<ドラマ 野人時代と第2共和国より>
第6章 朝鮮の人物-77 現代13
李承晩リスンマン❷と曺奉岩チョボンアム
今回はまず李承晩リスンマンの大統領就任後に戻り述べたいと思います。
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初代内閣は様々な党派出身の人物で構成され、
彼が確固とした基盤を持たなかった為に寄り合い所帯だったと言えますが、
農林部長官として立場が反対の左翼
チョボンアム曺奉岩を任命して居ます。
これは地主階級である韓民党を牽制し、以北で解放後早々に実施された土地改革を睨み、農民の緊急課題で有る土地問題解決の為の方策と思われますが、それは後日1950年3月に農地改革法として結実します。
余談ですが、この「有償没収、有償分配」の農地改革は農民たちの支持を得て、朝鮮戦争中に自己式の土地改革を試みた共和国の支持を阻止し、取りも直さず農民の大韓民国支持の大きな基盤になりました。
しかし、その為にその後の仇敵となる曺奉岩と手を握って居る事が皮肉です。
彼は日本に対し、李承晩ライン(平和線)に代表される独島(竹島)などの海洋主権絶対死守という超強硬外交路線を堅持し、
6.25に際しても日本軍の正式な派兵を拒否して居ます。
尚、掃海艇など部分的、かつ非公式の参戦は有りました。
1950年5月の第2代総選挙で李承晩系政党は210席の内、改憲阻止線にも満たない57席を確保に終わる大惨敗を喫し、無所属候補が大挙議員に当選され、李承晩最大の危機が訪れましたが、戦争により回避された事は前回述べました。
1950年6月25日未明、朝鮮戦争が勃発しました。
開戦の問題についての記事はコチラを参照下さい↓↓↓↓↓
ソ連の支援を受けた共和国軍は圧倒的な力の元に進撃。
6月26日には議政府を占領してソウルに迫りました。
彼は即時避難しテジョン大田を臨時首都にしました。
6月28日共和国軍がソウルを占領すると釜山に再度避難、戦争終了まで臨時首都としました。
タブ洞戦闘などで洛東江防衛線を死守し、仁川上陸作戦で北進した連合軍はこれを統一の機会と考え38度線突破の命令を下し、10月20日平壌に入城、鴨緑江まで押し上がりましたが中国義勇軍の参戦による反撃に再度押し返されます。
1952年7月には政治ヤクザと警察を動員して一時的に釜山を包囲、野党議員を脅迫して、彼の再選の為の初の親衛クーデターと呼べる『拔萃改憲』を起こしました。
彼は「休戦」を断固拒否し、休戦協定に判を押して居ません。
1953年10月に米国と韓米相互防衛条約を締結し、今も続く米国の対韓国の安全保障体制を築きました。
李承晩は長期執権を狙い
1954年11月四捨五入改憲を起こし、1958年には進歩党事件を起こし野党候補、先の曺奉岩チョボンアムを司法殺人しました。
ここでチョボンアム曺奉岩について簡単に見ましょう。
彼は1894年生、江華島の貧農出身で江華普通学校を卒業し江華郡庁に勤務、3・1運動が起きるとこれに参加し1年間投獄されました。
出獄後YMCA中学部に入学、その後日本に渡って英語学校で学んだ後、中央大学政経学部で勉強する間、東京の留学生が組織した社会主義・無政府主義系列の黒濤会に加入して活動しました。
会が解散されると大学を中退して帰国し、国内の抗日団体である朝鮮労働総同盟文化部を引き受け労働運動をします。
1922年にソ連で開かれた高麗共産党合同会議に国内派の代表として参加して共産党の派閥の統一に努めましたが失敗し、大会決裂の理由をモスクワコミンテルン大会に報告しました。
1924年コミンテルンの指示により共産主義指導者養成機関であるモスクワ東方共産大学短期コースを修了。
その後、帰国して新思想研究会・北風会などの社会主義団体に加入しし、統合団体で有る「火曜会」では創設主役として活動しました。
1925年朝鮮共産党と高麗共産青年会の組織に参与し、第1次朝鮮共産党の結党を主導しました。
日帝の弾圧弾圧により共産党が瓦解すると1926年第2次朝鮮共産党を組織し、5月に満州に行って朝鮮共産党満州総局を組織しその責任秘書となりました。
その後、コミンテルンの指示により上海でコミンテルン遠東部の朝鮮代表も兼任しました。
1926年6・10万歳運動が起こり第2次朝鮮共産党が日本の警察によって再度解体されると、第3次共産党のML党組織に参加しましたが、国内の党との摩擦をもたらし指導機能を失います。
その後、コミンテルンの決定により『1国1党の原則』が打ち出されるとそれに基づいて中国共産党に所属して活動しました。
