そんな夏の夜の翡翠の「十字架」と佛像フィギュアに就いて
そもナゼ今ワタクシが「宗教」のことを語るかと云うにつまりは御盆が近いからなのだ。
よってソノ御盆の準備に毎日忙しく「作文」どころでは無い。
だがわたくしにとりあくまで「宗教」は日日の精神的實践のことであり別に「盆」や「クリスマス」の為にソレが有るのでは無い。
彼はさうして常に「ボーサットゥ」と「👼」の認識を努めて行うだらう壱種の「聖なる」ニンゲンの壱人である。
だがとりあえずは常に「ボーサットゥ」と「👼」の認識を努めて行うとの要するに自称のニンゲンなのでソレは別に御寺や教會の側からさう認定され得るものには非ず。
だがどんな新興宗教の教祖にも多分負けやせんぞ。
さて本日は玄関周りの掃除及びナショナルの掃除機による掃除などを行い頗る疲れた。
ナショナルの掃除機は流石に吸引力が強くこんな感じの物を使ったのは廿年振り位であらう。
ソレは良いがゴミパックを交換し蓋を締めやうとしたところ何と蓋が締まらない。
ソレの不具合をよーく見詰めてみたところどうも設計ミスでありつまりは箸とかの棒を使うとパタンと蓋が締まることが分かった。
さうか、だから今🗾製品ってダメなんだ。
スギ薬局のポイント交換品とは言えアノナショナルがそんなことをやっとるやうではコノ國のモノ造りがもはや危ない。
だからついクレームを言いたくなるがソレも面倒なので掃除の後にシャワーを浴び冷やした自室に籠る。
でもって「十字架」アクセサリーを自作しておった。
またソレが上手く出來た。
特に中華のアロハシャツの上にソノ「十字架」アクセサリーを付ければもはや立派なクリスト教徒である。
そんな十字架はヤフオクで求めた本翡翠製であるがおそらくは染められた石であらう。
だが惡くは無い。
兎に角かうして美しい。
ちなみにネックレスの部分は中華産懐中時計弐つの銀色のものを組み合わせちゃんとシッカリ「十字架」が固定されるやうに拵えた。
さてもわたくしは果たして何教徒なのか?
其れはどう見ても佛陀の弟子であるが實はクリストの認識の方にも屡擦り寄ったりする。
また御寺や教會へは良く出向く。
尤も恥ずかしいので教會の中へは入らない。
だが御寺の場合は公開されて居る場合は本堂だらうがドコだらうがズケズケと入って行く。
要するに宗教論や宗教談義には元元強い部分を持ち合わせて居りよって何ら臆するところが無い。
さらにクリストの認識の方にもまたある意味では精通するのでつまりは臆するところが無い。
だから御寺や教會は自分に取り敷居が高い場所ではそも無くむしろ精神的な意味での憩いの場のやうなものとなる。
だけれども普通の人はまさかソレを両方はやらないので大抵はドチラかをやりむしろソッチの方で固まることとならう。
が、わたくしに取り佛陀とクリストの認識はほぼ両立し得るものであるが故にむしろ何らの疑問も無くソノやうに「両方」をやるのである。
またそんなニンゲンだから何教や何派に凝り固まることなども無くむしろかうして自由に佛陀とクリストの認識の間をば往復するのである。
さて個人的に子供の頃は何故か教會を訪れることが多かった。
1.カブスカウトの會合
2.英會話教室
小学生の頃はソノ弐つのことを同時にやらされて居りよって屡教會を訪れて居た。
尤も昔の話であり今はすでにソノ記憶も定かでは無い。
だがカブスカウトの會合でクリスマス・プレゼントを貰ったりまた英會話教室へ行くと教會の雰囲気が厳かで良かったことなどはいまだ覚えて居る。
また當時親類にもクリスト教徒の伯母が居てソノ人がワタシが通う曹洞宗の幼稚園の先生だったことなどもまたあった。
ソノ伯母は兎に角優しい感じの人であった。
だが自分は當時よりまさに無頼児にてまともに御遊戯をせずにすぐに體育の倉庫に逃げ込むので兎に角伯母は苦勞したことだらう。
兎に角ワタシは當時より「みんなでもってやる御遊戯」が此の世の中で壱番嫌いなことだった。
アアだから今でも「みんなでもってやる全體主義」のことを毎回飽きもせずにかう批判して居るのか。
兎に角クリスト教徒の人は少し違うー普通の日本人とはー気が當時よりして居たものである。
でもって廿代前半の頃に瑞穂グラウンドの横の松林に「聖書壱式」が捨てて有ったのでナゼかわたくしはソレを拾って來た。
ナゼナラソレはさうして「捨てて」あるべきものでは無くむしろソコから學ぶべきものでこそあったのだから。
だから汚いとかそんなこととは関係が無いのでありソレはつまりは「御経」と同じモノなのでありさうぞんざいに扱われるべきものでは決して無い。
現在わたくしが半分クリスト教徒なのはむしろソノ出來事が大きかったのではないかと思われる。
いずれにせよ所謂西洋近代はソノクリスト教と共に歩んで來た。
ソコはまた佛教徒がどう言おうが確かな歴史過程となる。
だがクリスト教は所謂終末論者であることを我我🗾人はちゃんと知って居るのか?
