盲亀浮木(チョムスキー、白洲次郎)(#85)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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htptps://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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You Tube第189(チョムスキー)
https://youtu.be/yWSzvhZkdPo

チョムスキーにとって、倫理は純粋理性の問題である。そこには道徳的な灰色の範囲はない。彼は、説明、理由づけ、言い訳、動機、戦略、それに背景などを聞くことを拒否している。例えば、人の命を奪うことはよくない、だからどのような状況で人を殺したかなどの理由づけをする必要はない。このことは、どのような状況においても戦争はよくないということに発展する。パールハーバーも、9.11事件も、戦争を引き起こしているので良くないという論法である。そうであるので、チョムスキーの論法に従うと、議論の余地が全くないのである。チョムスキーによると、ただ数学的な真理のみが存在する。「正直な非合意はなく、ただ正しいか、間違いかだけで、意見の違いを正当化することができない」(P66)。

もし誰もが、同じ普遍的な理由付けをするなら、違った考え方をどのように処理すればよいのだろうか? 全ての人、もっと正確に言えば、チョムスキーを代表とする全ての人は、組織をどのように運用するかに興味をもっている。組織とは、政府であったり、大企業であったり、宗教団体である。これらの組織は、エリートの人々によってコントロールされている。エリートは、最高でもっとも賢明な人間であると思っている。そのような人々、チョムスキーによれば、Robert McNamaraのような人間は、完全に論理的で、完全に正直、誠実、であるが、トータルとして間違いを犯す。なぜなら、彼の信条、感情は、彼が所属する組織からくる人工的な思いであるからである。チョムスキーのような人や彼の言うことに従うような人は、なぜ倫理的な間違いを犯さないのだろうか? なぜなら、彼らは組織の部分であることを拒絶するからである。
つづく


白洲次郎#2
  白洲次郎と木庵との共通点といえば、生まれ、育ちが同じ兵庫県ということである。白洲家の祖父が三田藩の家老であったというが、木庵の故里は三田に隣接する田舎である。また、白洲が育った芦屋や伊丹の近くで大学時代からアメリカに来るまで住んでいた。だから地域性から白洲に親しみを覚える。しかし、育ちは雲泥の差がある。貧しさの中に育った木庵は、いつしか金持ちの弱さというか陰を見ようとする習性がついている。どう転んでも彼たちの域まで達せないとするなら、彼たちの求める世界より、木庵の世界の方が豊かなんだと思うようにしたのである。その思いを持続すると、面白いことに、本当にそう思ってしまう。今では金ではない、己の心が満足すればそれでよい。逆に金持ちに同情するようになっている。なぜなら、金持ちが今幸せだとするならその幸せはいつまでも持続しないことが分かるからである。人生なんて、落ちれば誰も同じである。一時金持ちであったり、権力を握ろうと、持続などできっこない。そうであるなら、他人と比較するより、短い人生であろうが、自分が満足すればそれでよい。そう思うようになったのである。
  白洲は大衆と桁違いに違う育ちをしているが、どことなく親近感が持てる。それは、彼の破天荒さにあるようだ。我々普通の人間は羽目を外そうとしても外せないしがらみのなかで生きている。しかし、白洲のような特権階級(?)の人間は軌道から外れても、世間はそれを許すところがある。それは、極端に言えば金の力である。白洲が友達と喧嘩して傷つけたとしても、それを補う金の力がある。あまりにも次郎が喧嘩にあけくれるものだから、白洲家には謝罪のための菓子折りが常備されていたという。これは金の力というより、親の気配り、世間への気配りがいき届いていたのである。貧しい家庭で育とうが裕福な家庭で育とうが、次郎のような暴れん坊はどこでもいる。この暴れん坊が近所の人から可愛い暴れん坊と映るか、どうしょうもない暴れん坊と見られるかは、親のフォローによって違ってくる。少なくとも、白洲家にはそのフォローが行き届いていたのである。だから周囲からそれほど白い目で見られることなく、自由な子供らしさを謳歌できたのである。それに対して、親のフォローがない暴れん者は、周囲から煙たがられ、結局本当のひがみ者になっていく。子供や、たとえ大人でも周囲の目が気になる。周囲から暖かい目で見られていることは、それだけで人間をおおらかにし、より自由人になる第一ステップを踏むことができる。ひがみ者は自由人にはなれない。そして一番大事なことは母親の愛情をどれだけ受けているかによって、人間性が決まる。次郎は母親の愛をことのほか強く感じながら育った。幼い頃は身体が弱く何度も大病に罹って死の淵をさ迷ったが、その都度、母・よし子の献身的な看病のおかげで生命の危機を乗り越えている。後年その頃を思い出すたびに感謝の思いが胸いっぱいになったという。彼は雑誌のインタビューで、「世の中でいちばん好きで、いちばん尊敬しているのは母だ」と照れることなく語っている。ここで、木庵の独善的な男らしさ論を述べる。先ず、男たるもの母親の深い愛情があればあるほど男らしくなる。観音様のような慈しみ深い母親から本物の男が生まれる。近頃の、ただ子供の側にびったりくっついている母親ではない。次郎にも母親から愛されるだけの聡明さと愛らしさがあったのだろう。同じ子供でも可愛いと思う子と、どことなく可愛くない子がいる。次郎は可愛い子であったのだろう。次郎の家の近所に鰻屋があり、その店の女将から特に次郎は可愛がられた。幼い次郎のことを「坊ちゃん」と呼び、他人とは思えないほどの愛情を注いだという。おいしい鰻を食べさせただけでなく、次郎が病気をしたときには、よし子に代わって何日も看病したぐらいである。こういうことから考えても、次郎は元々他人から寵愛される天性の性格を持っていたようである。
  次郎は天性の男らしさを具える環境に育ったことは分かるが、輝ける玉も磨かなければ本物の美しさを醸し出すことはできない。
つづく


写真:白洲次郎の子供時代の写真
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