2024-06: 新古代史の散歩道
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多紐式文鏡2024年06月01日 10:11

多紐式文鏡(たちゅうしきもんきょう)は円形の銅鏡で鏡背に中心を外れて2または3の紐がつくものである。

概要

中国の遼寧省・吉林省、朝鮮半島の青銅器文化に特徴的な銅鏡である。鏡面は緩やかな凹面であり、縁は断面蒲鉾形であり、内側全面に幾何学文(鋸歯文)を配す。 文様線の太さにより細文鏡と粗文鏡に分類される。 梅原、後藤守一は細文が先行し、粗文は模倣鏡とした。その後、遼寧省出土の粗文鏡と銅剣の共伴、横城講林里の細文鏡と細形銅剣の共伴、銅剣の編年観により粗文鏡から細文鏡に移行することが判明した。宇野は単位文様という新たな概念を提唱した。宮里(2001)は鏡を5段階に分け、1段階、2段階で多鈕粗文鏡、3段階で多鈕細文鏡が現れるとした。 鋸歯文の精粗により多鈕粗文鏡は石型、多鈕細文鏡は土型で製作された。技術的な進化が見られる。中国鏡は姿見のようとであるが、日本では呪具、祭祀に使われた。

日本

日本ではこれまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の10遺跡11面の出土例がある。1913年、山口県梶栗浜で発見されたのが最初である。 須玖タカウタ遺跡で20185年5月、国内最古の多鈕細文鏡の鋳型が出土した。国内最古の青銅鏡鋳型であり、国内の青銅鏡生産の開始時期が2000~150年さかのぼった。多鈕鏡は国内に最初に流入した青銅鏡で、従来、朝鮮半島製とされていたが、今回の出土で国内での生産された可能性が高い。

考察

出土

  • 双鈕細線鋸歯文鏡 - 奈良県御所市名柄出土、弥生時代・前4~前1世紀 東京国立博物館
    • 大正7年(1918年)、溜池工事で偶然に発見された

参考文献

  1. 杜超(2020)「中国東北部から出土した多鈕鏡について」岩手大学平泉文化研究センター年報 8、pp.31-46
  2. 宮里修(2001)「多鈕粗文鏡について」史觀 (144), 65-84
  3. 「須玖タカウタ遺跡:国内最古の青銅鏡鋳型」毎日新聞、2015年05月27日 20時38分

明治大学友の会特別講演20242024年06月02日 22:38

明治大学友の会特別講演2024(めいじだいがくとくべつこうえん)は令和6年6月1日に開催された石川日出志文学部教授による特別講演である。

概要(講演要旨)

  • タイトル:「弥生時代を見直す-70歳の視点」
  • 講師:石川日出志(明治大学文学部教授)
  • 開催日:2024年6月1日(土)
  • 会場:明治大学アカデミーコモン 308F教室
  • 要旨 2025年3月で定年退官される石川日出志教授による弥生時代研究の3つの視点に関する講演である。いずれ出版される可能性もあることから、論証の各論点を逐語的に詳しく要約することはせず、ここでは石川教授講演の3つの論点の主要ポイントを示す。 ただし逐語録的メモはとっていないので、誤りがあればブログ筆者の責任である。

問題意識

明治時代に作られた学説・定説がその後の考古学的事実の発見にも関わらず、見直しがされていない場合が多い。発掘されたデータに基づいて学説・定説をしっかり再検討することが必要である。

「東日本弥生文化特質論」を批判する(論点1)

どの地域も歴史学的には等価であるとの認識が出発点となる。東日本だけに固有の弥生文化は存在しない。 設楽博己は弥生時代文化の三段階発展説を唱える。

  1. 第一段階 縄文系弥生文化
  2. 第二段階 環濠集落と低地開発
  3. 第三段階 鉄器の普及、首長墓の形成

実際には各地の文化的伝統は縄文時代から弥生時代へと連綿と続いている。その証拠に縄文文化由来の伝統は九州から東北まで列島全体に認めることができる。 例として九州に見られる「頸部・腹部の突帯」は縄文時代からの伝統であると指摘できる。また環濠集落と首長墓の形成は果たして大陸系弥生文化といえるのであろうか。

