行うに難しいことや、どうにも苦手なことがたくさんある。
例えを挙げてみたが、恥ずかしいので消してしまった。
とにかく、期待に反して、たくさんのことがうまくいかない現実がある。
うまくいかないままの状態には納得できない。 困ることもあるし、なにより悔しい。 なんとかして、上手とまではいかなくとも、恥ずかしいと自己評価せずに済むくらいにはできるようになりたい。
重要なもの
xxxが上手にできるようになりたい。
目標にもよるが、大抵の目標を達成することに大きく寄与するのは、センスだと思う。
この目標は達成する価値があるだろうか? この解決方法は目標達成に効くだろうか? そういったことを、膨大な目標や解決方法の選択肢の中から適切に選び取ってやり抜いた先に成功へ導くセンス。 かに見えるセンス。
私の経験から考えると、当の本人が吟味している選択肢はそんなに多くない気がする。 それは、自分に合わない選択肢を予め排除したり、必須の条件を満たす選択肢に特に注目したりするからだ。 そしてこの機能は何らかの形で物理的に実装されていると考えている。
その、センスの良い人が持っているが意識していない、センスが悪い人は意識しているが持っていないフィルターが重要であり、それがセンスなのではないだろうか。
xxxが上手にできるようになるためには、センスが重要だ。
ニワトリタマゴ
練習すればセンスは磨ける。 そういう考えもある。
確かに、センスが良い人は、練習を多く積んできたからセンスを得られたのかもしれないとも思う。 一方で、センスが悪い人は、どんなに練習をしても光るものが見えないこともあるのではとも思う。
練習したからセンスを得たのか、センスがあったから練習が機能したのか。 いったいどちらが先なのだろうか。
個人的な仮説は「何を良いと感じるか(=センス)は、先天的なものであり、その後の環境によって重要度が左右されるものである」だ。
とすると、センスが先ということになる。
私の考えでは、センスが悪ければ、センスの悪い練習になる。センスが重要だと考えるのはそのためだ。
しかしよく考えると、そのセンスが評価されるのは後なのだ。 我々は、生まれた瞬間にセンスの有無を評価されているわけではない。 そもそも、何のセンスがあるかなど、その分野に向かって少なくとも一歩を踏み出さなければ、評価しようがないのだ。
前述した、莫大な練習をしたセンスが悪い人も、後の評価は分からない。
何を良いと感じるか
まだ評価されていないセンスを持っていると、"信じること"か、"信じないこと"か、それとも?
私は。
だから。