新刊出てたの見落としてたので1ヶ月遅れ。
高校の「映画を語る若人の部」に入部したプレゼン下手の映子が、毎回好きな邦画を1本トンデモ説明でプレゼンして部長がツッコむ話。
今巻のお題は
・『スパイダーマン』(東映版)
・『新解釈・三國志』
・『恐怖人間』
・『無人島物語 BRQ』
・『ベイビーわるきゅーれ』
・『君は彼方』
・『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』
・『花束みたいな恋をした』(前中後編)
・『映画 えんとつの町のプペル』
・『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』
最後の『クレヨンしんちゃん』編が描きおろし、また『花束みたいな恋をした』が前中後編の3話にまたがってます。
池ちゃん以外の話からしましょうかw
1巻以来、映子による映画レビューの「通常回」はトンデモ映画をDISり芸スレスレに面白おかしく紹介するスタイルなのは変わらずですが、芸風自体は目新しいものではなく、インターネット黎明期テキストサイト中心の時代の映画レビューサイトの芸風を、漫画メディアで再生産している作品。
ablackleaf.com
「通常回」の映子は映画の感想、実は
「面白かったでありまする」
「おすすめでありまする」
ぐらいしか語ってないんですよね。
タイトルのとおり映子がやってるのは「プレゼン」であって、語る映画が比較的マイナーな作品が多いことも相まって、「未鑑賞の人に作品の魅力を(映子なりに)説明する」スタイルで、実は「観て何を感じるか(感じたか)」は、聴衆(読者)にぶん投げてんです。
映子のプレゼンのキモは
・着眼点(映画作品のどこに着目し切り取るか)
・再表現(切り取ったソレをいかに面白おかしく語るか)
・客観(部長のツッコミで「一般的」な感性からの乖離を浮き彫りに)
で、あんまり自身の感想(作品の受容によって自身の内心に生じた変化)を語らず、影響を受けず(それ故に成長もせず)、映画作品に点数や星もつけません。
映子の感性が映画の影響を受けて変化(成長)してしまうと漫画作品として保たなくなる事情もあって、映子はどれだけたくさんの映画を観ようとも、少なくとも誌面上はずっと「B級邦画好きの女子高生」のままです。影響を受けて他のジャンルに移ろっていけない。若いのに。
『プペル』西野氏の作品が私小説をエンタメに昇華したものであることを外縁情報から分析し指摘しても、「それが面白かったか、つまらなかったか」「自分がどんな影響を受け、どう変化したか」を、映子は語れないんです。
もう一つこの作品の「通常回」を支える要素として、映画作品選定とそのイジり方について、とても繊細に「世間(ネット)一般の最大公約数の空気を読んでやっている」点。
多かれ少なかれ「評論」「レビュー」「感想」というのは公に発表した時点で敵を作るもので、多かれ少なかれ批評・批判した作品にはファンがいるもので、事実であってもDISれば反感を買い、なんだったら褒めても褒めた筋の解釈が違えば反感を買って、よほど誰からも読まれない状態が続かない限り、規模の大小はあれど遠からずほぼ炎上します。
炎上上等で行くのも手ですし、例えば自分のブログのように「面白くなかった作品はレビューしない」というのも手です。プロの映画ライターは「案件」を選べないこともありますが、趣味のブログは作品を選ぶことができます。
『邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん』がどうしているかというと、
・レビューする(イジっても許される)作品を選ぶ
・フォーカスする(イジっても許される)要素を選ぶ
・映子というキャラを使って表面上は褒めさせる(直接DISらない)
・部長のツッコミによって毎回「賛否両論・両論併記」状態を作る
・作品のファンを絶対に馬鹿にしない
