この章は昨年3月に書いていた東京オリンピックに関わる個人的感傷の続編である。東京オリンピックどころかパリオリンピックすら終わってしまい旧聞に属するとすら言えない感もないではないが、自分自身の思いに決着を付けたくて、パリオリンピックの間に再開し書き続けようやくまとまったものである。本章を読んで興味を覚えた方がいたら前章を合わせて読んでいただけたら幸いである。
(承前)
もし東京オリンピックが何事もなく令和2年に開催されていたなら、自分は過去のオリンピック同様にさほど強い関心を示さず、好きなサッカーの結果に一喜一憂をするかもしれないが、概ね社交上の話題程度の感覚になったと思う。しかし、コロナ禍による延期と、その後の開催是非をめぐる政治動向を見ていて考え方が全く変わってしまった。
そして結論から言う、ワクチン接種と東京オリンピックの開催、この二つの実施を僕は強く支持していた。そして、その支持理由が、正に自分自身の政治的立場或いは思想とも言っていいが、政治的思惑、権力闘争の具として公衆衛生の問題とスポーツの問題を使ってはいけない、という考えに触れたからであった。
実は今まで自分のブログで政治的な話題、特に国内政治に直接関わる話題の言及は避けてきた。もちろん一人の人間として政治情勢への関心がないわけではないが自分の考えや政治的思想を誰かに広めたり共感してもらいたいという気持ちは全くなく、ブログの世界では人々の営み、新しきもの、古きもの、それぞれへの関心、また、自分の生きてきた中での出会いについてーそれは必ずしも人との出会いだけではないがーその場で自分自身が感じていたことを確かめることで自分自身の中にある、或いはかつてあった葛藤を昇華したいとの気持ちの方が遥かに強いからである。ただ、この2点について書くとなると自分に考えそのものが政治的色彩を帯びてしまうのは避けられない、それでも自分自身の問題として書くべきか、の迷いがあった。それもこの章が長きに亘り中断していた理由の一つでもあった。
オリンピックの延期が決まった令和2年3月頃、僕もまた担当していた仕事の件で強い怒りとやるせなさの中にいた。最終的には年末の退職に繋がっていくのだが、その時の状況では東京オリンピックの延期が決まった瞬間はそもそも自分もまたコロナ禍の対応に追われていた中なのでその決断に思いを馳せる余裕は全くなかった。世相としても政治の問題ではなく安全の問題として延期は止むを得ないものとして捉えられて世論が分断されることもなかった。コロナ禍で街自体が事実上封鎖されるような状態では開催することなど考えることすらできなかった。
しかし風向きが微妙に変わってきたと感じたのは年が明け、改めて開催するか否かが現実の課題となった頃からである。そして現実的な課題、と今書いたが、この言葉の含意をあからさまに言えば政治的な思惑が入り込む世界が始まったという感想が自分の意識に登り始めていた。
その頃、自分は新しい職場での生活を始めたばかりだが、リモートワークの日々とはいえ新しい仕事に慣れるのに汲々としていて余裕などほとんどなかったが、このコロナ禍におけるワクチン動向とオリンピックの行方だけは主にTwitterを通じてフォローし続けていた。
なぜなら、ワクチン接種のような公衆衛生、或いは人の生命に関わるものについて安全性やある種の宗教的な立場から議論は行われることについて異論はないが、自民党支持だから賛成すべきだ、共産党支持だから反対すべきだと言うのは全くナンセンスで、医学的、或いは生理学的な見地やそのワクチン接種のロジスティックに関わる面について行政、或いは国際関係として議論されるべきだと考えていた。実際、過去、麻生内閣の時だったと思うが、「臓器移植法案」が国会で採決された時、医学や生命の判断に党派性は馴染まないという考えで与野党が一致し、議員のみならず行政の長たる総理大臣、閣僚も含めて全て個人の考えで審議結果に対して投票が行われたと記憶している。これは国会史上に残る叡智に満ちた判断であったと思うしコロナ禍におけるワクチン接種についても本来であればそのように扱われるべきである、そう考えていたからだ。
それに比べるとスポーツ、特にオリンピックは様相が異なる。言うまでもなくオリンピックは決まるまでも、決まってからもその運営は国家の意思であり権力行使そのものである。それは開催する国だけではなく参加する国全てが大なる小なり、それぞれの思惑があって参加している。そして、その政治性に対する嫌悪感故に自分自身がオリンピックを忌避してきたことを前の章で書いていたわけである。無関心であること、それがスポーツと政治が交差しているオリンピックに対する自分の心情であり信条であった。
