。作品の底を流れる理念が変化しているのだ。端的に言えば、アトラス産JRPGによく含まれていた「毒気」が非常に薄まっている。悪魔がどこにもいないのである。
これまで、アトラスは「悪魔」を通じ「剣と魔法の世界」ではないファンタジーを描いてきた。それは自分を「勇者である」と自認できない人のための物語であった。メインではなくサブカルチャーを良く好み、それでいてマジョリティーへの憧れを捨てきれない人間のためにある物語だ。ゆえに、世間一般では許されない暗い欲望や、マジョリティーに対する冷笑や皮肉、自分の属性への自虐的な態度、それらに対する簡単な説教が作品に盛り込まれていた。
その最たるものが、宗教的モチーフを「悪魔」呼ばわりし、神を打倒する仕草である。また、ゲームの難易度が比較的高めな傾向にあった。プレイヤーにゲームがサービスとして奉仕するのではなく、プレイヤーとゲームが対等な関係にあり、楽しむうえで「攻略」というコミュニケーションを能動的に行う必要があった。『ペルソナ3』以降、『女神異聞録デビルサバイバー』など、大衆受けするポップさ、スタイリッシュさが取り入れられていったものの、こうした「毒気」は総じて健在であった。
『メタファー:リファンタジオ』からはそうした「毒気」の大部分が抜けている。自分を「勇者である」と自認できない人のためにある物語、というコンセプトこそ変わっていないが、ゲームシステムについても、物語についても、消費者に対する「誠実さ」が込められている。ではなぜ、こうした理念の転換があったのだろうか。あくまで推測に過ぎないが、グローバル展開に伴いターゲット層を拡張するためだと筆者は考えている。
すでに世界で『ペルソナ5』がヒットし、今年は『ペルソナ3R』『真・女神転生Ⅴ Vengeance』が高い評価を受けてはいるものの、これら既存作品が持つ魅力は「東京」という日本の首都が持つ文化、風土に根ざしている。アトラスは「自分を勇者である」と自認できない人のための物語を描き続けてきたが、彼らが「勇者である」と自認できない理由……「毒気」の根源には東京、ひいては日本の空気感が影響している。言い換えると、脱「東京」を通じ、世界中にいる「自分を勇者であると自認できない人」を作品のターゲット層にする狙いがあると筆者は考えている。作中において引きこもることを否定された夢幻の象徴に、現代都市としての「東京」が使われていたのが印象深い。
そして、東京由来の「毒気」の代わりに入ってきたのが世界に対する「誠実さ」である。その中身としては、全体的なプレイのし易さであったり、勧善懲悪という物語のフォーマットと、答えのない社会問題のすり合わせであったりする(詳しくは後述)。この毒を抜き、誠実によって人気を勝ち取ろうとする姿勢は、フィクション……オタクのためのゲームカルチャーが、現実を冷笑し、自身の属性を自虐できるもうひとつの世界から、現実の延長線上にある世界へと変化したことを示しているように見える。SNSの発達に伴い、日本では冷笑について議論されることも多く、本作の登場はその象徴の1つと言えるかもしれない。
メガテンとペルソナの悪魔合体、悪魔抜き
では、作品の構成要素に関する説明に移ろう。先述した通り『メタファー』は主に『3』以降の『ペルソナシリーズ』『真・女神転生シリーズ』をミックスした形態を採用している。カレンダーを通じたサブイベントの集合を次々と解決していくことでゲームが進行する形式に、「プレスターンバトル」が備わっている。すでに評価された要素をただ合体させたというわけではなく、主に遊びやすさに対し重点的な調整が行われている。
まずゲームの進行形態に関しては、カレンダーの意義が「日本都内の学生生活」の表現から、「旅程」の表現という形にスケールアップしたことで、サブイベント、サブクエストの中身により多様性が生まれ、長時間プレイをしても飽きにくくなっている。絶景鑑賞や、温泉への入浴、突然の強襲といったイベントは本作ならではだ。
なかでも筆者としては、「移動中の出来事」という形で、ダンジョンへ向かう際にイベントが発生するようになったことが嬉しい。過去作の形式においては1日の使い方として、いわゆるレベリングをするか、イベントを消化するか、という2択であった。レベリングのために1日を消費するのは1日中勉強をするようなもので、個人的には損だと感じていた。遊びに行かなくてどうすると。本作では移動中にしか観られない専用イベントが多数用意されたことで、レベリングという作業をこなすことへのモチベーションを保ちやすくなっている。
また過去作と比較すると、進行スケジュールにも余裕がある印象を受ける。本作にもイベント進行に必要な専用ステータスが用意されており、過去作ではステータスの向上とイベント全消化の両立に関して、緻密な計画を立てなければ遂行できなかった(特に初回プレイ)。本作の場合はイベント消化に付随してさまざまなステータスが上昇するため、ステータスの向上にかかりきりとなる時間が少なくて済むようになっている。イベント全消化ができないこと=プレイスタイルの反映として肯定されていた過去作からの変化や、時代の移ろいを感じさせる。
