<韓国ドラマ カクシ タルより>
 
6章 朝鮮の人物-69 現代5
ソン・ギジョンSon Gi Jong 
 
 
 
2021年夏、とうとう波乱の東京オリンピックが開催されました。
賛否両論、と言うより世論は片方に傾きましたがこれに対する論評は避けます。
 
オリンピック開催を記念して2019年NHK大河ドラマで、日本のオリンピックの歴史を綴ったクドカンこと宮藤官九郎脚本の「いだてん 」が放送されました。
 
 
コチラの方は序盤ドラマの構成が斬新過ぎて分かり難かったのか、現代を扱った違和感も有り視聴率が史上最低を記録し散々叩かれましたが、一部視聴者の間ではすこぶる評判も良く歴史に残る秀作との評価も有りました。
 
大河ドラママニアの私は勿論最後まで視聴しましたが、序盤の分かり辛さを通り越せばそれはそれで面白くとても毎週楽しく最終回まで視聴出来ました。
しばらく「いだてん 」ロスに掛かった程です(笑)。
 
このドラマを観ながら思ったのは自己のオリンピックと言う歴史を語れる日本はどれだけ幸せだろうか?と言う事です。
朝鮮はこの時期世界に存在すらせず自己の歴史が無いのです。
 
私は国粋主義者では有りませんが歴史修正主義者に一言言いたいです。
日本が朝鮮を発展させた、人口を倍増させた、身分制度から解放した云々…言いますが、日本は私たちの歴史を奪ったのです。
自己の歴史が空白なのです。
 
<ドラマ いだてんより>
 
例えばGHQ占領下で日本「アメリカ」の国旗を掲げてアメリカ人としてオリンピックに出るとしたら事がどれだけ悔しく哀しい事か。
李完用などの売国奴たちもそこまで頭が回らなかったのでしょう。
修正さん方もいっその事、そこまで気を回してもらえれば植民地で良かったなどと美化は出来ないでしょう。
 
しかし、先の「いだてん 」にも描かれて居ましたが、そんな中でも解放前のオリンピックに朝鮮人が日本代表として参加しました。
 
1932年のロスオリンピックにはキムウンベ、クォンテハが、そして1936年ベルリンオリンピックでソンギジョンナムスンリョンが同じくマラソンで参加し、金、銅メダルを獲って居ます。
 
今回はソン・ギジョンを含めたアスリートたちについて、そして南北朝鮮のオリンピックの歴史を簡単に見たいと思います。
 
<キンウンべ(中央)とクォンテハ(右)>
 
キム・ウンベはソウル生まれ、日本の早稲田大学に留学しました。
高等学校の時から陸上選手として活躍し、1930年に行われた朝鮮高校陸上大会5,000m種目で優勝、同年9月朝鮮陸上大会で1,500mとマラソン競技で優勝し、1932年ロスオリンピックのマラソンにクォンテハと共に、日本代表に選ばれました。
 
朝鮮人としては初のオリンピック大会参加で、6位に入賞しました。
8・15解放後、朝鮮陸上競技連盟、韓国マラソン普及会など国内の陸上の普及、発展に寄与し、韓国陸上の代表級選手を多く輩出しました。
 
同じく初参加したクォン・テハは忠清北道忠州生まれです。
日本の立命館大学中学に転校し、明治大学を卒業しました。
 
 
彼はオリンピック代表予選で1次、2次それぞれ優勝し、オリンピック本大会では9位でした。
その後アメリカに残り、南カリフォルニア大学で経済学を専攻しました。
 
彼も解放後、体育の振興に努め、朝鮮体育同志会の総務委員、朝鮮マラソン普及会委員長を務めました。
1961年には大韓陸上競技連盟会長も務めて居ます。
 
ソン・ギジョンは1912年10月、平安北道の現新義州市民浦洞にて、三人息子の末っ子で生まれました。
 
当時殆どの朝鮮人たちがそうだった様に非常に貧しく、彼は学費と小遣いを稼ぐ為、路上でトウモロコシ売りやうどん屋の配達員のバイトをしたと言います。
 
<ソンギジョン>
 
学校に通う2kmの距離を、子供の頃から毎日走って通ったと言い、遊びも鴨緑江の河辺を走る事だったと言います。
 
彼の陸上の才能に注目した担任教師が彼に陸上選手になる事を勧め、普通学校5年生の時から陸上選手として活躍しました。
 
1932年、先生の斡旋により日本で苦学生として渡日しましたが、労働の苦しさで学業との両立が出来ず、僅か6ヶ月で故郷に戻って居ます。
 
彼はサラリーマンとして仕事をして、休みの日に走って練習しました。
そして1932年京城(ソウル)で開かれた第2回東亜マラソンに出場するも道に迷い、惜しくも2位に終わりました。
 
