カテゴリー別アーカイブ: 06 現地レポート

JICAチュニジア事務所長、スース大学医学部を視察 Director of JICA Tunisia visits Faculty of Medical School, University of Sousse

JICAチュニジア事務所の篠原所長がSATREPSで臨床試験を行っているスース大学医学部を視察した様子が、JICAチュニジア事務所のFacebookに紹介されました。https://www.facebook.com/JICATunisiaOffice/posts/2200150406828622

以下、許可を得て転載。

SATREPS「エビデンスに基づく乾燥地生物資源シーズ開発による新産業育成研究」ではチュニジアとモロッコに豊富に存在する乾燥地特有の生物資源の伝承的活用方法に着目し、その機能性解析や臨床試験を行うことで、科学的にエビデンスを与え、実際に社会に役立てるため、 日本及びチュニジア・モロッコの研究機関が共同研究を行なっています。

2010~15年の事業「乾燥地生物資源の機能解析と有効利用」を経て、本事業ではスース大学医学部が新たに実施機関として参加したことにより、ヒトへの治験を行うことができるようになりました。

今回の視察では、まずヘディ・カイリ・スース大学医学部長に面会した後、チュニジア固有の乾燥地植物の抽出物をハーブティー という形で摂取した際の肥満症(体重減少、脂肪量の減少、身体測定値の改善等)や動脈性高血圧症への効果に関する臨床試験の様子を視察しました。その結果、一定期間にわたり、このハーブティーを毎日摂取した場合、症状改善に効果をもたらすことがわかってきています。合わせて、本事業においてスース大学医学部に供与された最先端分析機器の研究室を視察しました。

JICAは、こうした研究成果が社会実装へとつながるよう、引き続きサポートしていきます。

Le Projet SATREPS “Projet de Valorisation Scientifique des Bio Ressources en Zones Arides et Semi Arides pour la Création d’une Nouvelle Industrie” vise à promouvoir les recherches scientifiques portant  sur les bio ressources biologiques et la création d’une nouvelle industrie dans le domaine des aliments fonctionnels et des produits nutraceutiques, en encourageant la collaboration entre organismes de recherche et entreprises privées. Dans ce cadre des   recherches conjointes sont menées en étroite collaboration, par des instituts de recherche japonais et tuniso-marocains.

La Faculté de Médecine de l’Université de Sousse a intégré ce projet SATREPS , et ce dans le cadre de SATREPS2, pour mener des essais cliniques sur l’Homme. Ce projet a fait suite de la première phase du “Projet de Valorisation des Bio Ressources en Milieux Arides et Semi Arides pour le Développement Régional”, mis en œuvre entre 2010 et 2015. 

L’équipe a été accueillie par Pr. Hedi Khairi, Doyen de la Faculté de Médecine de Sousse. Au cours de cette visite les membres de cette équipe ont pu s’apercevoir des résultats d’essais cliniques portant sur les effets d’extraits de plantes sous formes de tisanes sur l’obésité (perte de poids, perte de masse graisseuse, amélioration des paramètres anthropométriques …), sur des paramètres hématologiques et biochimiques ainsi que sur l’hypertension artérielle. Ces résultats basés sur la consommation quotidienne de tisanes pendant une durée plus au moins longue s’est traduite par des effets bénéfiques concernant les syndromes testés.

L’équipe a par la même occasion, constaté les bons fonctionnement et utilisation des équipements scientifiques de haute technologie fournis par la JICA dans le cadre de ce projet.

La JICA continuera à soutenir ce Projet dans ce domaine avec la Faculté de Médecine  de Sousse et ce afin que ses résultats puissent être régulièrement vérifiés et bénéficier à la société aussi bien d’un point de vue collaboration scientifique que d’un point de vue socio-économique.

モロッコSATREPSプロジェクト~モロッコ農村の今とアルガン活用術~

本センターが実施しているSATREPS事業の一環として、ハッサンII世農獣医大学(IAV)製品加工技術開発グループでは、現在、生育環境の相異がアルガン成分へ与える影響について分析するため各地域の農家からサンプルとなるアルガンの調達を進めています。近年の健康志向の向上に伴い、モロッコ原産のアルガンが注目され、そのオイルを活用した化粧品等も日本で人気が急上昇中です。しかし、オイルを絞るためのアルガン・アーモンド(仁核)20Kgを取得するために、300Kgのアルガンの実(乾燥したもの)が必要なことをご存知ですか?

Tiznit郊外、峠の上に位置する集落で、伝統的な土壁で作られたアルガン倉庫

集落からの景色

熟して収穫、乾燥させたアルガンの実。白い粒がアルガン・アーモンド

 

 

 

 

アルガンの生息地帯はモロッコ南西部に限定され、実の収穫は点在する小規模農家が中心となります。アトラス山脈の南西地域に位置するため、海岸線ギリギリまで峠や山々が連なり、まだまだ電気・水道の整備がやっとという地域が多く残ります。

アルガンの地元では、収穫した実を乾燥させ、女性たちが手作業で実を剥ぎ、石で殻を割り、残ったアルガン・アーモンドを都市部にあるオイル加工業者へ販売しますが、残った殻は、伝統的に建設資材や家庭用燃料として利用しています。例えば、日本では寺社や旧家の入り口等のたたきに利用される砂利舗装を見かけますが、アルガン生息地の農家は入り口や中庭のたたきに、補強目的でアルガンの殻を敷き詰めコンクリートで固めます。

日本の砂利舗装

モロッコのアルガン殻を利用した農家入り口のたたき

またこれら農家では、料理用ガス台のある家でも庭先に伝統的なかまどが設置され、料理に活用されますが、その燃料として木炭と共に火力が強く、燃焼時間も長いアルガンの殻が利用されています。

現在プロジェクトでは、日本企業とも連携し、搾油するアルガン・アーモンドのみならず、アーモンドを包む強固な殻など、副産物の付加価値化にも着目し、その成分分析や、現段階では主に化粧品等への活用方法を研究しています。しかし、本プロジェクト実施を契機として副産物の伝統的活用法にヒントを得た研究が進めば、現在、殆ど廃棄されるアルガン副産物も、将来的には意外な有効活用法が生まれるかもしれません。農村開発の起爆剤としての役割が期待されます。

ヨルダンにて

 当センター上山助教がヨルダンの銀行を訪問しました。
イスラム歴の新年を迎え、銀行ではお祝いのお菓子が配られたそうです。
配る、とは言い難いずっしりとした1kg超のアラブ菓子の詰め合わせです。
なんとも豪華です。

ASIP「アフリカ・アジア・南米 留学体験談ーモロッコ・中国・ペルー篇」開催のお知らせ

20151204_ASIP留学体験談sss

ポスターのダウンロードはこちら


ASIP(地域研究イノベーション学位プログラムでは「アフリカ・アジア・南米 留学体験談ーモロッコ・中国・ペルー篇」を開催することとなりました。


アフリカ・アジア・南米 留学体験談ーモロッコ・中国・ペルー篇
【日時】12月4日(金)15:15〜16:30 入退室自由
【場所】スチューデント・コモンズ
【対象】どなたでも参加できます
【内容】交換留学を体験した3名の学類生が、留学準備、留学中の様子、留学成果について語ってくれます。
[モロッコ]アル=アハワイン大学 交換留学体験談
[中国]北京大学 交換留学体験談
[ペルー]カトリカ大学 交換留学体験談


ASIP(地域研究イノベーション学位プログラム)は、アフリカ・アジア・南米のエキスパートになることを目指す現地留学と修士課程進学を必須とした教育プログラムです。今回の体験談ではASIP対象15カ国の中から3カ国を取り上げ、留学準備、留学中の様子、留学の成果などについて、交換留学を経験した3名の学生に語って頂きます。詳細はASIPのHPをご覧ください。

【連絡先】
「地域研究イノベーション学位プログラム」事務局
TEL 029-853-2946/3845
Eメール asip-office(アットマーク)ml.cc.tsukuba.ac.jp
*(アットマーク)を@に変えてください。

【2015 FSPMC 現地レポート】モロッココースを終えて

北アフリカ研究センター/人文社会系の岩崎真紀助教から現地レポートが届きました。


フルサ・サイーダプログラムモロッココースを終えて
“Fursa Saida” Program has been finished with a full of joy of participants and coordinators

2015年8月11日 カナダ・モントリオールより
2015年7月5日に始まったフルサ・サイーダプログラム(FSP)モロッココースが8月4日、無事修了しました。6名の参加生たちは7月5日に20時間以上をかけてモロッコの首都ラバトの空港に到着しました。出迎えには、北アフリカ研究センター客員共同研究員兼チュニスオフィスアドバイザー教員のMoncef Harrabiチュニジア国立農業研究所(INAT)元所長がチュニジアから駆けつけ、車で3時間かかるイフレンまで同行してくださいました。

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イスタンブール空港の搭乗ゲートに集まるウムラ帰りの巡礼者(右手の白い衣服の人々)
写真はすべて岩崎撮影, 2015/7/24

わたしがAUIを訪問したのは、それから20日間が過ぎ、FSP生が期末試験を受け、修了証を受け取った日でした。成田からイスタンブールを経由し、カサブランカ空港に到着するまではよかったのですが、ウムラ(イスラームにおけるマッカ小巡礼。巡礼者は自分の国の旅行代理店などに申込み、マッカへは団体で行くことが多い)帰りの人々でごった返していたうえ、多くの搭乗客の預け荷物が長時間出てきませんでした。

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AUIでの研修を終え, タンジェに発つ直前のFSP生たちとAUI側コーディネータのおひとりブーナジュマ教授, 2015/7/25

ロストラゲージの手続きをしようとした矢先に自分のスーツケースが出て来たときには、到着予定時間を2-3時間過ぎていました。
そこから3時間以上かけてイフレンに到着したときにはかなり疲れていましたが、晴れ晴れとした様子のFSP生と会ったときには、このプログラムを開催して本当によかったという充実感にかわりました。彼らの姿からは、この1か月がいかに実り多いものだったかが十分に伝わってきました。

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モロッコ地図 http://www.kaze-travel.co.jp/morocco_tenjo014.html, 2015/8/11閲覧。

研修先のアル=アハワイン大学(AUI)でのFSP生の生活の様子は、参加生の高倉駿さん(比較文化学類3年)や草山亮さん(国際学類1年)、嶋村安祐美さん(教育学類4年)からの現地レポートにもありますが、密度の高い授業やマラケシュなど遠隔地へのエクスカーションも含む、さまざまなアクティビティからなっており参加生はみな、とても楽しんだとのことです。課外活動でスポーツも堪能できたことは、岩佐直斗さん(社会学類3年)からのレポートからもよく分かります。

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工房で働く女性職人, 2015/7/25

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青を中心とした色使いが美しいフェズの陶器 2015/7/25

7月25日から8月3日まではタンジェでのホームスティとニューイングランド大学でのアラビア語研修でしたが、これは、AUIが筑波大生のために特別に設けてくださった追加プログラムでした。

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モロッコの京都と言われる古都フェズの皮革染色場, 2015/7/25

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カサブランカのハサンⅡ世モスク(アラベスク模様と緑とベージュを基調とした色使いが大変美しいモロッコ最大のモスク。市民の憩いの場でもある), 2015/7/30

FSP生がこの期間にも思い出深い経験ができたことは、岡元侑希さん(社会学類3年)や島倉遼さん(国際学類1年)からの現地レポートでもよく分かるかと思います。

面積が日本の約1.2倍あるモロッコには、イフレンやタンジェ以外にも、フェズ、マラケシュ、カサブランカ、アガディール、ワルザザートといったそれぞれに風合いの異なる都市がたくさんある一方、小さな村々も魅力的です。地中海や大西洋を望む海岸沿いの街、4000m級の山を望む街、遠く沙漠が広がる街、地形や風景の多様さは、他の多くの中東・北アフリカにはない特色です。
また、モロッコでは、伝統工芸の技術が大切に守られており、絵皿やアクセサリーなどのセンスは日本人のそれと重なるところも多いように思われます。AUIでFSP生たちを訪問したあと、わたしはイフレン、フェズ、ラバト、カサブランカ、アガディール、ティズニットをめぐりました。とくにアガディールとティズニットでは、北アフリカ研究センターが進めているアルガン(モロッコの南部にのみ自生する、オリーブに似た樹木。搾油は伝統的に女性たちが行なう。オイルは、大量の実からほんのわずかしか採れないこともあり、高価。食用、美容ともに用いられ、高血圧や紫外線予防に効くと言われる)にかかわる研究のパイロット調査として、カウンターパートであるハサンⅡ世農獣医大学の研究者の方々と協力して、アルガンオイル精製女性協同組合を訪問しました。イスラーム的伝統と調和しながら女性の社会参加を進めているいくつもの女性協同組合とそこで働く人々の姿は、「持続可能な開発」や「女性のエンパワーメント」といったスローガンだけになりがちな言葉を、本当の意味で模索していると感じました。モロッコの調査のあとは、自身の調査のためにカナダのモントリオールに滞在し、現地のコプト正教会移民共同体のフィールドワークを行なっています。

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南部アガディールはビーチリゾートである一方アルガンの産地, 2015/7/28

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ハッサンⅡ世農獣医大学アガディール校のアルガン圃場(アルガンはオリーブよりさらに過酷な自然状況でも実をつけることができる), 2015/7/29

2015年8月11日現在、FSP生は全員無事日本に帰国し、イフレンよりもずっと暑い日本での生活に戻っております。

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伝統的なアルガンオイル搾油器具を表紙とした、女性協同組合のパンフレット, 2015/7/29

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アガディールのさらに南部ティズニットのアルガン油精製女性協同組合に展示されているアルガンオイル美容製品, 2015/7/29

中東・北アフリカに関しては、メディアを通じて、衝突や社会不安等マイナスなイメージばかりが流布していますが、今回FSPに参加し、モロッコでの生活を体験した6名の筑波大生たちは、現地のリアリティを実際に肌で感じることができたと思います。この経験は彼らの中東・北アフリカ観を大きく変えるだけでなく、彼らが自分の経験を友人や家族や先生方に話していくことで、その人たちの理解も変えていくことになると思います。そして、それは、とても小さな草野の根の変化かもしれませんが、偏見のない異文化理解や、もっといえば、平和に通じる着実な一歩であると確信しています。
今回のプログラムでは、AUIの関係者の皆様、ホームスティ先の皆様、駐日モロッコ大使はじめ館員の皆様には本当にお世話になりました。この場を借りて、北アフリカ研究センター一同、心よりお礼申し上げます。


 

We really appreciate all the people in Morocco who supported Fursa Saida Program, especially, Prof. Mohamed Bounajma and professors of ARANAS, Ms. Amy Fishburn, Ms. Khadija Ben Mansour and Mr. Othmane Atif, AUI, Prof. Moncef Harrabi, ex-INAT Director, Tunisia, Ms. Fat hiya, Mr. Mustafa and all the members of the host family in Tangier, H.E. Dr. Samir Arrour and Dr. Abdel Kader Jamoussi, the Embassy of Morocco in Japan. Thank you so much for your great caring for our students to make their staying so fruitful. Their great experience will lead a right understanding of the culture and people in Morocco and MENA region and we are sure it will also lead a world peace even though this step is just a small one.

We also appreciate those who supported our fieldwork in Morocco, Prof. Majid Benabdullah and Mr. Ilyass Arrahmouni, IAV Hassan II, Mr. Amenmoud, ANDZOA, Ms. Fatima and Ms. Jamila, UCFA, Ms. Hannan, GIE. We look forward to further cooperation with you all and again,thank you so much for your kindness for ARENA and the University of Tsukuba.

