みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。


京都と奈良を結んでいる「近鉄京都線」。
かつて「奈良電気鉄道(奈良電)」だったこの路線に1954(昭和29)年登場した、特別料金不要の特急電車「デハボ1200形」。


近鉄合併後の1963(昭和38)年10月、大改造され有料特急車両「680系」となったという、珍しい経緯について触れています。出典①・②。


ところで、奈良電から近鉄に組み入れられることになった「京都線」ですが、「大阪・名古屋線」などで走るこのような新型特急車両を導入することがその当時、まだ出来ませんでした。

名古屋線をゆく「12200系 新スナックカー」。出典①。



その理由というのは、先日記事でも触れた「生駒トンネル」を含む、当時の路線規格でした。


「奈良線」や「橿原線」は、現在の近鉄の母体会社となった「大阪電気軌道(大軌)」が大正期に開業させた路線で、昭和30年代に入っても路線規格はその当時のままでした。

後に「京都線」となる奈良電は「奈良線」に乗り入れることもあり、それらと概ね同じ小規模な路線規格なのでした。



「生駒トンネル」を取り上げた記事でも触れましたが、乗客の増加に合わせて大型車両を導入するには、トンネルだけではなく線路の間隔やホームを削ったりと、施設の改良や新設をしなければなりませんでした。


大型車両(現在の近鉄の標準車両規格。車長20m級)に対応するための工事は「奈良線」が1964(昭和39)年10月に、「京都線」は1968(昭和43)年12月に完了。奈良電が「近鉄京都線」になってから5年後のことでした。出典③。

大型化工事が残るのは「橿原線」のみでした。


近鉄は、先の「大阪万博(1970年)」に合わせて「橿原線」の大型化を進めますが、さまざまな事情で作業は遅延。

しかしながらその間、近鉄が1964(昭和39)年に新設した「京奈特急」「京橿特急」は功を奏して利用客が急増、奈良電から引き継いだ先ほどの「680系」は、予備車までフル回転させるほどの盛況に至ります。


利用客の急増がありながら、路線規格を大型化する工事は予定通りに進まず、というジレンマの中、「京奈特急」「京橿特急」に小規模規格対応の新型車両を投入する事態に陥ります。

いわばつなぎ役として、旧型車両の機具類を転用した特急専用車両「18000系」が、1965(昭和40)年にまず登場します。



さらに輸送力を増強させることと、1966(昭和41)12月に京都から伊勢方面の通称「京伊特急」があらたに運行を開始することになりました。続いて登場したのが「18200系」。


運行開始当時は「京都・橿原線」の小規模規格に加え、「大阪線」との架線電圧の差異(京都・橿原線は直流600V、大阪線は直流1500V)にも対応するために副電圧方式を採用するなど、さまざまな制約がある中で、それらをカバーする万能な車両でした。出典③。

翌年、「鉄道友の会」から最優秀車両の「ブルーリボン賞」を受賞します。


さらに3年後の1969(昭和44)年には、その後継車両「18400系」がデビュー。翌年の「大阪万博」開催による輸送力増強を見込んでのものでした。出典①。

そういったことで、奈良電から引き継ぎ、急造といえる改造を施した「680系」のみでは到底捌き切れないほどの利用客の増加があったゆえの、数年おきの「京都・橿原線」への新型車両投入だったことが窺えます。


難航していた「橿原線」の大型化は、万博後の1973(昭和48)年9月にようやく完了。
これにより直通運転する「京都線」にも「大阪・名古屋線」などで走る大型の特急車両が入線出来るようになり、今日に至ります。

当時、最新型だった大型車両の「12200系」。「680系」から見て来た「18000・18200・18400系」と比べても、車体幅などがひと回り大きいことが、余計に目立ちます。


ところで、京都・橿原線に大型車両の入線が可能になったのと同時に「680系」は名古屋線に移籍。名古屋から湯の山温泉への特急列車、団体列車用へと一時転用されました。出典④。


移籍に当たってもそのままの姿でしたが、後継の新型車両が増備される中で、ついに1974(昭和49)年から一般車両への改造がなされることになります。


晩年は「志摩線」の各駅停車専用車両として、塗装は当時の近鉄通勤型車両のマルーンレッドに変更。

しかしながら、奈良電でデビューした以来の転換式クロスシートと、特急専用に増設された冷房装置は存置されるという乗り得な車両だったようです。1987(昭和62)年、引退しました。



ところでこの「680系」。先日、トミーテックが手がける人気鉄道模型シリーズ「鉄道コレクション」から、なんと限定発売されました。このタイミングでしたし、大変驚いたのですが。


せっかくですので、この模型についても少し取り上げてみることにいたします。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年9月)
(出典②「復刻版私鉄の車両 近畿日本鉄道1特急車」飯島巌・藤井信夫・井上広和共著 ネコ・パブリッシング発行 2002年7月)
(出典③「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良線・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)
(出典④「鉄道ピクトリアルNo.313 臨時増刊号 近畿日本鉄道特集」電気車研究会編・発行 1975年11月)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



京都と奈良を結ぶ「近鉄京都線」について取り上げています。


その前身は昭和初期に開業した「奈良電気鉄道(奈良電)」という近鉄と京阪による合弁会社でした。近鉄の路線になったのは1963(昭和38)年10月と、比較的最近のこと。近鉄京都にて。




