うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
内っちゃん先生の「古代史はおもろいで」

ブログ 「ご挨拶」


 このブログも140回を超えました。古代史に関わるさまざまな疑問に挑戦し、本当の古代史はどんなものかを探って来ました。そのなかで浮かび上がってきたのは、古代史家らが日本の「正史」と考えてきた『日本書紀』のいかがわしさでした。分かってはいましたが、探っていくと「ここまでうそを並べたか」とびっくりするほど事実を捻じ曲げていて、ひどい内容であることがわかりました。

 消されたのは九州政権や卑弥呼らの国ですが、その中で『書紀』の執筆者は、読者に何とか事実を探るきっかけを与えようと各所に“暗号„を散りばめています。この“暗号„に気付くかどうかで歴史の真実に近づけるかどうかが決まりそうだと分かってきました。

 〝うその歴史〟は文部科学省の役人や一部の古代史家たちによって再生産され、市民や子供たちに教えられています。古代史像から導かれる国のアイデンティティはとても重要です。嘘八百の古代史は市民を直撃して地獄に落とすでしょう。

 第二次世界大戦の経緯をみれば明らかでしょう。教育界は今とさして変わらぬ「嘘の古代史」を平然と市民に教え込み、軍の首脳は銃をちらつかせて政治を乗っ取り、東京の「大本営」でマスコミに嘘情報を垂れ流し、マスコミは嘘情報に尾ひれをつけて紙面を飾りました。

 何十万人もの市民が焼夷弾で焼かれ、苦しみのあまり断末魔の叫びをあげながら川に飛び込み、原爆でも目玉まで飛び出さされ、全身焼けただれた姿で苦しみながら焼き尽くされた町をさ迷いました。南方の森の中では支援もなく空爆にさらされて逃げまどい、カエルや蛇を食い尽くし、死んだ仲間の肉まで食べて挙句の果て死にました。

 国史学者らは軍部にへつらい、財閥だけは世間を謳歌しました。若者たちは「国の為、天皇陛下のために死ね」と言われて将来の夢や人生を捨て、爆弾を抱えて死地に赴きました。「国の為」などは全くの嘘で、実は戦争を起こした軍部・参謀たちの命と面子を守るためでした。

敗戦が決まるとマスコミと教育界は「一億国民総ざんげ」などと言って戦争の責任を市民に転嫁しました。まったくとんでもない事です。

 彼らが一日も早く良心を取り戻し、市民全てが本当の歴史を知るようになって欲しいものです。その一助になれば幸いです。ぼちぼちですがこれからも頑張るつもりですのでよろしく。

  どんな事を探って来たのか。テーマ別に主なものをまとめてみました。ぜひ読んで下さい。ご批判大歓迎です。

()内はブログのナンバーです。

九州倭(いぃ)政権実在のデータ47

九州年号とは6135698134135

九州の遺跡の年代は間違いだらけ5122139

九州にいた古代の天皇 
神武(131141142他)景行11684他)継体1314138139)、安閑1556)、神功皇后697579)、成務80)、天のタリシヒコ(1617)、斉明(120123)天智959899101102
前方後円墳は「大和政権の墓」ではない。

紀(姫・木・基・記・貴)氏が造り始め、やがて九州倭政権の墳形に7978127

卑弥呼の鏡262937548389

大国主・大己貴は山陰の出雲でなく九州にいた737496

九州政権の一翼を担っていた熊襲234131548599395138139

「東海紀(貴)氏国」を造り君臨した紀氏240819199)。

「倭」を「わ」と読むのは間違いだ11144

・古代史年表(14312

・偽られた聖徳太子像(161966102104137

・このほか山陰、丹波、岡山、埼玉、熊本、薩南などで古代史を探っています。「うっちゃん先生」こと九州古代史研究会主宰 内倉武久

ブログNO193

鹿児島県地方紙 社長殿

いかがわしい古代史記事と報道姿勢について

 

