第6章 朝鮮の人物-51 近代2
金玉均キムオクキュン
近代2番目に取り上げる人物は迷いますがやはり彼、金玉均キムオクキュン(1851〜1894)ですね。
私たちの世代はウリハッキョの歴史の授業で
「1884年ブルジョワ革命(市民革命)」の指導者と習ったので肯定的なイメージが強いですが、
その後1980年代以降「初のブルジョワ改革」に格下げ(笑)され、元は親日派を疑われた人物で評価が南北で多少異なる事も追々知りました。
しかし「三つ子の魂百まで」の言葉通り小さい頃に教わった印象は中々抜けず、朝鮮の独立開化の為文字通り命を賭(と)して戦った戦士と言うイメージが抜けません。
世界史的に例えると、我が国の孫文と言いたい所ですが、孫文と言うよりはどちらかと言えば
「戊戌(ぼじゅつ)の変法」の康有為に例えられるかも知れません。
後述しますが福沢諭吉を始め日本とも大きな関わりが有りました。
彼はその意味で近代朝鮮に於ける世界的にも著名な政治家と言えそうです。
字は伯溫, 号は古筠,古愚で本貫は安東金氏です。
小さい頃同じ家門の養子に入り、若くして科挙に合格しエリートコースを歩みました。
子供の頃から抱負が大きく「あの月はたとえ小さくても全世界を照らすんだね。」と言ったという逸話が有ります。
科挙に壮元(首席)で合格した後、実学派朴趾遠の孫パクキュス朴珪壽のサロンに出入りし、訳官オギョンソク吳慶錫、僧侶リドンイン李東仁などと出会い開花思想を学び、高宗の義弟の朴泳孝や徐載弼などとも交友を結びます。
紙面を多くは割けませんが、朴珪壽も魅力的な人物で、我が国に於ける実学派と開化派との橋渡し的な人物と評価されて居ます。
金玉均は壬午軍乱のあと、修信使として日本に渡って居ます。
17万ウォンの借款を受け我が国初の近代新聞で有るハンソンスンボ漢城旬報を発行しました。
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以後、日本に学び急進的なブルジョワ改革を主張しました。
彼の思想を表す有名な言葉が「日本が東洋のイギリスになるので有れば、朝鮮は東洋のフランスとならねばならない。」です。
彼のこの一言に、我が国への愛国的な改革意志が含蓄されて居ると言えるでしょう。
共和国の研究では1870年代に朴泳孝、朴泳教、徐載弼、洪英植らと開化派を結成したと有ります。
彼は革命に向けて数十人からなる秘密結社「忠義契」を組織、新式軍隊を養成するなど革命準備を急ぎました。
彼を中心とする開化派は高宗の支持を得て多くの改革を手がけますが、次第に明成皇后を始め閔氏政権(守旧派)の眼に余り、様々な妨害を受けました。
身に危険が迫った彼らは先手を打ち政変を企図します。
壬午軍乱以降3000人で駐留して居た清軍が清仏戦争で半減する情勢を見てクーデターを起こしますが、これが有名な「カプシンチョンビョン甲申政変」です。
甲申政変についてはまた後日ワンポイントコラムで具体的に見ます。
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彼らは準備・手勢不足の為、日本軍を利用する事を考えますが、日本公使竹添は彼らの行動に堅く応援を約束しました。
12月4日、新しく開設する郵政局庁舎落成祝賀会の近隣で火を出して、守旧派ら政敵を一網打尽する計画を立てます。
しかし放火が上手く行かず手こずると、開化派は爆竹を鳴らしすぐに昌徳宮に駆けつけ、守旧派と清軍が政変を起こしたと偽って報告。
王一家を別邸に移した後、日本軍200人を利用し、朴泳孝指揮下の別技軍50人で宮を護衛させ、駆けつけた守旧派たちを処断しました。
そして開化派を中心とした革命政府を樹立しました。
14条からなる政綱は朝鮮に於ける初のブルジョワ政綱と評価されて居ます。
しかし、異変を察知し守旧派と密かに連絡を取った明成皇后は手狭を理由に広い昌徳宮への移動を主張し、日本軍は何の問題も無いと豪語し王一家は移御します。
防御に不利な昌徳宮では日本軍に頼らざるを得ませんが、ここに袁世凱指揮下の清軍1500人余りが開化派を急襲、日本軍と竹添は支援の約束を破り逃げ出しました。
3日天下で政権は瓦解し、多勢に無勢となった彼らは日本籍船「千歳丸」に乗って日本に脱出・亡命しました。
この時、金玉均の兄弟はもちろん、家族まですべて全滅させられました。
しかし余談ですが、近年共和国の発表で息子が身を隠し、現在も子孫が共和国に存在する事が話題になりました。
日本に亡命した金玉均は「岩田周作」という日本式の名前を使い、苦しい亡命生活をします。
彼を散々持て囃した日本も彼を冷遇し、北海道、小笠原と転々とさせられました。
彼らの革命の失敗を目の当たりにし、彼への支援を惜しまなかった福沢諭吉は脱亜論を発表、近代化支援では無く朝鮮を植民地にすべしと方向転換する事になります。
朝鮮の朝廷は金玉均暗殺に血眼になりましたが、彼は再起を図り危険を省みず1894年李鴻章の説得の為に清国に渡航、暗殺者ホンジョンウ洪鐘宇に暗殺されました。
甲申政変時、最後まで高宗と行動を共にし虐殺された同志、洪英植の親戚である洪鐘宇を彼は疑わずそばに置きましたが、欲に駆られた洪の拳銃3発を受けて絶命します。
金玉均の遺体は、朝鮮に送還され楊花津で八つ裂きの刑を受け梟首され「大逆不道玉均」のノボリが付けられました。
彼の行動に批判は多いですが、我が国の近代化の為、正に命を賭けて戦った革命家と言え、タラレバでは有りますが、暗殺されず甲午改革に間に合ったならどうなって居ただろうと空想したりもします。
ドラマ・映画も幾つか有り、近い所ではドラマ
「明成皇后」「済衆院」「朝鮮ガンマン」などに登場します。
<参考文献>
나무위키
위키백과
한국민족문화대백과사전
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