「銅鐸近畿形成説」を批判する(論点2)

弥生時代を代表するといわれる銅鐸は近畿圏で形成されたというのが明治時代からの定説となっている。小林行雄(1959)は九州には銅鐸はなく、近畿圏に集中し、九州は銅鉾・銅戈・銅剣が出土し、東日本は有角石器文化圏であると説く。しかし最近のデータを再検証するとこの定説に疑問が生じる。高倉は1982年に「銅鐸九州形成説」を唱えたが、佐原真により潰されてしまった。佐原は「銅鐸近畿形成説」を自明と見ていたが、考古学的な発見を銅鐸の形成過程を近畿圏だけで考えるのでは無く、形式学に基づく発展過程について綿密な考察が必要である。菱環紐式銅鐸の形成要素は3つある。

  1. (1)断面菱形の紐、
  2. (2)横帯文、
  3. (3)大型化

(1)と(2)は畿内で形成されたものではなく九州に祖型が見いだされる。(3)は九州から伝搬後に畿内で発展したと見られる。 今後の方向性として、朝鮮半島(韓半島)の青銅器文化の日本列島での受容の過程を形式学の観点から体系的に考察すべきである。

「邪馬台国所在地論争から「東アジアの中の倭国」論へ」」(論点3)

邪馬台国所在地だけに労力を集中するのは得策ではない。 『魏志倭人伝』の情報の精度を見極めるべきである。情報の精度には3種別がある。

  1. 信頼性高い・・・詔書と外交記事
  2. 信頼性中度・・・帯方郡使の直接見聞
  3. 信頼性不明・・・伝聞情報(現地の地理交通情報を含む)

北部九州では奴国・伊都国の発掘により、『漢書』『後漢書』などの遣使記事と対応する。 伊都国では発掘により「一大率」の津が見えてきている。伊都国と奴国とではどちらが優位か、『魏志倭人伝』では伊都国優位に読めるが、考古学的には奴国が優位である。面積、人口をとっても奴国が優位である。 中国史学者で早稲田大学教授の渡邊義浩は「如刺使」の記事だけで女王国は九州以外と断定できるとしている。女王国が九州にあれば、「司隷校尉」と書くところである。頷ける意見である。 弥生時代の階層化から古墳時代における階級的序列への転換には中国文化の影響(西嶋定生(1961))があるのではないか。 『魏志倭人伝』だけを調べても「邪馬台国時代」は分からない。邪馬台国所在地論争はもはや不毛である。初期倭国の考古学を議論新しなければならない。

考察(当ブログ筆者による)

「東日本弥生文化特質論」は北九州から東日本へと文化が伝搬したという考え方であるが、山内清男といえども弥生文化は「大陸系の文化要素」、「縄文系の文化要素」、「固有の要素」の3つから成り立つと論じている。「大陸系の文化要素」は論じられているが、弥生時代の縄文系の要素は深くは論じられていないようにみえる。東日本だけに縄文文化の伝統が残るとは言い切れないのではないか。ちょうど明治の文化に江戸文化が色濃く残るように、弥生文化にも縄文時代の文化的伝統は残っているに違いない。 邪馬台国所在地論争より重要な問題がある。そろそろ所在地論争を横に置き、草創期倭国の国の統治体制の形成過程と内部構造を議論する必要がある。 いつも通り全体として説得力があり、興味深い講演であった。

参考文献

  1. 設楽博己(2017)『弥生文化形成論』 塙書房
  2. 設楽博己(1959)「縄文系弥生文化の構想」『考古学研究』47(1)
  3. 高島洋彰(1982)「朝鮮小銅鐸から銅鐸へ」『月刊考古学ジャーナル』210
  4. 小林行雄(1959)『古墳の話』岩波書店
  5. 渡邉 義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社
  6. 西嶋定生(1961)『古墳と大和政権』『岡山史学』10
  7. 石川日出志(2010)『農耕社会の成立』岩波書店
  8. 石川日出志(2022)「弥生時代を見直す-70歳の視点」講演レジュメ