38日付け鹿児島県の地方紙に古代史記事「指宿(いぶすき)で古墳時代の大規模集落遺跡発見」が掲載された。鹿児島の知人が送ってくれた(写真)。すごい規模の遺跡であることが分かったのだが、相変わらず記事の中に決定的とも思える事実誤認があるひどい報道であると感じた。すぐに新聞社の社長殿と、発掘に関係したとみられる大学長殿あてに、資料を添え、善処するよう申し入れた。もちろん、発掘費用を含め調査費はすべて税金でまかなわれている。


193-1
 

何が「ひどいか」というと、まず第一に遺跡の年代がほとんどでたらめであることだ。第二に、建物跡から「鉄斧」が発見されたが、まったく何の証拠もなく、「鉄器は朝鮮で生産され、日本に運ばれてきた」という。見出しにもなっている。

事実としては、年代は放射性炭素(14C)による年代測定など理化学的な測定が行われておらず、「大和政権一元論」に基礎を置いた思い込みなどの影響が強い「土器編年」による判定を基礎にしていることだろう。年代測定の話はまったくない。

「土器編年」方式による年代判定は、関西地域ではほぼ正確なのだが、九州においては、「土器編年」より14C測定値の方が「150年あるいは300年」ほどは古いという結果が数多く出ている。著しく違うのだ。もちろん世界の物理化学者がこぞって研究した成果である14C年代測定の方が正しい。(当ブログNO.005「九州、東北の遺跡の年代は修正が必要だ」参照)。さらに、東アジアの鉄器の出現時期の問題もあり、記事では遺跡の年代を古墳時代中頃から後期にかけての「5世紀後半から6世紀」としている。しかし実際は「三世紀前半」、あるいはそれ以上古い時期にまでさかのぼる可能性もある。弥生時代から古墳時代にかけての時代です。

 

事実としては、鹿児島を含む九州には縄文時代から弥生時代にかけて、東南アジアや中国から先進的知識とテクノロジーを身に着けて来た数多くの渡来人が次々訪れたことが分かっています。古代の巨大交通路である黒潮を利用してである。彼の地では、窯で焼く硬質土器である「須恵器(すえき)」は4000年ほと前から造られており(良渚文化期)、九州で出土している須恵器は渡来人が渡海の折「水がめ」などとして使ったものもある、と考えられる。ここでは大阪・陶邑の「土器編年」は全く役に立たないのである。

九州は、いやでも日本の最先端の文化を持ちえた地域であり、関西は九州に比べて後発地域でありました(当ブログ177「九州に渡来した三つの大族」など参照)

それと、記事では出土した鉄器を「朝鮮製」と断定していますが、それは明らかな間違いであろう、と考えられます。朝鮮人が鉄器を手に入れたのは5世紀前後と考えられている。九州では渡来人によって紀元前5世紀の中国の戦国時代ごろには鉄器の知識が入り、その後しばらくして鉄器の製造も始まったと考えられる(当ブログ150157「鹿児島の鉄生産」など参照)。

5世紀初頭(407年)には、倭(ヰ)国(熊本の姫氏と熊曾於族が造っていた九州政権)は1万領以上の鉄製の鎧冑(よろいかぶと)を所有していたとみられる。熊曾於族の墓である地下式横穴墓や円墳、姫氏の前方後円墳から、かなりな量が出土している。が、高句麗との朝鮮での戦いで完敗し、ほぼすべてを高句麗に奪われた。高句麗好太王石碑の第三面の刻文がその事実を雄弁に語っている当ブログ184「熊本の残存鉄製鎧冑」など参照)。

この石碑について、朝鮮の古代史研究者が、「刻文は日本の軍部が朝鮮支配を正当化するために、石灰を塗って改作した」と主張した。しかしその後、北京大学図書館に、石碑発見当初の「拓本」が保存されていたことがわかり、主張は覆された。

