もう一度逢いたいあの車輛たち
人気ブログランキング | 話題のタグを見る

令和6年10月26日

令和6年10月26日_a0322896_16562542.jpg

















今、30歳以下の世代の方々が羨ましいな、と思うことが一つある。それは15歳の春を寿ぐ世代共通の歌を持っていることだ。

アンジェラアキ「手紙」
今 負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな僕は誰の言葉を信じ歩けばいいの?
一つしかないこの胸がなん度もばらばらに割れて苦しい中で今を生きている

この15歳の問いかけに対して大人の自分がこのようにリフレインを返している。
今 負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな時は自分の声を信じ歩けば良いの
大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど苦くて甘い今を生きている、と。

そう15歳から見れば勝手なことばかり言ったり気ままに生きたりしているように見える大人たちも、数限りない眠れぬ夜を過ごしているんだよ。そんな大人たちもなんとか自分の声が聞こえてくるのを待ちながら、あるいは探しながら生きているんだよ。簡単に諦めたり、焦ったりせずに生きていくいんだよ、そういうメッセージを自分たちの脳裏に刻んで卒業できるのだから。

こういった若い心に寄り添うメッセージがどれほど苦境に立った時に自分の心を慰藉してくれるか、その歳までに積み重ねたことと合わせて自分なりの答えを見つけるための応援になるのか、自分ではどうすることもできないと思っている暗闇の中で、あるいは頑張りが効かなくなりかけている状況で支えてくれるものを15歳の時に素晴らしい贈り物として与えてもらえるのだから。

ただ、この曲が身に染みてくるのは15歳では少し早すぎるとは思う。少なくとも自分の15歳はただ鉄道を調べることに夢中で、人生の苦しさどころか青春という気持ちの持つ甘さと苦さすら感じていなかった。自分にそれが訪れたのは18歳、大学に入学した歳だった。
令和6年10月26日_a0322896_10261468.jpg

















昭和60(1986)年10月26日、僕は東京千駄ヶ谷の国立競技場にいた。翌年に控えたサッカーメキシコW杯東アジア地区最終予選韓国戦、ホームでの初戦である。この時、僕は大きな屈託を抱えていた。志望していた大学には入ったものの学校の雰囲気や勉強に中々馴染めず、また、とある雑誌の編集部でアルバイトもしていて、こちらは特に若手の編集部員の方々とは仲良くなり色々なことを喋って楽しく過ごしていたが、基本的には肉体労働に近い仕事だったこともあり、そして自分からそれ以上の仕事をさせてもらうことを訴えるような勇気もなく惰性で流れる日々だった。そんな日々の中で救いはサッカー、特に日本代表の活躍だった。

その年のスポーツシーズン、日本全体で言えば阪神タイガースの快進撃に沸いていたが、野球に余り関心がない僕にとってはそれはただ聞き流していた。かといってサッカーはといえば前年のロス五輪予選に必勝体制で臨みながら初戦のタイ戦で5-2で破れるとそのまま4連敗と全く良いところなく敗退。そんな代表チームに期待を寄せる人など殆どいなかった。正直、自分もそうだった。ただ初戦の北朝鮮戦は高校卒業直後の春休みということもあり、また自分にとっても初めての代表観戦にもなるので見に行ってみよう、程度の軽い気持ちだった。

結論から言うとこの一戦がものすごい試合だった。スタンドには黒ずくめの朝鮮学校生を中心とした北朝鮮の大応援団が日本人を圧倒(事実、観衆25000人で在日応援の方が15000人とも20000人とも言われていた)、ホームなのに「ニッポンコール」すら出すのを憚れる状態。またプレーヤーにしてもフィールドは春雨がやまない中であちこちに水たまりができている。とても国を代表する競技場とは思えない泥んこ状態のグラウンドだった。ただ、そんな状態のグラウンドでも北朝鮮選手の技術は際立っていた。曲芸的なフェイントはないが早いスピードの強いパスを正確につないで日本を圧倒していた。失点は時間の問題ではないか、素人目にもそう映っていた。しかし日本は得点を許さない。走り負けはしない、水溜り故のルーズボールには徹底的に喰らいつく、をしつこく実践していた。日本の先制点はそんなサッカーの結実だった。北朝鮮ディフェンダーのクリアーを中盤の西村がカットしそのままゴール前へ縦パス。水溜りで減速したために北朝鮮守備陣が一瞬虚をつかれセンターフォワードの原がノーマークとなり慌てたディフェンダーのタックルをボールを浮かしてかわし、そのままゴール。「やったぁ」自分も思わず叫び声をあげて立ち上がってしまった。とにかく嬉しかった。その後も試合は一進一退、後半に入り北朝鮮のボールがネットを揺らしたがオフサイドに救われた。その時も我知らず「オフサイド!!」と大声で叫んでいた。結局、虎の子のその1点を守り切りその試合に日本は勝利を収めた。