Tuesday, August 11, 2015

Maki Iwasaki

Fursa Saida Program Morocco Course Coordinator,

Assistant Professor, ARENA

【FSPモロッココース現地レポート】ARANASプログラム

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の教育学類4年・嶋村安祐美さんから、現地レポートが届きました。


2015年 8月 4日 イフレンより
フルサ・サイーダプログラムももう終わりを迎えてしまいます。アルアハワイン大学でのARANASプログラムもタンジェでのホームステイも終了し、いよいよ明日が帰国日です。今回は、わたしたちが参加したARANASプログラムについて書きたいと思います。
さて、ARANASとは(Arabic and North African Studies Program)の略称であり、アルアハワイン大学のアラビア語夏季研修という位置づけです。期間は5つ用意されていまして、わたしたち筑波大生は一番短い一か月を一週間遅刻する形での参加となりました。
レベルはBeginning 1, 2とIntermediate 1, 2とAdvance 1, 2の計6つにわかれていて、わたしはIntermediate 1のクラスに入りました。このクラスは学生の人数が少なく、イタリア人1名、アメリカ人2名、わたしの4人のクラスでした。先生は2人でしたので、大変充実した授業を受けることができました。

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授業をした教室のあるアルアハワイン大学の図書館
2015年8月4日筆者撮影

授業は朝8:30-13:30で、途中休憩が10:30-11:00にあって、お茶やお菓子を用意した部屋でのBreak Timeは他のクラスの学生や先生とのおしゃべりができ、とても楽しかったです。曜日によっては、途中からカリグラフィーや音楽等の授業がありました。また、筑波大生は一週間遅れた分の補講を受けることができ、はじめは全然ついていけなかった授業にも、最終的には授業がわかる状態にまでなれました。
また、ARANASプログラムにはモロッコ観光も含まれており、1週目の週末にはマラケシュへ行きました。私たちが参加していない時期には、タンジェやフェス等の都市の観光をしたようです。

Intermediate 1の期末試験は、ライティング(500語)、プレゼンテーション(10分以上)、ペーパーテストの3種がありました。特にライティングとプレゼンテーションはあまりやったことがなかったので、とても大変でした。終わった今となっては、達成感もありますし、何よりも自信がとってもつきました!
帰国をしても、今回の研修で培ったアラビア語の感覚を忘れないように頑張りたいと思います。

教育学類 嶋村安祐美

【FSPモロッココース現地レポート】ホームステイ先でのもてなし

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の社会学類1年・岡元 侑希さんから、現地レポートが届きました。


2015年8月2日 タンジェより
3週間のAUIでのアラビア語研修を終え、AUIのあるイフレンからホームステイ先のタンジェに小型バスで7時間かけて移動しました。(現地時間7/25)
ホームステイ先のタンジェはスペインまで14キロと地中海に非常に近い位置にあり、散策や海水浴でビーチをホストファミリーに案内してもらいました。タンジェは今回のFSPMCで訪れたイフレン、マラケシュにつづき3都市目でしたが、どの都市もそれぞれの特徴があり、非常に素晴らしい都市でした。なかでもタンジェは個人的にいい思い出が残る都市になりました。

ビーチでの海水浴

ビーチでの海水浴

誕生日での様子

誕生日での様子

ホームステイ5日目(現地時間:7/29)は私の誕生日と重なったこともあり、FSPMC参加生やホストファミリーが一緒になって祝ってくれました。サプライズや伝統衣装をプレゼントして貰えたりとさすがは海外の誕生日と思い知らされることもあり、非常に印象深い経験をさせていただきました。海外で誕生日を祝って貰えるという貴重な体験ができた私は本当に幸せだと感じました。
モロッコの滞在も残すところあと僅かとなりましたが、少しでも日本では経験できないことが多く経験できたらと思います。

社会学類 岡元 侑希

【FSPモロッココース現地レポート】タンジェでのホームステイ

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の国際総合学類1年・島倉遼さんから、現地レポートが届きました。


2015年8月2日 タンジェより
7月25日(土曜日)からモロッコ北部のタンジェという都市にてホームステイをさせていただいています。ホストファミリーの家族は母親と双子の子どもの3人ですが、その親戚の方もたくさんいらっしゃって、FSPMC生も含めると最大で15、6人程になることもあるなど、とても賑やかな雰囲気です。

休日にホストファミリーの方と一緒に昼食を食べる様子

休日にホストファミリーの方と一緒に昼食を食べる様子
2015/8/1 筆者撮影

ホームステイ期間中はタンジェ市内のニューイングランド大学での授業に加え、休日にはホストファミリーの方と旧市街や博物館に行くなど様々な活動を行っています。また、このホームステイはイスラム教徒(ムスリム)の方々の考え方や価値観を理解するための格好の場所です。1日5回の礼拝や礼拝の時間を告げるアザーンという放送、スカーフを巻いた女性の方など、異文化を感じる毎日です。特にスカーフに関してはムスリムであっても着けていない女性の方もたくさんいらっしゃり、イスラム=女性に対して抑圧的な宗教、というイメージが正しくないことを実感します。(イスラム教の聖典『クルアーン』にはスカーフを着けよといった明文の規定は存在せず、着けるかどうかはあくまで個人の自由に委ねられます。また、それに対する罰則規定等もありません。)(参考文献:内藤正典『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』)
このホームステイを通じてモロッコの人たちの温かさや優しさに触れる機会がたくさんあり、自分がどんどんモロッコという国を好きになっていくのを感じます。
滞在期間も残り僅かとなってしまいましたが、残りの時間の中でもたくさんの事を学んでいきたいと思います。

国際総合学類 島倉遼

【FSPモロッココース現地レポート】2015年8月1日 タンジェより

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の社会国際学群社会学類3年・岩佐直斗さんから、現地レポートが届きました。


AUIの生徒で、テニスを通じて友達になったイェッシンです。

AUIの生徒で、テニスを通じて友達になったイェッシンです。
(7月6日 AUIテニスコートにて 撮影者 岡元)

2015年8月1日 タンジェより
AUIでの生活のほとんどがラマダーン期間で、日本とは異なる時間間隔に戸惑うことが多々ありました。例をあげると、ショップがあいている時間や、カフェがあいている時間です。日中は開いておらず夜遅くなると開くといったものです。
そんな慣れない環境の中、私たち筑波大生はクラスの子とお互いに協力しあいプレゼンテーション、3回のテストを乗り切り修了証明書をいただくことができました。

私は、私自身筑波大学でスポーツをする身としてラマダーン期間中のスポーツの取り組方に興味をもちました。ラマダーン中といえどもテニスをしている人はいました。そこで、声をかけ友達になり、次の機会にテニスをする約束をして連絡を待っていると、誘われる時間はいつも深夜でした。なぜだろうと初めは疑問に思いましたが、モロッコで生活しているうちに時間感覚が日本とはかなり異なることがわかりました。
深夜には授業の関係上テニスができないので夕方にテニスをしたのですが、相手のモロッコ人はこまめに休憩を要求したり、かなり疲れたそぶりを見せたりしていました。
もっとも驚いたことは、水を買って口には含むが全て吐き出していたことです、イスラムの規律はスポーツをする上でも守らなくてはならないものなのだと実感しました。しかし、オリンピックやワールドカップとなると話は別のようです。ロンドン五輪の例では大会中にラマダンが重なり、断食を行う選手がいる一方で、サッカードイツ代表のエジル選手やスイス代表の選手は断食はしないと明言しています。エジプトのイスラム最高権威であるアリ・ゴマー師は「ロンドン五輪に参加している選手は旅行中にあたり、日中も飲食が許される」というファトワ(宗教見解)をだしていますが、最終的には選手自身の判断にゆだねられるという。
私の個人的な意見としてはイスラム教は世界三大宗教といわれるほど、信仰者の数も多く、影響力のかなり大きな宗教であるので、ラマダーンの時期を考慮した日程に大会自体をずらしたほうが良いとかんがえます。なぜなら宗教の教えを厳格に守っているイスラム教の選手に断食という宗教の教えを守るか、国の誇りを背負って戦う4年に1度の大会を万全の状態で望むかの選択をせまるのはあまりにも酷なことだと考えるからです。現地でのスポーツを通じて世界の取り組みにも目を向けることができました。自ら実感できた経験をいかしこれからもこのような問題の推移に注目していきたいです。

社会学類 岩佐直斗

【FSPモロッココース現地レポート】イフレンの町の様子

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の比較文化学類3年・高倉駿さんから、現地レポートが届きました。


2015年 7月 31日 タンジェより

ラマダンの最終日の昼間とラマダン明けの夜にイフレンの町を散策しました。それまでは授業が忙しく、また最初の金土日(現地時間7/10~12)にマラケシュへの旅行があったため、町に出るのはこれが初めてでした。
イフレンは山の中の小さな街で、私が訪れたのが大学周辺にあるマーケットや広場ということもあり、比較的静かで安全という印象です。ラマダン中の昼間の街の様子は、礼拝の時間だったということもあり、多くの店が閉まっており、営業している飲食店は一軒もなく、ラマダンの雰囲気を感じました。ちょうど礼拝の時間だったこともありマーケットも閑散としていました。しかし、通りや街中にはどこかに出かける人々や、礼拝に向かう白衣の人々がおり、大学内とは違った雰囲気があります。

イフレンの街中の風景(撮影:高倉)

イフレンの街中の風景(撮影:高倉駿)

ムスリムが多く住んでいる地域へ行くのは今回が初めてだったため、ラマダンが実際に行われている様子を見るのも初めてでした。ラマダン期間中は、大学内でもカフェのや食堂、ショップの営業時間がマラケシュの私のルームメイトは部屋でよく礼拝を行っており、程度の差はあれど、実践を重んじる在り方が感じられました。
ラマダン後の平日にイフレンに行った際は、夕方の食事時ということもあり、街には人も多く活気がありました。この時点ではなんとなくラマダンの雰囲気が残っているような気もします。
異国の地で、なおかつラマダンという特殊な状況の中での2週間近くの生活は、生活時間の違いや日中の店舗の開店時間の変動など、合わせることが難しいこともありましたが、彼らの生活の在り方を身近に感じることができよい経験となりました。残り僅かの滞在ですが、さらに色々なことを学びたいと思います。

比較文化学類 高倉駿

【FSPモロッココース現地レポート】マラケシュのジャーマルフナ

フルサ・サイーダプログラム(モロッココース)参加生の国際総合学類1年・草山亮さんから、現地レポートが届きました。


2015年7月11日 マラケシュより
AUIに到着してから最初の1週間が過ぎるころ、私たちARANASプログラムの生徒たちはマラケシュに訪れることになりました。まだモロッコでの生活になれていない私にとって、マラケシュへの旅行は不安に思っていました。スリやひったくりに遭う可能性があると注意されていたからです。
しかし、マラケシュはその不安を上回るくらいエネルギッシュな街でした。特に私がそう感じたのはジャーマルフナです。ジャーマルフナとは、大きな市場のようなもので、食事からカバンなど、様々な商品が並んでいました。また、そこの人々はとても活気にあふれていて、ラマダーン時期とは思えないほど、元気でした。日本人は現地では珍しいのか、見かけると片言の日本語でコンニチハや、アラビア語でأنت ياباني؟とよく声をかけられました。日本では絶対味わえない雰囲気はとても刺激的でした。

昼のジャーマルフナ

昼のジャーマルフナ,2015/07/11,筆者撮影

同じ日の夜に再びジャーマルフナに行く機会がありました。お昼と全く雰囲気が異なって、同じ場所とは思えませんでした。それもそのはずで、お昼のときと比べて人がすごく多かったのです。お昼よりもさらに活気が満ちていました。昼間開いていなかった食べ物を販売している屋台が開いていたり、より多くの大道芸人がパフォーマンスをしたりしていました。
ジャーマルフナで会う人々から積極的に自分をアピールする姿勢を感じました。そうした姿勢を身近に感じ、実際に交流した経験を忘れないようにして、フルササイーダプログラムを修了したいと思います。

夜のジャーマルフナ

夜のジャーマルフナ,2015/07/11,筆者撮影

 国際総合学類 草山亮

【FSPヨルダンコース現地レポート】ヨルダンで印象的だった訪問地

フルサ・サイーダプログラム(ヨルダンコース)参加生の社会学類2年・宮部祥代さんから、現地レポートが届きました。


ヨルダンから帰国し、はや数日が経ちました。9月に入り、日本は徐々に涼しくなりつつありますが、ヨルダンでの暑くもさっぱりとした快適な気候が恋しく思われます。

さて、私はヨルダンで訪れた観光名所について振り返りたいと思います。北はウンム・カイスにベイト・ラース、グウエイルベ、アジュルン、ジェラシュ。首都アンマンにあるローマ劇場やアル・フセイニ・モスク。そして、かの有名な死海にペトラ。更に、砂漠の真ん中で星空のもと眠りに就いたワディ・ラム、紅海の臨むアカバ。今回は、その中でも特に私が印象的であると感じたウンム・カイスとペトラ、ワディ・ラムについて紹介させていただきます。

ウンム・カイスは、ゴラン高原と、国境のヤルムーク渓谷を挟んで向かい合う尾根の上にある、シリア国境に程近い村です。場所が場所だけに、プログラム参加者だけで訪れるのは危険だろうと諦めかけていましたが、なんとヨルダンに到着した当日に、現地でお世話をしていただいたMajed先生が連れてきてくださりました。ヨルダンでの初めての夕食は、ゴラン高原とガリラヤ湖が見渡せるレストハウスで、沈みゆく夕日を眺めながら。その美しさは形容しがたいものでした。日が落ち、イスラエルには煌々と明かりが灯っているのに対し、パレスチナ側はほとんど明かりが見えず暗闇が広がっていることに気づき、複雑な感情を抱いたのを覚えています。

ヨルダン観光におけるハイライトといえる、映画インディージョーンズの舞台にもなったペトラ遺跡は、まず昼から夕方にかけて参加者全員で訪れた後、別行動をさせていただき、更に夜と翌日の早朝、合わせて三回訪れましたが、どの時間帯も独自の魅力がありました。その中で私が最も感銘を受けたのは、週に三回だけ開催される、ペトラ・バイ・ナイトという夜のイベントです。ここではゲートから1500本ものろうそくがライトアップされ、辿り着いたエル・ハズネ前の広場では、ベドウィンがウードというアラブギターの演奏に加え歌と昔語りを披露し、参加者は座ってシャイ(ミントティー)を頂きながらそれを楽しむことができます。昼間とは違い、静かで幻想的なペトラの魅力を味わえました。

ヨルダンの南部、アカバやサウジアラビアの国境に程近い砂漠にあるワディ・ラムでは、ジープツアーとキャンプに参加しました。ツアーでは、映画アラビアのロレンスに関するロレンスの泉や標高1650mのハザリ山峡の裂け目であるハザリ峡谷、ダイナミックなウンムーフルース石橋などを訪問。砂漠の山をジープで超えるときは揺れが大きくスリル満点で、ベドウィンと相談して場所を決めた奇岩の下で食べる昼食は、風以外の音が何も聞こえず貴重な体験でした。4時間のツアーを申し込んでいたにも関わらず、結局サンセットを眺めるまで6時間も付き合ってくれ、夜は他の参加者と共に、ちょっとしたサプライズのあるアラブ料理に舌鼓を打ちました。そしてテントの近くにマットレスを敷き、流れ星を数えながら眠りに就くときは、物に満たされなくても贅沢な気持ちが味わえることを実感した瞬間でした。

長々と書き連ねましたが、ヨルダンは他にも数えきれないほどの素晴らしい場所・人に溢れていて、感じ方も人により千差万別だと思います。また、ヨルダンコースは、アラビア語の授業の後や休日などの空き時間を利用し、自ら旅の構想を練り、実行することのできる自由度の高い研修といえます。私は実際の参加者として、声を大にしてこのプログラムをお勧めすることができます。
最後に、私たちのお世話をしてくださった全ての方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

ペトラ遺跡の最奥地、エド・ディルにて

ペトラ遺跡の最奥地、エド・ディルにて

宮部祥代

【FSPヨルダンコース現地レポート】ヨルダンの農業

フルサ・サイーダプログラム(ヨルダンコース)参加生の生物資源学類2年・林浩平さんから、現地レポートが届きました。


6日間のアラビア語研修後の3日間で農業センター見学や死海遊泳等のフィールドワークを行いました。現地学生との交流は他の参加者がレポートしているのでここでは割愛して、生物資源生らしく農業分野についてのレポートをします。

ヨルダンへ来て最初に抱いた感想は非常に埃っぽいということです。首都アンマンから我々がいるイルビットまでは、山脈というより丘脈と表現した方がいいようなオリーブが粗く生える緩い山と山間の集落が延々と続きます。少なくとも夏場は僅かなオリーブ畑(もっとも日本人の感覚だとオリーブ果樹園)以外では全く農業を行っていません。地中海生気候特有の、夏は雨が全く降らず灼熱の太陽が一日中照りつける気候では仕方がないと思います。喉は割れる、肌は荒れるで我々も随分と苦しめられました。