記事にある鉄器」は現地で作られたものであることはほぼ確実でしょう。大隅半島の遺跡などからも出土している。渡来人たちは、鉱物資源を活用する豊富な知識と技術を持って渡来してきました。現地の豊富な銅や鉄など鉱物資源を活用して日本全域を支配し、我が国初の年号(当ブログNO.190134など「九州年号」参照)まで建てて権力を得ました。「通説」派が必死になって隠そうとしている事柄です。

 

記事に談話を寄せている鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也氏は大阪の出身で、上智大学?だったか、どこか東京で考古学を学んだ方です。結構いい研究もしている人だが、鹿児島、宮崎のすごい古代史をしっかり研究することもなく、客観性ゼロの『日本書紀』を主体とする「通説」を学んでそのまま、自らの研究に持ち込み、発掘した遺跡について事実とは違う解釈や、解説をしているケースをよく見かける。鉄は「朝鮮由来」もそのひとつだ。

古来日本(倭国=九州政権)は、朝鮮半島を侵略の対象とし、「草刈り場」としました。客観的な資料である中国の史書や高句麗好太王石碑がその事実を雄弁に語っています。「朝鮮から人々や鉄器、文化も来た」などということは決してありません。地図では近い国のようですが、九州と朝鮮を結ぶ海峡は、風任せ、潮任せの古代の舟では決して渡って来れない恐ろしい海峡でした(欄外の付録「対馬海峡は小舟では渡れない」参照)。

 

九州の「事実ではない古代史」や「戦前と大して変わらぬ古代史」は九州大学の一部など官学の研究者によって広められ、市民は騙され、洗脳もされています。戦前はこうした「事実ではない古代史」が広められ、世論のバックボーンになりました。

もちろん、紹介した記事の過ちや誤認はすべて貴紙の責任、というわけではありません。が、報道機関として取材先の言っていることが正しいか否か、きちんと検証してから記事にする。それは報道機関として最も大事な責務でもありましょう。まして取材先に無断で自らの見方を記事にするなどもってもほかだ。「検証」することなしに取材先のずさんな見解をそのまま紙面に載せたとすれば、「共犯」のそしりを免れないと感じます。

貴紙の古代史に関する現在の報道の有り様は、戦前と同様の「九州は蛮族どもが住んだ地域」であるという誤った認識に基づいていると考えられます。事実としては、「あり得ない大和政権一元論」を目論んだ『日本書紀』の記述に基づく認識のもとに行われているのでしょう。

その結果、「いかがわしい古代史」を読者、県民に振りまき、結果的に庶民を「洗脳」しており、責任は重大です。戦前と同様、一般庶民は再び戦争という地獄に引き込まれる恐れがあります。

朝日新聞はかつて約830万部の購読者数を誇っていました。しかしこの20年ほどで約500万部を失い、今や廃刊一歩手前です。傲慢で、嘘を平然と書き続けたことが一般に知れ渡り、信用を失ったのです。

記事にするにはそれ以前に、取材先が間違いのないことを言っているのかどうか、異なる意見はないのかなどを謙虚に、きっちり調べてから記事にし、読者に伝えるべきです。これは新聞として「常識」でしょう。朝日新聞はこの「常識」をも閑却しました。貴紙が今、やっておられることは、まさしく朝日新聞のやり方と同じではないかと感じます。

「古代史」というのは、ただ単に「古い事」や「ロマン」などではありません。日本では特に「将来を見据える重要なテーマ」であり、「世論や心の問題」であることを認識し、必要な手を打つようにしなければなりません。

貴殿にお便りするのはこれで三回目です。いくつかの資料を添えて送りますので、しっかり検討し、必要な処理をしていただき、朝日新聞と同じ道を歩まぬよう、読者に正しい情報を提供していただくようにお願いいたします。

