ブログNO193
鹿児島県地方紙 社長殿
いかがわしい古代史記事と報道姿勢について
3月8日付け鹿児島県の地方紙に古代史記事「指宿(いぶすき)で古墳時代の大規模集落遺跡発見」が掲載された。鹿児島の知人が送ってくれた(写真)。すごい規模の遺跡であることが分かったのだが、相変わらず記事の中に決定的とも思える事実誤認があるひどい報道であると感じた。すぐに新聞社の社長殿と、発掘に関係したとみられる大学長殿あてに、資料を添え、善処するよう申し入れた。もちろん、発掘費用を含め調査費はすべて税金でまかなわれている。
何が「ひどいか」というと、まず第一に遺跡の年代がほとんどでたらめであることだ。第二に、建物跡から「鉄斧」が発見されたが、まったく何の証拠もなく、「鉄器は朝鮮で生産され、日本に運ばれてきた」という。見出しにもなっている。
事実としては、年代は放射性炭素(14C)による年代測定など理化学的な測定が行われておらず、「大和政権一元論」に基礎を置いた思い込みなどの影響が強い「土器編年」による判定を基礎にしていることだろう。年代測定の話はまったくない。
「土器編年」方式による年代判定は、関西地域ではほぼ正確なのだが、九州においては、「土器編年」より14C測定値の方が「150年あるいは300年」ほどは古いという結果が数多く出ている。著しく違うのだ。もちろん世界の物理化学者がこぞって研究した成果である14C年代測定の方が正しい。(当ブログNO.005「九州、東北の遺跡の年代は修正が必要だ」参照)。さらに、東アジアの鉄器の出現時期の問題もあり、記事では遺跡の年代を古墳時代中頃から後期にかけての「5世紀後半から6世紀」としている。しかし実際は「三世紀前半」、あるいはそれ以上古い時期にまでさかのぼる可能性もある。弥生時代から古墳時代にかけての時代です。
事実としては、鹿児島を含む九州には縄文時代から弥生時代にかけて、東南アジアや中国から先進的知識とテクノロジーを身に着けて来た数多くの渡来人が次々訪れたことが分かっています。古代の巨大交通路である黒潮を利用してである。彼の地では、窯で焼く硬質土器である「須恵器(すえき)」は4000年ほと前から造られており(良渚文化期)、九州で出土している須恵器は渡来人が渡海の折「水がめ」などとして使ったものもある、と考えられる。ここでは大阪・陶邑の「土器編年」は全く役に立たないのである。
九州は、いやでも日本の最先端の文化を持ちえた地域であり、関西は九州に比べて後発地域でありました(当ブログ177「九州に渡来した三つの大族」など参照)。
それと、記事では出土した鉄器を「朝鮮製」と断定していますが、それは明らかな間違いであろう、と考えられます。朝鮮人が鉄器を手に入れたのは5世紀前後と考えられている。九州では渡来人によって紀元前5世紀の中国の戦国時代ごろには鉄器の知識が入り、その後しばらくして鉄器の製造も始まったと考えられる(当ブログ150~157「鹿児島の鉄生産」など参照)。
5世紀初頭(407年)には、倭(ヰ)国(熊本の姫氏と熊曾於族が造っていた九州政権)は1万領以上の鉄製の鎧冑(よろいかぶと)を所有していたとみられる。熊曾於族の墓である地下式横穴墓や円墳、姫氏の前方後円墳から、かなりな量が出土している。が、高句麗との朝鮮での戦いで完敗し、ほぼすべてを高句麗に奪われた。高句麗好太王石碑の第三面の刻文がその事実を雄弁に語っている(当ブログ184「熊本の残存鉄製鎧冑」など参照)。
この石碑について、朝鮮の古代史研究者が、「刻文は日本の軍部が朝鮮支配を正当化するために、石灰を塗って改作した」と主張した。しかしその後、北京大学図書館に、石碑発見当初の「拓本」が保存されていたことがわかり、主張は覆された。
記事にある鉄器」は現地で作られたものであることはほぼ確実でしょう。大隅半島の遺跡などからも出土している。渡来人たちは、鉱物資源を活用する豊富な知識と技術を持って渡来してきました。現地の豊富な銅や鉄など鉱物資源を活用して日本全域を支配し、我が国初の年号(当ブログNO.190、134など「九州年号」参照)まで建てて権力を得ました。「通説」派が必死になって隠そうとしている事柄です。
記事に談話を寄せている鹿児島大学総合研究博物館の橋本達也氏は大阪の出身で、上智大学?だったか、どこか東京で考古学を学んだ方です。結構いい研究もしている人だが、鹿児島、宮崎のすごい古代史をしっかり研究することもなく、客観性ゼロの『日本書紀』を主体とする「通説」を学んでそのまま、自らの研究に持ち込み、発掘した遺跡について事実とは違う解釈や、解説をしているケースをよく見かける。鉄は「朝鮮由来」もそのひとつだ。
古来日本(倭国=九州政権)は、朝鮮半島を侵略の対象とし、「草刈り場」としました。客観的な資料である中国の史書や高句麗好太王石碑がその事実を雄弁に語っています。「朝鮮から人々や鉄器、文化も来た」などということは決してありません。地図では近い国のようですが、九州と朝鮮を結ぶ海峡は、風任せ、潮任せの古代の舟では決して渡って来れない恐ろしい海峡でした(欄外の付録「対馬海峡は小舟では渡れない」参照)。