我我🗾人は御盆とクリスマスを同時にやる明らかに變な民族ですがまあソレはワシなどもさうか。
アナタにはソノ首から十字架をかけて御寺へ行く度胸がありますか?
さうですねえ、もうそろそろ御寺へ御布施を持って行くのですがソノ折にコノ恰好ですと多分變ですねー。
あっ、またワザとソレをやらうとして居るな、君は。
もしや君は御寺でもってクリストの認識を、また教會でもって佛陀の認識をこそ語りたいのではないか。
また良くぞソコ迄分かりましたね。
だけどもうほんたうにびっくらこくのではないですかね、こんな翡翠の十字架を首から下げたアロハシャツの漢がイキナリ寺に現れては。
いいえでも説法の基本は佛陀にせよクリストにせよむしろ何ら變わりはしない。
佛陀にせよクリストにせよむしろ壱番言いたいことがつまりは「脱ヒエラルキー」であり且つ「脱イデオロギー」なのだ。
でも正しい認識力に欠けるアナタ方ニンゲンにはソノことがついぞ伝わらぬだけなのだ。
讃美歌312番「いつくしみ深き」 明治学院大学 (youtube.com)
「神」かまたは「佛」の認識は心の汚れから逃れられぬニンゲンに取りむしろ「絶對的」に必要なものとなる。
南山教会の鐘の音 at night (youtube.com)
【南山大学創立75周年】南山大学創立75周年記念式典・記念講演会ダイジェスト動画 (youtube.com)
わたくしの父はコノ独逸カトリシズムの南山大學の出身者であった。
さりとて父はクリスト教徒では無く単なる浄土真宗信徒の壱人であった。
わたくしは母方の祖父が佛法の在野の研究者であったこともあり若い頃より宗教に就き研究を進めて來た。
だがワタシの研究はあくまで自己流なので普通とはちょっと外れて居るのかもしれん。
でもワシはやったぞ!
かうして四拾年程をかけ全部をやって來たぞ!!
勿論佛教學や禅學の方などもちゃんと履修して居る。
また僧侶とは屡法論を交えることなども可能なのだ。
だがソレとはまた別にわたくしはクリスト教をもまた志向する。
なんとなればクリスト教には何より「救済」の力が認められるが故に。
だけれどもクリスト教で無ければ救われぬとかさう云う話なのでは無い。
勿論佛教であれまたイスラーム教であれ「救済」の力が認められぬ訳には非ず。
さて問題はそんなことを言う人がまず宗教學者や宗教家に居ないことであらう。
だから誰しも「コレ」が壱番です、とさう述べる。
また新興宗教の教祖はウチの団體こそが壱番です、とさう述べる。
だがソレはそも誰が決めたの?