我々は寮で朝、夕食は自炊をしているため現地のスーパーへたびたび買い物に行きます。そこで目にするのは新鮮なヨルダン産の野菜の数々です。輸入品も多いですがスイカをはじめとして多くの野菜が店頭に並んでいます。
では、これらのヨルダン産の野菜はどこで生産されているのでしょうか。一つ目の答えはヨルダン渓谷周辺の平野部です。ヨルダンとイスラエル支配地域の間には死海の中心として巨大な盆地が広がっており、北部にはレバノンに端を発するヨルダン川が流れています。ヨルダン川の東岸にはアンマンやイルビットがある高地のダムからの水を利用した野菜や穀物の農地が広がっています。ヨルダン渓谷は標高が低く(-300m前後)、盆地なので気温が40℃を超えるため農業には向いているとは思えませんが、冬に降水する地域でダムにより水を貯め、標高差を利用した水圧により大規模な灌漑を行っているようです。種類はトウモロコシの他野菜や果樹等全般的に栽培しています。
もう一つの答えは都市周辺の水再利用センターの周辺です。事務的なミスで詳しい説明がなかったのですが、おそらくは下水等の生活排水を利用することでセンターから半径1kmほどの農地を灌漑しています。こちらは小麦が多く、私は草が蒸す匂いを久々に嗅いで少し感動していました。

と、以上の様にヨルダンは雨が降らない夏でもなんとか水をやりくりして農業を行っている地域はあります。しかしシリアから10万人を超える難民が流入しており、難民分の水や食料を確保しなければいけないためヨルダン全体の水資源と農業は徐々に厳しい状況に立たされています。
また、水の需要が増しているためミネラルウォーターの価格が上昇し、それに伴いヨルダン全体の物価も上がっています。死海の入海料は2010年7JDから2014年12JDと2倍近く上昇しており、観光客にとっても厳しい状況です。まだ死海を訪れていない人はこれ以上値上がりしない内に訪れることをお勧めすると共に現地ではヨルダン産の野菜を買うことをお勧めします。

林浩平

死海にて

課外活動で訪れた死海にて

フルサ・サイーダプログラム チュニジアコースが修了しました

フルサ・サイーダプログラム チュニジアコース担当の岩崎真紀助教から、以下の報告がありました。


2014年7月7日に始まったアラビア語短期研修フルサ・サイーダプログラム チュニジアコース(FSPTC)が8月9日に無事修了しました。参加生の牧野真理子さん(国際地域修士1年)、小川湧司さん(人文1年)、堀内栞さん(比文3年)、佐藤萌さん・荒井大樹さん(国際2年)、山中巧さん(国際4年)、嶋村安祐美さん(教育3年)、田中千智さん(生物2年)は全員留学先のブルギバスクールから修了証書と成績証明書をいただきましたが、このうち佐藤さんはアリフクラスの、嶋村さんはバークラスの首席という快挙でした。昨年は大伴史緒さん(国際地域修士2年、今年度FSPアシスタント)も所属クラスの首席でしたので、2年連続です。

本プログラム担当教員の岩崎は8月6日、小屋主任は8日にチュニス入りし、参加生たちに会いましたが、8名とも疲れたところはまったくなく、充実して、キラキラと輝いているかのようだったのが大変印象的でした。ブルギバスクール事務局長によれば、今夏の夏期研修参加者総数は414名、うちイタリア人127名が最も多く、ついでフランス、スペイン、韓国、米国などからの参加者があったそうです。Office des tunisiens à l’étranger (OTE:海外在住チュニジア人事務局)の支援により、両親もしくは片親がチュニジア人の場合、チュニジア国が研修費を負担する制度があるため、欧州在住の移民2,3世が多いのも特徴的です。参加生はチュニジア人、また、いろいろな国の学生と知り合えると同時に、FSPTC生同士、さらには、同時期に留学していた京大の学生さん(本学学生の弟さん)とも親しくなり、グローバルかつ(現地、日本、筑波という多様な意味においての)ローカルな「つながり」を構築することができました。この経験をきっかけとして、今後アラブを再訪し、現地の人々ともより深く知り合っていくことができるでしょう。昨今、中東に関する話題の多くはテロリズムや内戦に関することですが、参加生たちは現地での体験により、メディアで語られる中東の姿が一面的なものでしかないことがよく分かったと思います。これからは、自身の体験をいろいろなところで発信し、日本と中東の架け橋になっていくことでしょう。

8月8日には、駐チュニジア共和国高原寿一日本大使のご厚意により、参加生8名、八幡暁彦チュニスオフィス駐在コーディネータ、小 屋- 平北アフリカ研究センター主任(8月)と岩崎の計11名もが、公邸での着席式夕食会にご招宴いただきました。高原大使には6月にご来学いただき、大変示唆に富むご講演をいただきましたが、大使館での歓談の際にも、その博覧強記ぶりに皆、感嘆しました。

なお、岩崎の出張経費の一部は、本学人文社会系の競争的資金「平成26年度人文社会系〈研究・教育・社会貢献〉プロジェクト」に依っています。現在、多くの予算は、研究と教育に分けられており、ひとつの予算を使った海外出張で、研究と教育の両方を行うことは、理論上、難しいのが実情です。しかし、上記プロジェクトは、「系の教育研究のさらなる発展や、地域連携、国際連携のさらなる進展に資するテーマ」を求めているという点において、申請者が、現地を訪れ、研究および教育の両活動を行うことも推奨する画期的なものであり、本出張にとり大変有益であったことを申し添えるとともに、人文社会系にお礼申し上げます。

また、先般も述べましたが、参加生たちのブルギバスクールの授業料については、駐日チュニジア共和国大使館および同国高等教育省(文科省)のご尽力により、FSPTC参加生全員、免除いただきました。同様に、寮費に関しても資金援助をいただきました。チュニジア共和国の寛大なご対応に心より感謝申し上げます。

チュニジア政府からの授業料など免除とJASSO奨学金付与により、1人あたり総経費(19~25万円程度)から10万円分近く安価になったことで、参加生のひとりは「筑波で1か月生活するのと同じくらいしかかからなかったので、家族に通常以上の援助を頼む必要はなく、大変助かった」と述べていました。また、来年度以降は集中授業として単位が出るべく、関係各所と交渉中ですので、来年度以降、本プログラムはさらに発展していくことでしょう。来年度も多くの本学学生が参加することを楽しみにしています。

参加生、八幡コーディネータ、現地出張中の河内助教、岩崎の夕食会(2014.8.7.)

参加生、八幡コーディネータ、現地出張中の河内助教、
岩崎の夕食会(2014.8.7.)

ブルギバスクールで修了証書を授与された参加生たち、小 屋 主任、岩崎(2014.8.10.)

ブルギバスクールで修了証書を授与された参加生たち、
小 屋主任、岩崎(2014.8.10.)

 

【FSPヨルダンコース現地レポート】ヨルダンにおけるイスラム教徒の文化

フルサ・サイーダプログラム(ヨルダンコース)参加生の看護学類2年生・中野皐月さんから、現地レポートが届きました。


イルビットでの生活も残りわずかとなってきました。長いようで短かったイルビットではアラビア語学習を始め、ショッピング、現地学生との交流など日々刺激的な毎日を送ってきました。その中で現地学生とはたわいもない話から宗教、文化の話など様々な話をたくさんしました。

ヨルダンの人はみんなあたたかく、『Welcome to Jordan』と話しかけてくれます。そんなヨルダンで私が一番感じた大きな違いは宗教です。日本に住んでいる私達にはなじみの少ない宗教という概念。特にイスラム教というのは私にとって女性に自由がないというイメージが強く抵抗が少なからずあったというのが正直な気持ちです。身にまとっているものからお祈りの習慣まで現地で感じる大きな違いはたくさんありました。しかし、私は彼らから人はみな同じだということを学びました。

私達のアラビア語の先生であるラワン先生は文化のこと、イスラム教のことについてたくさんのことを教えてくれました。

『イスラム教徒の女性は運転もできないし、自由がないとみんなが思っている。確かにそのような国も一部あるが、それはイスラム教とは無関係で国の指針でしかない。私達イスラム教徒の女性は自由にみんなと同じようなことができる。メディアが普及して私達のことを多くの人が知ってくれるのはすごく嬉しいこと。でも、それが全て真実ではないということを知って欲しい。』彼女は私達にこのような話をしてくれました。メディアを通して見るものが全てではないということは、私自身自覚していました。しかし、本当にその通りだと改めて考えさせられました。百聞は一見にしかず。というのを実感させられる日々です。

文化交流だけでなくお互いの国のこと、宗教のことについて心の底から意見を交換し合える友人が出来たことは私にとって一生の財産です。

『百聞は一見に如かず』この言葉を常に持ちながらの残り少ないイルビットの生活、そしてサダーカでの活動に精進していきます。出会った一期一会に感謝し、そしてこれからの一期一会に大いなる期待をいだいて…。

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【FSPヨルダンコース現地レポート】Japan and Anime Clubのメンバー達との交流

フルサ・サイーダプログラム(ヨルダンコース)参加生の国際総合学類1年生・嶋田優奈さんから、現地レポートが届きました。


フルサ・サイーダプログラム ヨルダンコースでは、ヨルダン科学技術大学でアラビア語の研修とフィールドワーク、その後NGO団体サダーカでのザータリキャンプ訪問を行います。

ヨルダンは生徒をはじめ、先生、職員の方々、そして街の人々もあたたかい人ばかりで、日々たくさんの素敵な出会いを経験しています。

昨日はこちらでの生活をサポートしてくれているチューターさんが代表を務める、Japan and Anime Clubのメンバー達と会ってきました。このクラブではみんなで折り紙をおったり、Japan Dayというイベントを開いて日本文化を紹介したりするそうです。メンバーは日本のアニメをはじめ、漫画、ドラマ、など日本文化に自分よりもずっと詳しく、活動規模も予想以上に大きなもので驚きました。イザナギとは何かと聞かれた時は本当に驚きました。自国の文化にもっと関心をもたなければならないな、と実感しました。メンバーのみなさんは日本が好きだと熱弁してくれました。ヨルダンでは他にも多くの人たちが、日本が好き、日本人を尊敬していると話してくれます。クラブの活動で、ゴミ拾いのボランティアをする、というのもこのクラブの目的はコミュニティのことを考え、清潔感ある日本人の心を学ぶことだからだ。という話を聞いた時は、気持ちが引き締まりました。

Japan and Anime Clubのみなさんと

Japan and Anime Clubのみなさんと

また、ヨルダンはシリア難民の受け入れで財政難などの問題を抱えています。そこでヨルダンの人々はこのことについてどう思っているか気になっていました。これをチューターさんに話すと、真剣に答えてくれました。

“ヨルダンは70年くらい前にできた若い国。それまではシリアやレバノンなど国境はなく、ひとつのアラブ圏というコミュニティだった。今回もシリア人・ヨルダン人と区別するのでなくて、アラブのコミュニティのメンバーのこととして考えている。”

学生同士、楽しい話から真面目な話まででき、たくさんの刺激を受けることができました。自分の目で見ること、話を聞くこと、アラビア語を実践することの大切さを実感しています。まだ研修も折り返し地点、これからの素敵な出会いにも期待し、またできた繋がりを大切にしていきたいと思います。

嶋田優奈

【FSPヨルダンコース現地レポート】アラビア語の授業と先生について

フルサ・サイーダプログラム(ヨルダンコース)参加生の医学類3年生・谷口雄大さんから、現地レポートが届きました。


フルサ・サイーダプログラムヨルダンコースの参加者6名は、ヨルダン第3の都市イルビッドに滞在しています。日本でイルビッドのことを知っている人はあまりいないと思いますが、ヤルムーク大学やヨルダン科学技術大学といった有名な大学があり、学園都市として知られています。その点では、少しつくばと似ているといえるかもしれません。
フルサ・サイーダプログラムヨルダンコースは大きく分けて3つの内容に分けられ、アラビア語の授業、農業施設などのフィールドワーク、シリア難民支援団体の活動見学があります。今日は、1つめのアラビア語の授業について報告させていただきます。

私達はヨルダン科学技術大学の寮に宿泊し、8/10から8/17まで計6日間、毎日5時間アラビア語の授業をこのプログラムの参加者だけで受けました。私達のほとんどはこれまでアラビア語を学んだことが全くなく、1つ1つの文字を覚えるところから始まりました。発音もつづりも難しいアラビア語の文字を覚えるのに大変苦労しましたが、最終日には英語の筆記体のようにつなげて書かれたアラビア語を、1つ1つの文字に分解して読むことが出来るようになりました。また、日常生活で用いる様々な会話表現を習い、それを買い物や観光に出かけた時に使ってみることで(といっても「ザーキ!(おいしいです!)」程度のレベルなのですが)、よりコミュニケーションを楽しめるようになりました。
私達がアラビア語を教わったのは、ヨルダン人のラワン先生というフレンドリーな女性の方で、英語で丁寧に教えてくださいました。授業は朝9時から始まり、昼休みをはさんで15時まで行われたのですが、毎日10時半にはコーヒーブレイクがあり、ラワン先生はナツメヤシ(デーツ)などを使った、手作りのヨルダンのお菓子を持ってきてくださいました。

ラワン先生と修了証を手にした参加生たち

ラワン先生と修了証を手にした参加生たち

また先生は、休日に(こちらでは金曜日と土曜日が休みです)私達をお宅へ招待してくださいました。先生は私達に大変豪華な手料理を振る舞ってくださったのですが、中でも印象的だったのはモロヘイヤを使ったショルバトゥムルヒーヤというとろとろのスープ(ソース?)です。日本で私は小さい時から、ゆでたモロヘイヤに醤油をかけて食べてきましたが、今回の料理は、とろとろになったモロヘイヤの温かいソースをスパイスのきいたごはんにたっぷりかけて食べるというもので、大変美味しかったです。
また、先生には3歳のお子さんがいて、私達が持っていった折り紙で鶴や紙飛行機などを作ってあげるととても喜んでくれました。手裏剣を作ってあげると、楽しそうに投げていましたが、実はヨルダンでも日本のアニメは人気があり、先生のお子さんもアニメで見た忍者が好きだそうです。
あと10日をきった滞在では、フィールドワークや活動見学が中心となりますが、アラビア語の授業で学んだ表現を、新しく出会う人と話す時にもたくさん使って、少しでも身につけて帰りたいと思います。

【FSPチュニジアコース現地レポート】ブルギバスクールでのクラスメイトとの様子

フルサ・サイーダプログラム(チュニジアコース)参加生の生物学類2年生田中千智さんから、現地レポートが届きました。


筑波大学 生命環境学群 生物学類
田中 千智

8月6・7日でテストを終え、合否発表を残すのみとなったブルギバスクール生活ですが、クラスメイトとの様子をご報告させていただきます。

私は辛うじてアルファベットが読める程度でブルギバスクールに入学し、下から2番目のクラスに入りました。クラスメイトは10人程度で、2年以上もアラビア語を勉強している人たちもおり、そんな彼らに付いていくのはとても大変でした。また、ヨーロッパを中心に様々な国から生徒が集まるのですが、彼らの間で主に使われるのはフランス語で、先生が英語を話せなかったので、初めはとても戸惑いました。

しかし、私がフランス語を分からないことに気づくと、誰か英語ができるクラスメイトが横に座ってくれるようになり、生徒たちの間で何が話し合われているのか英語で説明してくれました。また、授業後に先生に質問や伝えたいことがあるときにフランス語に通訳してくれました。本当に良いクラスメイトに恵まれました。

クラスは本当に仲が良く、勉強会を週に数回開催していました。そこでは、会話の練習や、授業で扱った文章・文法の確認などを行いました。分からないところを理解できるまで話し合い、知識を深め合いました。写真はその時の様子で、この日はレストランの店員と客の会話の練習を主に行いました。彼らとのアラビア語の勉強はとても楽しく、有意義な時間でした。

ブルギバスクールでのクラスメイトと

ブルギバスクールでのクラスメイトと

ブルギバスクールでかけがえのない友人達と出会い、彼らに教えてもらった勉強に対する熱意はかけがえのない宝物です。

 