磐余2024年06月04日 00:15

磐余(いわれ)は現在の桜井市南部から橿原市東池尻町にかけての地域の古い地名である。

概要

古代ヤマト王権の根拠地として、磐余稚桜宮(履中、神功)、磐余甕栗宮(清寧)、磐余玉穂宮(継体)、磐余池辺雙槻宮(用明)などの諸宮があったと伝わる。さらに『上宮法王帝説』には、磐余神前宮(崇峻)が伝わる。敏達の訳語田幸玉宮は磐余訳語田宮ともされる(『帝王編年記』『扶桑略記』)。郷土史家の栢木喜一氏「桜井風土紀」によれば、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地が磐余であるとする。 五世紀前半から六世紀にかけて磐余は大和政権の中枢の地であった。

日本書紀

日本書紀巻第十二 履中天皇

  • 元年春二月壬午朔、皇太子即位位於磐余稚櫻宮。
  • 二年 十一月、作磐余池。
  • 三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。
  • 三年冬十一月 於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、?爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之?也。

日本書紀巻第廿一 用明天皇

  • 九月甲寅朔戊午、天皇?天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。

磐余池

履中二年十一月条に「磐余池を作る」と記されている。池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が現在も残る。橿原市東池尻町の御厨子神社付近に磐余池があったとする説が有力である。橿原市東池尻町小字「島井」には版築された堤があり、発掘調査でも古代の池と確認されている。磐余池は12世紀13世紀頃に埋没して耕作地になったと考えられている。「磐余池」の一部とみられる6世紀の人工池の堤跡が見つかり、2011年12月15日(木)、橿原市教委が発表した。粘土で盛り土された高さ約2メートル、長さ約80メートル分の堤跡が見つかったもので、堤全体の規模は高さ3m以上、全長330mと推定され、川をせき止めるダム式の人工池としては、7世紀前半の狭山池(大阪府大阪狭山市)より古く日本最古のダム湖とされる。

万葉集

大津皇子の歌に万葉集巻3-416がある。

  • 大津皇子の、死されしときに、磐余の池の堤に流涕して御作りたまひし歌一首
  • ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
  • 右は藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり 大津皇子は天皇の崩御後、皇太子の草壁皇子に謀反を企てたとして死を命ぜられ、自殺したとされる。「雲隠る」は、死ぬという意味。当時24歳の若さで無実の罪を着せられ処刑されることになった大津皇子の辞世の歌である。佐竹昭広・山田英雄他(2013)によれば、 「雲隠る」は人を尊敬してその死を間接的に表す敬避表現のため、自らの死使うのは適切ではないので、大津皇子の周囲の人物が読んだ歌が伝承されたと推測する。 息子の草壁皇子に皇位を継がせようとした鵜野讃良皇女(大津皇子の叔母、後に持統天皇)が罪を着せた。磐余に大津皇子の宮(訳語田(おさだ)の宮)があったと推定されている。

考察

大津皇子の宮は万葉集で訳語田の宮とされるので、敏達の訳語田幸玉を転用したのではないだろうか。

参考文献

  1. 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 「万葉集に登場「幻の池」か」日本経済新聞、2011年12月15日

武烈王陵2024年06月05日 09:40

武烈王陵(ぶれつおうりょう、경주 무열왕릉, 태종무열왕릉비)は大韓民国の慶州市にある新羅の第29代王太宗武烈王の王陵である。「慶州武烈王陵」ともいう。

概要

統一新羅時代の661年に没した。在位は654~661年。 日本では飛鳥時代で、中大兄皇子称制が招請した年である。白村江の戦いの2年前であった。 直径36.31m、周囲112m、高さ13mの円墳である。東方には陵碑があったとされる。陵碑は失われ、亀跌(きふ)と螭頸(ちしゅ)だけが残る。亀跌の四方に礎石が遺存する。 復元されている。螭頸に武烈王の二男の金仁問が書いた「太宗武烈大王之碑」の8文字を陽刻する。陵碑は唐も影響を受けた形式である。発掘調査はされていない。