感動は比較するものではないが、スポーツの試合を見ていてこれほど感動したことはそれまでなかった。躍動する肉体、ボールの動きに対する集中力とひたむきさ、思いもよらないパスの軌跡、ゴール前での緊張感、時に飛び交う怒号、そしてゴールをめぐる歓喜と失望、勝利を願う祈るような気持ち、それが渾然一体となって我々を包みこむ。当時はそんな言われ方をしていなかったが、まさに生きる喜びと勇気をもらった、ここにいれば何か救われるのでないか、国立競技場を後にするとき。そんなことを思い始めていた。こうしてその年、日本代表との旅が始まった。そしてこの旅については以前書いたことがある。

(この項、続ける予定)







# by michikusajinsei | 2024-11-05 09:04 | スポーツ | Comments(0)

昭和62年 野上電鉄(その6)


昭和62年 野上電鉄(その6)_a0322896_08491776.jpg









































また少し間が空いてしまいました。夏風邪から喘息の発作が再発してしまい物を考える集中力が続かなくて停滞していたのですがようやく復活する気力が戻ってきました。

さて、それにしても今年の夏は暑かったですね。風邪を引いたのもあまりの暑さに滅多にしない冷房をかけたまで寝てしまい、その時に身体を冷やしてしまったことが原因のようです。

僕は砂漠地方にも熱帯地方にも年単位で暮らしたことがありますが、ここ数年の日本の気候は砂漠気候に近いですね。多分、漢字の訴える力で熱帯というと焼けつくような暑さをイメージされる方が多いと思いますが、実際の熱帯は日本の真夏日が続いている感じで夜は涼しくなるのです。実際、夜はエアコンなしでも結構、快適に過ごせます。それに比べて砂漠は痛いような太陽光と夜になっても熱気が身体にまとわりつくような感じで、そのくせ、11月ごろになると夕方の日陰では寒いくらいでジャンバーが必要になる按配、住む身にとっては逃げ場のない気候でした。

それはともかく、この写真に映る育ち盛りを想起させるような青々とした稲穂が続きやがて緑陰濃き里山につながっていく風景はまさに日本の夏の象徴のように思います。


# by michikusajinsei | 2024-10-23 20:04 | 野上電鉄 | Comments(2)

昭和62年 野上電鉄(その5)

昭和62年 野上電鉄(その5)_a0322896_10423282.jpg















ちなみに僕がスカパーで契約しているチャンネルは次の5つです。東映チャンネル、衛星劇場、チャンネルNECO、時代劇専門チャンネル、アニマックス、日本映画専門チャンネルになります。それらに限定してという但し書きはつきますけど、やっぱり視聴率を稼ぐためにキラーコンテンンツはあるようで、特に東映チャンネルでは刑事物が多く、あぶない刑事、はぐれ刑事純情派、Gメン75が繰り返し放送されていますね。僕もこれらの番組はよく見ていますが、何度も再放送されるだけあってやっぱり面白いですね。ちなみにこの3つの番組は全て自分が物心ついてから制作された番組ですけど、実際に放送当時に見ていたのは一番古いGメン75のみです。

この作品、タイトル通り1975年、昭和50年に開始された番組で、放送はTBSの土曜午後9時、その年、僕は小学校3年生。普通だったら内容的にも時間的にも子供が見るような番組ではないのですが、この番組の前、8時から放映されていたのがドリフの「8時だよ全員集合」で、それがミソ。ドリフまでは子供の時間で、ここから大人の時間ということでチャンネルを変えずにそのまま、この番組に流れていた家庭が多く、僕の家もそう。夜の9時ともなれば普通だったら子供は寝なさいという時間ですが週末ということで、なんとなく空気も緩んで親子が一緒になって見ていたのだと思います。