によって、ややもすれば鼻持ちならないDISり芸スレスレでも、「世間一般の最大公約数」から反感を買うことを回避してます。
なので「シンゴジラ」「鬼滅」「君の名は。」みたいなガチで大ヒットしてファンを多数抱える作品のレビューはできません。(この漫画がわざわざレビューする必要もない、とも言えます)
ちょっとこの漫画作品自体がメジャーになりすぎたこともあり、最近では「鼻につく」とする呟きもネットでたまに見ます。
あんまりこの漫画作品がメジャーになったり、熱心に同調する読者が増えすぎると、「マイナー映画に対するファンネルを使ったイジメ」になりかねないので、割りと舵取り難しい漫画だなと、そして上手く舵取りしてる漫画だなと思います。
で、池ちゃんの話。
今巻、池ちゃんがらみのエピソードが12編中、5編。
表紙も併せて「池ちゃん巻」と呼んで差し支えない。
ペラいワナビーの自称カルチャーヘッズの量産型ながら、自分の感想のペラさを自覚して懊悩する若者、というオプションで、多くの読者の共感や共感性羞恥を抉りWEB無料連載時にネットで大反響だった、今巻初登場の新キャラ。
b.hatena.ne.jp
b.hatena.ne.jp
b.hatena.ne.jp
徹頭徹尾、映画の外縁情報を頼りに映画を語る情報まとめサイトやWikipediaのような池ちゃんのスタイルは、6巻の「エヴァ編」の江波の映画語りが徹頭徹尾、自分の人生と映画作品を重ねた「自分語り感想」だったことと、対になっています。
映子はなんでしょね。内容に対して自分の興味のみに従った「フォーカス&再表現型」とでもいうか。
池ちゃんは「映画レビュー漫画」を描き続ける作者の自虐な要素もありながら、流れ弾が読者にも精神ダメージを与える、漫才で言うところの「客イジり」でもあり、また近年のネットの禁忌の一つ「オタクイジり」でもあるので、「映子の面白いレビューに比べて…」とメタに自作品を自画自賛するのも含めて、作者、なかなかの胆力だと思います。
ちなみに今巻の描きおろしエピソードも池ちゃんの誘いでサウナに行く回。
一本調子になりがちな映子の映画レビューとは違う視点を提供してくれて、読者の感情や見識を良かれ悪しかれ揺さぶってくれる有意義なキャラなんですけど、鉱脈でありながら劇薬でもあって、なかなか扱いが難しい新キャラだなと思ったりします。
作者が思いついちゃって描かずにはいられなかったとでもいうか、映子の「あのセリフ」も含めて本来はこの作品の最終回近くに持っていくべきエピソードだったんだろうな、と少し思ったり。
個人的にはこんなブログやってるにも関わらず、
「自分も『池ちゃん』であることを認めるか否か問題」
は、自分には不思議とあんまり刺さってなくて「こういう人いるよねw」ぐらいなんですけど、なんなんだろう。
メタ批評論というか、レビュー・評論・感想・批評の「フォーカス型」と「外縁情報型」と「自分語り型」の対比で言えば、どれもあっていいし、「考察型」やら「研究型」やらの他の手法も含めて、作品内容に応じて複数こなせる引き出しが多い方が読み物として幅が出るなあ、と思います。
江波みたいな「自分語り型」は1キャラにつき「チャンスは一回!」なとこあるので、エピソード(記事)の量産には不向きなんかな。
あとはまあ、相変わらず映子と部長の(というより部長の一人相撲の)ラブコメ要素がチャーミングなので、
この漫画を畳んだ後は、ちょっと本気出したラブコメ描いてくんねーかな、と思ったりします。
変化球投手に160kmのストレートを要求するようでアレなんですけど。
ここまでこの記事、諸々コミで3,400文字ぐらいらしいです。
やー、一映画作品に対して衝動や情熱を言語化して語りたいことが8,000字分湧いてくるなら、それはそれで資質だよねえ。
未熟さ故に笑われても侮られても、恥を飛び越えて語りたいことってあるし、好きな作品を語ることで生きていけたらなあって、俺もそう思うよ。
aqm.hatenablog.jp