近鉄の路線となったことで、近鉄は京都への拠点をあらたに得ることになります。

「近鉄京都線」となった「奈良電」を近代化させるということが近鉄にとっては、合併当初の事業となりました。「東海道新幹線 京都駅」と一体化した高架駅に生まれ変わった「近鉄京都駅」。出典①。


開業当初より、両都市を結ぶ近代的な電車が登場した奈良電。沿線開発も戦後になって徐々に進むものの、並行する「国鉄(→JR)奈良線」からの乗降客がなかなか転移しませんでした。

そんな中、1954(昭和29)年10月に「奈良〜京都間」を30分で結ぶ、特別料金不要の特急が登場。スピードや列車本数で国鉄を凌駕し、今日の京奈間輸送での優位を獲得した、というところまで述べて参りました。出典②。


デビュー直後から好評を博したこの「奈良電特急」。デハボ1200形と呼ばれた新車の他にも、従来からの車両を改装して運用に回すほどの人気ぶりだったといいます。出典①。

しかしながら、奈良電が近鉄に合併された直後の1964(昭和39)年10月、近鉄特急の存在価値を揺るがす、大きな出来事が起こります。「東海道新幹線開業」です。


大阪・名古屋間を人気の「2階建て特急ビスタカー」で2時間半あまりで結び、国鉄より運賃の安かった近鉄にとっては、運賃が上がっても所要時間が半分の1時間で名阪間を結ぶ新幹線には大きく水を空けられることになりました。



名阪直通の利用客が激減することが予想される中、近鉄が取り組んだのは「新幹線停車駅で近鉄特急との接続を図る」ということでした。



つまりは、新幹線と接続する名古屋や京都からの近鉄特急網を拡充させることで、自社沿線の奈良大和路・伊勢志摩方面に観光客の利用を喚起しようとするもの

それまで、別料金の有料特急は大阪・名古屋から伊勢方面への列車しか存在していませんでした。これまでにない路線にまで、近鉄特急網を拡大しようとしたものです。出典③。


京都を起点にしては、奈良・橿原神宮・吉野方面への特急網の整備拡充が急がれました。

現在、頻発している専用車両による「京奈(京都〜奈良間)特急」、乗り換えで吉野方面へ連絡する「京橿(京都〜橿原神宮前間)特急」の新設がその目玉でした。近鉄京都にて。


奈良電の近鉄合併(1963年10月)から、東海道新幹線の開業(1964年10月)までわずか1年。

新幹線開業と同日に行われたダイヤ改正で新設された「京橿特急」、2ヶ月遅れて運行を開始した「京奈特急」にももちろん別料金の、有料特急が充当されることになりました。


そこで白羽の矢が立ったのが、前身の奈良電で看板列車の特急「デハボ1200形」として活躍し、近鉄に合併してから形式名が変更されたこの「680系」。

塗装は近鉄特急のオレンジと紺色へ、さらに冷房化を含めた、車両内外装の大規模な整備が行われての登場でした。


ここまで触れて参りましたが、この「680系」は1954(昭和29)年にデビューした、別料金不要の特急列車として奈良電が製造した車両。

特急料金を要する車両が、料金不要の車両に格下げされる例はあまたありますが、これはまったく逆の例。他には聞いたことがない、大変珍しい例だというのです。出典②。



しかし、せっかくあたらしく設定した区間に走らせる、それも有料特急。

時代的には新型形式だった「10400系(1961年デビュー)」などを導入したいところだったのでしょうが、このような「格上げ」の珍しい例を採らざるを得なかった、切実な理由がありました。出典③。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「近鉄80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1990年10月)
(出典②「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良線・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)
(出典③「鉄道ピクトリアルNo.313 臨時増刊号  近畿日本鉄道特集」電気車研究会編・発行 1975年11月)
(出典④「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年9月)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



「奈良線系特急電車の変遷」と題したパネル展示を拝見しているところなのですが、その最初にあったこの車両のショットに、思わず釘付けになりました。



それが、この「680系」という特急専用車両。昭和30年代後半から40年代半ばにかけて、主に「京都・橿原線」系統で活躍したという、2両編成単位の中規模車体を持つ車両でした。

他の路線で見かける特急専用車両とは異なる、特徴のある顔つきです。



その「680系」が主に活躍していた路線は「近鉄京都線」。

「近鉄京都〜大和西大寺間」と、二つの古都を結ぶ34.6kmの路線ですが、これが近鉄の路線になったのは1963(昭和38)年10月。比較的最近のことです。近鉄ホームページより。



「近鉄京都線」はもともと「奈良電気鉄道(奈良電)」という会社が1928(昭和3)年に開業させたいち地方私鉄なのでした。京都にて。

では、ここからは「フリー百科事典Wikipedia#奈良電気鉄道」の項より。

京都と奈良の2つの古都を結ぶ鉄道は鉄道省(国鉄)の運営する奈良線が1896年(明治29年)に開通していただけであり、これは蒸気運転であって速度は遅く列車本数も1日12往復と少ないので都市間交通としては不便であった。


