今回も岐阜県
場所は大垣に
濃尾平野の北西部に位置し、古くから木曽川、長良川、揖斐川などの堆積作用によって陸地化が進み、沖積平野が形成されました
これにより、一帯に地下水盆が形成され、自噴水がいたるところで見られ、「水都」と呼ばれるようになったんやって
また、大垣はかつて揖斐川、水門川、杭瀬川などの河川を利用した舟運が盛んで、江戸時代には川舟が行き交い、船問屋や倉庫が立ち並んでいました
このような歴史に加え、さまざまな地下水や生き物の保全活動をとおしたまちづくり活動などにより、平成7年度、国土交通省(旧国土庁)から地域固有の水をめぐる歴史・文化や優れた水環境の保全に努め、水を活かした町づくりに優れた成果をあげている地域として「水の郷」に認定されたんです
では
大垣ぶらりを
まずは大垣駅から1キロほど西へ
大垣八幡神社に
大垣八幡神社
【おおがきはちまんじんじゃ】
天平勝宝元年(749年)より、大井荘(現 大垣市)は奈良県は東大寺の荘園でした。
これにより、後醍醐天皇の御世、建武元年(1334年)南都梨原宮(東大寺鎮守の八幡宮也)を手向山八幡宮より当国安八郡大井荘藤江村に勧誘しました(現 大垣市藤江町)
その後、宝徳3年6月(1451年)遮那院条済が現在の大垣市外側町の地に遷座し、遮那院代々別当職となり大垣町及び近傍十八郷(大井荘十八郷)の総社と称しました(この大井荘十八郷は往古南都東大寺の寺領となりし縁故 によるものです)
天文15年(1546年)には、斎藤道三の兵火により全焼するも、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて、神宝云々の記述が見られる事から、程無く再建されてきました。
その後、慶長11年(1606年)大垣城主 石川康道政俊の刀奉納、同13年(1608年)幣殿、拝殿、舞殿が建てられました。
慶安元年(1648年)大垣藩初代藩主 戸田氏鉄公により再建整備が行われるなど、江戸時代徳川幕府も往古の神威社格を崇め、朱印をもって社領を附し、大垣城主も代々深く崇敬して社殿の営繕をはじめ寄進献納などの敬事数多 を数え、江戸時代を通じて厚く信仰されてきました(その神徳を証する、後陽成天皇の神号軸、藤原行成筆の神号額、大垣城主奉納の神鏡、梶川英盛が寛文年間に記せる八幡神社縁起、その他古文書及び刀剣数口の神宝を所蔵していたが、 昭和20年7月大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により焼失)
明治に入ると、明治新政府より神仏分離令が出され、慶応4年4月から明治元年12月(共に1868年)にかけて全国で分離が行われました(当八幡神社も遮那院を分離)。
その後も、広く大垣市民の崇敬を集めるも、昭和20年7月(1945年)に、大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により、社殿が焼失しました。
消失した社殿等は氏子氏の熱誠により、同26年(1951年)本殿復興。同29年(1954年)拝殿復興。同30年(1955年)社務所復興、現在に至ります。
一の鳥居
脚の色が途中から違うね
太平洋戦争の跡かな?
二の鳥居
創建は1334年
現在の大垣市付近は東大寺の荘園であったことから、東大寺の鎮守神である手向山八幡宮を勧請したそうなんよね
奈良からとは
遠い道程ですね
手水舎
柄杓の数が多いんでしょ
人気の神社だとわかるよね
拝殿
社殿は太平洋戦争の際に焼失しました
本殿は1951年・拝殿は1954年に復興したものです
御祭神
応神天皇 神功皇后 比咩大神
ご利益
子宝、安産、子育て
神功皇后とは
神功皇后は、夫である仲哀天皇がクマソ討伐後の西暦200年2月に急死した後、住吉大神の神託により、すでに臨月でありながらも玄界灘を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻め、その勢いで戦わずして新羅を降伏させ、さらに高句麗・百済をを支配下におさめて、帰国後に御子を出産しました
それが後の応神天皇
その後大和に戻った神功皇后は、応神天皇を皇太子に立て、日本書紀によれば201年から269年までの長きにわたり、天皇不在のまま政事を執り行いました
安産・子育て信仰 岩田帯の起源