しかし、そのオリンピックの開催是非が否応なく政治の風景として自分の目の前で展開していく、最初は戸惑いと反吐が出る思いで見ていた。ただ自分の心の中で波がさざめくことが一つあった。それはこの東京オリンピックに参加する選手たちの年齢である。スポーツ選手の最盛期は20代、50代半ばの自分にとって正に子供たちの世代、素朴に彼らの活躍を見たかった。親の世代として子供たち世代の生命力溢れる躍動を見たかったし、彼らの夢が潰れ無念の思いに暮れる姿を見たくなかった。特に日本人の20代にとってコロナがなければ東京オリンピックは自分たちの世代の青春を寿ぐような祝祭でもあるし、生まれてこの方閉塞感に囚われてきた世代にとって待望久しい自分たちの輝く時間でもある。その彼らに開催中止という決定で世代的な挫折感を抱いて欲しくなかった。そして、親の世代としては、個人はともかく世代として社会運営の中心である我々が彼らの輝く舞台を用意できる、それはそれで幸せな機会であるし、前回の東京オリンピックに間に合わなかった世代であった自分たちが当事者としてオリンピックに関わることができる機会でもある。政治的思惑で親の世代と子の世代の夢の実現を壊すなど言語道断、そのように思い始めてさえいた。
さらにもう一つ、これはコロナ禍の中の開催だから、と言うこともあった。開催することが政治的主張であるオリンピック、それは国内政治よりも国際政治的により顕著であった。それらへの違和感を繰り返し述べてきたわけだが、コロナ禍という特殊な空間、開催が危ぶまれる状況、逆に言えばパンデミックという全球的危機という特殊な時空が故に開催することが唯一にして最大の目的となり、その結果として国際政治の対立から解放され、オリンピックの精神の具現、いかなる差別も伴うことなく友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあい、それは結び合う五つの輪に象徴される通り普遍且つ恒久であり五つの大陸にまたがるもの、そしてその頂点に立つものとしてのオリンピック大会、それが実現できる、またとない機会ではないか。そして巡り合わせとはいえ、その地と時代に邂逅した我々、日本人としてそれは開催すべきものだし、無事に開催することで世界に平和と安定が戻りつつあることを訴えるべきではないか、そう考えていたのである。
結果としての東京オリンピック2020がどうだったかについては、人それぞれの感覚もあるだろうし、特にその次であるパリ2024も終えた今となっては、その比較という視点がどうしても付きまとう。自分自身の感覚で言えば、それはパリとの比較というより2020年、2021年との比較、或いは今後の情勢についてロシアのウクライナ侵攻とイスラエルとハマスの衝突がもたらしている世界的な分断を目にしている現在、東京大会のように5つの輪を結び合わせるという気持ちで開催できる大会はしばらくないであろうし、また参加国として旧に復することはあると思うが、恩讐を超えた精神に至るのは相当な世代を経過しないと無理ではないかと思う。その意味で東京大会は一つの奇跡が実現した大会であり、その奇跡を実現したという希望の記憶を残せた大会、戻るべき世界の記憶を残せた大会、大げさで身贔屓かもしれないが、そう思うのである。
最後に東京大会そのものの個人的な記憶として挙げておきたいことがある。それは開会式のある瞬間である。その瞬間になんとも言えない勝利感、感動が身体を駆け巡った。その瞬間とは、あらゆる音楽の中で自分の最も好きな楽曲、斉藤高順作曲小津安二郎監督「東京物語」の主題曲が流れてきた時だった。
この物悲しくも朝焼けの陽が差し込むような明るさを感じさせる旋律、戦争を引きずりながらも日々の生活の中で生まれていく新たな感情、薄れゆく記憶と新たに生まれ紡がれて行く記憶を重ね合わす物語にこれ以上なく寄り添う音楽、聞くたびに、一瞬にして泣きたくなるような物悲しさと日々を生きていける喜びを感じる曲。
この素晴らしい曲が東京オリンピックという場で流れ、世界の人々に共有されたこと、更に東京物語は昭和28年、講和条約翌年の作品である。戦前戦中戦後という時代から脱却しようとしている時代、その時代を呼び戻す曲の選択は正にポストコロナで再び平和と交流の記憶を積み重ねる時間よ戻れ、という希望の象徴とも感じたためであった。
国威の発揚のためだけでもなく、今生きている世代の自己満足のためだけでもなく、過去と未来、全て無常の世の中、残していくべきもの、続けていくことの価値とその根本精神とは何か、そんなことを感じたことが自分にとっての東京オリンピックであった。
ちなみに今回の写真群、建築物は前回、昭和39年の東京オリンピックの象徴ともいうべき代々木オリンピックプールを設計した建築家、丹下健三が香川県高松市に残した作品である旧香川県立体育館、香川県庁舎、その丹下建築群に同じ高松市内で並び称され建築当時は西日本1番の高さを誇った114銀行本店、いずれも戦後モダニズム建築の傑作と言われるビルである。そして最後の一枚のみは日常生活の象徴としてJR四国、高松駅の風景を持ってきた。