(中略)1927年(昭和2年)7月から線路工事に着手、同月26日に大林組と工事請負契約を行い、小倉 - 西大寺間を4工区に分けた上で、工事が開始された。以下、出典①。

こうして路線建設計画が紆余曲折を重ねつつも進みつつあった1928年(昭和3年)、11月に京都御所で昭和天皇の即位大典が挙行されることになり、この即位大典にあたっては、神武天皇を祀る橿原神宮と大典が行われる京都を直結し、しかも沿線の伏見に伏見桃山陵が所在する奈良電気鉄道線の存在価値は非常に高く、大典までに全線の工事を完成させ、営業を開始することが急務とされた。


同年11月3日に、まず本社所在地でもあった桃山御陵前駅から西大寺駅の間で営業が開始された。全線の営業開始は、儀式がすべて完了した直後の同年11月15日となった。

当初より大軌(注釈:大阪電気軌道。近鉄の母体会社に当たる鉄道会社)の保有する奈良線・畝傍線(現:橿原線)と直通運転を行い、国鉄奈良線で京都 - 奈良間の所要時間が1時間10分であった所を急行が45分、普通が58分で結んだ。

 
しかし営業成績は当初芳しいものでなく、大軌と提携して京都駅-上本町駅(上六)間の割引乗車券を販売するなど、集客に苦心した。

1928年に京都 - 西大寺間が全通し、即位大典では大きな輸送成績を収めた。しかし奈良電は京阪神のような規模ある経済圏を結んでおらず、通常は京都・奈良もしくは、大阪電気軌道を介した橿原への観光遊覧が大きな収益源であった。


ところで、奈良電は大軌と京阪電車が出資して設立された、いわば「合弁会社」でした。


そういったことで戦後になり、路線の京都側では丹波橋を介して京阪電車(京阪三条〜丹波橋〜近畿日本鉄道奈良、橿原神宮駅間・奈良電京都〜丹波橋〜京阪宇治間)と、奈良側では近畿日本鉄道(西大寺〜近畿日本鉄道奈良間・橿原神宮駅間)などと、相互乗り入れを行っていたことも特徴でした。グーグル地図を加工。


同時に、奈良電をどちらの会社に引き入れるのかという争いが近鉄・京阪双方で勃発することになります。

これは長い間話しがまとまらず、結局、関西財界の仲裁を経て、奈良電は「近鉄京都線」となりました。1963(昭和38)年10月のことですが、相互乗り入れはそのまま継続されます。では、話しは本題に戻ります。


奈良電の旅客は1947年に買出しや復員輸送のためにピークを迎えたが、以後は減少して1954年には最盛期の6割程度にまで落ち込んだ。

奈良電ではその対策として、観光客・通勤客を誘致するために高速運転を行う料金不要の「特急」を1954年に新設することとした。これは近鉄奈良線の上本町駅 - 近畿日本奈良駅間で、同様の「特急」が新設される1956年より2年早いものであった。出典②。


この特急運転開始に伴い、デハボ1200形2両を新造し、さらに1940年に紀元2600年記念式典等に伴う橿原神宮参拝客輸送用として製造したクハボ600形2両を改造・整備し、デハボ1200形-クハボ600形の2両編成2本で運用に充当することとなった。

こうして特急は同年10月23日に5往復体制で運転を開始した。この時は京都駅 - 近畿日本奈良駅間39.0kmを35分(最高速度105km/h、表定速度66.8km/h)で結んだが、これは阪神電気鉄道が本線の梅田駅 - 元町駅間32.2kmで運行していた特急(所要27分、表定速度71.5km/h)に次ぎ、関西地区では2番目に速い列車となった。


その後、この特急運転が好評であったことから順次増発が行われ(中略)1956年5月25日からは6往復、1957年3月21日からは12往復運転となった。出典③。

1963年1月21日からは、2往復が京都駅 - 橿原神宮駅駅間運行となり、京都駅 - 近畿日本奈良駅間運行の列車は10往復となった。(中略)


なお、当時の停車駅は以下の通りである。
京都 - 丹波橋 - 大和西大寺 - 近畿日本奈良(現:近鉄奈良駅) 
京都 - 丹波橋 - 大和西大寺 - 大和八木- 橿原神宮駅(現:橿原神宮前駅)。出典④。

停車駅も絞られた、なかなかの快速運行だと感じますが、これで並行する「国鉄奈良線」との利便性でその差を一挙に広げ、京奈間の輸送では現在に続く優位を築くことになります。


ところで、項はこのように続いています。

この「特急」は近鉄にそのまま引き継がれ、1964年10月から同年12月にかけて有料化され現在の「京奈特急(京都〜奈良間の特急)」・「京橿特急(京都〜橿原神宮前間の特急)」となった。(後略)


そう、奈良電から「近鉄京都線」になったことで、看板列車「特急」の運行は「有料特急」に形を変えて継続されるのですが、そこで問題が生じることになりました。大和西大寺にて。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「カラーブックス659 近鉄線各駅停車2 京都・橿原線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年11月)
(出典②「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)
(出典③「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年7月)

