光明皇后 ― 2023年11月18日 23:33
光明皇后(ふじわらのうまかい、701年- 760年)は奈良時代の聖武天皇皇の皇后で孝謙天皇の生母である。出家して光明子となる。諱は安宿媛。
概要
父は藤原不比等、母は県犬養橘三千代である。 両親、特に三千代の影響から仏教に深く帰依した。東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施されたとされる。716年に同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、聖武天皇の即位後の727年に基王を生んだ。729年に皇后となる。749年(天平勝宝1年)7月聖武天皇が譲位すると、皇太后となり紫微中台を設置し、甥の藤原仲麻呂を長官に登用し、娘の孝謙天皇に代わって実質的なトップとなった。藤原仲麻呂の専権がピークとなった760年6月に没した。60歳没,大和国添上郡佐保山(諸陵式 佐保山東陵)に葬られた。
政治活動
施薬院を置き諸国の薬草を集めて貧しい病人に施すとともに、貧窮者や孤児を救済するために悲田院を設置した。法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられる(「七大寺巡礼記」)。 756年に聖武太上天皇が没したあと遺愛の品々を東大寺に献納したことにより正倉院宝物が始まった。
人物
聖武天皇の在位中、娘の孝謙女帝の時代にも、事実上の権力者は光明皇后であったとする説がある。『国家珍宝帳』の願文には「生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまう」と書かれる。
参考文献
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