ただ見てはいましたが、大人の番組という感触は子供心にも感じられて内容に関しては理解することはできずほとんど覚えていないのですが、唯一、その当時から今に至るまではっきりと記憶しているのは響刑事、紅一点の女性刑事で配役は藤田美保子。有名な空港をGメンたちが歩いてメンバー紹介されるシーンで彼女の登場だけは集中して見つめていたことを再放送を見ていて思い出しました。というか再放送でも息を呑んで見つめてしまいました。思えば初めて女性の色気を感じたのはこのドラマの彼女に対してで、それから約50年経っても、同じように憧れの視線は変わらないのですから女性に対する好みというのは一度定まると、三つ子の魂、変わらないようです。

もう一つ、指揮官役黒木警視、丹波哲郎の重厚さは子供心にも圧倒される思いがあったのですが、当時の記憶はどちらかというと黒幕的に最初と最後にしか登場しない印象だったのですが、今、見ていると結構、陣頭指揮をとっています。これはこれで新鮮な発見でしたし、当時50代半ば、組織を率い指示を下す姿の精悍さと迫力は、正に最前線指揮官の肖像そのもの。自分も含め当節の中高年が失ってしまった「おじさん」といった語感とは無縁な壮年期の男の魅力に満ちています。

内容については結構な長期間放送されていますし取り上げられている題材も多肢に亘ります。ただGメンという国際捜査も標的にした番組ということからか、今見ても攻めているなという印象で、日ソ漁業交渉やベトナム戦争など、現実の政治的な課題が背景にあるようなシナリオの回もあります。もっとも政治的な課題と言っても政治的なメッセージではなく、政治に翻弄された人生の悲劇といった趣の作品に仕上がっているのが、ややもすると政治的に正しいことに汲々としている感がある昨今のドラマとは一線を画していますね。

70年代刑事ドラマの最高傑作と言われる作品ですが、正にその名に恥じない優れたドラマであり、この作品が支持された当時の日本社会の雰囲気も彷彿させる貴重な映像だと思います。

# by michikusajinsei | 2024-08-27 22:40 | 野上電鉄 | Comments(0)

平成28年 香川県(その2)

平成28年 香川県(その2)_a0322896_16192465.jpg















この章は昨年3月に書いていた東京オリンピックに関わる個人的感傷の続編である。東京オリンピックどころかパリオリンピックすら終わってしまい旧聞に属するとすら言えない感もないではないが、自分自身の思いに決着を付けたくて、パリオリンピックの間に再開し書き続けようやくまとまったものである。本章を読んで興味を覚えた方がいたら前章を合わせて読んでいただけたら幸いである。

(承前)
もし東京オリンピックが何事もなく令和2年に開催されていたなら、自分は過去のオリンピック同様にさほど強い関心を示さず、好きなサッカーの結果に一喜一憂をするかもしれないが、概ね社交上の話題程度の感覚になったと思う。しかし、コロナ禍による延期と、その後の開催是非をめぐる政治動向を見ていて考え方が全く変わってしまった。

そして結論から言う、ワクチン接種と東京オリンピックの開催、この二つの実施を僕は強く支持していた。そして、その支持理由が、正に自分自身の政治的立場或いは思想とも言っていいが、政治的思惑、権力闘争の具として公衆衛生の問題とスポーツの問題を使ってはいけない、という考えに触れたからであった。

実は今まで自分のブログで政治的な話題、特に国内政治に直接関わる話題の言及は避けてきた。もちろん一人の人間として政治情勢への関心がないわけではないが自分の考えや政治的思想を誰かに広めたり共感してもらいたいという気持ちは全くなく、ブログの世界では人々の営み、新しきもの、古きもの、それぞれへの関心、また、自分の生きてきた中での出会いについてーそれは必ずしも人との出会いだけではないがーその場で自分自身が感じていたことを確かめることで自分自身の中にある、或いはかつてあった葛藤を昇華したいとの気持ちの方が遥かに強いからである。ただ、この2点について書くとなると自分に考えそのものが政治的色彩を帯びてしまうのは避けられない、それでも自分自身の問題として書くべきか、の迷いがあった。それもこの章が長きに亘り中断していた理由の一つでもあった。

オリンピックの延期が決まった令和2年3月頃、僕もまた担当していた仕事の件で強い怒りとやるせなさの中にいた。最終的には年末の退職に繋がっていくのだが、その時の状況では東京オリンピックの延期が決まった瞬間はそもそも自分もまたコロナ禍の対応に追われていた中なのでその決断に思いを馳せる余裕は全くなかった。世相としても政治の問題ではなく安全の問題として延期は止むを得ないものとして捉えられて世論が分断されることもなかった。コロナ禍で街自体が事実上封鎖されるような状態では開催することなど考えることすらできなかった。