しかしこの試合のおかげで、当時朝鮮で陸上の名門だったヤンジョン養正高等学校に入学し、陸上に専念出来る事になりました。
 
その結果、翌年の第3回東亜マラソンでは見事優勝を収めました。
 
そして1935年に東京明治神宮フルマラソンに初出場して、2時間26分42秒という、非公認では有れど世界新記録で優勝しました。
 
<ベルリンオリンピック マラソン>
 
ちなみに、当時非ヨーロッパ圏で開かれた大会は、大会運営やコースの長さを信頼する事が出来なかった為、多くが公認記録として認められませんでした。
 
その後、同い年で高校の同期だったナムスンリョンと共にベルリンオリンピック代表選抜戦に参加する事になりました。
そして、代表選抜では1位にナム・スンリョンが、2位にソン・ギジョンがランクインして代表の座を射止めました。
 
すると日本代表チームは、何としても2人を蹴落とす為、現地で2次選抜を行い不正行為を行うと言う前代未聞の暴挙に出ました。
 
結局、2次選抜でもソン・ギジョンナム・スンリョンは仲良く1、2位を分け合って本戦に出場する事になります。
 
当然日本では「朝鮮人が大日本帝国の代表という事が話になるのか?」と反発の声が上がりましたが、彼らの実力が余りにも有り過ぎたので、反発はすぐに消えました。
 
そしてオリンピック本選競技で2時間29分19秒で、当時のオリンピック新記録を記録し、金メダルを獲得しました。
一緒に出場したナム・スンリョン銅メダルを獲得しました。
ソン・ギジョンの金メダルに隠れがちですが、ナム・スンリョンも終盤にラストスパートで何と30人超えで3位でゴールインすると言う素晴らしい戦果を挙げて居ます。
 
<ナムスンリョン>
 
ナム・スンリョンは全羅南道順天生まれ、彼も明治大学に留学しました。
日本マラソン選手権と1933年極東選手権で相次いで優勝しており、日本の建国記念国際マラソンで2年連続連続1位、オリンピック代表選抜ではソン・ギジョンを抑えて1位でゴールインし、日本代表として選ばれました。
 
当初、陸上協会は彼を代表から外そうと画策しましたが、コーチだったクォン・テハを始め、1928年アムステルダムオリンピックで日本初の金メダルを獲得した陸上の織田幹雄らが彼の代表入りを支持し、代表に選出されました。
 
紆余曲折の末の参加でしたが、本大会では上記の如く健闘しました。
 
1947年1月から63年9月までの陸上競技連盟理事、全南大学の教授などを歴任して居ます。
 
ソン・ギジョンの話しに戻りますが、彼のマラソン優勝は当時日本の植民地支配下で苦しんでいた朝鮮人たちの間に熱狂的な反響を呼びました。
田舎のオバちゃんたちでさえ、オリンピックが何で有るかを知っている程度だったと言います。
 
<日章旗抹消事件>
 
彼ら、そして1936年ベルリンオリンピックを語る時、抜かせないのが「日章旗抹消事件」です。
 
呂運亨の回で触れますたが、彼の優勝の姿から胸の日章旗を抹消して記事に載せたのです。
 
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東亜日報はこの事件により無期間停止、実質的な廃刊に追い込まれました。
彼も総督府から要視察人物とマークされ監視される羽目になりました。
その為、祖国への凱旋も歓迎ムードとは無縁で、静かな帰国となって居ます。
ソン・ギジョンはスポーツのヒーローになったにも関わらず、堂々と活動が出来ませんでした。
 
