いま僕が仕事をしている著者は、ほとんどが企業の経営者で、自分で書くのは稀だ。
文章を書くのが苦手だとか、その時間がもったいないとかの理由で、
取材をもとにプロのライターが構成・執筆をして、一冊の本を作ることが多い。
(場合によっては、その仕事のすべて、あるいは一部を編集者が引き受けることもある)
そういう制作スタイルだから、当然、ライターの力量が本の出来に影響する。
この事実は、ビジネス書の著者の間ではだいぶ浸透しているようで、
冒頭のようなお願いをしてくるケースが目立ってきた。
もちろん、こちらとしても、腕が立つライターに、
取材や執筆をお願いしたいのは一緒である。
同じ一冊の本を作るなら、下手なライターより、
優秀なライターに書いてもらうほうがいいに決まっている。
けれど、仮にそういうライターと仕事をしたからといって、
その本が必ず売れるとは限らない。
なぜなら、本のコンテンツは、けっきょく著者以上のものにはならないからだ。
ライター(あるいは編集者)は、
まとまりに欠ける著者の話を、わかりやすく整理することはできる。
よくあるノウハウに独自のネーミングを与え、新しさを演出することもできる。
読みやすい文章を書くことで、読者のストレスを軽減することだってできるだろう。
しかし、それらはあくまで「調理」の方法に過ぎない。
本の「材料」を用意するのは、著者の役目だ。
ビジネス書であれば、著者がビジネスにかかわる分野で、
どんなことを行ない、どう考えてきたかが材料である。
それが何の変哲もない材料だとしたら、
調理法の工夫だけで、絶品の料理(本)を作るのは難しい。
「どう書くか」以前に「何を書くか」。
書ける(書いてもらう)だけの材料が、自分にあるかどうか。
それを吟味もしない内から、
「有名シェフ」の予約のことだけで頭がいっぱいな著者が多いようである。
こんなことを書いたのは、別に最近の著者に文句を言いたいからではない。
こういう「当たり前のこと」を忘れていた自分を戒める意味で、
いまパソコンに向かっている。
一部の人には言っていたことだけど、
この半年間、「書く」ことを学ぶ学校に通っていた。
(その目的については、長くなるので別の機会に譲る)
正直、通う前は、自分の「文章力」には自信を持っていた。
その学校の生徒には、僕のような現役の編集者やライターはほとんどいない。
出版社でも編集部以外の部署の人間、あるいは文章執筆とは無縁な会社に勤める人、
学生やフリーターなど、明らかに「書く」ことには不慣れな人が多いように見えた。
嫌な言い方だけど、自分の文章は学校の中では「うまい部類」に位置するはずだと思っていた。
けれど、授業が始まってから驚いた。
学校では、講師が決めたテーマをもとに文章を書いたり、取材をする課題が出る。
後日、生徒が提出した課題をもとに授業が進められるのだが、
自分よりもうまい文章を書く人はざらにいた。
いや、もっと言ってしまえば、僕が普段書いているような文章は、
たとえ趣味でも、書くことにある程度時間を費やしてきた人なら、
誰でも書けるのだということを思い知らされた。
僕が誇ってきた「調理」の腕前は、しょせんその程度だったのだ。
書くことへの自信を失うというより、
書くということを甘く見ていた自分に、嫌気が差した。
「どう書くか」を競っても、他の生徒と大差はない。
ならば、「何を書くか」、じっくり考えるしかない。
思えば、それは講師として来ていた業界の大先輩の方々が、
口を酸っぱくして言っていたことと同じである。
それを意識することで、卒業時には入学したときよりも、
少しはましな文章が書けるようになったと思う。
誤解してほしくないのだけど、
「どう書くか」ということも、もちろん大事だ。
しかし、それはあくまで、「何を書くか」のあとに、
あるいは同時に考える問題ではなかろうか。
自分が調理するにしても、人に調理させるにしても、
まずは最高の材料を探し集めることだ。