しかし風向きが微妙に変わってきたと感じたのは年が明け、改めて開催するか否かが現実の課題となった頃からである。そして現実的な課題、と今書いたが、この言葉の含意をあからさまに言えば政治的な思惑が入り込む世界が始まったという感想が自分の意識に登り始めていた。

その頃、自分は新しい職場での生活を始めたばかりだが、リモートワークの日々とはいえ新しい仕事に慣れるのに汲々としていて余裕などほとんどなかったが、このコロナ禍におけるワクチン動向とオリンピックの行方だけは主にTwitterを通じてフォローし続けていた。
平成28年 香川県(その2)_a0322896_10161793.jpg









































なぜなら、ワクチン接種のような公衆衛生、或いは人の生命に関わるものについて安全性やある種の宗教的な立場から議論は行われることについて異論はないが、自民党支持だから賛成すべきだ、共産党支持だから反対すべきだと言うのは全くナンセンスで、医学的、或いは生理学的な見地やそのワクチン接種のロジスティックに関わる面について行政、或いは国際関係として議論されるべきだと考えていた。実際、過去、麻生内閣の時だったと思うが、「臓器移植法案」が国会で採決された時、医学や生命の判断に党派性は馴染まないという考えで与野党が一致し、議員のみならず行政の長たる総理大臣、閣僚も含めて全て個人の考えで審議結果に対して投票が行われたと記憶している。これは国会史上に残る叡智に満ちた判断であったと思うしコロナ禍におけるワクチン接種についても本来であればそのように扱われるべきである、そう考えていたからだ。

それに比べるとスポーツ、特にオリンピックは様相が異なる。言うまでもなくオリンピックは決まるまでも、決まってからもその運営は国家の意思であり権力行使そのものである。それは開催する国だけではなく参加する国全てが大なる小なり、それぞれの思惑があって参加している。そして、その政治性に対する嫌悪感故に自分自身がオリンピックを忌避してきたことを前の章で書いていたわけである。無関心であること、それがスポーツと政治が交差しているオリンピックに対する自分の心情であり信条であった。

しかし、そのオリンピックの開催是非が否応なく政治の風景として自分の目の前で展開していく、最初は戸惑いと反吐が出る思いで見ていた。ただ自分の心の中で波がさざめくことが一つあった。それはこの東京オリンピックに参加する選手たちの年齢である。スポーツ選手の最盛期は20代、50代半ばの自分にとって正に子供たちの世代、素朴に彼らの活躍を見たかった。親の世代として子供たち世代の生命力溢れる躍動を見たかったし、彼らの夢が潰れ無念の思いに暮れる姿を見たくなかった。特に日本人の20代にとってコロナがなければ東京オリンピックは自分たちの世代の青春を寿ぐような祝祭でもあるし、生まれてこの方閉塞感に囚われてきた世代にとって待望久しい自分たちの輝く時間でもある。その彼らに開催中止という決定で世代的な挫折感を抱いて欲しくなかった。そして、親の世代としては、個人はともかく世代として社会運営の中心である我々が彼らの輝く舞台を用意できる、それはそれで幸せな機会であるし、前回の東京オリンピックに間に合わなかった世代であった自分たちが当事者としてオリンピックに関わることができる機会でもある。政治的思惑で親の世代と子の世代の夢の実現を壊すなど言語道断、そのように思い始めてさえいた。

さらにもう一つ、これはコロナ禍の中の開催だから、と言うこともあった。開催することが政治的主張であるオリンピック、それは国内政治よりも国際政治的により顕著であった。それらへの違和感を繰り返し述べてきたわけだが、コロナ禍という特殊な空間、開催が危ぶまれる状況、逆に言えばパンデミックという全球的危機という特殊な時空が故に開催することが唯一にして最大の目的となり、その結果として国際政治の対立から解放され、オリンピックの精神の具現、いかなる差別も伴うことなく友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあい、それは結び合う五つの輪に象徴される通り普遍且つ恒久であり五つの大陸にまたがるもの、そしてその頂点に立つものとしてのオリンピック大会、それが実現できる、またとない機会ではないか。そして巡り合わせとはいえ、その地と時代に邂逅した我々、日本人としてそれは開催すべきものだし、無事に開催することで世界に平和と安定が戻りつつあることを訴えるべきではないか、そう考えていたのである。
平成28年 香川県(その2)_a0322896_10135451.jpg