九州の「事実ではない古代史」や「戦前と大して変わらぬ古代史」は九州大学の一部など官学の研究者によって広められ、市民は騙され、洗脳もされています。戦前はこうした「事実ではない古代史」が広められ、世論のバックボーンになりました。
もちろん、紹介した記事の過ちや誤認はすべて貴紙の責任、というわけではありません。が、報道機関として取材先の言っていることが正しいか否か、きちんと検証してから記事にする。それは報道機関として最も大事な責務でもありましょう。まして取材先に無断で自らの見方を記事にするなどもってもほかだ。「検証」することなしに取材先のずさんな見解をそのまま紙面に載せたとすれば、「共犯」のそしりを免れないと感じます。
貴紙の古代史に関する現在の報道の有り様は、戦前と同様の「九州は蛮族どもが住んだ地域」であるという誤った認識に基づいていると考えられます。事実としては、「あり得ない大和政権一元論」を目論んだ『日本書紀』の記述に基づく認識のもとに行われているのでしょう。
その結果、「いかがわしい古代史」を読者、県民に振りまき、結果的に庶民を「洗脳」しており、責任は重大です。戦前と同様、一般庶民は再び戦争という地獄に引き込まれる恐れがあります。
朝日新聞はかつて約830万部の購読者数を誇っていました。しかしこの20年ほどで約500万部を失い、今や廃刊一歩手前です。傲慢で、嘘を平然と書き続けたことが一般に知れ渡り、信用を失ったのです。
記事にするにはそれ以前に、取材先が間違いのないことを言っているのかどうか、異なる意見はないのかなどを謙虚に、きっちり調べてから記事にし、読者に伝えるべきです。これは新聞として「常識」でしょう。朝日新聞はこの「常識」をも閑却しました。貴紙が今、やっておられることは、まさしく朝日新聞のやり方と同じではないかと感じます。
「古代史」というのは、ただ単に「古い事」や「ロマン」などではありません。日本では特に「将来を見据える重要なテーマ」であり、「世論や心の問題」であることを認識し、必要な手を打つようにしなければなりません。
貴殿にお便りするのはこれで三回目です。いくつかの資料を添えて送りますので、しっかり検討し、必要な処理をしていただき、朝日新聞と同じ道を歩まぬよう、読者に正しい情報を提供していただくようにお願いいたします。
◇付録◇ 朝鮮から日本へは渡れない
朝鮮から日本へ渡るには、逆巻いて大荒れする対馬海峡を乗り切らなくてはならない。この海峡は南からは黒潮の分流が、狭い海峡に阻まれて急流となり、北からは親潮が海峡を目指して南下する。黒潮と親潮がぶつかり、いろんな場所で危険極まりない三角波が発生する。小舟は翻弄され、たちまち難破し、沈没事故が多発する海域だ。しかも、半島上空からは激しい偏西風吹き、海上はその吹き返しで行く手を阻む。
以前、角川書店の角川春樹氏が、商船大学のカッター部員らを集めて、半
島から九州への「渡航実験」をしたことがある。しかし、九州へたどり着く前に、海流や波を乗り越えることが出来ず、失敗に終わった。付き添いの大型船に引っ張ってもらい、疲れ切ってほうほうの体で九州に着いた。地図で見て考えるのと現実は全く違うのだ。
おまけに半島の南部には、九州に向かおうとして漂着に失敗し、半島まで海上を漂った大陸南部からの難民が大勢、漂着して勢力を張っていた。もちろん九州に漂着した難民と同じ民族の人々だ。檀君神話で語られる「卵生神話」は東南アジアで語られる神話と骨格は全く同じであることが知られている。九州と同じ氏族の人々だから言葉も通じることが多かっただろう。紀元前後から半島南部は「倭国」に組み込まれていたことが、『魏志』韓伝に記録されている。「韓は、東西は海、南は倭と接している」と。(図=黒潮と親潮がぶつかる半島南岸=参考 茂在寅雄「古代日本の航海術」)。
倭(いぃ)国の時代、すなわち古墳時代までの朝鮮半島は、周辺諸国、すなわち高句麗や中国、さらに九州倭(いぃ)政権の「草刈り場」として従属させられていた。
百済も新羅も倭国に人質を差し出すよう命じられ、実行していた。高句麗好太王石碑や朝鮮の史書『三国遺事』が語る悲劇のとおりだ。「半島」は世界中、何時でもどこでも周辺強国の「草刈り場」にされる。現代もプーチンの餌食にされたクリミア半島の例もある。朝鮮人も史上ずっと、周辺国の意向を恐れながら暮らしてきた。気の毒な運命ではある
朝鮮半島から多くの人が渡来してきた、という説は、地図上での想像以外の何物でもない。机上の妄想である。確かに『新撰姓氏録』には多くの朝鮮人が記載されている。しかし、そのほとんどは後の百済(~六六〇年)からの遺民とか、半島を支配していた中国人だ。国がつぶされたため七世紀に、必死で同盟を結んでいた「倭国」を頼って逃げてきたのである。
一方、日本(倭国)から朝鮮半島へはわりとスムーズに行けた。九州西端の有明海から五島列島へ渡り、済州島東方を目指す。そこから対馬海流に乗れば難なく朝鮮の南海岸に着けたのだ。
九州古代史研究会主宰 内倉武久