みなさんこんにちは。今日の話題です。



特別展「近鉄電車のデザイン」を訪問した際の記事を連日お送りしていますが、久々に「2025年大阪・関西万博」にまつわるシリーズ記事を今日ははさませて頂きます。約1年ぶりです。


https://ameblo.jp/kyle-of-lochalsh/entry-12827004731.html


前回は、大阪梅田のシンボル「マルビル」が解体工事さなかで、新マルビルが建設される間、跡地を万博会場へのシャトルバス発着場に転用する、という記事でした。2023(令和5)年11月3日アップ。




さて、こちらは「OsakaMetro堺筋本町駅(大阪市中央区)」。所用で下車した先日のこと。




前回の記事から約1年が経過していましたが、気づけば、開幕まであと5ヶ月ほど。

身の回りでもさすがに、万博にまつわるものごとはじわじわと、あちこちで見たり体感したりするようになりました。



ふと、見上げた運賃表になにやら上張りがなされています。その右隣は「中央線 コスモスクエア駅(同住之江区)」。これはもしかして。


傍らに目をやりますと、ついにこのような掲示もなされるようになっていました。


万博会場に唯一、乗り入れることになる鉄道路線は「OsakaMetro中央線」。

現在の終着駅「コスモスクエア駅」から海底トンネルを経由し「夢洲駅(ゆめしまえき、同此花区)」に到達する区間(3.2km)が来年1月19日、万博に先行して開業することがすでに決定しているのでした。


駅での行き先案内などを万博輸送に合わせて変更する作業がはじまるのを受けて、未開業なために誤乗しないように、と促すもの。

しかし、いよいよ駅サインにも「夢洲」が登場するようになったとは。感慨深いものです。



 
かつては「2008年大阪オリンピック」構想で、メイン会場にすべく盛んにPRされていたことが昔のことのようですが。

万博開催にはさまざまな意見はあるでしょうが新線に新駅が開業するというのは、いち鉄オタとしてはうれしいことです。大阪港にて。


ところで少し前のことですが、この「夢洲駅」が報道陣に公開された、というニュースを見かけました。NHK関西ローカル「ほっと関西」2024(令和6)年10月31日放送より。



これらの行き先を見ると、ああ地元の中央線やなあと不思議なことに安心します。よくよく考えますと、おらが街から夢洲の会場までは乗り換え要らずです。これは自慢出来る(苦笑)



ホームは、島式の1面2線。
どのような使い方をされるのかはまだわかりませんが、おそらくは到着した列車は引き上げ線に入り、折り返すのではないかと思われます。


黒地のシックな壁面に、ラインカラーの緑が貫くというデザイン。他の駅にはないもので、これはかっこいいですね。

思ったのですが、駅名は「万博会場前」だとか「夢洲会場前」などと違うのですね。万博が閉幕すればIR(統合型リゾート)もありますし…


コンコース階。かなり広々としています。
LCDでは、会場内や入場に関する情報をリアルタイムで案内するのだとのこと。


先ほども触れましたが、大阪市内中心部から夢洲会場までの鉄道路線は、この「OsakaMetro中央線」のみ。

シャトルバスも市内外の各方面から多数が運行されるようですが、利便性という点ではこの駅が最大の玄関口になりそうです。日中でも、最短3分間隔というラッシュ並みの運行が予定されているとのこと。早く乗りたいですね。


おそらくこれから開幕に向けて、万博にまつわるものごとが大阪では身辺に溢れて来るのではないかと察します。


1970(昭和45)年、先の千里での万博同様、大阪の街が万博を機にどのような変貌を遂げるのか。個人的には大変興味深く期待しています。


今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。


「奈良線系特急車両の変遷」と題したパネル展示を引き続き拝見しています。


またも先取りですが、パネル展示の次にあったポスター展示より。
近鉄特急が誕生60周年を迎えた際のもの。



戦後間もない1947(昭和22)年、混乱の続く世相の中で、戦前製の状態の良い車両を整備して大阪・伊勢間を結ぶべく運行されたのがその嚆矢。以降、時代の変遷とともに個性的で魅力のある車両が次々と登場、今日に至ります。



さて、パネル展示はいよいよ平成が近づいて来ます。1988(昭和63)年3月、近鉄の看板列車名阪特急のイメージを大きく変える、特急専用車両が劇的なデビューを果たしました。

「21000系 アーバンライナー」です。


観光需要の大きい伊勢志摩方面への輸送に対し名阪間はビジネス需要が大きい、という特徴を掴んだ近鉄は、さまざまな車種が運用されていた名阪ノンストップ特急に、その特徴に応じるような専用車両を導入することになりました。


観光輸送のイメージが強いこれまでの2階建てビスタカーの後継ではなく、あくまでビジネス需要を勘案した結果、2階建ての採用は見送りになります。

座席も、ライバルの「東海道新幹線」を意識した「デラックス」「レギュラー」の2クラスに。特に前者は1×2列の座席配置で、JRのグリーン車を凌ぐような重厚な座席が採用されました。



1988(昭和63)年3月のデビュー直後から、従来の近鉄特急のイメージを大きく覆す斬新なデザインの豪華車両、ということで、指定券の確保も困難なほどの大変な人気を博します。