◇付録◇ 朝鮮から日本へは渡れない

朝鮮から日本へ渡るには、逆巻いて大荒れする対馬海峡を乗り切らなくてはならない。この海峡は南からは黒潮の分流が、狭い海峡に阻まれて急流となり、北からは親潮が海峡を目指して南下する。黒潮と親潮がぶつかり、いろんな場所で危険極まりない三角波が発生する。小舟は翻弄され、たちまち難破し、沈没事故が多発する海域だ。しかも、半島上空からは激しい偏西風吹き、海上はその吹き返しで行く手を阻む。

以前、角川書店の角川春樹氏が、商船大学のカッター部員らを集めて、半
193-2 島から九州への「渡航実験」をしたことがある。しかし、九州へたどり着く前に、海流や波を乗り越えることが出来ず、失敗に終わった。付き添いの大型船に引っ張ってもらい、疲れ切ってほうほうの体で九州に着いた。地図で見て考えるのと現実は全く違うのだ。

おまけに半島の南部には、九州に向かおうとして漂着に失敗し、半島まで海上を漂った大陸南部からの難民が大勢、漂着して勢力を張っていた。もちろん九州に漂着した難民と同じ民族の人々だ。檀君神話で語られる「卵生神話」は東南アジアで語られる神話と骨格は全く同じであることが知られている。九州と同じ氏族の人々だから言葉も通じることが多かっただろう。紀元前後から半島南部は「倭国」に組み込まれていたことが、『魏志』韓伝に記録されている。「韓は、東西は海、南は倭と接している」と。(図=黒潮と親潮がぶつかる半島南岸=参考 茂在寅雄「古代日本の航海術」

 

倭(いぃ)国の時代、すなわち古墳時代までの朝鮮半島は、周辺諸国、すなわち高句麗や中国、さらに九州倭(いぃ)政権の「草刈り場」として従属させられていた。

百済も新羅も倭国に人質を差し出すよう命じられ、実行していた。高句麗好太王石碑や朝鮮の史書『三国遺事』が語る悲劇のとおりだ。「半島」は世界中、何時でもどこでも周辺強国の「草刈り場」にされる。現代もプーチンの餌食にされたクリミア半島の例もある。朝鮮人も史上ずっと、周辺国の意向を恐れながら暮らしてきた。気の毒な運命ではある

朝鮮半島から多くの人が渡来してきた、という説は、地図上での想像以外の何物でもない。机上の妄想である。確かに『新撰姓氏録』には多くの朝鮮人が記載されている。しかし、そのほとんどは後の百済(~六六〇年)からの遺民とか、半島を支配していた中国人だ。国がつぶされたため七世紀に、必死で同盟を結んでいた「倭国」を頼って逃げてきたのである。

一方、日本(()国)から朝鮮半島へはわりとスムーズに行けた。九州西端の有明海から五島列島へ渡り、済州島東方を目指す。そこから対馬海流に乗れば難なく朝鮮の南海岸に着けのだ。

九州古代史研究会主宰  内倉武久

ブログNO.192

混迷深めるウクライナ情勢

お知らせ「豊の国古代史研究会」動画に新たに二本アップ


 世の中変遷極まりない。特に米国でトランプが大統領になってからの「変遷」は目まぐるしい。

 まず、ロシアの「嘘つきプーチン」に侵略されたウクライナのゼレンスキーが、停戦を目論んだ米国のトランプの所に行ったはよかった。が、ロシアからの情報だけを振り回し、援助の見返りにレアアースの採掘権を要求したトランプに切れて、大喧嘩になってしまった。

 確かにウクライナはロシアに比べれば小さく弱い国であり、米国をはじめとする国々の援助なしで、ロシアと戦える国ではない。特に米国の援助は巨大といってよい。

 実際は米国の援助も、自由主義社会を守るための「美しい犠牲」ではない。自国の軍需産業が潤うためのものである。民主党のバイデンはその辺をうまく誤魔化して「善人ぶり」をアピールしていた。国際社会はそれほど「美しい」ものではない。