業績

本名は金春秋である。諡号は武烈である。唐と連合して百済を併合し、統一のための基盤を整えた。

日本書紀

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (三年 )新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。

日本書紀卷第卅 持統

  • (二年)若言前事者、在昔難波宮治天下天皇崩時、遣巨勢稻持等、告喪之日、翳飡金春秋奉勅。

考察

金春秋は日本書紀に登場する。

アクセス等

  • 名称:武烈王陵
  • 所在地:大韓民国慶尚北道 慶州市 西岳洞 842
  • 開館時間:3月~10月9:00~18:00、11月~2月9:00~17:00
  • 展示:年中無休
  • 交通:

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 三池 賢一(1968)「金春秋の王位継承」法政史学20、pp.113-124

扶余豊璋2024年06月06日 21:01

扶余豊璋(ふよほうしょう、풍장、生没年不詳、在位660年9月から663年8月)は百済の最後の王子である。 日本書紀では「余豊璋」、「余豊」、「豊璋」、「豊章」などとする。『三国史記』では扶余豊、『旧唐書』は扶余豊/余豊とする。「余」は姓で「扶余」の略である。「豊王」ともいう。

概要

百済の最後の王である義慈王(의자왕)の5男とされる。 日本書紀によれば、631年(舒明3年)に子の余豊璋を人質として日本に送り、両国の関係の強化を図ろうとしたとされる。倭国にいる間に養蜂を試みたという。『三国史記』には人質と書かれていないので、人質ではなかったという説もある。 百済の義慈王が敗戦した後も、百済の地方軍と領土は大部分が健在であった。百済復興運動の指導者・鬼室福信は、百済復興のために豊璋の送還を求めた。661年(天智1)年、倭国は5000人をつけて豊璋を衛送したとされる。663年6月、百済王豊璋と福信とは不和となり、豊璋は福信を斬殺してしまった。 663年、百済は唐・新羅の連合軍と戦って敗北し、完全に滅亡した。豊璋は数人と舟で高句麗に逃げたとされる。668年、高句麗の滅亡後は唐に捕虜として送られ、流刑になったとされる。 『日本書紀』は豊璋が即位下と記すが、「三国史記」「三国遺事」は豊璋を正式の王と認めていない。

業績

日本書紀

日本書紀卷第廿三 舒明

  • (三年春)二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。
  • (大意)舒明3年2月掖玖の人が帰化した、3月百濟の義慈王は豊璋を人質とした。

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (白雉元年)以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。
  • (大意)白雉が現れたため改元した。左右大臣らは宮門外に並び、粟田飯虫ら4人は雉を乗せた輿を持ちそれを先頭とし、左右大臣、百官、百済の豊璋、その弟の塞城・忠勝、高句麗出身の醫毛治、新羅出身の侍學士を従えて進んだ。

日本書紀巻第廿六 齊明

  • (二年冬十月)又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。
  • (大意)
  • (六年)冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
  • (大意)百済の佐平・鬼室福信は佐平・貴智を遣わし、「唐と新羅は王とその妻、子の隆、佐平千福らを唐に捕虜として連行した。しかし百済は人々を呼び集めて再興しようとする。そこで皇子の豊璋を迎えて国王としたい」と述べた。斉明は百済を助けたいと述べた。皇子豊璋と叔父の忠勝を送った。ある本には(斉明は)豐璋を王とし、弟の塞上を助けとし、送り出したとする。

日本書紀巻第廿七 天智

  • 九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
  • (大意)皇太子は長津宮で百濟王子の豐璋に織冠を授け、蔣敷之の妹を妻とした。大山下狹井連檳榔と小山下秦造田來津とに5000の兵を付けて送り出した。豐璋が国に入ると福信は朝政をすべて任せた。
  • 五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。
  • (大意)大將軍大錦中阿曇比邏夫連らは舟170隻を率い、豐璋を百済国に送り届け、豐璋を百済国王に付けた。