ライバル・新幹線からの乗客転移が雪崩のように発生し、名阪間での近鉄特急の利用客数は急増。「アーバン効果」と呼ばれるほどでした。


平成に入り、後継の「21020系」が2002年に登場。バリアフリー機能も加味して内装は一新され「アーバンライナーnext」という愛称が付けられます。


次いで「21000系」もそれに準じた改造が施されて「アーバンライナーplus」と呼ばれるようになりました。

近鉄特急のイメージを「2階建てビスタカー」から大きく変え、大阪・名古屋間という区間を専用に運行するようになったこともそれまでの近鉄特急にはなかったこと。いずれにしても、現在に至るまで、名阪特急の象徴的な存在感を示しています。こちらも大好きな車両です。



「アーバンライナー」以外にも、平成初期には新型特急車両が多数導入されるようになりました。そのひとつが1992(平成4)年から登場した「22000系 ACE」。


名阪ノンストップの「アーバンライナー」に対し、沿線主要駅に停車する特急車両の置き換えを進める目的で導入されたもの。

旅客需要に合わせて、最小2両単位で編成の組み替えが出来るということで、特急列車が設定されている全路線で運用が可能という、汎用特急の役割を果たしています。ゆえに、沿線ではよく見かけます。



「ACE」の後継「22600系」も2009(平成21)年にデビュー。こちらも汎用特急ですが、この年に開始された「阪神なんば線」乗り入れにも対応しており、団体列車として神戸三宮まで乗り入れることも、特徴のひとつです。

「阪神なんば線」を介して線路は阪神から神戸高速、山陽電車へとつながっていますので、鉄オタとしては山陽姫路まで運行されたらすごいなあと、これを見るたびに妄想するのですが。


そして、平成も終わりに入ろうかというところで、さらに印象に残るこの2列車が登場します。


「50000系 しまかぜ」。
全座席は1×2列の豪華な革張り座席に、和風・洋風のサロンシートも設置。ビスタカー以来復活した2階建て車両には軽食を味わえるカフェ車両を連結することに。




デビューから10年以上経過した現在でも、指定券の確保が困難な状況が続くという、大変な人気の列車です。大和西大寺にて。


そして、2020(令和2)年3月には「80000系 ひのとり」が万を持して登場。メタリックレッドがまばゆいこの車両は「アーバンライナー」の後継の、名阪特急としてデビューしました。


「しまかぜ」の内装に習い、ビジネス需要の高い名阪特急においても、豪華な設備でゆったりと利用出来る特徴がウリで、やはり人気列車となりました。


この「ひのとり」の登場で「アーバンライナー」は名阪間の速達型特急から退き、主要駅停車の名阪特急へと転身しました。

とはいえ、名阪特急は「ひのとり」「アーバンライナー」の殆どがそれら専用車両になったために、利用する側としては大変ハイレベルになった名阪特急です。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



「奈良線系特急車両の変遷」と題したパネル展示を引き続き拝見しています。



続いては「30000系」。近鉄特急の代名詞とも言える2階建て車両「ビスタカー」です。こちらも小さい頃から、大好きな車両。


パネル展示の先にあったポスター展示から、またもや先取りですが、この「30000系」がデビューした当時(1978年12月)のもの。「記念試乗券」なんですね。大変な意気込みでのデビューだったことが伺えます。


ところで、ポスターには「30000系」が「ビスタカー3世」と記されています。その上には、それまでに登場した、1世・2世の車両の姿が。


「ビスタカー」は2階建て近鉄特急の代名詞、と述べましたが、その歴史はこの「10000系」という車両に遡ります。1958(昭和33)年デビュー。出典①。


新幹線のまだない時代に、台車や機具類は高速走行が可能な、国鉄特急にもない破格で超高性能なものを実用化。しかし最大の特徴は、編成の間に連結された2階建て車両でした。

アメリカ横断鉄道のドーム車両に範を模したとされるこの2階席は「ビスタドーム」と呼ばれ当時の人々の度肝を抜きました。


試作車的な性格が強く、1編成7両しか製造されなかったビスタカー1世。世界初の2階建て電車として大変なインパクトを残したといいます。


その「10000系」を参考にして、翌1959(昭和34)年に登場したのが、ビスタカー2世こと「10100系」でした。


大阪から名古屋に至る広大な路線網を持つ近鉄ですが、「大阪線」と「名古屋線」の軌道幅が異なるために直通運転が出来ず、途中の「伊勢中川駅(現在は三重県松阪市)」での乗り換えを余儀なくされていました。

しかし同年の9月、伊勢湾台風で多大な被害を被った「名古屋線」の復旧工事と同時に狭軌(1,067mm)の「名古屋線」は「大阪線」と同じ標準軌(1,435mm)にあらためられます。


軌道幅が統一され、大阪・名古屋間の直通運転が開始されたのに合わせて登場したのが、この車両でした。近鉄名古屋にて。


基本は3両編成で、中間の1両が2階建て構造。
先代の「10000系」から設計が見直され、座席を2×2列配置にするなど定員も増大させます。


階下席(1階席)には半個室式の座席が設けられるなど人気を博しました。最終的には3両×18編成、合計54両が1963 (昭和38)年にかけて登場、近鉄特急の看板車両に躍り出ます。


こちらも、後ほど拝見したポスター展示から。

後継に「30000系」が登場することになり、特別に3編成をつないだ9両の重連で、最後の運行を行った時のものでした。1978(昭和53)年から翌年にかけてのことだそうです。