フルサ・サイーダプログラム ヨルダンコースが始まりました

2014年8月7日、アラビア語短期研修フルサ・サイーダプログラム ヨルダンコース(FSPJC)の参加生6名がヨルダンのアンマン空港に降り立ちました。今年の参加生は石原亜里沙さん(社会学類3年)、宮部祥代さん(社会学類2年)、嶋田優奈さん(国際総合学類1年)、林浩平さん(生物資源学類2年)、中野皐月さん(看護学類2年)、谷口雄大さん(医学類3年)です。
都合により渡航が遅れる林さんを除く5名は8月6日にエティハド航空で日本を飛び立ち、翌日7日アンマンで一足先に到着した北アフリカ研究センターの小 屋-平主任に無事出迎えられました。一行は手配されたバスでヨルダン北部のイルビッドにある研修先、ヨルダン科学技術大学に向かいました。2時間の道中、一行は車窓から見える夏の地中海地方の抜けるような青空、初めて目にする中東地域の街並みや動植物ひとつひとつに感激し、これから始まる研修への期待に胸を膨らませている様子でした。

大学に到着して一行はコーディネーターのMajed Abu-Zreig教授のオフィスに通され、10日からの語学研修でアラビア語を教えてくださるSami Rawan先生やチューターの学生らと顔合わせを行いました。

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続いて、今年2月に筑波大学で行われた北アフリカ研究センター特別セミナーでご講演いただいたこともあるヨルダン科学技術大学のAbdallah I. Husein Malkawi学長に到着の報告に伺いました。Abdallah学長は学生たちに歓迎の意を伝えるとともに今後とも研究・教育の交流を継続し、本フルサ・サイーダプログラムの受入れのみならず、ヨルダン科学技術大学の学生の筑波大学への派遣にも意欲を見せていました。

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学長表敬の後、参加生たちはキャンパス内にある寮に無事入居し、生活の基盤を整えました。入寮が終わると思いがけずAbdallah学長のご厚意によりランチが饗され、日本・ヨルダン両国の話題で教員やチューター学生との交流を深めました。

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参加生たちはこれから研修が始まるまでの2日間、現地の学生とともにイルビッドのダウンタウンに食材や身の回りのものの買い出しにでかけ、研修の開始に備える予定です。

10日には林さんが無事イルビッドに到着し、6名全員がそろいました。
参加生にとって、当研修や現地の貴重な体験によってこの夏が実り多きものとなることを関係者一同祈念しています。

【FSPチュニジアコース現地レポート】ラマダーン中の試食販売員

フルサ・サイーダプログラム(チュニジアコース)参加生の人文学類2年生小川湧司さんから、現地レポートが届きました。


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チュニジアに来てから僕はチュニス市街の中央市場(Marché Central)に足繁く通っている。中央市場はいつも8時ごろから15時ごろまで開かれており、野菜や果物、魚、乳製品、肉、パン、日用品などがスーパーマーケットよりも新鮮な状態で安く売られている。

中央市場に行くと僕がいつも寄る果物店がある。店主はもともと小学校の教諭として勤めていた経験を持ち、英語が話せるために彼とはよく会話をするようになった。彼との会話は半分英語、半分正則アラビア語(フスハー)で進む。できるだけアラビア語を使うように努力しているが、僕の語彙力では十分なコミュニケーションは難しい。

仕入のトラック(2014.07.22)

仕入のトラック(2014.07.22)

-2-

 初めて彼の店に行ったのは7月中旬だった。その時は少し会話をして買い物をしただけだったが、後日店に再び行くと、店主と僕の間には面白い関係が出来上がった。その日、7月22日にはラマダーンも終盤に差し掛かっていた。ラマダーン中のムスリムは日没から日の出の期間以外に飲食ができない。この日におきた不思議な出来事について書いておこうと思う。

その日、彼の店に到着してから僕はブドウを一房購入した。彼はその際味見をするよう僕に指示した。”ladhidh jiddan (非常においしい)”と僕が返すと、彼はその「味見」をほかの客が通った際にも僕に何度かさせた。そして味の感想を客に宣伝させるのだ――むろんその言葉は”ladhidh jiddan”。

他の客が味見をして買うことができないところに、僕という外国人かつムスリムではない人間が入り込んだことにより、状況は変化した。店主の広告塔としてブドウを褒める自分は奇妙だったし、客の感覚器官としてブドウを食べている気分はなおさら不思議なものだった。この出来事で僕は自分の母国からの距離、そして「異国」をひどく強く印象付けられた。僕はここでは異人だ、けれど異人なりにラマダーンという状況下にうまく取り込まれたのだった。

中央市場に並ぶ果物たち(2014.07.22)

中央市場に並ぶ果物たち(2014.07.22)

-3-

  ラマダーンが明けてからは市場の雰囲気も変わり、市場でしばしば起こっていた喧嘩も減った。「試食販売」事件はあの日限りのことだったし、今は客も味見して買い物ができる。店主との関係はいまも続いているが、僕も間もなくチュニジアを発つことになってしまった。残りの短い期間にも彼との何気ない会話を楽しむことにしたい。

2014.08.04
小川湧司

【FSPチュニジアコース現地レポート】チュニジアでの生活

フルサ・サイーダプログラム(チュニジアコース)参加生の教育学類3年生嶋村安祐美さんから、現地レポートが届きました。


チュニジアに来てから早1か月が経ちます。

アラビア語学研修も大詰めに入って、授業もRevision(復習)に切り替わりました。8月6日にはライティングの、7日にはオーラルのテストがあり、9日に成績が返却されます。

私はその後、すぐに帰国しますが、中にはチュニジアや第三国(モロッコ、トルコ)を旅行する参加生もいます。

研修当初はレストランのメニュー表示がフランス語だったり、お店で話しかけられる言語がフランス語だったり、私はフランス語ができないので、日常生活に不安を感じていました。また、アラビア語を授業以外で使わないことに、身についているかどうか焦りの気持ちがありました。

確かにアラビア語には、コーランに使われている正則語としての「フスハー」と話し言葉である「アンミーヤ」(方言)があります。チュニジアで話されているアラビア語はチュニジア方言で、私たちがブルギバ・スクールで勉強しているフスハーとは別物ですが、フスハーが全く通じないということはないと思っていました。

そこで、お店で注文をするときやタクシーで行先を言うときなど、アラビア語をこちらから使ってみると、通じることも多く、そこから店員の方やタクシーの運転手の方との会話につながり、新しいアラビア語の語彙やチュニジア方言を教えていただくこともあります。伝わったときや相手の話している内容がわかるととてもうれしく、ますますアラビア語の学習に意欲がわいてきます。

チュニス中央市場周辺のスパイスのお店(2014.7.21)

チュニス中央市場周辺のスパイスのお店(2014.7.21)

チュニジア生活も残りわずかですが、悔いの残らないように楽しみます。

 2014.8.2
嶋村安祐美

【FSPチュニジアコース現地レポート】ラマダーン明けのイード

フルサ・サイーダプログラム(チュニジアコース)参加生の比較文化学類3年生堀内栞さんから、現地レポートが届きました。


7月27日でついにラマダーンが明けました。私達の通うブルギバスクールもイード(ラマダン明けの祝日)により3日間のお休みが設けられ、31日より再び授業が再開されています。すでに授業行程は全て終え、現在はRevisionの期間としてテストへの準備を進めています。来週の試験に向けてFSPTC生の緊張感も高まっています。

イード初日は、チュニス市内も多くの商業施設(スーパーマーケットを含め)が休業となり、ラマダーン期間よりも外食が困難な状況となったことにはとても驚きました。チュニジア人の多くが家族と過ごす休日だということで、日本のお正月を彷彿とさせます。イード二日目からは段々と街に人が現れ、寮の近くの動物園、またチュニスから近い海水浴場には家族連れの人々が多く、賑わいをみせていました。ブルギバスクールの学生たちもそれぞれ旅行に出かけたようで、寮の中は逆に閑散としていました。

イード最終日、賑わうカルタゴの海水浴場(2014/7/30)

イード最終日、賑わうカルタゴの海水浴場(2014/7/30)

ラマダーンが明けて、日中の街の雰囲気が賑やかになりました。ブルギバスクールのあるリベルテ通り、街の中心街であるハビブ・ブルギバ通りなどに以前からよく出かけていましたが、ラマダーン期間と比べ、店舗の多くが昼から営業を開始しています。まるで違う都市のような変わり様となっており、チュニジアに来て1ヶ月目にして、まだまだ新たな発見に溢れています。

2014年8月2日
堀内栞
人文・文化学群 比較文化学類 3年次

【FSPチュニジアコース現地レポート】チュニジア・ブルギバスクールでのアラビア語研修とラマダーン

フルサ・サイーダプログラム(チュニジアコース)参加生の国際総合学類3年生荒井大樹さんから、現地レポートが届きました。


私たちが通っているチュニスの語学学校ブルギバスクールのサマーコースは、平日の午前8時から午後1時10分まで授業があります。今年の授業自体は7月7日(月)から始まり、8月9日の結果郵送までテストを除いて18日間授業があります。授業自体は午前で終わりますが、午後はアラビア書道やチュニジ料理などのオプショナルの授業があったり、予習復習や課題があったりと、忙しい日々を送っております。

レベルは1st levelが5段階、2nd level、3rd level等と全部で9段階あります。私はその中で1st levelの2段階目のba (バー)クラスに属し、他のメンバー8人も1st level にばらけています。ba クラスの授業内容ですが、大きく分けて3つの内容で構成されています。一つ目が自己紹介、二つ目に職業、三つ目に道案内というように分かれています。授業は一日の前半と後半でspeaking と reading に分かれており、ほとんどがアラビア語で、たまにフランス語で授業がなされます。フランス語が理解できれば授業についていくことはかなり容易になると思われますが、フランス語が分からなくてもついていけるように授業してくださります。

授業が終われば昼食の時間ですが、今年は6月28日よりラマダーンだったため、ほとんどの飲食店が閉まっていました。そのため、たいていはラマダーン中でも開いているファストフード店や食材を購入して寮で作るか、パンを購入して食べるなどしていました。私たち外国人は断食をする必要はありませんが、チュニジア人がいるところでは基本的に飲食はしないように心がけていました。また、先ほども述べたようにたいていの飲食店が閉まっているため、チュニジア料理を食べることが困難でした。ラマダーンは19時40分ぐらいに明けるため、チュニジア人は一斉にイフタールと呼ばれる断食明けの食事として、ラマダーン中の限定メニューを食べます。それらの食事をとれたのはいい経験でした。イフタールではクスクスなどが食べられないことが多かったのですが、幸いラマダーンは7月の27日をもって終了したので、今後はチュニジア料理を食べに行くことができます。

ラマダーン期間中の夜のメディナ(旧市街)

ラマダーン期間中の夜のメディナ(旧市街)

ラマダーン中は日中の人通りが少なく、夜になると活気を帯び始めました。特に夜のメディナは多くの店が開き、お店にはミントティーやシーシャを楽しむ人であふれていました。チュニジアの夜の活気を楽しめるのもラマダーン中ならではだと思います。ムスリムにとってラマダーンは大変重要な宗教実践であるため、ラマダーン中とラマダーン明けのチュニジアを見ることで、宗教についてより深い理解が得られると考えています。

2014年7月29日
チュニスにて
荒井大樹


荒井さんは、フルサ・サイーダプログラム修了後、本学の交換留学生としてモロッコのアル=アハワイン大学に約1年間留学する予定です。本プログラムの経験は、きっと留学先での生活にも大いに役立つことと思います。

フルサ・サイーダプログラム チュニジアコースが始まりました

ブルギバスクール

ブルギバスクール

2014年7月7日、アラビア語短期研修フルサ・サイーダプログラム チュニジアコース(FSPTC)が始まりました。今年の参加生は牧野真理子さん(国際地域修士1年)、小川湧司さん(人文1年)、堀内栞さん(比文3年)、佐藤萌さん・荒井大樹さん(国際2年)、山中巧さん(国際4年)、嶋村安祐美さん(教育3年)、田中千智さん(生物2年)です。
7月2もしくは3日にトルコ航空やカタール航空で日本を飛び立った彼らは、翌日無事チュニスに到着し、現地在住の八幡暁彦コーディネータと対面しました。留学先のブルギバスクールの付属寮ではそれぞれ3人部屋に入寮したとのことです。
7月4日には駐チュニジア共和国日本国大使館のご厚意により、池﨑公使参事官によるご挨拶、大隅領事官による危機管理ブリーフィング、長井医務官による健康管理の注意事項のご説明をいただきました。同日のブルギバスクールプレイスメントテストでは、それぞれのレベルにあったアラビア語のコースへの入学が決まりました。

駐チュニジア共和国日本大使館でブリーフィングを受けるFSPTC参加生たち

駐チュニジア共和国日本大使館でブリーフィングを受けるFSPTC参加生たち

ブルギバスクールの授業料については、駐日チュニジア共和国大使館および同国高等教育省(文科省)のご尽力により、FSPTC参加生全員、免除いただくこととなりました。同様に、寮費に関しても資金援助をいただきました。チュニジア共和国の寛大なご対応に感謝するばかりです。
7日の授業開始から1週間が経ち、参加生からは「チュニジアでの生活にも慣れてきました」というメッセージが入ってきているところです。参加生にとり、実り多い夏になることを祈念しております。

トルコにみる民族と言語と宗教の多様性

調査のため3月にトルコに滞在した北アフリカ研究センター所属の岩崎真紀助教からの現地報告を掲載します。

はじめに

去る3月15日から28日にかけて、科学研究費補助金・基盤研究(A)「変革期のイスラーム社会における宗教の新たな課題と役割に関する調査・研究」の分担者として、本科研代表者である塩尻和子東京国際大学国際交流研究所長/筑波大学名誉教授と日本トルコ文化交流会のエブル・イスピル博士とともに、トルコを訪問した。現地ではイズミル、イスタンブール、コンヤ、カッパドキア、シャンルウルファ、マルディンに滞在した。

わたしにとり、トルコ訪問は今回が初めてだったのだが、自身の専門である宗教学という観点からみて、ヨーロッパとアジアが交差する国トルコが、民族、言語、宗教的に多様であることに驚かされた。その驚きは、同時に、民族や宗教の境界線が、現代とはまったく異なるオスマン朝時代(1299-1922)のトルコの姿に思いを馳せる機会ともなった。そもそもオスマン朝が、日本でいえば鎌倉時代から大正時代にかけての600年以上ものあいだ続いたこと、そして、最盛期には中央アジアから東ヨーロッパにわたる広大な領土を統治したことからして、現代から見ると驚異的である。

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第3回日・南アフリカ水資源ワークショップ参加

国土交通省と現地の水省が共同開催して今年で3回目になるワークショップが南アフリカプレトリアで9月18-20日に開催された。日本側は国土交通省、筑波大学北アフリカ研究センター、民間企業、JICA等が参加し、ゲリラ豪雨対策、河川の水質管理(酸性水処理を含む)、再生水の活用技術、ダム再生技術、国連次期開発目標(Post MDGs)における防災の位置づけ等について紹介した。北アフリカ研究センターからは入江准教授が出席し、ダム管理技術に関する発表を行った。また、南アフリカ側からは、水省、財務省、気象庁、水研究所から、Flash Flood(ゲリラ豪雨)対策、河川や下水道の水質管理(鉱山廃水処理を含む)、南アにおけるダム修復ニーズ等について発表が行われた。これら発表に基づき、同ワークショップでは防災協働対話の枠組みによる協力や水関係インフラの管理・運営等の項目を含めた新たな共同決議について合意した。

今回、入江准教授の参加が同ワークショップで初めての研究機関からの参加であった。今後のワークショップでは学術交流も含めた展開となることが二国間で確認された。

3日目にはプレトリアから2時間ほどのバールダムを見学した。バールダムでの堆砂は貯水総量の数%程度とその影響は小さいが、バール川、オレンジ川のより下流側の貯水池では降雨量が少なくなっていくために堆砂速度が速いことが予想される。また、南アフリカ側が最も大きな課題としているのは強酸性の鉱山廃水の処理で、貯水池堆砂問題だけでなくこれらを総合的解決に導く提案が求められている。