 プーチンはこれまで、ことあるごとに「核のボタン」を見せびらかして、国際社会、特にEU・西側を脅してきた。「何時でもウクライナを核攻撃するぞ」というわけだ。しかしこれは本音としては、ウクライナを支援していた西側には「単なる脅し」と受け取られていた。 「いざとなったら、核大国の米国が後押ししてくれる」とEU諸国はふんでいたのだ。

 だがトランプの時代になって、その見通しは期待できなくなった。米国の勢いの減速のよってトランプは各国に「見返り」や「独自主義」を打ち出してきた。以前から米国の支援はもう期待できないのではないか、との観測はかなり強くなっていたのだが、それが現実になったのだ。「偉大な国・アメリカ」はトランプの言葉とは裏腹に消えてしまいつつある。

 ゼレンスキーは、けんか別れした後、EUや英国の首脳たちと協議して、軍事支援を続けてもらうように約束を取り付けた。そしてトランプの停戦案に同意する、と再度の会談の申し入れをしたという。果たしてうまくいくかどうか。トランプが狙っている、とされる「ノーベル平和賞」受賞は別として、「停戦」は緊急の課題だ。プーチンが停戦案に同意するかどうか、暗雲は漂ったままだ。


EU諸国はもはや米国は頼りにできないことを悟り、EU唯一の核保有国であるフランスは、諸国に対して「核の分散所有」を打診し始めた。ロシアの「脅し」に危機感を抱く近隣国のなかには賛意を示している国もあるとか。


 トランプは日本に対しても「軍備予算の増額」を打診している。GDPの3%を充てるよう要求しているという。この金で米国から多くの武器を買わせようというわけだ。日本は第二次大戦の敗戦以来国内に多くの米軍基地を許し、「米国の核の傘」の下でノホホント暮らしてきた。周囲に中国や北朝鮮という「核保有国」が誕生して、「何かあったら、何時でも日本を核で壊滅できる」と脅しの体制を整えている。

 「核は悪だ。世界からすべての核を無くそう」は理想の言葉である。が、現実の世界はそれほど甘くない。自らの国を守る軍備もないのに、立憲民主党などの「米国の傘」を基本にした甘えの構造がどこまで現実的か、そしてどこまで通用するのだろうか。


 お隣韓国では、地方裁判所が「戒厳令」を布告した伊大統領の逮捕を無効にしたと報じられている。まあ、現職の大統領が獄に繋がれる、という「後進国丸だし」のおそれはなくなったらしい。が、この国のやることはまったく理解に苦しむ。強国にはさまれて苦しみ、ハチャメチャな国であることは先刻ご承知ではあるが。


 日本でも、脅しに対抗するための「核の保有」が議論を呼ぶことになるのだろうか。


           ×         ×          ×

〈お知らせ〉

 「豊の国古代史研究会」の動画で、新たに「神武天皇は二人いた」と「蛇行鉄剣は熊襲の剣だった」の二点を加えました。講師は小生です。相変わらずしゃべりは不得手ですが、見てください。

 「神武天皇・・・」は、実際九州にいた弥生時代後期の「神武天皇」と、その諡号(しごう=死後に贈られた名前)をパクリ、大和の首長に付け替えた『日本書紀』に記す「ニセ神武天皇=神倭磐余彦」の話をします。

 「蛇行鉄剣・・・」は、中国から鉄の知識などを持って、南九州に渡来した熊襲・隼人族(熊曾於族)が、自らの墓である地下式横穴墓や崖墓(横穴墓)、そしてそれに続く「円墳」に収めた独特の剣が「蛇行鉄剣」であり、富雄丸山古墳出土のものは、その行き着いた形の剣であることをお話ししています。

 いずれも、疑問のない数々の確かな証拠を挙げてお話ししています。

パソコンで「豊の国古代史研究会」と打ち込み、案内に沿って開いていきますと見れます。うまくいかないときは

toyonokodai@gmail.com

に自分の電話番号を添えてメールし、やり方を教えてもらってください。各動画はそれぞれ所要時間一時間半ほどで、有料動画は、一本見るのに¥500円かかります。どうぞよろしく。(20253月)