わたしはこの頃は生まれたばかりでしたので、当然ながら見たり乗ったりはしたことがありません。しかし、スピード感ある顔つきに2階建てですから、乗ってみたかったです。



そして「30000系」が「ビスタ3世」。
個性的な特急車両が居並ぶ中でも、いまなお存在感のある「30000系」だと感じます。



そして平成が近づく中、まさに劇的なデビューを果たした特急車両がありました。

「21000系 アーバンライナー」です。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「近鉄80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1990年10月)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。




ここからも、引き続きパネル展示を拝見して行きます。「奈良線系特急電車の変遷」。

解説にもありますが、奈良・京都・橿原線系統の路線は大阪線と比べて路線規格が小さく、また、架線電圧も異なっていました。それら規格の違いが解消され他路線と同規格になったのは1973(昭和48)年秋のことでした。


奈良線の特急は1956(昭和31)年12月、特別料金不要の列車として登場しました(停車駅は上本町・鶴橋・大和西大寺のみ)。

当時最新型の高性能車両「800系」を用い、奈良の鹿をあしらったヘッドマークを掲げて阪奈間を30分ほどで走破したという、終日にわたり運行されたシンボル的な列車でした。出典①。


「新生駒トンネル」の開業(1964年9月)翌月には、奈良線全線で現在の規格である大型車両の運用が可能になり特急にも充当されました。

しかしながら1972(昭和47)年11月のダイヤ改正で、料金不要だったこの特急は停車駅を増やす形で新設の「快速急行」に置き換えられ、現在に至ります。


近鉄の他の路線で見られるような、有料の座席指定特急の設定が奈良線でもなされるようになったのは、翌1973(昭和48)年9月のこと。

同時期には「難波〜大和西大寺〜京都間」の有料特急も設定されました。その一番列車。このルートは朝夕の観光特急「あをによし」と同じです。学園前にて。


他路線と同規格となったことで、さまざまな特急専用車両が奈良線にも入線するようになります。車種の多い近鉄特急ですが、その多数に当たります。



目に留まったのは「12200系」という、この車両。先の大阪万博(1970年開催)を期して登場した車両で、デビュー当時には、車内で軽食を提供出来る「スナックコーナー」なるものが設置され、それも人気のひとつでした。


個性的な車両の多い近鉄特急の中において、標準軌の路線の殆どを走破出来るということで「汎用特急」として、地味ながら長らく親しまれた存在でした。


 
ところで先週末、大阪・日本橋のジョーシンでこのような鉄道模型イベントが行われました。

わたしも足を運んで来たのですが、出店されている各メーカーの社員さんと質疑応答が出来るということで、たくさんの人出でした。



そんな中、トミーテックの展示に「12200系」。
話しを伺うと、来年1月に発売になるのだとのこと。いや、かっこいい。


先ほど地味ながら、と触れましたが、この車両人気があるようです。160両以上製造され、奈良線のみならず沿線のどこかしらで目にする、身近な存在だったこともあるのでしょうか。

紺色とオレンジという近鉄特急を象徴する塗装は、この「12200系」の廃車で姿を消してしまいました。3年前、2021(令和3)年のこと。
わたしも、新製品は予約しています\(^o^)/



さて、会場にはパネル展示以外にも、さまざまなポスター類のそれもありました。

コーナーを少し先取りしますが、これは後継の「12400系」という車両が、日本最大の鉄道愛好者団体「鉄道友の会」から「1978年度ブルーリボン賞」という、最優秀の賞を受けた記念のもの。


記念特別急行券(という呼び方が時代を感じます。特急券)の発売に、「12400系」を用いた列車の時刻表。これは親切なもの。


車内の明るい雰囲気から、太陽光をイメージした「サニーカー」の愛称で親しまれています。近鉄特急は、こういった車両の愛称も実に魅力的で、さらに多岐にわたるなあと感じます。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「近鉄80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1990年10月)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



大正初期に開業した、当時としては破格の距離全長3,388mを誇った「生駒トンネル」や、最初の車両に取り付けられていたという名物の駅名表示幕など、貴重な展示を拝見して来ました。


まだまだ続く次の展示は「第2章 奈良線を走った車両デザインの変遷」。

現在の「近鉄奈良線」を1914(大正3)年に開業させたのは「大阪電気軌道(大軌)」という会社。これが近鉄の母体会社と言われます。


ところで、明治末期から大正にかけて、都市部で次々と登場したのが「路面電車規格の電気軌道」。「軌道法」という、鉄道省ではなく、内務省が管轄する法律に基づいたものでした。


明治初期に、蒸気機関車で開業した南海を除く関西大手私鉄の多くはそれを準拠にして開業していますが、大軌もその一例でした。

実は「軌道法」は「軌道の一部でも道路にかかっていれば良い」という解釈だったので、併用軌道(道路と線路を共用)は一部のみで、大部分は専用軌道(線路のみが敷設されたもの)とした例が主でした。


国営鉄道(→国鉄→JR)を管轄する鉄道省は、自らの路線と並行する鉄道の計画には難色を示したといいますが、それに「軌道法」が適用されると、次々に許認可された経緯があります。