神功皇后は、臨月でありながらも見事に新羅遠征を果たし、帰国後無事に出産されたことで、安産・子育ての女神として篤く信仰されていますが、その異常出産を物語る伝承こそ、神功皇后の聖母神格を形作っています
古事記では「仲哀記」、日本書紀では「神功皇后紀」の中で、その出産には「鎮懐石伝承」が伝えられています
それによれば、新羅遠征の途中で突如産気づいた神功皇后は、腰に美しい卵形の石2個を巻きつけてお腹を冷やし、出産を15ヵ月まで遅らせたと伝えられています
この石は鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれ、「事を終えて無事出産するように」と祈念が込められた石でした
そして、このとき「鎮懐石」をはさんだ帯が『岩田帯』の起源なんよ
岩田帯は、胎児を保護する意味と、胎児の霊魂を安定させる呪術的な意味合いとがあり、この岩田帯を最初にお巻きになったのが、神功皇后なのです
このように、出産を十五ヶ月まで遅らせながらも無事に後の応神天皇をご出産されたことから、神功皇后は『安産・子育ての女神』として、多くの妊婦の方々やママさん達から、絶大な信仰をあつめているんやね
狛犬
創建当初は、大垣市藤江町付近に鎮座していました
1451年 こちらに遷座しました
出雲社
御祭神
大国主大神(大黒大神)・美保津姫神・事代主大神(恵比寿大神)
戦後の復興と反映を願い、大垣駅前商店街を始めとする氏子達の熱望により、商売繁盛、縁結び、子孫繁栄の神として、昭和22年出雲大社、美保神社の両者より勧誘昭和45年拝殿を建設 し現在に至ります
その拝殿前には、奇しくも雌雄の銀杏の木が1つの根元より抱き合うように立っており、「夫婦銀杏」として親しまれているんよ
大福稲荷神社
御祭神
宇迦之御魂神
本社の右側にありこの地の地主神として、八幡社遷座以前よりもこの地に鎮座し、その勧請年月は不明
八幡社遷座以前は、卯月の中の卯の日を稲荷の祭日とし、流鏑馬が執り行われていたが、 八幡遷座後は同日祭礼となり、流鏑馬なども行われなくなったんやって
大垣市内の商業が発展すると共に、市内の商売繁盛の神様として崇敬を集めています
廣瀬神社・龍田神社
御祭神
広瀬神社
和加宇賀之売命(若宇加能売命)
龍田神社
志那都比古神(天御柱神)・志那都比売神(国御柱神)
寛政2年(1790)藩主・戸田氏教により大和国の廣瀬大社と龍田大社から勧請されました
大垣龍神社は文久3年(1860)火災除けのために江戸の大垣藩邸に祀られたもので、元は出雲龍蛇社と称したんやって
明治維新後、藩邸を引き払った際に遷されたといいます
大垣天満宮
御祭神
菅原道真公
八幡社遷座時に勧誘とあるのみで、詳細不明
元々、八幡社左に配されていたが、戦後の復興時に現在の地に移転
古くは「北野神社」の名称で親しまれていたんやって
現在も学問の神としての信仰があります
母子犬像
生まれ年の干支に手を置いて(土台に干支の文字が刻まれています)、子授け・安産・子供の成長をお祈りすると良いそうですよ
犬はお産が軽く多産であることから、安産子宝の象徴とされているんだとか
「戌の日=安産祈願の吉日」とされる理由なんやね
自噴水
大垣は昔から「水の都」と呼ばれ、多くの家庭には自噴井戸がありました
それに街のいたるところに水路があり、そこを清水が流れてるんやぁ
大垣は水とは切っても切れない関係にあり発展してきたんよ
大垣南ライオンズクラブは結成30周年を迎えるにあたり、”水と親しみ、水に感謝し、自然にも感謝”できる市民の憩いの場所となるよう、八幡神社の境内に自噴井戸を掘削したんやって
大垣八幡神社の横には水路
ホント…綺麗な街ですね
大垣駅からほど近い場所にある老舗の喫茶店 スタインさんででモーニング
昭和の香りがバンバン香る店構えで、階段を上がってお店に入るのですがこの階段もかなり古びていい味を出してます
昔のおしゃれな喫茶店といった雰囲気ですがちょっと怖い雰囲気
でも…店内は綺麗でお洒落なのです
見かけで判断しちゃダメって事を学びました
モーニングは
1種類だけ
ワンプレートに小倉トースト、サラダ、ゆで卵
それとホットコーヒー
トーストはデフォルトでバターが塗られていて
端っこに小倉餡がちょこっと
お味はまずまずで…
美味しいよ
このモーニング
お値段350円なんですぅ~
めちゃくちゃ安いんですぅ
たまにあるんだよね
こういった喫茶店が
大垣駅から289m
岐阜県大垣市高屋町1-48