ブログNO191

「前方後円墳」は姫氏、「円墳」は熊曾於族の墳墓だった

 


24年7月に東大阪市の古代史研究グループ「文化財を学ぶ会」で、「前方後円墳は大和政権が造ったものではなく、姫(ki)氏によって築かれた」ことを話した。日本の古代史の上で国史学者らが徹底して秘密にしていることに「九州年号」の存在がある。それは「大和政権一元論」という古来日本には「権力と言えるものは大和政権しかなかった」という、歴史事実とはまったく違うことを一般に流布し、うそで国をまとめようという試みであった。

 それは大宝元年(701年)、九州倭(ヰ→いぃ)政権の衰微に付け込んで、列島の支配権を奪った「大和政権」の藤原不比等が、傀儡の女帝らを操り、政権内で自らの氏族の勢力拡大を図るために創った『日本書紀』によって実行された。

明治の維新政府は、新しい統治体系を成功させるため、『日本書紀』によって天皇を「不可侵の神」とした。一旦は成功したものの、結果的に天皇制は軍部に利用され、市民は77年後、原爆で焼かれ、支援もない南方の森林で飢えにさらされて死に、内地でも米軍の空襲に逃げまどって死ぬ、という「生き地獄」を味わうことになった。

 今、九州の遺跡は九州大学など「官学」の指導によって、理化学的年代測定が忌避され、年代を著しく偽られ、何百年も新しく考えられている。「日本文化は、朝鮮を経由して畿内からの始まった」ともいう。「教科書」によって、多くの市民は「洗脳」され、「大和政権一元論」は常識ともなっている。

だが、心ある一般の市民や「亡き者」にされた人々は、決して黙っていなかった。今、数多くの「反論」がなされている。それは「九州倭政権」=「東海姫氏国」という国があり、さらに「姫氏国」を滅ぼした熊曾於族の国が、我が国初の年号である「九州年号」を建てたことが明らかになっている。

不比等らの改ざんに密かな反抗を試みた当時の官僚がいた。『続日本紀』に残した724年、神亀元年の聖武天皇の詔勅のなかに「九州年号」をひそませた。数百個にのぼる「九州年号」の実際の使用例あるが、この時まで実際に一般で使われていたことを明確に示している。


 『日本書紀』によって消されたのは、熊曾於(熊襲・隼人)族を取り込んで、鉄と馬による強力な政権を打ち立てた「姫(紀、木、記、貴、基)氏政権」、すなわち「九州倭(いぃ)政権」である。いずれも中国大陸南部から、古代の大動脈・黒潮を利用して来た「難民」の子孫たちだ。

 『魏志』に記録された邪馬壹国の女王「卑弥呼(日の御子)」や、姫(紀)氏政権については、拙著『謎の巨大氏族・紀氏』(三一書房)のほか、研究で新しく得た知識をもとに当ブログでもNO81から91まで11回にわたって記述している。お読みいただきたい。

 彼らは紀元二世紀ごろから七世紀まで、日本全土の支配権を確立していた。姫氏が自らの政権の証として採用していたのは、中国・江蘇省の闔閭(こうりょ)墓を伝統の標識としたいわゆる「前方後円墳」であったろう。姫氏は支配した400年間に、全国に約4800基を造った。

 前方後円墳が最も多い地域は、九州倭政権の首長であった「景行天皇」や「倭武天皇」が鉄や鉱物資源をねらって進出し、支配していた常陸(日立)の国であり、狭い地域に約720基が築かれている(当ブログNO84『常陸の国風土記』参照)。

