子供に対する心配の本音 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版
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ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

昨日は県で行う依存症セミナーの司会進行だった。


依存症から回復すれば次のステージで仕事が山ほど準備されているもので、


俺もこんなにも人前で司会進行をしたり、講話を引き受けたりする人生なんて想像もしていなかった。


おまけに“惹き付ける魅力”なんてものがアル中に求められてしまう。




セミナーを終えてヘトヘトに疲れはて、一息ついた頃、


こんな日だからか、こんな日なメールが届いた。


新たなる家族側からの相談で、俺と同世代の息子さんがアルコール依存症だ。


奇跡的にも2年間の平和が訪れた先に待っていたまさかの地獄に、


『あの時ほんの一時の断酒に胡座をかかずに自助グループに通い続けていれば…』という家族側の後悔パターンだ。


正直俺も他に精神疾患を抱えたあの息子さんが断酒に踏み切れるとは思っていなかったが、そんな奇跡すら自らの高慢が踏み潰してしまう。


だからあれほどまでに「飲む、飲まないでは無く本質を見て(探して)」と言っているのに、


家族も依存症本人も、殆んどの依存症に関わる人たちが“アルコール”しか見えていない。


アルコールを飲まなければ良いと考えてしまっているのだ。




では答えてくれ。


何で病的なほどにアルコールを飲んでいたのだ?


この世は因果応報であり、意味なくその行動には至らない。


何だろうがそれに至る理由があってそうなっているのだ。


解りやすく書けばアルコールを断った状況と言うのはバランスが保たれていたシーソーの片側から荷物が降りたということである。


反対側が着地したのは高温に熱せられたフライパンの上とか、針の上であり、そこを無条件の幸せと勘違いしている人が非常に多いのだ。


俺が断酒後に気付かされたのは意外にも“俺のアルコール依存症の本質は間違っていなかった”であり、それは今でも変わらないしアルコールが悪だとは絶対に思えない。


自分なりに“生き辛さ”とどうにか折り合いをつけて生きようとした結果、当時の俺の知識や経験の範囲で出た選択肢がアルコールや薬物だっただけの話であり、


方法は間違っていたが生きようとしたことは人間の本能として何も間違っていなかったのだ。


そして、俺のそれまでの人生が徹底的な他人からの暴力や裏切りに塗り固められた人生だったから家に引きこもるしかなく、他人に助けを求めるよりも自分で酒の量や薬の量をはかって自分と折り合いをつけるしかなかったのだ。


だから今となってはアルコールや薬が乗っていたシーソーの片側に別なものを、しかも色んなものを分散して乗せており、自分が乗っている方の荷物も処分して、また地面に落ちても痛みの少ないようにスリム化している。




話を戻して、俺が依存症者を家族に持つ人から相談(殆んど母親)を受けていて感じることは、


“不安”が本質であるということ。


相談内容に“不安”という文字が多く見られ、つまりは子供や配偶者の依存症問題以前に、


その母親が“不安”に纏わる精神的なトラブルを抱えているのだ。


恐らくそれは俺と同じように幼い頃に背負った問題だろう。


そもそも俺達アルコール依存症者も“不安”を打ち消すために酒を飲んだ。


どちらも依存症なのだ。


もう一度言おう。




飲む、飲まないではなく、本質を見て。




日本で一番有名だと思われる依存症の本にも書いてあるが、


日本人女性の殆んどは共依存症に侵されているのだ。


考えてみたらアルコール、薬物、ギャンブルなどしなくても依存症になる共依存症は本当に恐ろしいものであり、これも酷く周りを巻き込み、特に子供を巻き込んで人生を破壊する。


(共依存は日本の国民病であるため、日本では共依存に“症”をつけることは国のプライドとして出来ませんが他国では共依存症としているところも見られます。同じ様にAC・アダルトチャイルドも“概念”とされており病名には意地でも出来ません。認めてしまっては保障の問題があるようです)




