<ドラマ 第一共和国>

 
6章 朝鮮の人物ー76 現代12
李承晩リスンマン❶
 
 
 
 激動の朝鮮現代史の中でもひときわ激しい解放直後1945年〜1948年の南朝鮮ですが、中心人物の朴憲永と金九そして呂運亨の生涯から大まかな輪郭は描けたと思います。
 
今回と次回、2回に渡り近代から現代に於ける最重要人物の1人、片朝鮮歴史と言える李承晩リスンマンを見たいと思います。
 
李承晩を思い浮かべると個人的な事で恐縮ですが、いつもウチのアボジの事が浮かびます。
 
もう亡くなって24年経ちますが、インテリで私に似て(逆?)少々カタブツでした。
南朝鮮で生まれて3歳の頃に日本に渡って来た1世ですが、殆ど故郷の事も知らず過ごし、朝鮮総連だったので故郷にも行けず兄弟とも次第に疎遠になり、故郷に足を踏まぬまま逝きました。
 

<ドラマ 野人時代>

 

私は小さな頃から親の過去を聞くのが好きでしたが、余程辛い過去だったのか ほんの断片以外、一切話してくれませんでした。
 
知って居るのは若い頃に日本共産党のオルグをした事位です。
 
滅多に語らない人でしたが、ある日私が李承晩の解放前の行動で悪口を言うと「知らないくせに言うんじゃ無い!」と烈火の如く怒ったのです。
 
李承晩の居た時代に生きた人です。
金日成の事も英雄と認めて居ました。
朴正煕の事は悪く言うのに、4.19で退陣させられた李承晩を庇うなんて…と意外でした。
あの時から彼に興味を持ち始めたと思います。
人によっては彼も英雄なのでしょう。
 
 
私は幼い頃から共和国の立場で朴正煕の次にイケないワルモンと習ったので良い印象は有りませんでしたが、そう言うバイアスを最大限に除去して語りたいです。
 
彼は1875年3月26日、黄海道平山郡で生まれました。
太祖李成桂の18代孫であり王孫ですが、既に没落した家でした。
李承晩は3男2女の末っ子で生まれましたが、上が彼の出生前に死亡したため、長男の役割を代わりにし、事実上の6代独子だったそうです。
 
1877年にソウル南大門外で育ち、地名に因んで号を雩南ウナムとしたそうです。
 
科挙にもチャレンジしましたが、自力で合格出来る時代では無く、科挙自体も甲午改革で消滅してしまいました。
 
 
以後20歳に開花思想を受け入れぺジェハクタン培材學堂に学び、優れた雄弁で鳴らし、徐載弼などの啓蒙活動家たちとも活発に交流、独立協会を中心に啓発運動に参加しました。
 
1898年3月鍾路で開かれた韓国初の近代大衆集会である万民共同会で23歳の彼は、ロシアの利権要求を糾弾して演説をぶちました。
これにより、彼は若いリーダーに浮上します。
 
1898年4月には朝鮮初の民間日刊新聞である
大韓毎日申報を創刊し、
純ハングルで開花文明普及に努めました。
資金難から彼は解任されますが、経験を元に
帝国新聞を創刊し、主筆として民衆啓発と抗日を続けました。
 

<万民共同会>

 

高宗によってナムグンオクなどと共に中枢院議員に任命されましたが、わずか1ヶ月で高宗退位陰謀に加担した容疑で逮捕され、1899年1月漢城刑務所に終身刑で投獄されました。
この時の拷問が彼を生涯苦しめます。
彼は刑務所内で学問研磨と著述活動に没頭しました。
李承晩日露戦争時に英語が堪能で国際情勢に明るい人物を望んだ大臣たちの粘り強い陳情により、29歳だった1904年8月に特別赦免を受けて釈放されました。
そして大韓帝国の独立保全要請という使命に米国留学を決心し、米国に出発します。
 
朝鮮に宣教師として来て居た米上院議員ヒューディーンズモアの助けを借りて1905年2月にジョンヘイ米国務長官に会って朝米修好条約『居中調停条項(Good Office)』に基づいて韓国の独立に協力を要請し、当時のルーズベルトにも独立保全の為の請願書を渡して居ます。
しかし、アメリカが我が国を救ってくれると言う「信念」は大いなる『幻想』に過ぎず、この時期米国はすでに日本と密かに『桂-タフト協定』を結んで朝鮮を見捨てて居ました。
 
 
このルーズベルトとの面談ニュースは国内でもメディアを通じて報道され、新聞は「李承晩は韓国国民の代表者であり、独立した主権の保全者であり、愛国熱意の粋な男子であり、青年志士で有る」と激賛しました。
 
以降ハーバード大学などで学び、我が国で初めてアメリカの博士号を取得します。
 
1908年3月にスティーブンス狙撃事件が起きて在米同胞が法廷通訳を依頼しますが、高額報酬を要求した挙句拒絶します。
この頃から親米主義が骨の髄まで染みこんで居たと言えるでしょう。
 