 前方後円墳は、姫氏勢力によって九州から追い出された「五瀬の命」や「狭の命(神倭伊波礼彦)」ら伊都(倭奴)国王家の面々が、一応落ち着いたとされる大和地域にも多く築かれた。もちろん、彼らはすぐに滅ぼされたとみられるが、ここでは敵対していた勢力を強く意識し、反乱を牽制し、威嚇するために、特に巨大に造られている。さらに、姫氏らが侵略を繰り返していた朝鮮半島にも30数基が築かれている。もちろん、「大和政権」とは何の関係もない古墳だ。

 

一方、熊曾於族が自らの墳墓として採用していたのは、地下式横穴墓の上部構造でもあった「円墳」である。地下式横穴墓は中国の「偏室墓」をそっくり受け継いだ形のものである。その入り口は地表に口を開けているから、このままでは台風や長雨の時は、石室は水びたしになって墓の用をなさない。実際には入り口に円形の雨避けの溝と土盛りを盛っていた。

土盛り(円墳)は後の時代に、耕作の邪魔になるので削り取られた。鹿児島県鹿屋市の、一般には「謎の古墳群」とされる「川東古墳群」は、築造当時の地下式横穴墓がきっちり保存された形であろう。数基の円墳状の土盛りがあるが、土盛りの中には何も入っていない。きちんと調査すれば、土盛りの下には地下式横穴墓の入り口が口を開けていることが分かるだろう。

もちろん、中国の地下式横穴墓(偏室墓)のなかには、築造当時の土盛り(円墳)を入り口に設けている例も報告されている。

この土盛りが熊曾於族の墓の標識になったらしい。地下式横穴墓を引き継いだ多くの横穴墓(崖墓)の上に、一基だけ円墳が造られていて、熊曾於族の墓であることを示している。

この伝統が熊曾於族が円墳を造るようになったと思われる。地下式横穴墓や崖墓から大量に出土する「蛇行鉄剣」の行きついた形が、長大な「蛇行鉄剣」が出土した奈良市の富雄丸山古墳(円墳)だろう。

熊襲も『記紀』によって蛮族の如く偽られ、その実態が隠されている。地下式横穴墓は、これまで「朝鮮半島から齎された」などとされていたが、実際は中国にその祖型があった。小生の研究で判明した。その築造時期も、実際は紀元前後であると考えられるのに、5世紀とか7世紀などと大幅に新しく考えられている。

考古学者や国史学者らは、地下式横穴墓に大量に埋納されている鉄製の鎧(よろい)や冑(かぶと)、太刀、剣、馬具を見て、「鉄や須恵器は5世紀に朝鮮半島から齎された」という誤った考えから、地下式横穴墓の年代が誤られたのだ。

実際には鉄製品は、鹿児島や宮崎、さらに支配していた朝鮮半島南部で大量に造られていたのだが、古墳時代に、半島での高句麗との戦いで「鎧冑一万余領」を奪われた。広開土王石碑にその事実が刻されている。

須恵器は、紀元前3000年以前には同じ形で立派なものが、中国で造られていて、鉄製武器も紀元前5世紀の戦国時代には広範囲に造られ、鉄製武器をどれだけ多く持っているかで戦いに勝利するか、敗者になるかが分かれた。

姫氏も熊曾於族も、中国を脱出し、黒潮に向かって漕ぎ出す時、水瓶用などに使う須恵器や鉄に関する知識をもって九州や朝鮮半島南岸に漂着したのだ。であるから、何回も言っているように、九州の須恵器の年代は、大阪・陶邑の年代とはぜんぜん違い、古いのだ

『魏志』倭人伝には「倭国には馬や豹、羊などはいない」と記録されている。これは間違いない記録であろう。『魏志』がいう「倭(i)」とは「姫(ki)氏国」から子音kが抜けた国の事であり、卑弥呼以前には敵対していた熊曾於族の国とは違う国のことを言っている。 

