昨日は県で行う依存症セミナーの司会進行だった。
依存症から回復すれば次のステージで仕事が山ほど準備されているもので、
俺もこんなにも人前で司会進行をしたり、講話を引き受けたりする人生なんて想像もしていなかった。
おまけに“惹き付ける魅力”なんてものがアル中に求められてしまう。
セミナーを終えてヘトヘトに疲れはて、一息ついた頃、
こんな日だからか、こんな日なメールが届いた。
新たなる家族側からの相談で、俺と同世代の息子さんがアルコール依存症だ。
奇跡的にも2年間の平和が訪れた先に待っていたまさかの地獄に、
『あの時ほんの一時の断酒に胡座をかかずに自助グループに通い続けていれば…』という家族側の後悔パターンだ。
正直俺も他に精神疾患を抱えたあの息子さんが断酒に踏み切れるとは思っていなかったが、そんな奇跡すら自らの高慢が踏み潰してしまう。
だからあれほどまでに「飲む、飲まないでは無く本質を見て(探して)」と言っているのに、
家族も依存症本人も、殆んどの依存症に関わる人たちが“アルコール”しか見えていない。
アルコールを飲まなければ良いと考えてしまっているのだ。
では答えてくれ。
何で病的なほどにアルコールを飲んでいたのだ?
この世は因果応報であり、意味なくその行動には至らない。
何だろうがそれに至る理由があってそうなっているのだ。
解りやすく書けばアルコールを断った状況と言うのはバランスが保たれていたシーソーの片側から荷物が降りたということである。
反対側が着地したのは高温に熱せられたフライパンの上とか、針の上であり、そこを無条件の幸せと勘違いしている人が非常に多いのだ。
俺が断酒後に気付かされたのは意外にも“俺のアルコール依存症の本質は間違っていなかった”であり、それは今でも変わらないしアルコールが悪だとは絶対に思えない。
自分なりに“生き辛さ”とどうにか折り合いをつけて生きようとした結果、当時の俺の知識や経験の範囲で出た選択肢がアルコールや薬物だっただけの話であり、
方法は間違っていたが生きようとしたことは人間の本能として何も間違っていなかったのだ。
そして、俺のそれまでの人生が徹底的な他人からの暴力や裏切りに塗り固められた人生だったから家に引きこもるしかなく、他人に助けを求めるよりも自分で酒の量や薬の量をはかって自分と折り合いをつけるしかなかったのだ。
だから今となってはアルコールや薬が乗っていたシーソーの片側に別なものを、しかも色んなものを分散して乗せており、自分が乗っている方の荷物も処分して、また地面に落ちても痛みの少ないようにスリム化している。
話を戻して、俺が依存症者を家族に持つ人から相談(殆んど母親)を受けていて感じることは、
“不安”が本質であるということ。
相談内容に“不安”という文字が多く見られ、つまりは子供や配偶者の依存症問題以前に、
その母親が“不安”に纏わる精神的なトラブルを抱えているのだ。
恐らくそれは俺と同じように幼い頃に背負った問題だろう。
そもそも俺達アルコール依存症者も“不安”を打ち消すために酒を飲んだ。
どちらも依存症なのだ。
もう一度言おう。
飲む、飲まないではなく、本質を見て。
日本で一番有名だと思われる依存症の本にも書いてあるが、
日本人女性の殆んどは共依存症に侵されているのだ。
考えてみたらアルコール、薬物、ギャンブルなどしなくても依存症になる共依存症は本当に恐ろしいものであり、これも酷く周りを巻き込み、特に子供を巻き込んで人生を破壊する。
(共依存は日本の国民病であるため、日本では共依存に“症”をつけることは国のプライドとして出来ませんが他国では共依存症としているところも見られます。同じ様にAC・アダルトチャイルドも“概念”とされており病名には意地でも出来ません。認めてしまっては保障の問題があるようです)
今日の相談者は、息子の再飲酒に対する怒りと絶望が落ち着いた後に先月お会いした時の俺の言葉を思い出したとメールをしてきた。
「私と息子の親子関係に心当たりがあります」と。
これは本当に素晴らしい奇跡的なことであって、殆んど全ての親が自分の子育ての失敗を受け入れることは出来ない。
しかしこの母親は、そこを棚卸ししてみたいとメールを書いてきた。
そもそも考えて欲しいのは、
俺が何故、自分よりも20も30も、時には40も年上の人達に向かって、
大バッシングを受けると解りきっている親子関係のミスについて話を続けるのか。
しかも無償で。
砂糖みたいに甘ったれた、一時的な好感を持たれ本質は何も解決せず絶望に突き落とすそんなお菓子の様な人気セラピストではなく(アメブロにもウヨウヨ繁殖してますよ)、
俺は最初から激辛なこと(本質)を自分の経験と読んだ本、沢山見てきた依存症者の家庭と生い立ちを通してハッキリと、
「親子関係を無視しないで」という理由は、
本当に“お前らの悩みの解決”と、俺のクソみたいな人生の過ちの償いがしたいから、俺は嫌われて上等を生きてるのだ。
その母親は「親子関係についてどこか相談できるところを紹介して欲しい」とメールに書いてきた。
しかし、俺の思い付く唯一の心理師は恐らく諸事情により無理であろう。
そこで俺は一冊の本が頭に浮かんだ。
ビーニャさんとその母親に読んで貰いたくて2冊持ってるこの本が彼女らに開かれたことは無いが、恐らく日本の多くの女性にお勧めできる本だと思う。
俺はビーニャさんの母親も例外ではなく化けの皮を剥がし、本性のまま怒鳴りあったことがあるほど家族会に姿を現す人達の本性にも厳しい目を向けている。
俺が“不気味な笑顔”と読んでいる昭和女性の愛想笑いや化けの皮を剥がすことなんて、化粧を剥がせるより簡単なことだ。
その願いは、負の連鎖をここで止めてね。
ということ。
ね、おかあさんたちよ。
俺風に言えば、元凶達よ。
これ以上周りを(旦那や子供)を巻き込まないで欲しい。
しかし、ここまでは建前で更に本質は輪廻転生。
似たカルマを持つ親を自ら選び生まれてくる悲しくもある連鎖のなか、
心理学は所詮、心理学で、
俺は目に見えない霊的な世界に本当に依存症の素晴らしさを感じるよ。
本当に依存症のある人生で良かったと思えるし、
これが俺の選んだ道だと強く感じれる。
だから“女”として生まれた方々の選んだ道も本当に大変だと思うが、
“悲劇のヒロイン”演じるのではなく、何故なのかを自分なりにもっと深掘りして欲しいな。
因みに俺は“毒親”という表現は嫌いである。
その親もまたその親から影響を受けた一人なのだから、
果たして誰を“毒親”と言おうか。
現代は自己正当化の為なら他人を踏みにじる時代であり、
“毒親”や親ガチャは自分の権利(責任や選択肢)を全くもって放棄する考えである。
そう言いたいなら黙って過去の俺のように酒飲んで引きこもっとけ。