「関西本線」や「学研都市線(片町線)」が存在していた大阪〜奈良間に大軌が1914(大正3)年に開業出来たのも、そのような考え方に基づいた許認可がなされたひとつの例だった、と考えられます。開業当初に登場した「デボ1形」。


当時、高速運行の長距離列車は非電化(蒸気機関車)の国営鉄道、路面電車規格でスピードを出さない電気軌道は民営と、比較的そのような棲み分けがなされていたのでした。


しかしながら昭和期に入ってからは、軌道法に基づく路面電車規格の鉄道も大きく近代化を遂げ、今日に至ります。

丸っこい5枚窓の「デボ1形」「デボ61形」とはまったく異なるデザインの「デボ301形」。路面電車とは一線を画した、都市部と郊外とを結ぶような、現在の電車に少しずつ近づいて来たことがわかります。



奈良線では戦後に入り、沿線の開発とともに利用客が激増。車両の増結や大型化が急務になりましたが、府県境の「生駒トンネル」が小型なために車両の大型化が難しかった、という経過は先日項でも触れました。

大軌時代の1935(昭和10)年に製造されたこの「デボ600形」は、奈良線の主力車両。小型車両ながら、増結を重ねながら活躍します。



輸送力改善が難しい中、高性能・軽量設計で車両規格をぎりぎりにまで拡大した車両も製造されました。昭和20〜30年代、全国的に大ブームとなった湘南顔(大型2枚窓)で1955(昭和30)年に登場した、この「800系」。

奈良線特急として華々しくデビューし、近鉄通勤型車両の近代化の幕を切って下ろします。



そして、奈良線輸送力改善最大の事業となった「新生駒トンネル(3,494m)」が1964(昭和39)年7月に開業。残工事の完了した10月には奈良線全線で、現在の大型規格の車両が運行出来るようになります。

そのシンボルとなったのが、この「900系」。
4枚扉・車長20m級という、今日、見慣れた近鉄電車の始祖のひとつがこれでした。「新生駒トンネル」を生駒方に抜けた、特急列車。






その後は次々と大型車両が投入されることに。

こうして、奈良線は関西私鉄の中でも屈指の大幹線と成長して行ったのでした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



今回の特別展の目玉だという「奈良線」の前身「大阪電気軌道(大軌)」で使用されていた、布製の「駅名表示幕」とついにご対面です。わくわくします。


引き続き、この駅名表示幕に収録されている内容を観察しています。
左端には乗り換えや名所旧跡の案内が主に。




「ふせ」で乗り換えとなるのは「大阪線」。
「神宮前」は伊勢神宮かなと思うのですが、路線はこの頃、桜井(奈良県桜井市)から東は未開業。ということで橿原神宮だとわかります。


乗り換えや名所旧跡以外に気になるのは列挙された地名。おらが街ですので知っている場所ばかりなのですが、不思議なことに気づきます。


これ。◯◯方面、の後に記されている文字ですが。行書ですね。読めません(苦笑)
なんと書かれているのかといろいろ調べてみましたら「古ゝ(ここ)」だとのこと。

「此処」と同じ意味合いやねんなあと思うのですが、なんだか風流なものです。


ところで、おらが街の中心部を東西に縦貫している「奈良線」ですが、先ほど触れた次駅周辺だと記された、さまざまな地名。グーグル地図より。


おそらくは、駅周辺の集落名を案内かたがた記したのだと思われるのですが、果たしてどのあたりまでの移動を想定していたのでしょうか。

まずは「はなぞの」「へうたんやま」から。


「河内花園」から北側、いま訪問している「東大阪市民美術センター」が所在している付近が松原(まつばら)。

そして、吉田(よした)はさらに北側ですが、現在は「近鉄けいはんな線」の駅があることで知られます。確かに、美術センターと同じ敷地内のラグビー場も、吉田は最寄り駅のひとつになっていたことに気づきます。


東の「瓢箪山」付近。
「稲荷社」は駅前の「瓢箪山稲荷神社」とすぐわかるのですが、四条(しじょう)や六万寺(ろくまんじ)は徒歩で10〜15分ほど要すでしょうか。現在でしたら、駅前から近鉄バスが経由するのですが。


驚いたのは「高安(たかやす、大阪府八尾市)」の地名があること。布施で分岐する「大阪線」の駅ですが、どうにも瓢箪山からは歩いて行けるような距離ではありません。


大軌が高安ゆきの路線バスを兼業していたのかはわかりませんが、これが最寄り駅になるとは地元民としては、ちょっと驚きます。


続いて「わか江いはた」と「こさか」。



「若江岩田」は、市内中南部に当たるところ。南の「第二寝屋川」を境に、八尾市に至りますが、そのあたりの地名がちらほらと。これらは現在でも、若江岩田や河内花園の駅勢圏です。



そして「河内小阪」。

若江岩田との間には「府道大阪中央環状線(中環)」や「近畿自動車道(近畿道)」で地域は区切られていますが、これらははるか後、1970〜80年代に開業したもの。それまではやはり、田園風景が広がるのんびりとしたところ。


余談ですが「菱江(ひしえ)」は、父方の祖母の生家。よくお邪魔しました。懐かしいです。



「御厨(みくりや)」など含め、現在は「近鉄けいはんな線」や「OsakaMetro中央線」が乗り入れる「荒本(あらもと)」「長田(ながた)」「高井田(たかいだ)」も、概ねそのようでした。荒本にて。