今日の相談者は、息子の再飲酒に対する怒りと絶望が落ち着いた後に先月お会いした時の俺の言葉を思い出したとメールをしてきた。


「私と息子の親子関係に心当たりがあります」と。


これは本当に素晴らしい奇跡的なことであって、殆んど全ての親が自分の子育ての失敗を受け入れることは出来ない。


しかしこの母親は、そこを棚卸ししてみたいとメールを書いてきた。


そもそも考えて欲しいのは、


俺が何故、自分よりも20も30も、時には40も年上の人達に向かって、


大バッシングを受けると解りきっている親子関係のミスについて話を続けるのか。




しかも無償で。




砂糖みたいに甘ったれた、一時的な好感を持たれ本質は何も解決せず絶望に突き落とすそんなお菓子の様な人気セラピストではなく(アメブロにもウヨウヨ繁殖してますよ)、


俺は最初から激辛なこと(本質)を自分の経験と読んだ本、沢山見てきた依存症者の家庭と生い立ちを通してハッキリと、


「親子関係を無視しないで」という理由は、


本当に“お前らの悩みの解決”と、俺のクソみたいな人生の過ちの償いがしたいから、俺は嫌われて上等を生きてるのだ。


その母親は「親子関係についてどこか相談できるところを紹介して欲しい」とメールに書いてきた。


しかし、俺の思い付く唯一の心理師は恐らく諸事情により無理であろう。


そこで俺は一冊の本が頭に浮かんだ。



東ちずるの<私>はなぜカウンセリングを受けたのか。

“私の場合、特に母親との関係だ。私は母と戦わなければならない。なぜだか『闘い』と強く意識した。”