「プレスターンバトル」に関しては、本作の育成要素である「アーキタイプ」と合わせ、戦略性の維持とプレイしやすさの両立がより一層図られた内容に仕上がっている。「プレスターンバトル」とは、弱点をつくたびにターン内における自分の行動回数が一回ずつ増え、逆に敵に有利な行動をとると、行動回数は減ってしまうというゲームルールである。これは敵側の行動においても適用される。端的に言うと弱点を突き続ければ自分のターンが伸び、弱点を突かれ続けると敵のターンが伸びる。それでいて「弱点を突き続けていても基本的に勝てない」という点が肝であり、敵の行動パターンを把握しつつ、自分のターン数が伸びない補助技をいかに差し込むかが、このゲームルールの面白いところだ。しかしながら、この面白さの前提には補助要員だけでなく、敵ごとに異なる弱点攻撃要員をたくさん育成しなければならない、という“面倒臭さ”が障壁として立ちはだかっている。これを解決したのが俗に言うジョブ形式を採用した「アーキタイプ」である。『アバタールチューナー』シリーズにて登場したシステムの類似品だ。
戦闘を進めるにあたって、たとえば「氷を操る悪魔」であれば、設定上「氷属性をあやつるコマンド」しか用意させることしかできない。「炎属性」を使いたければ別の悪魔を育成する必要がある。一方で「魔法職」であれば、炎も氷も使えることに納得感が生まれる。育成指標のわかりやすさや、レベリング時間の短縮にも繋がる。
しかしコレでは単なる簡略化と感じられてしまう。「アーキタイプ」の優れた点は、パーティメンバーの組み合わせで新たなコマンドが解禁されることだ。これは他作品でも「合体技」という名称で採用されているシステムだが、本作では解禁されるコマンド数がとんでもなく多い。これによって、旧作から短くなった育成時間で、プレスターンバトルを楽しむことが可能となっている。さまざまなアーキタイプを育成することの意義も生まれている。このほかにも難易度設定の項目や、戦闘を最初からやり直す機能、ザコ戦に関して戦闘を省略する機能など、余裕のあるスケジュール進行とあわせ、初心者向けの要素が多数搭載されており、こちらもゲーム文化における時代の移ろいを感じさせてくれる。
ストーリーに関しては、差別と断絶、そして社会不安という問題を取り扱ってはいるものの、そこへシリアスに切り込むのではなく、自分を「勇者である」と自認できない人を支え、背中を押す、共感ベースの内容である。日本社会の爪弾きモノたちを主人公に据えた『ペルソナ5』と似たプロットではあるが、『真・女神転生シリーズ』で恒例となった「Law」「Chaos」「Neutral」の構造を引用することでひねりを利かせている。個人主義の良し悪し、宗教をベースにした管理社会の良し悪しを提示し、その上で中道をいかに歩み「続ける」のか、が描かれている。また、ブリューゲルのような背景だったり、トマス・モアのような名前をしたキーキャラクターが登場したり、自社作品の名称といった、文字通りメタファーとしてさまざまなモチーフが引用されている。そのうえで毒気の象徴たる悪魔がストーリー上のモチーフとして一切登場せず、(強いて言うならカラドリウスとルシファーだろう)代わりに誠実さが備わっているのが特徴である。
本作の敵を思想そのもの=神魔ではなく、思想、不安を飼い慣らせず中庸に戻れなくなった人間であると設定したことは、作品理念の変化として非常に分かりやすい点だ。たとえば、多様性の時代を「唯一神不在で各宗教の偶像が殺し合う世界」と風刺した『真・女神転生Ⅴ』とは作風が180度異なっている。本作の物語体験は歩み「続ける」、考え「続ける」など、人間による継続という部分で一貫しており、旧作でおなじみである「超常的な力による破壊と創造」という一発逆転の事象を否定している。物語上の最終決戦も単なる通過点に過ぎず、最大の盛り上がりどころはエピローグという具合だ。
そもそも社会問題と、JRPGによく観られる勧善懲悪の組み合わせは非常に相性が悪い。勧善懲悪とは善の象徴が悪の象徴を倒すことですべてが解決し、爽快感を覚えるという物語のフォーマットである。しかし現実では悪の親玉を倒したところで問題が解決するわけでもなく、さらに言えば、善も悪も曖昧なままである。社会問題を描くほど、すべてを解決する「奇跡」の歪さが際立ってしまうのだ。ゆえに本作では「答えのない問い」に対し「答えを出さない」「考え続ける」という姿勢を採用している。現代的な諸問題を扱う上で、非常に誠実な態度であると言えるだろう。ストーリーの内容そのものは後半に進むにつれ、テーマが先行し、描写が強引になる場面が少なからず観られるものの、先述したように、すでに評価された構造を引用しているため、それでいて設計思想という旧作一般との明確な差別点があるため、思わず先が気になってしまい、最後まで楽しむことができた。
総じて、『メタファー:リファンタジオ』は自社作品の優れた要素を多数引用しつつ、ゲームの底を流れる理念を大きく変更することで、本質的にまったくの別作品として登場したゲームとなっている。これは『ペルソナ』ライクでも、『メガテン』ライクでもない。自分を「勇者である」と自認できない人のための物語を描き続けてきた、ひねくれたアトラスにしか作れないゲームである。
同時に、この転換そのものが、皮肉を受け入れられるほどの精神的余裕のない現代を反映しているとも言える。本作が皮肉に対する皮肉のメタファーとして登場したのか、それとも、新しい方向性のメタファーとして登場したのかは定かではないが、少なくとも、アトラスは今後より広い世界にむけて歩み「続ける」という意思は明確に伝わってきた。ならば私もついていこう。その道程が決して王道とは呼べないものだとしても、1ゲーマーとして、その物語を見届けるために。