ところで、小阪駅で案内されている地名の中に「稲田(いなだ)」というものがありました。


近鉄沿線では見当たりませんし、はて、どのあたりなのかと思案します。



よくよく考えてみるのですが、先ほどの高井田や長田からさらに北には「稲田新町(いなだしんまち)」という地名があったことを思い出しました。


もうこのあたりは市内でも北西端、最寄り駅は「JR学研都市線(片町線)」の「徳庵(とくあん)」や「鴻池新田(こうのいけしんでん)」がそうです。


小阪からですと、だいたい北東に7〜8kmはあります。とても歩けるような距離ではないのですが、とはいえ、戦前の人々はこれくらい普通に歩いていたのでしょうね。




しかし、想像以上に各駅から遠いところまでの利用を想定していたことに驚くのですが、いまのように便利な路線バスが走っていたでもなくおそらくは、電車を降りてから延々と徒歩移動だったはず。大変なカルチャーショックです。


近鉄八尾駅前から、JR住道(大阪府大東市)に至る近鉄バス43号系統。利用客が多く、頻発している路線です。若江岩田駅前にて。




いまの、LCDやLEDを用いた車内案内表示につながる幕式の巨大な行先表示器。手がこまれているところ、わかりやすさを追求したところなどは、昔もいまも変わらないものなのだなと感心します。いや、いいものを拝見出来ました。


次回に続きます。

今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。


今回の特別展の目玉だという「奈良線」の前身「大阪電気軌道(大軌)」で使用されていた、布製の「駅名表示幕」とついにご対面です。わくわくします。


さて、当時のターミナル駅だった「大阪」(正確には「上本町駅」)から続く、さまざまな情報が記されたこの巨大な表示幕。

「奈良線」の駅々が続いて行くのですが…


途中から「奈良線」とは異なる別の駅名が並びます。

「西の京(にしのきやう)」「九条(くでう)」「郡山(こほりやま)」に「平端(ひらはた)」。


さらに「田原本(たはらもと)」から「新ノ口(にのくち)」、そして「八木(やぎ)」。



これらの駅々は「大和西大寺駅」から分岐している「橿原線(かしはらせん)」なのでした。

「奈良線」の開業に続き、1923(大正12)年3月に大阪電気軌道(大軌)によって「西大寺〜橿原神宮前間」が全通しています。
ということは、現在の奈良線と橿原線とでは車両は共通で使用されていたということ。


近鉄の路線図をさらに拡大してみるのですが、その出自というものは、実に複雑です。

「奈良線」を含む周辺の路線は大軌の手によるものですが「大阪線(桜井以東)」「京都線」や「南大阪線」「吉野線」などは、まったくの別会社として開業した経緯があります。これらが一手に合併して誕生したのが、今日の近鉄です。近鉄ホームページより。路線図を一部加工。


それでは、この表示幕の様式について詳しく見てみましょう。

左側から「次駅周辺案内・乗り換え案内」、中央に「次の停車駅」、右側に「広告」ほか。これらが横長に連なっています。



この表示幕が搭載されていたのは、大軌が「奈良線」を開業させた当時にデビューした「デボ1形」という、この車両でした。出典①。

2両連結化、集電装置のパンタグラフ化など、時代に合わせて改造が重ねられましたが、昭和30年半ばに廃車。開業当時の貴重な車両だということで、後にデビュー時の姿に復元され保存されます。あやめ池遊園地(現在閉園)にて。


内部の様子。木造ということもあって、車内にはこのような装飾もなされていたのですね。


大阪側の起点「上本町駅」には、開業後しばらくしてから中世の城郭を思わせるような、百貨店も入る巨大な駅ビルがつくられました。

建て替えられる1970年代まで、周辺のシンボル的存在だったといいます。出典②。



ここを起点に発着していたのが、デボ1形以来の「奈良線」でした。

うるし塗りの底光りする車体、と解説にありますが、竣工直後でしょうか、ぴかぴかです。


車内は、通勤通学の利用を見込んだ3扉。この時代は2扉一択でしたので近代的な設えだと思えますが、なんとも上品な雰囲気です。沿線の人々にとっては驚きだったに違いありません。


運転室と車掌が詰める前後部、その仕切りの鴨居あたりに設けられていたのが、くだんの布製駅名表示幕なのでした。

確かに、3面に分かれています。


車掌が運転室内の紐を引くと、ベル音とともに
幕が作動。次駅や案内、広告が切り替わるというもの。いや、これはすごいアイデア。おもしろいですね。


しかし、アナログとはいえど、利用客にわかりやすい案内だと感じます。広告までちゃっかり?掲載しているのも、なんだか先進的です。


展示を拝見していて気づくのですが、これ、今日普通に見かける車内の、LEDやLCD式の案内と目的がまったく同じではないですか。





次駅や乗り換え、広告などを表示するものでおなじみですが、このアイデアを大正時代に実現させていたということにあらためて感嘆します。いや、すごい。「特急ひのとり」車内にて。

さらに、次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年7月)
(出典②「カラーブックス637 近鉄線各駅停車1 奈良線・生駒線」徳永慶太郎著・保育社発行 1984年4月)