リンク

http://www.mlit.go.jp/report/press/sogo06_hh_000128.html

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左:水省マブダファシ副大臣 右:国土交通省松下政務官

130918官民昼食記念写真

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「第38回中東協力現地会議」に参加

(財)中東協力センターの主催により、「第38回中東協力現地会議」が去る8月25日、26日の二日間に亘り、アラブ首長国連邦のドバイで開催された。会議には、政府および政府関係者、中東主要国の日本国大使、民間企業、中東地域専門家、マスコミ等から、過去最大となる400名を超える参加があり、「我が国の成長戦略と中東・北アフリカにおけるビジネスチャンス」をテーマに多岐にわたる活発な議論が行われた。北アフリカ研究センターからは、上山一助教が出席した。

奥田 中東協力センター会長

奥田 中東協力センター会長による開会挨拶

会議では、佐々木 経済産業省顧問、田中 日本エネルギー経済研究所常務理事、中東諸国駐在の日本国大使、寺島 三井物産戦略研究所会長、石毛 日本貿易振興機構理事長といったゲストスピーカーによる講演が行われた。

寺島氏による基調講演

寺島氏による基調講演

会議を通して、シェールガス革命の日本経済および中東産油国への影響、イラン問題と湾岸諸国の安全保障、インフラシステム輸出と新興国戦略(韓国企業との競争)、中東ビジネスにおける有望な事業分野(特に水、電力、交通)、政府開発援助の意義と影響力、グローバル人材の育成、政府への要望(インフラ輸出支援、官民トップセールス)といった課題が熱心に議論されたことが印象的であった。

会場の様子

会場の様子

会場となったInterContinental Dubai Festival City

会場となったInterContinental Dubai Festival City

北アフリカでのビジネス展開に関する報告・議論が少なかったことは残念であったものの、有望な消費市場として期待される北アフリカの経済動向や個別のビジネスニーズを把握する上で貴重な機会となった。

ブルギバスクール留学報告

北アフリカ研究センターでは今夏「アラビア語と現地文化を知るための短期研修プログラム」を主催し、チュニジアに2名(国際総合学類・国際地域研究専攻)、ヨルダンに3名(比較文化学類・生物資源学類)の学生を送り出しています。このうちチュニジアのブルギバスクールのサマーコースに参加した大伴史緒さん(人文社会科学研究科国際地域研究専攻)が、初中級クラスを主席で修了しました。

ブルギバスクールのサマーコースは9レベルに分かれており、大伴さんの受講した初中級(1ba)は、本学で1年間「アラビア語基礎」を履修した学生には適切なクラスとのことでした。来年度も多くの筑波大生が「アラビア語と現地文化を知るための短期研修プログラム」に参加することを期待しています。

修了証書(右上)と主席修了記念の書籍

修了証書(右上)と主席修了記念の書籍

(参考)
北アフリカ研究センター主催「アラビア語と現地文化を知るための短期研修プログラム」2013年度ポスター

ブルギバスクール (正式名称:チュニス・エル・マナール大学付属ブルギバ現代語言語学院) 公式ウェブサイト

チュニジアレポート:エネルギー関連機関への訪問と今後の連携に向けて

現地調査のために3月にチュニジアに滞在した、筑波大学数理物質系の鈴木義和先生が書かれたチュニジア渡航のレポートを掲載いたします。

(以下、鈴木研究室HPより許可を得て転載。)


1.はじめに
北アフリカのちょうど真ん中、地中海につきだす形で楔が突き刺さるようにも見える国、チュニジア。地中海をはさんですぐ向いにはシチリア島があり、古代から交易の要所として栄えた国である。首都チュニスは北アフリカ有数の大都市であり、ヨーロッパ文化、マグレブ文化が織り合わさった多面的な顔を持っている。
2013年2月半ばのある日、学内の図書館に向かう途中で、北アフリカ研究センター長の中嶋先生から声をかけていただいた。「鈴木さん、3月にチュニジアに行ってみませんか。」北アフリカ研究センター には、サハラソーラーブリーダー(SSB)計画 を推進されている鯉沼秀臣先生が客員教授として赴任されている。鯉沼先生がチュニス近郊のエネルギー関連施設を訪問されるので同行してみては、とのお話だった。

夜行便でパリ空港に到着。現地時間は朝3時

Fig.1 夜行便でパリ空港に到着。現地時間は朝3時

筆者は2012年5月、初めて北アフリカの大国、アルジェリアに渡航する経験を得た 。そして、アルジェリアとの共同研究などを色々と計画していた矢先に起きた1月のあの悲惨な事件。当面、北アフリカに訪問することは難しいのではと考えていたが、隣国チュニジアではほぼ問題ないとのこと。ジャスミン革命後の混乱もほぼ終息しているそうである。そして、あれよあれよという間に渡航が決まり、チュニジア行きの準備が始まった。
アルジェリアの場合とは異なり、チュニジア渡航にはビザ申請が不要であり、また、チュニスには筑波大学の北アフリカ・地中海事務所(CANMRE)もある 。今回もフライト、ホテル手配にARENA/CANMREの渡邉たまきさん、現地事務所の八幡暁彦さんのお世話になりながら、スムーズに渡航準備を進めることができた。

Fig.2 乗り継ぎ客に軽食サービス

2.首都・チュニスへ
今回の目的地は、チュニジアの首都、チュニス。年度末のタイトな日程ということもあり、成田からのエールフランスの夜行便でパリ経由し、チュニス入りすることとした。チュニジアはフランスの元・保護領であり、首都チュニスへは、シャルル・ド・ゴール空港で乗り換えが可能である。3月9日(土)の21:55発のフライトで日本を出発。フランスの夏時間は復活祭(Pâques)からであり、パリ到着日の3月10日(日)はいまだ冬時間。日本との時差は8時間あり、朝の3時にパリに到着した。

Fig. 3 7:35発のフライトでいざチュニスへ

Fig. 3 7:35発のフライトでいざチュニスへ

Fig. 4 ようやくチュニスに到着。空港では、アラビア語とフランス語・英語で案内が併記されている

Fig. 4 ようやくチュニスに到着。空港では、アラビア語とフランス語・英語で案内が併記されている

今回は、フランスに入国手続きすることなく、空港内で乗り継ぎすることとなった。さすがに朝3時では、空港内のお店もすべて閉まっていることから、国際線乗り継ぎ客向けの軽食サービスがあった。エールフランス航空にしては親切な計らいである(もちろん、ビジネスクラス以上の客にはラウンジが用意されていたようである。)

パリ空港内で4時間半の乗り継ぎ待ちをし、7:35のチュニス行きに乗り換える。約2時間のフライトで、朝10:00にはチュニス国際空港に到着した。

チュニス国際空港には、筑波大学北アフリカ・地中海事務所の八幡さんが今回も出迎えに来てくださっていた。ありがたい限りである。今回の訪問は短時間でかなりの数の訪問先を回ることになるため、車での移動が不可欠である。現地の交通事情に詳しい運転手付きでレンタカーを手配することとなった。

Fig. 5 現地手配のレンタカー。一応、7人乗り(?)3列目はかなり狭い。

Fig. 5 現地手配のレンタカー。一応、7人乗り(?)3列目はかなり狭い。

Fig. 6 北アフリカ・地中海事務所にて

Fig. 6 北アフリカ・地中海事務所にて

チュニス・カルタゴ国際空港は市内から約8 kmと便利な立地であり、市内までは車で10分程度である。まずは、宿泊先のHôtel Belvédère Fourati にさっとチェックインを済ませ、早速、北アフリカ・地中海事務所にお邪魔させていただくこととなった。なかなかのハードスケジュールだ。

12:55には鯉沼先生と、SSB計画の賛同者で今回の訪問の同行者である清水政義氏(清水電設工業会長)が空港に到着されることになっており、出迎えのために空港に引き返して合流することとなった。

3.アフリカ教育開発協会(ADEA)とのミーティング
チュニジア到着日(日曜日)の16:00、早速1つ目のミーティングである。Association for the Development of Education in Africa (ADEA)の事務局長であるByll-Cataria氏との打ち合わせをホテルで行うこととなった。アフリカの教育、Sustainable developmentについて熱い議論が交わされた。このミーティングは今回の訪問のキーパーソンである元・在日チュニジア大使Hannachi氏によりセッティングされたものである。

Fig. 7 左から清水会長、Ahlin Byll-Cataria氏、鯉沼先生、日高健一郎先生(筑波大学)、Salah Hannachi 氏

Fig. 7 左から清水会長、Ahlin Byll-Cataria氏、鯉沼先生、日高健一郎先生(筑波大学)、Salah Hannachi 氏

Fig. 8 ホテルの客室から眺めたチュニスの街並み

Fig. 8 ホテルの客室から眺めたチュニスの街並み

4.Borj Cedria テクノパーク訪問

3月11日(月)。朝9時からチュニス近郊のBorj Cedria テクノパークでのミーティングである。車で30分程度はかかるため、朝8時過ぎにはホテルを出発することとなった。

Fig. 9 Borj Cedria テクノパークの本部棟にて

Fig. 9 Borj Cedria テクノパークの本部棟にて

Fig. 10 SSB計画についてのミーティング

Fig. 10 SSB計画についてのミーティング

Fig. 11  Borj Cedria テクノパーク本部棟周辺の風景

Fig. 11  Borj Cedria テクノパーク本部棟周辺の風景

ミーティングの詳細については割愛するが、Borj Cedria テクノパーク側とSSB側との協力の可能性について活発な議論が交わされた。12時にはミーティングが終了し、

Borj Cedria テクノパークを後にした 。
ようやく昼食。現地事務所の八幡さんのおすすめで、Borj Cedriaからチュニスへ戻る途中、街道沿いの地元客向けの食堂に入ることとなった。

Fig. 12  街道沿いの食堂。新鮮な肉であることを示すためか、「羊頭を掲げて」羊肉が売られている 。

Fig. 12  街道沿いの食堂。新鮮な肉であることを示すためか、「羊頭を掲げて」羊肉が売られている

Fig. 13 豪快に焼かれる肉。イスラム圏なのでお酒は飲まず、コカコーラなどを飲みながら食べる

Fig. 13 豪快に焼かれる肉。イスラム圏なのでお酒は飲まず、コカコーラなどを飲みながら食べる

調理法は日本でおなじみのドネルケバブ(回転させてスライス)やシシケバブ(串焼き)ではなく、豪快な網焼きである。パンをハリッサ(唐辛子+オリーブオイルのペースト)につけながら一緒に食べると非常にうまい 。

4.在チュニジア日本大使館表敬訪問
3月11日(月)、14時。今回の訪問で3度目のミーティングである。在チュニジア日本大使館を訪問し、高原寿一特命全権大使との会談を行った。詳細は割愛するが、どのような形式でチュニジア側と協力関係を構築するのがベストであるか、真剣な議論が交わされた 。

5.El Manar 大学訪問
3月11日(月)、15時30分。筆者は少し疲れてきたが、鯉沼先生・清水氏のコンビはまだまだ元気である。お二人は同い年とのことだが、確実に私よりも元気なのは間違いない。
El Manar 大学は、15部局 で学部生約44000 人、大学院生7260 人、教員3000 人を擁するチュニジア最大規模の国立大学である 。まずは、鯉沼先生からSSBについての簡単な説明が行われた。
ここまでのミーティングでは立場上メモ取り役に徹していた筆者であるが、ここでは大学間交流、学生交流などの活性化について積極的に議論に参加した。時間があれば学内施設や授業の模様を見学したかったところであるが、あと2つのミーティングが残っており、後ろ髪をひかれながら同大学を後にすることとなった。

Fig15

Fig. 15 El Manar大学の学生数。理学部がもっとも多く、経済・経営学部、法学部の順に続く

Fig. 16 Prof. Chiheb Bouden、Samia Charfi Kaddour 副学長、Hannachi 氏、Abdelhafidh Gharbi 学長、鯉沼先生、清水氏

Fig. 16 Prof. Chiheb Bouden、Samia Charfi Kaddour 副学長、Hannachi 氏、Abdelhafidh Gharbi 学長、鯉沼先生、清水氏

6.JICA チュニジア事務所訪問
3月11日(月)、16時30分。次はJICAチュニジア事務所への訪問である。在チュニジア日本大使館でのディスカッションを補完する形で、同事務所の富澤所長、滝本氏との意見交換を行った。
月曜日の公式日程は一応これで終わりであり、ホテルに戻ることとなったが、この後、19:00より会食形式でもう一つ重要なビジネスミーティングが行われることとなった 。鯉沼先生・清水氏コンビのバイタリティにはただただ感服するばかりである。

7.INAT所長訪問
3月12日(火)、10時。今回の公式日程の最後として、筑波大学北アフリカ・地中海事務所が置かれているINAT(国立チュニジア農業学院)のMahmoud Elies Hamza 所長にご挨拶に伺った。

Fig. 17 INATのMahmoud Elies Hamza 所長との会談

Fig. 17 INATのMahmoud Elies Hamza 所長との会談

Fig. 18 再び北アフリカ・地中海事務所玄関にて

Fig. 18 再び北アフリカ・地中海事務所玄関にて

8.1時間限定エクスカーション
3月12日(火)、11時。本当に密度の高い訪問スケジュールであった。私のフライトは翌13日の朝の便だったが、鯉沼先生と清水氏はドイツでのミーティングのため、一足早く12日の13:40の便で出発することとなっていた。

Fig. 19 (長身を活かして手前の塀をよけつつ、それらしく撮影した)カルタゴの遺跡(11:01)。

Fig. 19 (長身を活かして手前の塀をよけつつ、それらしく撮影した)カルタゴの遺跡(11:01)。

「来た、見た、”帰った”」という日程はあまりにも気の毒だということで、八幡さんが1時間限定のエクスカーションを企画して下さり、空港にほど近い、カルタゴ遺跡を塀の外から文字通り駆け足で見学することとなった。

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Fig. 20 飛行機の時間を気にしつつ、駆け足で訪れたシディ・ブ・サイドの街並み(11:40頃)

Fig. 20 飛行機の時間を気にしつつ、駆け足で訪れたシディ・ブ・サイドの街並み(11:40頃)

また、白い壁と青い窓飾りで観光スポットになっている、シディ・ブ・サイドの街並みも駆け足ながら、見学できることができた。(八幡さん、有難うございます!)