結果としての東京オリンピック2020がどうだったかについては、人それぞれの感覚もあるだろうし、特にその次であるパリ2024も終えた今となっては、その比較という視点がどうしても付きまとう。自分自身の感覚で言えば、それはパリとの比較というより2020年、2021年との比較、或いは今後の情勢についてロシアのウクライナ侵攻とイスラエルとハマスの衝突がもたらしている世界的な分断を目にしている現在、東京大会のように5つの輪を結び合わせるという気持ちで開催できる大会はしばらくないであろうし、また参加国として旧に復することはあると思うが、恩讐を超えた精神に至るのは相当な世代を経過しないと無理ではないかと思う。その意味で東京大会は一つの奇跡が実現した大会であり、その奇跡を実現したという希望の記憶を残せた大会、戻るべき世界の記憶を残せた大会、大げさで身贔屓かもしれないが、そう思うのである。

最後に東京大会そのものの個人的な記憶として挙げておきたいことがある。それは開会式のある瞬間である。その瞬間になんとも言えない勝利感、感動が身体を駆け巡った。その瞬間とは、あらゆる音楽の中で自分の最も好きな楽曲、斉藤高順作曲小津安二郎監督「東京物語」の主題曲が流れてきた時だった。

この物悲しくも朝焼けの陽が差し込むような明るさを感じさせる旋律、戦争を引きずりながらも日々の生活の中で生まれていく新たな感情、薄れゆく記憶と新たに生まれ紡がれて行く記憶を重ね合わす物語にこれ以上なく寄り添う音楽、聞くたびに、一瞬にして泣きたくなるような物悲しさと日々を生きていける喜びを感じる曲。

この素晴らしい曲が東京オリンピックという場で流れ、世界の人々に共有されたこと、更に東京物語は昭和28年、講和条約翌年の作品である。戦前戦中戦後という時代から脱却しようとしている時代、その時代を呼び戻す曲の選択は正にポストコロナで再び平和と交流の記憶を積み重ねる時間よ戻れ、という希望の象徴とも感じたためであった。

国威の発揚のためだけでもなく、今生きている世代の自己満足のためだけでもなく、過去と未来、全て無常の世の中、残していくべきもの、続けていくことの価値とその根本精神とは何か、そんなことを感じたことが自分にとっての東京オリンピックであった。
平成28年 香川県(その2)_a0322896_10162450.jpg















ちなみに今回の写真群、建築物は前回、昭和39年の東京オリンピックの象徴ともいうべき代々木オリンピックプールを設計した建築家、丹下健三が香川県高松市に残した作品である旧香川県立体育館、香川県庁舎、その丹下建築群に同じ高松市内で並び称され建築当時は西日本1番の高さを誇った114銀行本店、いずれも戦後モダニズム建築の傑作と言われるビルである。そして最後の一枚のみは日常生活の象徴としてJR四国、高松駅の風景を持ってきた。

# by michikusajinsei | 2024-08-19 22:03 | Comments(0)

昭和61年 近畿日本鉄道(名古屋線)

昭和61年 近畿日本鉄道(名古屋線)_a0322896_18420870.jpg















ドラマの話、あるいはテレビの話の続きになりますが、相当前に、戦後生まれの区分けとしてテレビの登場を知っている世代、生まれつきテレビがあった世代、そして生まれつきカラーテレビがあった世代ということを紹介したことがあります。

テレビ放送開始が昭和28年、世帯普及率が8割を超えたのが昭和37年です。これもまた以前に申し述べた日本近代6年ひと世代仮説に当てはめれば昭和33年から38年生まれがテレビの家庭保有の有無の境目、つまりテレビの日常化が進行中の生まれで、次の世代、昭和39年から44年生まれが生まれつきテレビがあった世代、そしてそれ以降が生まれつきカラーテレビがあった世代となります。僕はここで言えば生まれつきテレビがあった世代に属するのですが、この時代区分、結構大きな世界観の違いがあるように思っています。端的に言えば未就学の幼児期に日常的にテレビと接していたか否か、そしてその体験が大袈裟に言えばその後の文化潮流の大きな流れに繋がったと考えています。(このことは少し続けたいと思ってます)

# by michikusajinsei | 2024-08-15 09:37 | 近畿日本鉄道 | Comments(2)