ソレはそもおみゃーが決めたことでワシの結論とはまるで違う👽の意見のやうなものぞ。
だから兎に角彼宗教詩人はドコの宗教組織にも今属して居ない。
なのでむしろ物凄く批判的に宗教のことを見詰められる。
そんな宗教詩人がたった今見詰めるのが「クリスト教」と「原始佛教」である。
尚「原始佛教」に就いては四拾代に凡そ拾年程をかけ勉強した経緯がある。
現在よりももっともっと眞摯な思いでもってソレをした覚えがある。
「原始佛教」とは本質的に違うがソレに比較的近い「禅宗」のことも當時何かと學んだりもしたものだった。
密教や浄土教などの所謂大乗でのアレンジされた佛法の流れに就いてはほぼ學んでは居ない。
されど其れも参拾代の頃に所謂山岳宗教に縁しよって密教系の啓蒙書を読み漁ったことなどがあった。
さらに五拾歳頃にソノ浄土教はアレンジされたクリスト教であることにハタと気付いた。
さて信仰の對象はあくまで「自力」で選ぶものでありソレは「世襲」でもまた「勧誘」でも無いのである。
自己の精神が欲するもの、まさにソノ教えこそがまさにアナタを救う教えとなる。
では「エホバの証人」とか「幸福の科学」だとかそんなものでも最終的には良いのか?
まああんまり御勧めは出來ないが其れ等が絶對に惡いともまた言えぬことだらう。
じゃあ禅宗なんてアノ「一休 宗純」などはもう滅茶苦茶な破戒僧でどう考えても地獄へ堕ちる僧だぞよ。
いやでも壱休さんは全部を分かった上でむしろ其の事をやって居ますのでね。
でも世俗の者はコノ社會が何せ欲望を垂れ流しますのでさう云うのとは是非心理的に距離を置くべきです。
ですので佛法ですと矢張り禅宗、ソレにクリスト教ですとカトリシズムの世界こそが個人的に志向すべき認識世界となる。
いやあでもコノ翡翠の十字架はなかなか良く出來た🌸。
もしやアナタはソレを毎日身に付けるのか?
まあ家の中に居る時には。
逆に御寺へ行く時にはボロボロの服を着込んで行かうかとさうも思う。
ボロボロの服=糞掃衣ー糞掃衣(ふんぞうえ)とは | やすらか庵 (yasurakaan.com)
でもアナタ例えば死ぬ時にドチラの考えでもって死んで行く御積りなのか?
いや両方でもってイクことでせう。
はあー、ソレで良いんですかねえ。
はい、ソレで良いのです。
はて佛陀とクリストの考えが混ざるともしや浄土眞宗化しませんか?
いやだから混ぜないやうにこそして居るのです。
さう両方をやりしかも混ぜない。
うーん、どうも分からん。
そもさうカンタンに分かってたまるか。
うわあああー、たった今地球が危ない!!!
たった今地球が危ないのでもはや佛陀か又はクリストに御縋りする他は無し。
でもイイじゃないですか、さうパソコンの前に佛像フィギュアを置きさらに首から十字架をかけて居るのだから…。
さうか、むしろコノやり方こそが最強としての宗教的實存の様であったか。
すると御盆の時には佛像フィギュアと御話し東山植物園ではこんな翡翠の十字架を付けて歩むのですね!
まあさうでせう、ついでに帰りに南山教會の横を通り帰りますのです。
ですが誰もソノコトには気付かない。
ソレにしかと気付いて居るのはむしろボクだけでせう。
アア聖なるコノ夏の日日よ。
そんな十字架と佛像フィギュアとがごっちゃになり駆動されるだらう我が精神世界よ。
アナタ方はソノ聖なる精神世界のことを何も知らぬ。
知らぬ侭に歩みさう貪り老い死んでいく。
そんな夏の夜の神秘として記載される壱つの精神のあり方に就き本日語らせて頂きし所存である。
ー讃美歌、聖歌集ー
プロオペラ歌手 秋本悠希が届ける「讃美歌312番 いつくしみ深き」 (youtube.com)
プロオペラ歌手 秋本悠希が届ける「賛美歌320番・主よみもとに近づかん」 - YouTube
プロオペラ歌手 秋本悠希が届ける「神ともにいまして God be with you」 賛美歌405番 聖歌337番 - YouTube
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