9.帰国の途へ…!?
シディ・ブ・サイドが空港からほど近いこともあり、余裕をもって、鯉沼先生らの便に間に合うよう、空港に到着することができた。チェックインカウンターに並ぶと、大きな喧噪が空港全体を覆っている。
…この日、数多くのフライトの経由地であるヨーロッパの空港がほぼ全域で大雪のため閉鎖され、一部の便を除いて欠航になったのである。結局、お二人は翌日便に振り替えざるを得なくなった。一同疲れた表情でホテルに戻り、日本での再会を約束しての解散となったのである。
3月12日(火)夕刻。いくら疲れたと言っても、一度も街歩きをしないのでは、チュニスの雰囲気は掴めない。18時少し前に、ホテルにほど近い、カルフールまで歩いてみることにした。
街並みは、ヨーロッパのそれに近いが、とにかく、車の運転が危ない。確実に歩行者よりも車優先の社会である。道路の両側に路上駐車があふれ、まさに、「命懸け」で道路を横断せざるを得ない場所もあった。交通事情については、本当に注意が必要であると実感した次第である。

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Fig. 21 夕刻のチュニスの街並みとカルフール魚売り場

Fig. 21 夕刻のチュニスの街並みとカルフール魚売り場

3月13日(水)、朝6:00.私のフライトは9:05発であるため、暗闇のなかチェックアウトして空港へと向かう。パリ乗り継ぎが2時間を切るやや厳しい接続だったが、チュニス発の便は約1時間遅れ、久々にシャルルドゴール空港内を(一応)大急ぎで走ることとなった。一応、と書いたのは、(予想はしていたものの)パリ‐成田便も機材延着の都合で結局は4時間遅れになったためである。

Fig. 22 チュニス空港内の見事なモザイク画

Fig. 22 チュニス空港内の見事なモザイク画

Fig. 23 昨日の大雪がまだ残るCDG空港

Fig. 23 昨日の大雪がまだ残るCDG空港

最後は季節外れの大雪というトラブルに見舞われたが、それも含めて、今回のチュニジア渡航は密度の高い思い出深いものとなった。おそらく、再びチュニスを訪れることもあるだろう。その時には、また新しい発見が私を迎えてくれるはずである。

Copyright (c) Yoshikazu Suzuki, 2013

フランス:モンペリエ大学との全学協定締結

左よりモンペリエ第一大学のMichel LARROQUE教授、Laurence VIAN学部長、礒田博子所長

左よりモンペリエ第一大学のMichel LARROQUE教授、Laurence VIAN学部長、礒田博子所長

2009年10月から、筑波大学北アフリカ研究センターとフランスのモンペリエ第一大学薬学部との間で結ばれていた部局間協定が、このたび大学全体での交流を定めた全学協定へと拡大しました。これにより、これまでの研究者交流に加え、学生交流も促進されることとなり、2013年春学期には4名のモンペリエ大学院生が筑波大学での短期留学を予定しています。

全学協定締結にあたり、礒田博子北アフリカ・地中海事務所所長は3月のモンペリエ大学訪問時に、Laurence VIAN薬学部長へと、両校学長署名入りの協定書を渡しました。

Sylvie MUNIER准教授より実験室の説明を受ける礒田所長とマイラ研究員

Sylvie MUNIER准教授より実験室の説明を受ける礒田所長とマイラ研究員

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薬品資料館の説明を行うEric Letessier氏

 

また礒田所長は同大学薬学部施設を見学するとともに、学内にある薬品資料館も訪れ、世界各地から集めた薬草、薬品のサンプルを見学し、説明を受けました。当資料館はパリの国立自然史博物館に次いでフランス国内第二位の規模を誇るもので、伝統的に用いられてきた薬となる動植物由来の標本を保存した貴重なものです。こうした資料の利用、協力にはじまり、今後ますますの研究交流と学生交流が行われるための有意義な話し合いがなされました。

各国から収集された伝統的な薬品が並ぶ

各国から収集された伝統的な薬品が並ぶ

薬品資料館の説明を行うYvePELISSIER教授

薬品資料館の説明を行うYvePELISSIER教授

リビア・レポート(3)(最終回)-再び、トリポリ-

現在調査のため12月にリビアに滞在した北アフリカ研究センター(ARENA)所属の上山一研究員からの現地レポート(最終回)を掲載します。


12月22日夜、セブハからトリポリに戻りました。本レポートでは、トリポリ市内の様子と昨今のリビアをめぐる状況について報告します。

(1) 12月24日、リビアは61回目の独立記念日を迎えた。現地テレビ局の中継は、殉教者広場で行われていた独立記念式典の様子を放送していた。記念式典が行われていた殉教者広場を訪れてみた。殉教者広場周辺は、独立記念を祝う人びとで賑わっていた。広場には治安部隊に加え、重装備の軍人が警備しており、周辺ビルの屋上には銃を持った軍人が多く配置されていた。この日、殉教者広場で行われていた記念式典には、ゼイダーン首相、マガリエフ国民会議議長、陸軍・海軍・空軍のトップが出席していた。広場周辺では、軍事パレードが行われ、内戦中に利用された対戦車砲や機関銃を積んだピックアップ・トラックが走り、軍用機・戦闘機が上空を何度となく旋回していた。カザフィー政権からの解放が実現し、リビア国民は改めて自由な社会の到来を喜でいる、といった印象を持った。その一方で、国軍が前面に出た式典であったとの印象も受けた。リビア政府は、民兵組織の国軍への統合を進めているが、民兵組織同士の対立や軍内部の権力闘争もあり、政府は各地の民兵組織の処遇に苦慮している、という話を耳にする。(写真1、写真2、写真3、写真4、写真5)

写真1:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場周辺)

写真1:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場周辺)
(2012年12月24日:本人撮影)

写真2:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場)

写真2:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場)
(2012年12月24日:本人撮影)

写真3:独立記念日の様子(殉教者広場)

写真3:独立記念日の様子(殉教者広場)
(2012年12月24日:本人撮影)

写真4:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場)

写真4:独立記念日の軍事パレード(殉教者広場)
(2012年12月24日:本人撮影)

写真5:独立記念日の様子(殉教者広場)

写真5:独立記念日の様子(殉教者広場)
(2012年12月24日:本人撮影)

(2) リビアの主要産業は石油産業であり、石油部門の対実質GDP構成比は政変前の2007年時点で53.5%にも上る。湾岸・アラブ産油国と比べてみても、石油部門への依存度は顕著であり、この傾向は年々強まっている。リビアの人口は642万人(2009年のIMF推定値)であり、1人当たりGDPは12,300米ドル(2010年のIMF推定値)、2005年から2010年までの年平均実質GDP成長率は約5%を記録している 。内戦中、油田への攻撃や石油関連施設の破壊によって石油生産・積み出しがストップし、石油産業は打撃を被った。しかし、内戦終了後、急速にプラントのリハビリテーション・再稼働が進んだことで、石油生産は政変前の水準に戻りつつある。(写真6)

写真6:近年、自動車数の増加により、交通渋滞は増加傾向にある(トリポリ市内)

写真6:近年、自動車数の増加により、交通渋滞は増加傾向にある(トリポリ市内)
(2012年12月:本人撮影)

あるリビア人と話したとき、公共インフラのことが話題になった。カザフィー政権時代、政府は公共インフラの整備に多くの資金を費やしたとアナウンスしていたが、現実には、インフラの整備も不十分であり、石油からの富が社会の発展のために有効に利用されたといった実感を持てなかった、と言っていた。石油収入をどのように国家のために利用し、どうのように国民に配分し、信頼される政府をどう作り上げて行くかは、新政権にとっての重たい課題となりそうだ。

リビアには、石油産業以外にも有望な産業がある。その一つが観光業であり、国内では貴重な自然遺産・歴史遺産を見ることができ、五カ所の世界遺産がある。こうした観光資源の活用は、リビア経済の発展や産業の多角化にとっても重要と考えられる。(観光資源:写真7、写真8、写真9、写真10)

写真7:世界遺産レプティス・マグナのローマ遺跡(ホムス)

写真7:世界遺産レプティス・マグナのローマ遺跡(ホムス)
(2005年5月:本人撮影)

写真8:サブラータ(世界遺産)

写真8:世界遺産サブラータのフェニキア都市遺跡(ザーウィヤ)
(2006年4月:本人撮影)

写真9:レプティス・マグナにある円形闘技場

写真9:レプティス・マグナにある円形闘技場
(2009年10月:本人撮影)

写真10:ナフーサ山地の麓にあるクサール・ハッジ(食料貯蔵のための円形倉庫)

写真10:カスル・ハッジ(食料貯蔵のための円形倉庫)
(2009年10月:本人撮影)

日本との関わりでいうと、トヨタ社が、2010年に、住友商事の出資により、リビアに代理店を設立した。現地紙の報道によると、トヨタ社は、2012年11月末から、トリポリタニア東部ミスラータのフリーゾーンにて自動車技術者を目指す若きリビア人を対象に訓練プログラムを実施しているという。こうした訓練プログラムは、ミスラータの他に、トリポリやベンガジでも行われる予定のようだ。日本とリビア、産業界における両国の接点は少ないものの、こうした草の根の人材交流を通じたネットワークの構築によって両国における経済連携の深化が期待される。

(3) 今、リビア政府に付きつけられている最重要課題のひとつとして、国内の治安回復が挙げられる。個人的な印象では、首都トリポリやリビア北西部のザーウィヤ周辺については、治安状況は比較的良好に思われる。ただし、リビア全体を見ると、地中海沿岸地域ではミスラータ以東、砂漠地域ではチャド・ニジェール・アルジェリア・エジプト・スーダン国境地帯、局地的には西部バニ・ワリードや東部ベンガジといった地域では、治安情勢は安定しておらず、部族間の衝突、旧政権関係者による攻撃または旧政権関係者への報復攻撃といった事件が起きている。とりわけ、ベンガジでは治安機関への襲撃が相次いでいる。

トリポリ市内を歩いていたとき、ある看板を目にした。この看板には、英語で「We want to know the truth」と書かれており、軍人らしき数人の人物の写真が載っていた。看板の前面に出ていた人物は旧カザフィー政権で公安書記(内務大臣)を務め、内乱が起きた直後にカザフィー政権を離反し、反体制派に合流したアブドゥル・ファターハ・ユーニス少将であった。彼は、カザフィー中尉と同志たち自由将校団が起こした1969年9月のアル=ファーティハ革命に参加し、カザフィー氏の側近として長く政権中枢部で活躍してきた。ユーニス少将は、カザフィー政権を離反したのち、反体制派軍事委員会の最高司令官に就いた。しかし、2011年7月28日に何者かに殺害され、従者と共にベンガジの郊外で発見された。事件直後、旧政権関係者や旧国民評議会関係者による暗殺といった見方が広がっていた。その後、犯行グループが特定されないままになっていた。2012年12月に入り、事態は急展開し、ベンガジの軍検察は旧国民評議会のアブドゥル・ジャリル元議長が一連の事件に関わっていたとして、軍法裁判所に訴追することを要求した。このような背景には、リビア東部でユーニス少将が属したアバイダートと呼ばれる有力部族が捜査再開・犯人特定を求め、政府や軍への圧力を強めたことが挙げられる。ベンガジでのアメリカ総領事館襲撃事件は例外として、国内では、外国人への攻撃・誘拐といった事件は珍しく、むしろ部族間の衝突に加えて、治安機関への攻撃や治安機関幹部を狙った暗殺事件が頻発している。国民和解に至るまでには一定の時間を要すると思われる。(写真11)

写真11:恩讐を捨て、国民和解は進むのか?(トリポリ港を見下ろす小高い丘にそびえるリビア国旗)

写真11:恩讐を捨て、国民和解は進むのか?(トリポリ市内)
(2012年12月:本人撮影)

《終り》

リビア・レポート(2)-セブハの様子-

現在調査のため12月にリビアに滞在した北アフリカ研究センター(ARENA)所属の上山一研究員からの現地レポートを掲載します。


12月19日から4日間の日程でトリポリから約650キロ南・リビア南西部に位置するセブハ (Sebha) を訪れました。セブハ滞在の目的は、セブハ大学に訪問し、リビアでの今後の学術調査への協力をお願いするためです。本レポートでは、セブハ市内の様子を中心に報告します。

(1) 19日朝、トリポリから空路セブハに移動し、午前中の早い時間に現地に到着する予定であった。リビアには、航空会社が3社あり、国営のリビア航空とアフリキーヤ航空、そしてリビア初の民間航空会社であるブラーク航空がある。トリポリ‐セブハ間には、これら全ての航空会社が就航している。今回は、リビア航空を選択したが、出発時間の午前8時を過ぎてもセブハ行きのチェックインが始まる気配はない。出発時間から約2時間遅れで、チェックインが始まり、出発ゲートに通されたものの、今度はこの便のみ一向に搭乗を開始しない。午後になり、私を含めて乗客たちは出発ゲートで暇を持て余していたが、ひたすら搭乗開始のアナウンスを待っていた。そのうち、乗客と航空会社の職員との間でも激しい口論となったが、何とか騒ぎは収まった。午後5時半頃、6時台発のセブハ行、ブラーク航空便の搭乗案内が始まった。さすがにこのときは、乗客の不満も頂点に達したが、その時、リビア航空の空港職員より間もなく搭乗開始との案内があり、午後7時頃にやっとのことでセブハに向けて飛び立つことができた。リビア航空、フライトの遅延には定評があるようだが、これ程遅れることはめったにないようだ。1時間程で、セブハ国際空港に到着した。空港では、セブハ大学の先生による出迎えを受けた。

(2) リビアは、北西部のトリポリタニア地方、南西部のフェザーン地方、北東部と南東部のキレナイカ地方に大きく分かれ、セブハはフェザーン地方最大の都市であり、サハラ地域への玄関口にあたる。また、セブハは故カザフィー氏が中学時代を過ごした街として知られている。2011年2月に始まったリビアでの政変以降、セブハが新政権によって制圧されたのは2011年9月下旬頃であった。その後も部族間の小競合いが散発的に起きているようであるが、最近ではその数は減っているようだ。(写真1)

写真1:セブハ市内の様子(2012年12月:本人撮影)

写真1:セブハ市内の様子
(2012年12月:本人撮影)

(3) セブハを初めて訪れたが、内戦中に破壊された施設はトリポリに比べて少ないように感じられた。ただ、政変前に営業していたホテルのほとんどが、内戦中に破壊・略奪に遭い、滞在中に営業を行っているホテルは市内中心部で1軒のみと聞いた。また、セブハに滞在中、毎晩ではなかったが銃声が聞こえた。夜中に外出することはなかったが、現地の人によると、週末には結婚式が行われることが多く、その際には祝砲を挙げることがあるのだ、との説明を受けたのだが、夜に聞こえた銃声は銃の回収が不十分であることを物語っており、恐ろしくも感じた。(写真2、写真3)

写真2:内戦中に破壊・略奪に遭ったホテル

写真2:内戦中に破壊・略奪に遭ったホテル
(2012年12月:本人撮影)

写真3:内戦以降、営業を停止したままのホテル(セブハ大学近く)


写真3:内戦以降、営業を停止したままのホテル(セブハ大学近く)
(2012年12月:本人撮影)

また、セブハには、故カザフィー氏が中学時代に暮らしていた家(参照写真:http://photos.wikimapia.org/p/00/02/96/85/79_full.jpg)があることを記憶していた。現在どうなっているのか気になり、その場所を訪れてみた。しかし、ロータリー内にあった家は跡形もなくなっており、更地になっていた。セブハが反カザフィー政権派の国民評議会によって制圧された後、家は破壊されたそうだ。(写真4)

写真4:故カザフィ氏が中学時代を過ごした家があったロータリー(ダール・アル=ムアンマル)

写真4:故カザフィー氏が中学時代を過ごした家があったロータリー(ダール・アル=ムアンマル)
(2012年12月:本人撮影)

(4) 筑波大学と学術交流協定を締結しているセブハ大学本部を訪問した。同大学は、セブハの他に、ムルズク(セブハの南約140キロ)、ブラーク(同北約70キロ)、ガート(同南西約500キロ)、そしてウバリ(同西約175キロ)にもキャンパスを持つ。今回、同大学の副学長と国際協力担当の先生にお会いし、意見交換をおこなった。こちらからは、今後の学術調査に対する協力をお願いした。先方からは、筑波大学との間の学生及び研究者の交流を促進したいとの申し出があった。(写真5)

写真5:セブハ大学での記念撮影(左端より、同大学学長、本人、副学長、国際協力担当の教員)

写真5:セブハ大学での記念撮影(左端より、同大学学長、本人、副学長、国際協力担当の教員)
(2012年12月:セブハ大学職員撮影)

(5) セブハは、オアシス都市であり、交通の要衝でもあることから、人通りは多い。また、街なかでは、シャーシ (ashaersh) と呼ばれる布で頭と顔を覆ったトゥアレグの人びとをしばしば見かける。この他、近隣のサハラ・サヘル地域から国境を越えやってきた出稼ぎ労働者やアラブ人の労働者も見かける。出稼ぎ労働者の一部は商店、工場、農場で働いている。ただ、出稼ぎ労働者の中には違法に入国した者やこれといって手に職がない者もおり、こうした人びとの多くは日雇いなどで生計を立てざるを得ない現状がある。トリポリ同様に、セブハ市内でも、工具を手に、人通りのあるロータリーや道端に立っている人びとをしばしば見かけた。セブハ大学の先生に伺ったところ、セブハには、こうした労働者を吸収し、彼らに十分な雇用機会を与えるだけの経済的な余裕はない、と聞いたが、出稼ぎ労働者が置かれた状況は、政変以後も大きな変化はなかったようだ。(写真6、写真7)

写真6:道端でその日の仕事を求める人びと①

写真6:道端でその日の仕事を求める人びと①
(2012年12月:本人撮影)

写真7:道端でその日の仕事を求める人びと②

写真7:道端でその日の仕事を求める人びと②
(2012年12月:本人撮影)