韓日併合以来、李承晩は1910年10月朝鮮に帰国、皇城YMCA青年会で教師として活動しました。
 

<ドラマ第一共和国>

 

しかし、1911年に日本が総督府寺内総督を暗殺しようとしたとの濡れ衣を着せ700人を逮捕した105人事件をキッカケに、国内では抗日運動が難しいと判断しハワイに渡りました。
ハワイで男女共学制のキリスト学院を作り朝鮮人学生の教育に力を注ぎ、1913年には純ハングル月刊紙「太平洋雑誌」も創刊して居ます。
 
独立運動路線ではこの頃、武装闘争と平和路線との葛藤が起こりますが、彼は教育による実力養成を主張、ハワイ同胞の中心であった国民会議を掌握しました。
 

<パリ講和会議>

 

1918年第一次世界大戦終了後アメリカ・ウィルソン民族自決主義の提唱に、アメリカ韓人社会ではパリ講和会議に於いて韓国の独立を請願する事を決議し、代表に李承晩を選出しました。
 
そこで「朝鮮の完全な独立を保障するという条件の下で、日本の統治から朝鮮を解放させて、国際連盟の委任統治下に置いて欲しい」という内容の委任統治案を作成、提出を予定するも結局パリ講和会議に出席出来ず、米国大統領にこの文書を陳情しますが、これが『委任統治請願事件』で、のちに独立運動に大きな波紋を呼ぶ事になります。
 
 
1919年3.1運動で国内外各地で臨時政府が宣言され、彼は各地の臨時政府を統合した大韓民国臨時政府初代大統領に選出されました。
 
李承晩はその直後ワシントンに欧米委員部を設立、現地僑民たちから受けた独立資金を欧米委員部がほぼ独占して上海から批判を受けます。
前述した委任統治請願事件の反対派の非難と1920年代の臨時政府の資金難や独立路線の違いは、多くの葛藤と重なり手の施し様が無くなって、臨時政府の分裂を招きました。
 
1921年彼はワシントン軍縮会議に向けて朝鮮の独立を訴え、各国代表団やメディアに呼びかけましたが、列強の代表がこれに耳を貸す筈は無く、臨政内でも反李承晩派が勢力を伸ばし始めました。
 
結局、李承晩は1925年3月の臨時定員会で弾劾され追放、彼は臨政に向けた在米韓国人の資金支援を遮断するなど距離を置き、主に米国で活動しました。
 

<ワシントン軍縮会議>

 

ハワイに戻った彼は1925年会社を設立、木を伐採して家具の制作を図りますが、資本不足と運用の未熟で1930年に失敗します。
 
1930年代に入って臨政で反李承晩勢力が弱体化されると再度1934年に国務委員に選出され、国際連盟総会に韓国の独立を嘆願する全権大使に任命されるも、スイスジュネーブでの国際連盟総会に独立請願書を提出し黙殺されます。
1939年第二次世界大戦が起こると彼は拠点をワシントンに移し、1941年には日本のアメリカ侵略を予告する本を出版、1941年12月7日日本の真珠湾奇襲攻撃で太平洋戦争が勃発すると米国社会で李承晩の評判が高まるキッカケとなりました。
 

<ドラマ第一共和国>

 

彼はワシントンに駐米外交委員部を再開し、臨政から駐米外交委員長に任命されます。
李承晩がこの時期から最も力を入れたのは、臨時政府の国際的承認でした。
彼は1943年5月15日ルーズベルト大統領にも謁見、今こそ米国がかつて朝鮮に行った過ちを正す時だと力説して居ます。
 
李承晩は、6月から毎日ラジオ(VOA)短波放送網を介して故国の同胞たちの独立運動を奨励し、国際社会のニュースを知らせる放送活動をしました。
 
アメリカと共同して光復軍を対日戦に投入する作戦も練りますが、日本の早期の降伏により霧散した事は以前にも金九のコマで書きました。
 
彼は1945年4月の国連創立総会に参加して独立の保証を受けようとしましたがうまく行かず、事務局と各国の代表者にカイロ宣言の基本精神に基づいて臨時政府を直ちに承認することを要求する陳情書を送りました。
陳情書による独立運動がどれだけ有効だったかについてはこれまでの経過から少々疑問符が付きますが、一貫して独立請願により朝鮮の独立を目指したと言えるでしょう。
 
 
祖国解放後、彼はマッカーサーと10月4日に帰国しました。
李承晩の名前は朝鮮国内に広く知られていたので、彼は帰国時から多くの支持を受けました。
彼はすべての政治勢力の団結を訴え独立促成中央協議会(独促)を組織、彼の勢力の政治的母胎とします。
 
彼は朝鮮共産党再建派を率いる朴憲永とも接触しますが、お互い意見の溝を埋められず左右組織統合は決裂しました。
 
12月29日モスクワ3相会議で朝鮮の信託統治決定ニュースが伝えられると彼も信託統治に反対、金九と非常国民会議を招集し、正式な国会樹立まで過渡政府を創設し、その為の決定権を彼らに一任する事を主張しました。
 