1932年上海で日本領事警察に捕まり新義州刑務所で7年間獄中生活をします。
その後、故郷仁川で隠居生活をしており、日本の警察の要視察人物に指定され一切の対外活動が停止されました。
1945年2月日本憲兵隊に検挙され再び収監されましたが、8月15日光復と共にに自由の身になりました。
光復後は建国準備委員会仁川支部で活動し、1946年民主主義民族戦線で活躍、その年の5月朴憲永の共産主義路線に対し公開書簡を送って批判して居ます。
1ヶ月後には朝鮮の建国に対し「民族全体の自由生活保障を掲げて労働者階級の独裁、資本家階級の専制どちらも反対する」という「中道統合路線」を主張して朝鮮共産党と決別しました。
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その年の8月以降米軍政当局の左右合作協力を支持協力し、1948年5・10選挙にも参加、仁川で制憲国会議員に当選して憲法起草委員会委員職を務めました。
政府樹立後は前述の様に李承晩と協力、初代農林部長官に就任し農地改革を推進しました。
1949年農林部官舎修理費用の予算転用問題でその責任を負って長官から退き、1950年第2代国会議員に当選して国会副議長に選ばれました。
1952年第2代大統領選挙に立候補しましたが次点で惜しくも落選します。
1956年再度大統領選挙に無所属で出馬、野党候補として全体の有効投票者数の30%にものぼる216万もの票を得ました。
これを基に、同年11月に『責任ある革新政治、収奪の無い計画経済、民主的平和統一』の3大政綱を掲げ、社会民主主義政党の進歩党を結成し、委員長に選任されます。
1958年5月の国会議員選挙に選挙区候補者を立てて院内に進出しました。
しかし、選挙準備中の1958年1月に、スパイと国家保安法違反の疑いで進歩党員16人と共に検挙され最高裁で死刑が確定、1959年7月に死刑が執行されました。
彼の復権と関連して学界と政界で何度も試みが有り、
2007年9月の「真実・和解の為の過去史整理委員会」は彼が関わった進歩党事件が李承晩政権の反人権的政治弾圧と結論を下し無罪が宣言されて居ます。
李承晩は永久執権を狙いこの様に政敵を徹底的に弾圧、クーデターまがいの改憲、不正選挙を幾たび行い、次第に民衆の怨嗟を買いました。
こうして1960年3月第4代大統領選挙で李起鵬が出馬した副大統領選挙で3.15不正選挙が行われました。
慶尚南道馬山で始まった不正選挙抗議デモは釜山、大邱を経てソウルに広がります。
デモでは警察が投入され無差別暴行と連行が起きましたが、
馬山デモに参加した高校生キムジュリョル少年の警察の催涙弾を目に貫通され死亡・遺棄されたむごたらしい遺体が馬山沖合で発見され、国民の怒りは極に達しました。
<キムジュリョル少年>
4月18日には高麗大デモ、4月19日には大規模デモが発生し、爆発した国民は政府の報道機関であるソウル新聞社を燃やし、タプコル公園の李承晩像を破壊しました。
各界の世論が極度に悪化し、教授たちまで時局宣言を発表し「不正選挙を正そう」というスローガンを叫びました。
デモ隊は不正蓄財を繰り広げた李起鵬の家を放火し、警察の発砲によりデモ期間中に180人余りの死者が出ました。
知らせを聞いた李承晩は負傷者が入院している病院を訪れて居ます。
ようやく事態がどう回っているか把握した模様です。
彼は、病院で怪我をした学生を見て「不正を見て立ち上がらない民は死んだ人々だ。この若い学生は確かに素晴らしい。」と述べました。
李承晩は4月26日に市民代表団に会った場で「国民が望むなら下野する」と答え、その直後のラジオで下野する対国民談話を発表しました。
こうして1960年4月28日李承晩は大統領官邸景武台を去りました。
そして1960年5月29日ハワイに出国しましたが事実上の追放で、比較的健康に過ごしたものの病に倒れ、1965年7月享年90歳で生涯を終えました。
私もハワイに亡命したと思って居ましたが、そうでは無さそうです。
彼に対する評価はすなわち、『大韓民国』の正当性の問題に直結するので賛否両論が激しく、簡単には結論が出そうに有りません。
いずれにしても後半生の永久執権野欲は非難されて当然ですが、光州市民数千名を大虐殺しても未だ悔い改める事無く、ふてぶてしい態度で裁判にも顔を見せず正義を云々して居る、かの殺人鬼・元大統領に比べるといくらかマトモに感じてしまうのは甘過ぎるでしょうか?
<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키