原理講論・キリスト論の『第四節 新生論(重生論)と三位一体論』(P.263~)からは、
我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエス(神の”独り子”)であった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。……また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。
……(略)……
ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
ちなみにマラキ書5,6は以下です。
マラキ書/ 04章 05節、06節
見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼(再臨エリヤ)は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父(メシヤ)に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
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上記記事からの引用です。
今回は「原理」に侍る神様というテーマで考えたいと思います。
原理というのは、ルールとか、真理とか、原則とかと非常に近い意味があるようにも思います。
それで、原理(ルール)を決めたのは、神様ご自身なんですね。
原理(ルール)を定めた、作った、立てたのは、神様ご自身なんです。
その自分が立てた原理(ルール)に侍る
侍るというのは、守るとか、従うとか、勝手に変えないとか、例外を作らないとか、
その通りに行うとか、大切にするとか、そういう意味なんですね・・・。
神様は、愛の神様であり、愛を一番大切にされるし・・・、
愛を最も大切にされるお方なわけです。
ところが、愛の神様なのですけれど、それでも、原理を絶対的に尊重される!!!
ということなんです。
だから、人類始祖の堕落行為にも干渉されなかったわけです。
これは、能力が不足していて出来ないので干渉できなかったのではなくて、能力はあるけれども原理を守るために干渉しなかった、ということです。
そして、人類始祖を愛してないから、干渉しなかったのでもなくて、限りなく愛しているけれども、原理を尊重されるので、干渉されなかったのです。
ですから、神様の愛を、100%受けるためには、原理的に正しい立場に立つことが必要なわけです。
原理よりも、もちろん、愛が重要であり、愛が大切で価値があるわけですが・・・、
その愛を神様が思う存分、発揮するためには、原理的に正しくないとならないというわけです。
この引用からは「神様の愛」は強調されていましたが、それ以上に【原理>愛】であり、愛も原理によって管理されるということです。ここでも如何にも「「小学生程度」の浅はかな原理理解を表明したようなものでした。
Nicikさんは堕落論の「第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由」を出されていましたが、
「第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め」抜け落ちた状態での主張でしかありません。同時に、堕落論で明らかにされた「サタンの正体」どころか、「サタン」そのものの存在についての認識にも欠けているように思います。
何故に神様は堕落行為を干渉されなかったのかは、
- 創造原理の絶対性と完全無欠性のために
- 神のみ創造主であらせられるために
- 人間を万物の主管位に立たせるために
これが主な項目ですが第六節の詳細を読めば、
そこには「原理に侍る」神様であられるかを監視する「サタン」の存在も決して忘れることは出来ません。
冒頭の原理講論引用もまた、文総裁が発表されていた「原理」の一部であり、また、「神様はアルファとオメガは同じ」お方です。
最初と終わりは同じ、一度立てられた【み旨】は必ず実行されるということです。
すなわち、神様は人間始祖アダム・エバと一つとなって人類の「父母」となることが「希望」「夢」でした。
人間始祖アダム・エバが三大祝福を完成しては「真の父母」となることが、創造目的です。
ところが、人間始祖の堕落によってそれはまだ未完のままでしたが、
イザヤ書/ 46章 10~11節
わたしは終りの事を初めから告げ、
まだなされない事を昔から告げて言う、
『わたしの計りごとは必ず成り、
わが目的をことごとくなし遂げる』と。
わたしは東から猛禽を招き、
遠い国からわが計りごとを行う人(※メシヤ)を招く。
わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。
わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。
これが旧約の約束であり、
実際にはイエス様「独生子(神様の長子)」をこの地上にお送りになられました。
しかしながら、「独生女(神様の長女)」は条件が整わず送ることが出来なかったは、お父様み言にありました。
https://ameblo.jp/ucjapan-membet/entry-12872865568.html コメントNo.10より
天一国経典『平和経』, 第一篇 真の平和の根本原理, 8 救援摂理史の原理観, 8 イエス様の寂しい三年路程
メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、自分の孤独な事情が、神様のみ旨を成就するに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦を迎えなければなりません。天使長が、アダムと兄妹のように育ったエバを偽りの愛で堕落させたので、イエス様はそれを根本的に復帰しなければならなかったのです。
したがって、アダムに代わって神様の息子として来られたイエス様は、天使長の立場に立った人物の妹を妻として迎えなければなりませんでした。その女性が正にザカリヤの娘であり、洗礼ヨハネの妹だったのです。
サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成就するためには、絶対的な信仰によって形成された保護の基台がなければなりません。不幸なことに、イエス様の周辺では、そのような基台がすべて崩れてしまいました。
もしザカリヤとエリサベツが、神様の啓示と霊的な恩恵のもとで、初めにもった絶対的な信仰をもち続けていたなら、状況は違っていたでしょう。彼らが責任を果たしていたならば、マリヤは三カ月後にその家を出たとしても、継続して彼らと行き来し、相談したはずです。
ザカリヤの家庭は、イエス様の誕生ののちにも、地を代表し、一番の先頭に立ってメシヤを保護し、侍りながら証す人たちとして、神様が選んだ家庭でした。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、この上ない精誠を込めて侍るだけでなく、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従っていたはずでした。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じさせ、救いを受けさせるように導く責任を果たしたはずです。
しかし不幸なことに、ザカリヤも、エリサベツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証しただけであって、侍ったことはありませんでした。尊敬される祭司のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つことにより、かえってイエス様の道を困難なものにしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い、人間的な思いに流れたときに、イエス様が願われた、新婦を迎えることに協力するはずはなかったのです。
次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤは、エバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係を保たなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、そののちにも夫婦関係を結んではいけないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス様の誕生ののちにも、ずっと愛の心をもち続けました。マリヤには、ヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。
しかし、現実は、それを簡単には許しませんでした。本心ではいけないと思いながら、マリヤはヨセフと夫婦関係を結ぶようになり、子女をもつことによって、エバの失敗を反復した結果になってしまいました。サタンはこれを条件として、彼らに侵入するようになりました。イエス様一人を残して、皆がサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエス様を守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟も、カイン側の兄弟も、すべてサタン側になってしまいました。
人がサタンの侵入を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまい、神様に対する確信と感謝を失うようになり、すべてのものを人間的に考えるようになります。これによりマリヤまで、イエス様が願われる結婚に協力することができず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えられず、そして真の父母になれず、十字架の道を行かざるを得なくなった直接的な原因になったのです。
……
1996年4月16日 アメリカ ワシントンDC、ヒルトン・ホテル
「ワシントン・タイムズ財団」創設記念特別講演
このように文総裁はイエス様の相対としいて「洗礼ヨハネの妹」を挙げてはいましたが、マリヤが身ごもったその直後からはザカリヤ家庭とヨセフ家庭が疎遠となっていましたので、たとえ、洗礼ヨハネの妹がいたとしてもその条件は満たされることなく、イエス様は十字架の道を行かざるを得ませんでした。
それゆえに、再臨を約束されては黙示録では「天からの花嫁」、「子羊の婚宴」の預言がなされて今日までキリスト教が「新婦格」宗教としてイエス様と聖霊が一つとなった霊的新生を成してきました。
いわば、血統的につながらない「養子圏」にとどまらざるを得ませんでした。
ローマ人への手紙/ 08章19~ 23節
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。……かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれること(※実子圏)を待ち望んでいる。
神様の摂理は時代的恵沢とともに順次高められてきています。イエス様の時すでに「独生子」を送られたことですでになされたもので、同じことが何度も繰り返されて成るというものではありません。
再臨されるメシヤはイエス様が残した基台を引き継いでは、次の摂理をされていくは当然のことです。
そして、それが「独生女」「真の母」「真の父母」をこの地上に送るということになります。
さてその「真の父母」ですが、
Nicikさん発案の「真正 真の父母論」からは何方が「真の父母」なのかには一切触れていません。
あるのは「独生女批判理論」からの「もしも……だったら」論を繰り返すばかりで、過ぎ去った過去、すでに結果が出ています。
にもかかわらずそれに固執しては、家庭連合の「真の父母論」への ”批判のための批判” でしかなく、
その発案が正しいという論拠の質問には黙秘、逃亡(peaceのコメント削除等)を続けられています。
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