《リビア・レポート(3)に続く》

リビア・レポート(1)-トリポリの様子-

現在調査のため12月にリビアに滞在した北アフリカ研究センター(ARENA)所属の上山一研究員からの現地レポートを掲載します。


今回、リビアの経済状況や銀行部門の実態を調査するため、2012年12月16日から12月28日までの13日間の日程で、リビアを訪問しました。私自身、リビアにはカザフィー政権崩壊後初めて、そして2009年10月以来、約3年ぶり、8度目の訪問となりました。

本レポートでは、2011年に起きたリビアでの政変・内戦以後のトリポリ市内の変化を中心に報告します。

(1) 2012年12月16日の昼、トリポリ国際空港に到着。入国審査に進んだが、ふと、「Partners, not Wage Workers」と書かれたサインボードが以前に入国審査場左側の天井に掲げられていたのを思い出した。しかし、そのサインボードは既に撤去されていた。サインボードにあったスローガン、トリポリ国際空港を利用するたびに気になっていた言葉であった。実は、このスローガン、2011年10月に殺害されたリビアの元最高指導者カザフィー氏の著書「緑の書」の記述に基づくものであり、彼が好んで用いた言葉であった。個人的には、カザフィー時代の終わりを改めて印象づける瞬間であった。トリポリ国際空港のターミナルは、シリアのダマスカス国際空港を思わせ、古びている。現ターミナルの東側では新たなターミナルの建設が進んでいるものの、政変の影響もあって作業は遅れているようだ。(写真1、写真2)

写真1:トリポリ国際空港の外観
(2012年12月:本人撮影)

写真2:トリポリ国際空港の内観
(2012年12月:本人撮影)

(2) トリポリ市内に到着後、旧市街近くの「殉教者の広場」(1969年からカザフィー政権の崩壊までは、「緑の広場」と呼ばれた)を訪れました。平日とあって、人どおりは少なく、また以前の様子とほぼ変わりませんでした。強いて言えば、カザフィー政権時代の国旗であった緑の旗や故カザフィー氏の肖像画が無くなったこと。(写真3、写真4、写真5)

写真3:殉教者広場1(2012年12月:本人撮影)

写真3:殉教者広場1
(2012年12月:本人撮影)

写真4:殉教者広場2(2012年12月:本人撮影)

写真4:殉教者広場2
(2012年12月:本人撮影)

写真5:政変前の殉教者広場(旧、緑の広場)の様子(2005年3月:本人撮影)

写真5:政変前の殉教者広場(旧、緑の広場)の様子
(2005年3月:本人撮影)

(3) トリポリ市内に滞在中、何度か市内を散策したが、NATOによる空爆の対象となった故カザフィー氏の居住区であったバアブ・アル=アズィーズィーヤは完全に破壊されており、また市内各所に内戦中にNATOや反体制派による攻撃対象とななった政府関係機関や元政権関係者宅を見ることができる。(写真6、写真7、写真8)

写真6:内戦中に破壊・放火された旧公安書記局(内務省)関連施設(2012年12月:本人撮影)

写真6:内戦中に破壊・放火された旧公安書記局(内務省)関連施設
(2012年12月:本人撮影)

写真7:内戦中に攻撃を受けた施設(2012年12月:本人撮影)

写真7:内戦中に攻撃を受けた施設
(2012年12月:本人撮影)

写真8:内戦中に攻撃を受けた総合情報庁ビル(2012年12月:本人撮影)

写真8:内戦中に攻撃を受けた総合情報庁ビル
(2012年12月:本人撮影)

また、市内各所に見られた故カザフィー氏の肖像画やカザフィー政権時代に造られた「緑の書」のモニュメントも撤去されていた。(写真9、写真10、写真11)

写真9:トリポリ市内の様子(2012年12月:本人撮影)

写真9:トリポリ市内の様子
(2012年12月:本人撮影)

写真10:「緑の書」のモニュメント(政変前)(2007年9月:本人撮影)

写真10:「緑の書」のモニュメント(政変前)
(2007年9月:本人撮影)

写真11:「緑の書」のモニュメント(政変後)(2012年12月:本人撮影)

写真11:「緑の書」のモニュメント(政変後)
(2012年12月:本人撮影)

《リビア・レポート(2)に続く》

モーリタニアレポート

1日目(入国)

サハラ砂漠の西端、モーリタニア。日本からはパリ経由のほか、ドバイ等を経由した後にチュニス、もしくはカサブランカを経由して到達します。チュニスからは週4日、カサからは毎日飛んでいます。今回はチュニスで4日ほど調査があってからのモーリタニア行きです。

チュニスからはおよそ5時間のフライト。夕刻便です。チュニスからの他の夕刻便は少なく、モーリタニアの民族衣装を着た人がやたらと目立つような気がして、こんなにモーリタニア人がチュニジアにたくさんいたことに少々の驚きを感じます。チュニジアとモーリタニアの関係は浅くなく、モーリタニア航空はチュニスエアの子会社ですし、携帯電話のチュニジアテレコムも参入しています。開発技術協力もチュニジアから結構されています。

搭乗が一時間以上遅れましたが、席は空いていましたし、お酒の飲めないモーリタニア便でもチュニスエアーはビールが飲めます。時差ぼけで眠いところ、ビールを飲んで横になってしまえば5時間のフライトはあっという間でした。

空港では入国カードとパスポート提出しますが、入国カードに記入欄がないけれども宿泊先のホテルを聞かれます。少し時間はかかりましたが無事入国審査を通過。そしてまた荷物が出てくるまでずいぶん待たされました。

深夜着でしたが、いつものようにISET(高等技術院)Bouyaさんが出迎えてくれました。

ホテルに到着したらすぐ就寝。

2日目(ロッソへ移動)

8時に朝食。今回利用したHotel Mounaは朝食付きですが、出ているクロワッサンの底面にはカビのようなものが見えます。昨日、Bouyaさんから聞いたかぎり、今年はロッソ以外では雨が多いそうですから、そのせいでカビも生えたのかもしれません。

深夜着だったこともあってBouyaさんと朝10時に約束。レンタカーが来て、ロッソに向かいますが、その前に両替です。ヌアクショットでは日本円は両替できません。ユーロ、もしくはドルで。こちらは金、土が休みのため、今日は銀行はやっていません。モーリタニアでは初めて両替商にいきましたが、大きな看板も出ていて闇ではないようです。きちんとレシートも出してくれました。利用者がいるのかがわかりません。

そのあと、魚市場に向かいます。3日間の滞在分の食料調達です。この魚市場は日本の支援で作られています。入構にお金がかかるようで、Bouyaさんが「市場を建てた日本人が一緒なんだぞ」といって入構料を負けてもらおうとしていますがそれは無理です。

ここの市場は結構立派ですが、船着場が「砂浜」です。結構な大きさの船を人力で押したり引いたりします。結構波も激しく、命がけです。

ヌアクショットを出て3時間でロッソに到着です。共同研究をしようとしているISETは遅れている同国南部の農業開発のための研究機関として2009年に開学しました。今回は同校との交流協定締結も目的の一つです。

34日目(現地観測&交流協定調印)

この2日間は現地に出ます。現地に出るにあたって、まずは州知事に挨拶をしておきます。最近、州知事が交代となりました。州知事は選挙で選ばれるのでなく、中央政府からの指名制です。その後、現地へ。

モーリタニアは7-9月が雨期で、セネガル川の水位も上昇します。ただし、水位上昇はもっと降水量の多い上流のマリの出水が到達してからとなるので、結構なタイムラグがあります。10月の今回もまだ河川水位は上昇の途中にありました。この時期に現場に来るのは初めてですが、乾期に来たときには見られなかった場所で水が溜まっています。以前はこの氾濫後の水が引いた土地を使って農業をしていましたが、上流側にできたダムの影響で治水安全度が増した分、氾濫の規模と期間が縮小して氾濫原農業としては衰退しています。しかし、治水安全度が増したとはいえ、地域住民に実害がまだまだ出ています。将来的に農業生産と治水の問題を双方考えた研究提案をしたいと考えています。

今回の主たる目的であるセネガル川の底泥をサンプリングしてISETに帰還です

ISETでの最後の夜、筑波大学とISETの間で結ぶ学術交流協定書にISET学長のサインをもらい、交流協定締結となりました。

ロッソ滞在期間中、モーリタニア大統領がケガを負う事件がありました。海外での会議を終えた大統領が故郷へ戻ろうと陸路移動中に、検問を停止せずに通過したために検問のセキュリティが7発発砲したうちの1発が大統領に命中してしまったそうです。大統領はヌアクショットでの手術後、パリの病院に移動。命に別状はなく。クーデターだったのでは、テロだったのではと憶測が飛んだようですが、周辺状況から考えても報道されたことが事実のようです。我々の帰りの検問もいつもと同程度の緊張度でした。

5日目 (地図局訪問、大使館報告、出国)

ロッソからヌアクショットに移動し、現地の地理情報収集のために地図局に行きました。JICAの技協が以前入っており、設備はよく整っています。ただし、まだ市街地地図はヌアクショットだけです。これからの地方都市開発のために地方都市でも都市開発に先んじて測量のニーズが高いことを局長から聞きました。

午後には大使館を訪問し、今回の調査の概要を説明して帰国の途につきます。またチュニスを経由し、そのまま日本へ帰国。

入江 光輝 (筑波大学北アフリカ研究センター・生命環境系 准教授)

エジプト・レポート(4)

現在調査のためエジプトに滞在されていた北アフリカ研究センター(ARENA)所属の岩崎真紀先生から、レポートが届きました。夏季休業で掲載が遅れましたが、前回に続きエジプトレポートをお送りします。

エジプト・レポート(4)2012年7月30日

写真1:世界中から来たアイセックの学生たち(2012.7.30)

今朝ミニヤを発ち、お昼すぎにカイロに到着しました。ホテルを出るとき、ちょうどアイセックの学生さんたちもさらに南の街ソハーグに向けて発つところでした。バスを待つ彼らの多くが少し疲れた様子でした。暑さ、初めて会う人々との旅、英語が通じない多くの場面等、きっと大変なことも多いのだと思いますが、写真では皆、いい顔をしています。旅が終わるころには、疲れすらいい思い出になっていることでしょう(写真1)。

写真2:東沙漠道・道の左右が白いのはミニヤが石灰岩の産地であるため(2012.7.30)

写真3:軍道路(2012.7.30)

カイロへはまず「東沙漠道」(タリーク・サハラウィー・シャルキー)を利用しました(写真2)。片道一車線、対向車が来ているのに追い越しをかける車(もちろんわたしが乗った車も)に、ひやひやし通しでした。ベニ・スエーフというミニヤとカイロの中央に位置する街から軍道路に乗りましたが、こちらは中央分離帯はあるものの、今度は130km以上は優に出ている多くの車に、心穏やかでいられませんでした(写真3)。

写真4:軍道路の休憩所(2012.7.30)

写真5:軍道路の救護所(2012.7.30)

写真7:軍道路ヘルワーン出口(2012.7.30)

写真6:軍道路の制限速度(2012.7.30)

軍道路はまだ新しい道路のせいか、休憩所(写真4)も救護所(写真5)も本当に小さなものが時折あるだけです。ちなみに、制限速度は、乗用車120km、バス100km、トラック70―80kmで、下限というのは特にないそうです(写真6)。

写真8:ミニヤの朝焼け(2012.7.21)

写真9:ムルスィー大統領のポスターが掲げられたカイロの街並(2012.7.30)

カイロ-ミニヤ間の通行料は10エジプト・ポンド(約130円)です。軍道路のカイロ出口は、実際にはヘルワーンという20km南の街にあります。(写真7)そこからカイロ市内までの所要時間は渋滞の有無によってかわり、それなりに混んでいたものの渋滞とまでは言えなかった今回でも約1時間かかりました。ナイル川の向こうに田園が広がるミニヤ(写真8)から高層ビルが立ち並ぶカイロに戻ると、いつも、調査を終えた安堵とまだもう少しあの景色のなかに身を置きたかったという一抹の寂しさを感じます。(写真9)

カイロに戻り、一息ついて、久しぶりにテレビをつけると、オリンピックの女子柔道57kg級決勝戦の中継中。ひとりは日本の松本選手で、フランス人選手と戦っています。荷ほどきもそこそこに画面に見入っていると、途中、画面が2つに分かれ、もうひとつの画面にボクシングの中継が映りました。イヤな予感がしつつ見ていると、案の定、あと17秒で柔道の勝敗が決まるというところで「5,4,3,2」とカウントダウンが始まり、あと少しで試合が終わるというところで画面は完全にボクシングに切り替わってしまいました。そのチャンネルはエジプトの放送局、ボクシングの選手はエジプト人。そんなわけで、頭では仕方ないと分かったのですが、思わず「それはないよ・・・」とひとりごちてしまいました。結局、松本選手の優勝を知ったのは、数時間後インターネットを見たときでした。いずれにしても、松本選手のこれまでのすべてのがんばりが金メダルとして報われたのは、本当に素晴らしいことだと思います。

エジプトでは、世界中のたくさんの衛星放送の番組を受信している人が多く、カイロのこのホテルでもBBC、CNN等の欧米系、アル=ジャズィーラ、アル=アラビーヤ等の中東系、そしてNile TV、アル=マスリーヤ、アル=ハヤート等エジプトの放送局の番組が放映されています。人々が歓声を挙げるオリンピック中継の裏で、中東系のニュースチャンネルでは、日々悪化するシリア内戦の映像が延々と流されています。そこでは血や死体がそのまま放映されています。事実から目をそらすつもりはありませんが、こういう悲惨な映像をある程度身近なこととして毎日のように見なければいけない中東の人々が感じるであろう心理的負担を考えてしまいます。

夜はカイロに駐在中の日本人の知人と会いました。途中、知人の知人という日本企業のカイロ駐在員の方が何人か通りかかりました。今や日本の企業は、たくさんの若手社員をアラビア語研修生としてエジプトに送っているそうです。革命の影響で観光業はまだまだですが、メーカー等の企業は、革命後の混沌が落ち着いたら、エジプトをはじめとした中東諸国が大きなマーケットになると踏んで、すでに行動を起こしているということです。本学でも50名近い学生がアラビア語を学んでいます。その数は一昨年の10名前後、昨年の25名前後に比べると、増加しています。アラビア語圏のなかでどの国に興味があるのか尋ねると、多くの学生がエジプトと答えます。エジプトの人々が考えている以上に、日本もエジプトに注目しています。

* 写真はいずれも筆者撮影

岩崎 真紀(筑波大学北アフリカ研究センター・人文社会系 助教)

エジプト・レポート(3)

現在調査のためエジプトに滞在している北アフリカ研究センター(ARENA)所属の岩崎真紀先生から、レポートが届きました。前回に続きエジプトレポートをお送りします。

エジプト・レポート(3)2012年7月27日

今日は外出しようとしたところ、ホテルの従業員さんに「日本人が来ているよ」と呼びとめられ、行ってみると、大学生くらいのカジュアルな服装をしたアジア、ヨーロッパ、アフリカの人々の一団が。そのなかのアジア系の青年に「日本人の方ですか?」と聞いてみたのですが、どうも言葉が通じていない様子。英語に切り替えて話しかけてみると、中国から来た大学生とのこと。話しはじめるともう1人アジア系の女性がやってきて、自分も中国人で、仲間は世界のいろいろな国から来ていると言います。「どういうグループなんですか?」と聞くと「アイセック(AIESEC)っていう国際的な大学生のサークルです」という答え。そこでわたしは大変驚きました。なぜなら、わたしが学部生のころ入っていたサークルだったからです。「わたしも大学生のとき、アイセックに入っていたよ!!!」と言うと、彼らも非常に驚いて、「えー、すごい偶然ですね!!」ととても喜び、その後は、立ち話でしたが、話が弾みました。(写真1・2)

写真1.中国から来た大学生(2012.7.27)

アイセックというサークルには世界100カ国以上の大学がかかわっており、海外でのインターシップ支援や海外の大学のアイセックとの交流などを行なっています。わたしが入っていたときには、シンガポールとインドネシアに行ったり、海外からのインターン生たちのお世話をしたりしました。とくにインドネシアでは現地の大学生のお宅にホームステイさせていただいたり、大学で一緒にスポーツしたりと、得難い体験をしたことを覚えています。細々とではありますが、今でもそのときに友達になったインドネシアの人々とはつながっています。

