「ブラック・シーザー」(1973)

 

ブラックプロイテーション映画の代表作の1本を観ました。初見。

 

 

監督・脚本はラリー・コーエン。予告編はコチラ

 

1953年。ニューヨークの人通りの多い路上で靴磨きをしている勤労少年トミーと思ったら、イタリアンマフィアの使いで殺しの手伝いをしていました。危険なアルバイトはやはり危険なわけで、金の運び屋バイトをした時に地元の汚職警官マッキニーにボコボコにされます。それから干支が一回りして、幼馴染のジョーを腹心の相棒、牧師ルーファスをご意見番にして、黒人犯罪集団のリーダーとなっていたトミー(フレッド・ウィリアムソン)。イタリアンマフィアの敵対勢力を暗殺する汚れ仕事で頭角を現して勢力を拡大。クラブ歌手ヘレン(グロリア・ヘンドリー)半ば力ずくでゲット。地位もカネもオンナも手にします。やがて、マフィアと地元警察との癒着状況が克明に記された帳簿略奪したトミーは、コレを脅しの材料に使って、彼らの顧問弁護士コールマン(ウィリアム・ウェルマンJr.)を懐柔して、警察署長とも裏取引をして地盤を確固たるものに。署長になっていたのは、かつての汚職警官のマッキニーでした。

 

イタリアンマフィアが一目置くほどの権力を手にするにつれて、暴君と化したトミーに嫌気が差したジョーやルーファスが距離を置きはじめます。トミーの子を産んだヘレンも同様。互いを慰めるようにヘレンといい仲になってしまったジョーは、浮気現場を見つけたトミーにボコボコにされます。このまま、マフィア側が黙っているわけがなく、ヘレンを脅してトミーに握られている帳簿を奪還。彼の手下たち次々と粛清して、トミーをも襲撃。なんとか逃げ延びたトミーはマフィアの刺客を絞殺。瀕死の状態で帳簿を取り戻すためにコールマンのオフィスに戻ると、彼を殺したばかりマッキニーが待ち構えていました。銃を突きつけられて(名もなき少年だったころを思い出させるように)靴磨きを強要する屈辱をトミーに与えるマッキニー。隙を突いたトミーが昔の恨みを乗せた怒りのパンチ連打で、マッキニーをメチャメチャボコボコにして殺害。満身創痍の状態で台帳を取り戻して、ついつい昔住んでいたハーレムの廃墟に足を運んだトミー。しかし、そのへんにいたチンピラの少年たちにボコボコにされて、1972年に波乱の生涯を閉じる・・・というのが大まかなあらすじ。

 

原題は「Black Caesar」。ギャング映画の古典「犯罪王リコ(Little Caesr)」を多少意識した成り上がりギャングの盛衰モノ。元々はサミー・デイヴィスJr.主演のメジャー映画の企画としてスタートしたものの、実現せずに低予算映画の雄AIPの配給で、脚本を書いたラリー・コーエンが監督。ブラックプロイテーションの流行りに乗ってヒットを記録。安っぽい作りに見えないのは見事で、実際には室内シーンの多くは監督本人のアパートを使ったそうです。ゲリラ撮影されたニューヨークの街並みが良くて(上映中の「Godfather」の看板も)、路上で銃撃されたトミーが刺客に追われて逃げるシーンなど、リアルな生々しさがGOOD。フレッド・ウィリアムソンのインタビューを読むと、チェイスシーンのタクシーでは、たまたま通りかかったタクシーに乗り込んだとか。血のり等の特殊メイクを担当したのはリック・ベイカー

 

ほど良いバイオレンスをテキパキとした編集で見せるところはプログラムピクチャーの醍醐味。タフな乱暴者を豪快に描いている一方で、主人公トミーの人物描写が妙に丁寧なのも特徴。高級アパートメントでメイドをしていて、シングルマザーとして育ててくれた母に成り上がった自分を否定されたり、改心して戻って来た父が許せずに追い返したり、ホームドラマ要素もあり。劇中での母の死を境にして、トミーの人生は頂点から没落の道を一気に辿っていきます。ラストであっけなく殺されるシーンはアメリカ公開バージョンではカットされてたようです。あと、ジェームス・ブラウンの音楽が全編を彩っているのも、本作がいまだに人気を持続している点の一つで、日本ではサントラの方が多く流通しているのかもしれません。トミーが生きていたことになってる続編「ハーレム街の首領」もいずれ観てみようと思います。