 
章旗抹消事件を通して朝鮮民衆の民族意識の強化を警戒した総督府は彼に私服警官をつけて監視し、後に彼はこの時期非常に辛かったと振り返って居ます。
 
その後彼は普通高校を卒業し普成專門学校(商科)にて修学、陸上で活躍しました。
しかし朝鮮総督府は、彼が朝鮮の独立のアイコンになる事を恐れ、彼を昼夜に渡り監視、彼はその状況に耐えられず、1937年中退し日本に留学、明治大学に編入しました。
 
 
所が、日本官憲は彼が公衆の前で走る事を禁止、毎年恒例の箱根大学駅伝にも出場が叶いませんでした。
解放まで銀行員として働きました。
 
解放後、彼は故郷から韓国に越南、1948年に大韓体育会副会長兼オリンピックマラソン代表監督に就任、韓国がKOREAの名前で初めて参加した1948年ロンドンオリンピックで開会式旗手として太極旗を掲げ入場しました。
韓国選手団はこの大会に7種目67名を派遣、重量挙げとボクシングで初の銅メダルを獲得しました。
 
ソン・ギジョンは1971年にはオリンピック委員会(KOC)委員、1981年からソウルオリンピック組織委員を務めました。
 
<ソンギジョン>
 
1992年バルセロナオリンピック男子マラソンファン・ヨンジョが金メダルを取りましたが、ソンギジョンはその現場に居合せて居ます。
ファン・ヨンジョがゴールインする瞬間、バルセロナオリンピック公式中継放送は、スタンドにいた彼をオリンピック公式記録の「ソン・ギテイ」で無しに「ソン・ギジョン」という名前と一緒に、「1936年ベルリンマラソン金メダリスト」という字幕と共に映し出しました。
奇しくもその日はベルリンと同じ8月9日でした。
1997年から、足の動脈硬化の為外出がならず、2002年11月に持病だった慢性腎不全と肺炎により他界しました。
 
韓国選手団は1948年大会より、1980年モスクワオリンピックボイコットを抜かし毎回参加、近年ではメダル国別順位10位以内に入る健闘をして居ます。

1988年アジアで2番目に開催したソウルオリンピックでは一躍4位に踊り出て世界の耳目を集めました

2019年のピョンチャン冬季オリンピックも記憶に新しい事と思います

 
もう一方の共和国選手団は、1972年モントリオールオリンピックから出場と遅れました。
 
この問題も書けば1話分を要しますが、かいつまんで述べると…
 
<世界陸上記録保持者 共和国シングムダン>
 
当時1国1委員会の原則から、当初我が国のオリンピック委員会が朝鮮南北合同「朝鮮オリンピック委員会KOC」として加盟した事も有り、IOCでは東西ドイツを倣い、「南北合同チーム」を要求しました。
しかし、韓国では共和国の申し出を黙殺し、共和国のオリンピック参加は長らく宙ぶらりんの状態になりました。
 
その後、ようやく共和国オリンピック委員会が承認され、単独参加が認められましたが、当時冷戦で西側自由主義陣営がIOCを牛耳って居た事も有り、国号を「北朝鮮North Korea」でしか認めないとの受難を受けました。
1964年東京オリンピックにも代表団が訪日しながらボイコットする羽目になって居ます。
 
1968年メキシコオリンピックでも同様で、ようやくモントリオール大会から朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)として参加が叶ったと言う訳です。
 

初参加から射撃クレーで金メダルを獲得するなど、威力を発揮しました。

 

また、シドニーオリンピックでの南北共同入場など統一に向けたパフォーマンスが世界中の人々を感動させています。

 
<シドニー五輪 合同入場>
 
今回、共和国選手団はコロナ対策の為、棄権となりましたが残念と言わざるを得ません。
 
韓国代表団も応援幕の問題や独島(竹島)表記問題、日本の旭日旗問題など火種がくすぶって居ますが、『平和の祭典』と銘打って居るだけ有り、何とか善処を祈ります。
 
近年オリンピックの商業化・肥大化問題や赤字による債務問題など様々な問題がクローズアップされており、まさに曲がり角を迎えて居ますが、今回の大会が今後のオリンピックの有り方を見直すキッカケになる事を祈りながら文を終えます。
 
<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키 
한국 올림픽 역사
 

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<大河ドラマいだてん より>