熊曾於族は馬の知識に長けていて、雲南省などの馬と同じ小型のトカラ馬や中型馬の志布志・御崎馬の祖先の馬を使っていたと考えられる。

彼らは墓を中国での在り様と同様、地下から崖に掘った形(横穴墓)に変え、さらに独自の円墳に変えたのだ。

熊襲族(熊曾於族)は自ら「輝ける(熊)SOU族」と名乗っていた。熊曾於族の持つ「犬祖伝説」について、姫(紀、木、記、基、貴)氏は、彼らを「犬野郎(狗奴)の国だ」などとさげすんでいた(『魏志』)。が、結局527年、姫氏の最後の王であろう「磐井天皇」が、熊曾於族の袁本杼(継体天皇)によって滅ぼされた

 袁氏はもちろん、中国出身の名族であり、「継体」は恐らく鏡作りなど鉄や銅の知識を身に着けて渡来した人の子孫であろう。日中両国で「袁氏作鏡 真大好」銘の3世紀代とされる三角縁鏡が複数枚発見されている。

継体天皇は、中国で行われていた年号を自分も建てようとして、「九州年号」を発布して、全国を支配下に置いた。九州年号は522年から、大和政権が誕生し、701年、初めて「大寶」という年号を建てるまで全国で使われた。

そして『日本書紀』は、神武天皇から天武天皇直前までの九州倭政権の天皇に贈られた諡号(死後の贈り名)をすべてパクリ、大和の大王に付け替え、あたかも古墳時代に大和政権があったかのように偽装している。

今、大阪南部の国指定史跡・一須賀古墳群など熊曾於族が築いたと思われる古墳群が、すべて朝鮮からの渡来人の墓であると勘違いされ、一般に流布されている。「百済からの渡来人が造った」ともされるが、百済からの渡来人が大勢来たのは、古墳時代も週末に近い7世紀の660年以降である。国が滅んでしまったので、同盟を組んでいた倭国を頼ってきたのである。それまでは高句麗や新羅の攻撃に耐えられず、倭国に支援を求め、その都、すなわち「九州の都」に皇太子を次々人質として送っていた。

また、朝鮮から九州などに渡来しようと思っても、ほとんど不可能だ。狭い対馬海峡で黒潮は急流となり、北からの親潮ともぶつかる。あらゆる海域で三角波が発生し、現代の何百馬力という船でないと航行は不可能だ。距離は近いが、机上で考えるのと実際は全然違う。

おまけに『魏志・韓伝』が伝えているように、半島の南部は、黒潮に乗って九州に行こうと考えた人々が九州に漂着できなかったり、上陸を拒否されたりして、やむなく半島南部に住んだ。こうした人々が大勢いた。「韓伝」は、半島の南側一帯は3世紀時点ではすでに「倭」の領土であったことを記している

朝鮮人が大部隊でもないかぎり、敵地である「倭」の地を通り抜けることもほぼ不可能だろう。捕まえられ、奴隷にされるか、殺されて金品を奪われるかのどちらかだ。

九州倭(いぃ)政権は、新羅からも人質をとっていた。人質は厳しい監視下に置かれ、人質の奪還をめぐる悲話が朝鮮の『三国史記』や『三国遺事』に綴られている。一須賀古墳群は九州とはかけ離れた場所である。5,6世紀ごろの築造で、円墳がほとんどだというから、朝鮮系の人が葬られている、というのはでっちあげの「証拠」を基にしたほとんど妄想に近い見方ではないかと疑われる。

仮に、間違いなく朝鮮製の出土物があったとしても、朝鮮半島に侵略し、支配していた姫氏や熊曾於族が半島で手に入れたものを記念品として副葬したことも考えられる。

一須賀古墳群からは、熊曾於族の地下式横穴墓から崖墓(横穴墓)、そして円墳へと続いた古墳と全く同じもの、すなわち馬具などの鉄製品、金製、金銅性の飾りなどが大量に出土している。「九州年号」の使用例から伺えるように、全国を支配下に置いていたことも通説を否定しなければならない証拠のひとつと考えられる。もちろん、「横穴式石室」も古いものが九州にごまんとある。

20252月)