考察

631年(舒明3年)の来日は、義慈王の即位は641年であり、それより前の時点での人質は疑問がある。豊璋は百済に戻った後は、即位したのではないだろうか。滅亡した国では資料が残らないので、立証が難しい。 国が滅びるときは、内部の混乱が原因となることが多い。百済もその例にもれない。豊璋が鬼室福信を殺害したのは、百済の滅亡に拍車をかけたのではなかろうか。豊璋は政治力や大局的な判断がなかったと思える。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 金富軾 (1983)『三国史記』平凡社
  3. 高寛敏(1995)「百済王子豊璋と倭国」東アジア研究 (10),pp.53-71

環状配石墓2024年06月07日 23:30

環状配石墓(かんじょうはいせきぼ)は円形に石を並べ、中央に穴を掘られた墓を設けたものである。

概要

中央に墓がないものは環状列石という。河原石や礫を土坑(墓)の中や外に配置した埋葬施設を配石墓という。敷石住居や方形掘立柱建物を伴うものは、祭場とも使われた。縄文時代前期後葉から晩期にかけて登場する。三内丸山遺跡の環状配石墓は直径4mの円形に置かれた石の中央に土を盛っている。

考察

出土

  • 環状配石墓 - 三内丸山遺跡、青森県、縄文時代
  • 環礫方形配石遺構 - 三ノ宮・下谷戸遺跡、神奈川県伊勢原市、縄文時代

参考文献

  1. 葛城和穂(2000)「縄文時代の遺構 - 環状配石墓」三内丸山遺跡XIV 9-12

神戸市埋蔵文化財センター2024年06月08日 00:59

神戸市埋蔵文化財センター(こうべしまいぞうぶんかざいせんた)は西神ニュータウンや市内各地の遺跡や遺物を調査・整理・収蔵を行う神戸市文化財の中枢機能をもつ施設である。

概要

神戸市内には五色塚古墳や大歳山遺跡、吉田遺跡や元住吉山遺跡など、学術的に有名な遺跡施が多数ある。施設の大部分を公開し、埋蔵文化財を通して神戸の歴史を知ることができる場所である。約160万年前のアケボノゾウが復元展示される。高塚山1号墳の横穴式石室を展示する。

展示

  • 常設展示室(2階)
    • 神戸で発見された遺物が約700点展示される。
    • 土偶 長田神社境内遺跡、縄文時代晩期末~弥生時代前期初め
    • 縄文土器 都賀遺跡、約8000年前の縄文時代早期の押型文土器
    • 石斧 市内各遺跡、縄文・弥生時代
    • 青銅鏡 松本遺跡、弥生時代後期
    • 北青木銅鐸 北青木遺跡、弥生時代中期
    • 磨製石剣 新方遺跡、弥生時代前期
    • 2号鏡 三角縁吾作四神四獣鏡、 西求女塚古墳、古墳時代前期
    • 三角縁三神一仏四獣鏡 塩田北山東古墳、古墳時代前期
    • 弥生時代の竪穴住居(復元)
    • 円筒形の埴輪 住吉東古墳、6世紀はじめ
  • 特別展示室(1階)・
  • 企画展示室(2階) 企画展示室では様々な企画展示が年3~4回行われる。
  • 収蔵展示室 収蔵展示室の周囲はガラス張りで収蔵庫に展示する約5,000点の出土遺物をガラス越しに見ることができる。

諸元

  • 名 称:神戸市埋蔵文化財センター
  • 開 設:1991年(平成3年)9月13日
  • 休館日:毎週月曜日(月曜日が休日の場合はその翌日)
  • 開館時間:午前10時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
  • 観覧料:無料(特別展の場合は別に定めます)
  • 所在地: 〒651-2273 神戸市西区糀台6丁目 西神中央公園内
  • 交通:地下鉄西神中央駅下車 徒歩8分