<歴史ドキュメント 百年戦争>

 

米軍政司令官ハッジ非常国民会議に出席していた人物を集めて会議を開催し、これを米軍政最高諮問機関である「南朝鮮大韓国民代表民主議院」議員に任命、議長に李承晩、副議長には金九金奎植が就任しました。
 
1946年3月20日から第1次ソ米共同委員会が開かれましたが、参加団体を巡る米国ソ連の立場の違いで無期限休会に陥ると、彼は南朝鮮単独政府樹立を主張しました。
これは自分が大統領になろうとする李承晩の権力欲がそうさせたと言う視点と、以北に金日成
「北朝鮮人民委員会」と言う事実上の政府が樹立されていた為、ソ連が朝鮮半島全体を飲み込むのを防ぐ為仕方無かったと言う2つの視点が共存します。
いずれにせよ、この単独政権樹立構想は彼の人生に於ける一番の汚点と言えるでしょう。
 
 
米軍政「精版社偽造紙幣事件」を捏造して共産党を非合法化、中道勢力を中心に1946年12月12日過度立法議院が開院しますが、議員選挙の結果、右翼が圧勝しました。
 
そして1947年彼の訪米中にちょうどギリシャ内戦が起き、世界を一変させた
「トルーマンドクトリン」が1947年3月に発表されます。
 

<トルーマン>

 

ソ連と社会主義を封鎖すると言う、米国の
「反共」対外政策が李承晩が選択した路線と完全に一致する事になりました。
これにより、李承晩単独政府樹立構想は力を得ます。
 
1947年5月21日第2次ソ米共同委員会が行われ、彼はソ米共同委員会を反対しましたが、同委員会は何の進展も無く、平行線を辿りました。
 
そして米軍政は左右の勢力が拮抗する南の地域とは異なり、38度線の北は左翼とソ連が完全に政局を掌握していることに気づき、朝鮮半島全体が共産化される可能性を警戒して信託統治反対団体も参加団体に含める事を主張し同委員会を決裂させます。
 
 
朝鮮問題はルール違反ながらアメリカによって国連(UN)に移管され、1948年1月8日UN韓国臨時委員団がソウルに入国しました。
しかし、北側の地域はUN朝鮮臨時委員団の北側の訪問を拒否しました。
 
ここに彼は南だけでも単独選挙を実施しなければならないと主張、
38度線以南の地域の単独選挙を通じて、自主的な民間政府を樹立する事を決意しました。
 
一方、金日成は5.10選挙を防ぎ、韓国建国に反対する勢力と力を合わせて朝鮮半島全体の統一政府を立てようとしました。
金九金奎植李承晩に反旗を翻し、1948年4月19日南北交渉のため北に行きました。
 
金九金日成は米軍の即時撤退と統一臨時政府樹立の共同声明を発表しましたが、連席会議に参加しなかった政党と団体による単独選挙を防ぐ事が出来ませんでした。
 
最終的にUN韓国臨時委員団の監督によって1948年5月10日、南の地域で5.10単独選挙が実施されましたが、この選挙を阻止する為、南朝鮮地域の左派と民衆が反乱を起こし、それを鎮圧する過程で発生した残念な事件が済州島4.3蜂起虐殺事件です。
 
 
多くの反対とボイコットの中で強行された5.10総選挙で彼は反共団体、西北青年会の策動で無投票にて当選、制憲国会で初代国会議長として憲法を制定、同年7月20日には制憲国会の間接選挙でも多くの票を得て勝利、そして大韓民国政府が1948年8月15日に策定されると共に、正式に大韓民国初代大統領に就任しました。
 
彼は抜群の知名度によりリーダーシップを持ちましたが、政治基盤を持たなかった為、あらゆる政治勢力が激しく対立しました。
 
 
初代内閣は様々な党派出身の寄り合い所帯で、多くの混乱を招きます。
国内基盤が弱い彼は親日前歴がある者でさえも登用し、韓国に於いて親日派が清算されない事態の根本原因を作りました。
朝鮮半島を反ソ反共の前陣基地として活用しようとした米国にとっても親日派清算はあまり重要な問題ではなかったので、現在に続く問題が温存されたと言えます。
 
1948年10月19日には、麗水順天に駐留していた軍人が済州島で起こった反乱を鎮圧しに済州島に行くことを拒否し、韓国単独政府に反対し起こした麗順暴動(麗水軍人暴動)が発生しました。
 
 
1950年5月にあった第2代総選挙で李承晩系政党は210席のうち、改憲阻止線にも満たない57席の確保に終わる大惨敗を経験し、無所属候補が大挙議員に当選され、南北交渉派も大勢議会に進出しました。
 
しかしこの危機は未曾有の悲劇に救われる皮肉な結果となります。
すなわち、朝鮮戦争です。
韓国建国以降については次回再度詳細に見たいと思います。
 
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<参考文献>
나무위키 
한국민족문화대사전
 

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