今回、最初に話した中国人の学生さんに「ところで、今、僕は何という街にいるの??」と聞かれました。ちょっと笑ってしまいそうな質問ですが、それなりに決められたプログラムに沿って集団で行動するので、自分のいる街が分からないことがあっても不思議ではありません。わたしもアイセックの仲間たちとジャカルタのどの辺に滞在したのかいまだに知らないままです。それでも、どうにかなるのがグループでの旅ですし、分からなくてもともかく旅してみることを繰り返していくなかで、勇気や知恵を得て、自然に自立していくのだと思います。

ここミニヤで出会ったアイセックの一団は、中国、インド、ギリシア、英国、オランダ、ギリシア、スーダン、米国の大学生(男性5人、女性5人)で構成されていました。現地の学生たちとともにエジプト国内の観光地を回り、それをブログにアップして、観光活性化を図ることが今回の活動の目的だそうです。

写真2.中国から来た大学生(2012.7.27)

革命、選挙、新大統領誕生と政治社会状況がめまぐるしく変化するここ1年半のエジプトの産業のなかで、大変大きな痛手を負っているのが観光です。エジプト航空は観光客の激減によって革命後1年以上成田-カイロ直行便を休止していましたが、ようやくこの春運航を再開しました。しかし、かつて週7便だったのが、今は成田→カイロが週2便、カイロ→成田が週3便です。懇意にしているカイロの旅行代理店の方も観光客はまだまだ少ないままとおっしゃっていました。

そのようななかで、「I love Egypt」という文字と真赤なハートが書かれたTシャツを来たアイセックの学生さんたちは、観光業を営む人々だけでなく、以前の観光立国としての姿を取り戻してほしいすべてのエジプトの人々にとって、とても大きな励みになることでしょう。

1月25日革命の主体は若者でした。先日会ったコプト正教会の若者たちもカッシャーファ(スカウト運動)を通してエジプトを良くしようとしています。そして、今日、エジプトの観光産業振興のために遥々やってきた世界の若者たちと出会いました。ここでは、日本で見聞きしていたエジプトとは違う姿が見えてきます。革命後、なかなか始まらない議員選挙や大統領選挙に不信感を募らせていったエジプトの人々。時折放映されるカイロの暴動。そういったネガティブな側面は確かにあるし、こちらにいても耳にします。しかし、ここにあるのはそれだけではないことが分かりました。今もポジティブな方法で社会を変えようとしている若者たちがいます。そして、そういうエジプトの若者を支えようという世界の若者がいます。

* 写真はいずれも筆者撮影

岩崎 真紀(筑波大学北アフリカ研究センター・人文社会系 助教)

エジプト・レポート(2)

現在調査のためエジプトに滞在している北アフリカ研究センター(ARENA)所属の岩崎真紀先生から、レポートが届きました。前回に続きエジプトレポートをお送りします。

エジプト・レポート(2)2012年7月23日

地図1

写真1:ムバーラク前大統領が収監されているトーラ刑務所(2012.7.18)

7月18日(水)、カイロを発ち240km南の小都市ミニヤに到着しました(地図1)。カイロを出て、郊外の道を車で走っているとき、運転手さんが「ここにムバーラクがいるよ」と指さしたのが、トーラ刑務所でした(写真1)。入口には人だかりができていたので、ムバーラクの様子を知ろうと来た人々かと思いきや、収監されている囚人の家族だろうとのことでした。

写真2:軍道路(2012.7.18)

カイロと上エジプト(エジプト南部)を結ぶ幹線道路はいくつかありますが、今回は東方沙漠のなかをまっすぐに走る「軍道路」(タリーク・ゲーシュ)を使いました。1月25日革命以前、ミニヤに行くためには「西沙漠道」(タリーク・サハラウィー・ガルビー)か「農業道」(タリーク・ズィラーイー)を使っていたのですが、これら2つの道は警察の検問が何カ所もありミニヤまで5-6時間はかかりました。何を調べているのかよく分からないまま各検問所で20分、30分と待たされたためです。しかし、革命後に開通した軍道路を利用した今回は、

写真3:軍道路ミニヤ出口(2012.7.18)

検問所自体が少なかっただけではなく、革命の影響で警察権力が相対的に低下しているため検問自体がなく、3.5時間で到着しました。軍道路は、片道三車線―と言っても車線がない区間が多いのですが―、時々思い出したように救護所の印である三日月が描かれた小さな建物があるくらいで、売店やガソリンスタンドがない道を、多くの車がものすごい速さで駆け抜けていきます(写真2)。検問所(というよりはもう料金所と言ってもいいのかもしれませんが)は古代神殿のような作りです(写真3)。途中、車内が少しずつ暑くなってきて、自分たちが沙漠の真ん中にいることを実感しました。

写真4:ミニヤのナイル川

ミニヤで定宿としているホテルに到着すると顔なじみのスタッフたちが歓迎してくれました。皆、「今年は暑い!」と言っています。ミニヤのここ最近の最高気温は、カイロより2度程度高い38~42度。たしかに暑いです。しかし、人も車もカイロほど多くないミニヤは空気が澄んでいて、ナイル川の水も青々としているため、疲労の度合いはカイロにいる時よりも少ない気がします(写真4)。

写真5.ミニヤ大学薬学部ムハンマド・サラーフ・カーミル先生と博士課程に所属するジョン・ラアファットさん

写真6:ミニヤで見つけたWinkのCD

こちらで最初にお会いしたのは、北アフリカ研究センターの客員共同研究員でもあるミニヤ大学薬学部のムハンマド・サラーフ・カーミル先生だったのですが、先生の車のなかにWinkのCDがあって驚きました(写真5、6)。「先生、これは・・・?」と聞くと、「おお、懐かしい、Winkは日本に留学していた1990年代前半によく聴いたんだよ~」とおっしゃって、さっそくCDをかけてくださいました。・・・・なかなか興味深く、懐かしい感じの音でした。それにしても、まさか外国人をほとんど見かけないようなエジプトの地方都市で、WinkのCDに出合うとは。

今回、いつも調査させていただいているミニヤ近郊のT村で、コプト正教会の若者たちが新しい活動を行なっていると聞いて、見学に行ってきました。新しい活動というのはボーイスカウト(女子も含まれます)のことで、アラビア語では「カッシャーファ」と言います。下は4,5歳から上は20代前半の若者たちが関わっており、リーダーたちがミニヤ市の主要教会でキャンプや災害時の救援活動、ディスカッション等のトレーニングを受け、その内容を自身の教会で教えるそうです。国旗掲揚から始まり、リーダーの号令に合わせた動きの練習、ディスカッション等を行なう、揃いの制服を着たスカウツたちは、どこか誇らしげで、とても楽しそうでした。(写真7)

写真7:T村M教会のスカウツたち(2012.7.23)

年代別のグループがいくつかあるということで、わたしは高校1年生以上の約20人から成る年齢が一番上のグループを見学させてもらうことにしました。観察(調査)させてもらうだけのつもりだったので、彼らの活動を邪魔しないようにと後ろの方に座ろうとしたら、「日本の大学から来たドクトーラ(大学等の教員につける敬称・女性形)です。一言お願いします」とリーダーに言われ、一転、「観察する者」が「観察される者」となりました。思いがけない展開に内心少し焦りながらも、「はじめまして、日本の筑波大学から来ました」などと挨拶を終え、それでは、後ろに戻りましょうと思ったら、今度は「ドクトーラに質問がある人は?」というリーダーの声。またも内心焦りましたが、逆にわたしがリーダーの立場でもきっと同じようにするだろうなと思い、その場にとどまりました。調査する者が調査される者となる逆転現象、フィールドワークではよくあることですが、今回は大学の授業のような感じだったので、なかなかおもしろかったです。

最初は少し躊躇していたスカウツたちですが、すぐに次々と手が挙がり、「エジプトはどうしたら日本のように発展した国になれますか」「日本の成功は、テクノロジーだけのおかげですか?それともテクノロジーと人、両方のおかげですか?」「日本とエジプトの教育の違いは何ですか?日本の成功は教育の内容と関係がありますか?」等々といった質問が出てきました。日本に良いイメージを持ってくださるのは大変嬉しいですが、日本にもたくさんの問題―震災、いじめ、雇用等々―があるんですよと思いながらも、強く印象に残ったのは、彼らの質問のほとんどが「エジプトをよくすること」に関わっていたことでした。

周知のとおり、エジプトでは2011年1月に政権打倒デモが活発化し、2月11日には盤石の体制と思われていたムバーラク政権を崩壊に導きました。この1月25日革命の中心となったのは若者たちです。ミニヤではカイロほど活発なデモ活動は起きませんでしたし、T村でデモが起きたという話も聞きません。しかし、T村の若者たちもFacebookやYou Tubeを通して、固唾を飲みながら革命の動きを見ていたことは間違いありません。政権が崩壊した1年4カ月後の去る6月、新大統領が誕生しましたが、課題は山積みです。若者たちも、新大統領のもと、これから国がどうなっていくのか、自分達の意見がどれだけ反映されるのか、多くの不安と期待を持って日々を過ごしています。とくに宗教的マイノリティであるコプト・キリスト教徒たちにとっては、ムスリム同胞団出身であるムルスィー新大統領がコプトたちをどのように位置づけて国造りを行なっていくのか、期待よりも不安を持って注視しているというのが実情でしょう。そのようななかで、今回会ったコプトの若者たちがスカウト運動を通して、エジプトという国を良くしていこうと前向きに活動しているのを見たのは、大変心強いものでした。

* 写真はいずれも筆者撮影

岩崎 真紀(筑波大学北アフリカ研究センター・人文社会系 助教)

エジプト・レポート(1)

現在調査のためエジプトに滞在している北アフリカ研究センター(ARENA)所属の岩崎真紀先生から、レポートが届きました。これから数回にわたり、現地レポートをお送りします。

エジプト・レポート(1)2012年7月15日

写真1.カイロ・ダウンタウン (2012/07/17)

7月14日(土)、カイロに到着しました(写真1)。今年は昨年より暑く、ここカイロでも日中はすでに40度を超えています。けれども今日(7月15日)お会いしたカイロ大学理学部のワファ先生を初め、ムスリマの多くは、暑さをものともせずヒジャーブで髪と顔周りを覆っています。

写真2.ロンドンオリンピック体操男子日本代表(2012/07/12)

成田発の飛行機では、期せずして、ロンドンオリンピック体操男子日本代表団と同じ便となりました(写真2)。
わたしは有名な内村選手の顔も知らなかったのですが、機内誌の同選手へのインタビュー記事を読み、そういえば、さっき出国審査で横に並んでいた男性だと気づきました。代表のみなさんは、小柄だけれど上半身ががっしりしているのと、色がとても白いのが印象的でした。代表となるには文字通り血のにじむような努力を払ってきたことと思いますが、仲間同士で談笑する楽しそうな笑顔には、悲壮感はまったく感じられませんでした。メディアやたくさんの人が注目するなかで、高いモチベーションを保ち続けていくには大変な精神力が必要とされることでしょう。機内ではそんなことも考え、彼らがオリンピックでのびのびと活躍できますようにと思いました。

写真3.1月25日革命の中心地タハリール広場(2012/07/16)

昨日(7月14日)は、米国のクリントン国務長官がカイロを訪問し、ムルシー大統領と会談したところ、大勢の群衆が反対デモを行なったと報道されています。こちらでお世話になっているコプト教徒のドライバーによれば、革命の中心地タハリール広場(写真3・4)ではムスリム同胞団とその支持者が集会を開いている一方で、ムルシー大統領や同胞団に反対している人々は別の地域で反ムルシーのデモを行なっているそうです。反ムルシーデモにどれだけのコプトが参加しているかは分かりませんが、ムルシー氏が大統領となったことで、コプトたちがエジプトの未来に大きな不安を抱いているのはたしかです。エジプトの総人口の約10%を占めるコプト・キリスト教徒と多数派のムスリムをいかに共存させていくかは、新政権の大きな課題の一つでしょう。

写真4.タハリール広場近くに描かれたグラフィティ(2012/07/16)

わたしが滞在している中洲地区のザマーレクや、訪問先のカイロ大学は、不穏な様子はまったくありません。革命前と比べて警察の力が弱体化したため、現在のエジプトの治安は、全般的にはあまり良くないと言われていますが、全土でデモや暴動が起こっているわけでは決してなく、多くの地域では、平穏な日常が営まれています。

*写真はいずれも筆者撮影

岩崎 真紀 (筑波大学 北アフリカ研究センター・人文社会系 助教

アルジェリア・レポート

2012年5月17日に行われた第2 回アルジェリア・日本学術シンポジウムの参加者である筑波大学数理物質系の鈴木義和先生が、今回のアルジェリア渡航のレポートをお書きになってます。会議の白熱した様子やアルジェリア人研究者との交流、またアルジェリアの風景など、多岐にわたってレポートされています。その一部をこちらで紹介いたします。

(以下、鈴木研究室HPより許可を得て一部転載。)

1.はじめに

 アルジェリアといえば、皆さんは何を思い起こすだろうか。サハラ砂漠、フランスの旧植民地、アラブ・マグレブ連邦、アルベール・カミュの「異邦人」、豊富な天然資源etc…。実際のところ、北アフリカ諸国のなかでは、エジプトやモロッコほど知名度が高いとはいえず、著者にとってもエキゾチックな国のひとつである。そんなアルジェリアに、「鈴木さん、ひとつ行ってみませんか?」と声をかけて頂いたのが2012 年3 月末のことだった。・・・

2.渡航準備

・・・上にも少し書いたように、アルジェリア入国にはビザが必要である。学会・研究集会などの文化活動での入国は、「文化ビザ」を取得することになる。数は少ないものの、アルジェリアに関するガイドブックも市販されており、「美しきアルジェリア」(大塚雅貴・ダイヤモンド社)、「アルジェリアを知るための62 章」(私市正年・明石書店)の2 冊は非常に役立った。

3.いざ、アルジェリア・オランへ

・・・さて、いよいよ、オランに出発である。やや古さは感じるものの、特に機体も問題ない。フライト時間も2 時間半と短く、「地中海をはさんで、マルセイユの少し先」、といった風情である。(乗り継ぎも含めて)日本からはかなり遠いアルジェリアであるが、ヨーロッパ人からすれば北アフリカはまさに「隣国」。途中ちょっとした問題があったものの8、うとうとしている間にオランに到着した。北アフリカでは夏時間は採用されていないため、時計を1 時間戻す。日本との時差は8 時間で、ちょうど夕方の4 時頃である。つくばセンターを出発してから32 時間後のことであった。

オラン空港には筑波大学北アフリカ・地中海事務所の八幡さんと北アフリカ―センターの上山さんが出迎えにきて下さっていた。有り難い限りである。

4.アジア・アラブ持続可能エネルギーフォーラム

・・・エネルギーフォーラムの中心課題はやはりSSB 計画であり、サハラ砂漠の砂を太陽電池用シリコンに精製するといった発表も数多く行われた。15、16 日のこの会議は、メイン会場のみで行われる形式であり、初日は遅れを取り戻すために休憩なしで15:00 までぶっ続けというハードなものとなった。筆者の発表は約90 分遅れで19:30 頃の開始となったが、気合を入れなおして、TiO2 ナノ材料を用いた太陽電池についての研究成果を紹介した。・・・

5.アルジェリア・日本学術会議

・・・Energy & Environment のセッションにはSSB の関係者も多く、15、16 日に引き続いて熱い議論が交わされた。あまりにも激しい議論となったため、一部打ち切らざるを得なかったほどである。英語オフィシャルのシンポジウムという建前であったものの、フランス語が当然のように飛び交い(さすがにアラビア語での議論はなかったが)、まさに国際会議という数時間であった。

・・・会議終盤、Closing remarks を待つ間、オラン科学技術大学の学生さんたちと色々話をすることができた。筑波大学に興味を持つ学生も多く、彼らのうちの何人かが、近いうちに留学生として来日することもあり得そうである。

最終日には、USTO のご厚意で、アルジェリアの文化遺産(トレムセン遺跡)へのエクスカーションも企画していただき、学術面・文化面ともにアルジェリアへの理解を深めることができる貴重な経験となった。

鈴木研究室HPで詳しく読むことができます。)