東ちずるさんが自分の生き辛さに悩んだ時に、その悩みの元凶(共依存症)であった母親と一緒にカウンセリングに挑んだ話の本で、

そう書いてしまえばそういう本だが、非常に言葉になら無い感動というか、依存症の世界特有の奇跡を見た気がしたからだ。

俺が約11年前に初めて精神科に幽閉されたとき、上に書いた心理師から勧められた2冊目の本である。

そしてこの本のカウンセリングを担当した心理師の締めくくりには、俺が幽閉に至った理由もカルマ的な表現として実に納得の行く形で締め括られていた。



この本を10年振りとも言おうか、思わぬ状況で手にとって感じたのは、


こんなにも真剣に読み込み、依存症からの回復を願った過去の自分の血の滲む努力だった。

果たしてあの頃何冊の依存症関係の本を読み漁っただろうか。

このまま人生を終えたくなくて、

必死に…、必死に…、

『何がなんでも俺は変わってやる!!!』と、

心理師、看護師から読むのをやめるように勧められるほど、余り本を読んでいなかった俺が大量の本を読み漁り依存症の本質にどっぷりと入っていった。



そんな自己満足の様な話はどうでも良くて、俺はこの母親にこの本を勧めようと思う。

きっとこの母親も俺の言う“日本人女性(昭和女性)”であり、

この本に出てくる母親が鏡となって何か気付くこともあるだろう。

残念ながらこの世は人生の転機とか変化の時には激しい痛みを伴うものだ。

恐れずにその痛みを感じ通して欲しいと思う。

俺より30年近く年上の人に随分と偉そうな言い方だろうが、

悪いけど年を重ねたのか、年を取ったのか、

恐らくある部分に置いては俺が圧倒的に年を重ねたのだろうと思う。

いや、日本人女性の多くは男に依存して自分の人生の舵取りをやめてしまっているから、年を重ねようがないのだ。



とは言え、俺の本音と言うか気付いて貰いたいのは、上に“お前らの悩みの解決”と強調して書いた部分である。

アホはここに“子供の依存症問題の解決”と当てはめるだろうが、俺から見える本質は違う。

この本を読めば必ずこの母親と息子の関係性でではなく、母親とその母親(両親)の関係性、

つまり自身の親子関係の整理となってくれたらと、俺の本当の願いはここにあります。

先も書いたように俺は依存症の家族会で“親子関係”についてかなり言います。

多くの親はまるでアルコール依存症者が自分をアルコール依存症であることを否認するように、

自分の子育てに対して間違ってないと怒りであったり否認であったりと敵対心を見せます。

ところが俺が言っているのは、あなたと子供ではなくて、

あなたと、あなたの親の関係性を言っているのです。

まずは自分を癒して整理して、そしたら自ずと子供にも伝わる(連鎖)から。



ここまで書いてもお前らはバカだから例を出す。

自分と親の関係を正しく整理すると、親の間違いや、親の間違ってしまった経緯に気付くことがある。

この過程で怒りや恨みの段階を通り越し、初めて親に対する理解を得られる。

親を理解し、赦すと、何が起きるか。

それは自分の根本に立ち返り、認知の修正が行える(ほど深い部分に辿り着けた)ということ。

当たり前だが親が子供の人生に与える影響は多く、殆んどの人間は養育者から“この世”を学ぶ(認知する)。

だから幼児の頃の自分に立ち返り、親を否定も軽蔑もせず親の間違った考えを植え付けられた段階に『私はこう思う』と認知の上書きが可能となります。

これを言い替えると、初めて自分の意思(人生)が芽生えたとも言える。

これによって自分の価値観で人生を生きることが可能となる。

だからこそ、この過程を正しく通ると、

自分と子供の関係のなかで自分が間違ってしまった流れも見えてくる。

主に、親、その親、またその親から受け継いだその家庭なりの間違った常識に気付く。

その時は恐らく子育ての失敗に対する否認の感情は浮かばないと思うし、

『そもそも人は失敗するものだ』と簡単に受け入れられるようになっているだろう。

その頃になると『子供を回復させたい』という気持ちが今とは全く違う落ち着きの中で見られるようになる。

その理由はお前らの悩みの解決がある程度落ち着いたからだ。

お前らは自分の問題に蓋をするためにワザワザ周りの問題を血眼になって探しており、

その願望を手っ取り早く叶えてくれていたのが、いつもお前らの被害者でいてくれる旦那や子供だったのだ。

 

 

ビーニャさんとその母親に読んで貰いたくて2冊持ってるこの本が彼女らに開かれたことは無いが、恐らく日本の多くの女性にお勧めできる本だと思う。


俺はビーニャさんの母親も例外ではなく化けの皮を剥がし、本性のまま怒鳴りあったことがあるほど家族会に姿を現す人達の本性にも厳しい目を向けている。


俺が“不気味な笑顔”と読んでいる昭和女性の愛想笑いや化けの皮を剥がすことなんて、化粧を剥がせるより簡単なことだ。


その願いは、負の連鎖をここで止めてね。


ということ。


ね、おかあさんたちよ。


俺風に言えば、元凶達よ。


これ以上周りを(旦那や子供)を巻き込まないで欲しい。




しかし、ここまでは建前で更に本質は輪廻転生。


似たカルマを持つ親を自ら選び生まれてくる悲しくもある連鎖のなか、


心理学は所詮、心理学で、


俺は目に見えない霊的な世界に本当に依存症の素晴らしさを感じるよ。


本当に依存症のある人生で良かったと思えるし、


これが俺の選んだ道だと強く感じれる。


だから“女”として生まれた方々の選んだ道も本当に大変だと思うが、


“悲劇のヒロイン”演じるのではなく、何故なのかを自分なりにもっと深掘りして欲しいな。




因みに俺は“毒親”という表現は嫌いである。


その親もまたその親から影響を受けた一人なのだから、


果たして誰を“毒親”と言おうか。


現代は自己正当化の為なら他人を踏みにじる時代であり、


“毒親”や親ガチャは自分の権利(責任や選択肢)を全くもって放棄する考えである。


そう言いたいなら黙って過去の俺のように酒飲んで引きこもっとけ。