<ドラマ 哲仁王后チョリンワンフより>
 
6章 朝鮮の人物-48 近世32
純祖、憲宗、哲宗
 
 
 
近世の人物を通して「朝鮮王朝通史」を描いて居ますが、朝鮮王朝の国王27人中正祖まで22人が終わりました。
最後の高宗純宗は近代で扱うとして後3人ですが、この3人を書くのは少々辛いです。
朝鮮王朝が下り坂を転がり落ちて植民地に陥る入り口に差し掛かってしまったからです。
せめてこの時期に世宗や正祖の様な王様が執権してくれて居たらと忸怩(じくじ)たる思いが有ります。
 
 
まずは純祖(1790〜1834년)ですが、以前述べた朝鮮王朝3大暗君に堂々と選ばれて居ます(笑)。
先の2人(宣祖と仁祖)の様に国を外敵にみすみす明け渡す真似をした訳では有りません。
ただ自主性を持てず無気力・無責任に操り人形になってしまったと言う意味です。
これは勿論本人のみか父の正祖にも責任は有ります。
 
<ドラマ サンド商道より>
 
正祖が王位に上る時、すでに20代半ばを過ぎて居たにも関わらず子息が1人も居ませんでした。
 
王妃からは子供は出来ず、後継者を得るために3人の後宮を娶りましたが、ようやく39歳の時に生まれたのが純祖です。 
純祖は容姿が俊秀で正祖に似てたそうで、正祖は彼をそれはそれは慈しみましたが、成人になる姿も見られず亡くなります。
 
<ドラマ イサンのチョンスン王后>
 
純祖は11歳になった1800年に世子に封じられました。
正祖は11歳になった純祖の妃をカンテク揀択しますが、自分が余り長生き出来そうに無かった為、力を持つ臣下のキムジョスン金祖淳の娘を妃に決めました。
そして婚姻を見届ける事も無く亡くなります。
王室に残ったのは、まだ結婚もしていない11歳の王世子と彼の母、王妃、王世子の祖母、義理の曾祖母のみでした。
純祖はまだ年齢が若かったので義理の曾祖母で英祖の継妃チョンスン貞純王后垂簾聴政スリョムチョンジョンをします。
 
<垂簾聴政スリョムチョンジョン イメージ>
 
貞純王后とその実家は思悼世子に反対するビョクパ僻派でしたが正祖が即位した後粛清され、彼の在位期間中シパ時派に押されて居ました。
 
しかし貞純王后は実権を握った事でこれまで正祖が半ば黙認していたカトリックを強く弾圧し、自己の反対派の南人と時派、小論派などを粛清しました。
これが「シンユパクへ辛酉迫害」と呼ばれる弾圧事件で、100人を超える信者たちが処刑されました。
この時期、良人の減少による国家財政•軍事力の低下を防ぐ為、公奴婢を廃止、庶子差別をも撤廃するなど身分制の変動が起こって居ます。
 
<ドラマ クルミに出る純祖>
 
貞純王后は4年後純祖が15歳になった1804年に垂簾聴政を終了しますが、彼がまだ幼かった為、義父キムジョスン金祖淳が摂政をする事になります。
以来、安東金氏の「勢道政治」が開始され、純祖が親政を開始した後も安東金氏一派が権力を掌握しました。
 
勢道政治により朝鮮王朝は政治•経済が破綻に陥って行きます。
貪官汚吏が大々的に流行り、いわゆる「三政」と呼ばれる田政・軍政・還政が紊乱し、農民は生活破綻に追い込まれました。
 
<映画 群盗 民乱の時代>
 
そして「民乱の時代」と呼ばれる程反乱が各地で巻き起こります。
その中で最も有名なのが次回見ますが平安道農民戦争(洪景来の乱)です。
またこの時期対外的にも異様船と呼ばれる黒船が3回も来航、異変の兆候が現れました。
 
安東金氏の勢力が大きくなると純祖はそれに対抗して豊穣チョ趙氏一族から妃を選びましたが、彼女が後に趙太妃と呼ばれる王妃チョ氏です。
 
純祖は他の王に比べても正当性が優れて居たので、その気になればリーダーシップを大いに発揮出来る筈でしたが、政治に無関心で無気力な姿を見せました。
 
 
特に平安道農民戦争の勃発で完全にやる気を無くし、息子のヒョミョン孝明世子が英明で有ると若くから名高かった事から彼に代理聴政を任せました。
この時皆が諸手を挙げての賛成で、周囲から「お世辞による反対」も無かったと言いますから如何に彼に信望が無かったか分かります(笑)。
 
ちなみにヒョミョン世子がパクポゴム主演のドラマ「雲が描いた月明かり」の世子のモデルです。
 
 
孝明世子は王権強化の姿勢を見せますが、3年後の1830年22歳で急逝してしまいました。
それを追う様に純祖も1834年に逝去しますが、正に暗君と呼ぶに相応しい治世でした。
 
純祖亡き後を継いだのが孝明世子の息子憲宗(1827〜1849)で、以前ワンポイントコラムでも書きましたが歴代史上最年少で即位します。
 
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彼は1830年(純祖30)王世孫に冊封され、1834年純祖が亡くなると7歳の幼い年齢で即位しました。
 
純祖の妃、太王妃スンウォン純元王后が垂簾聴政をしました。
1837年(憲宗3) 趙萬永を筆頭に新たに台頭した外戚豊穣趙氏の勢力が、政権を専横して来た安東金氏の勢力を打ち破り勢道政治を広げます。
 
<映画の憲宗>
 
しかし、彼ら内部の軋轢と1846年趙萬永の死をきっかけに政権は再び安東金氏の手中に移りました。
1841年憲宗の親政に移行しましたが、勢道政治の余波で国家財政の基本となる三政は乱れ国政が混乱しました。
 
彼の在位15年中9年にわたって水災が発生し、1836年・1844年には反乱事件が起きるなど政局は揺れに揺れます。
 
 
1848年からは多くの異樣船(黒船)が出没して狼藉を働き民心が騒然としました。
純祖時のカトリック弾圧政策を引き継ぎ1839年には3人のフランス神父らを始め119人の信者処刑する「キヘパクへ己亥迫害」を行い、のちのフランスによる報復(丙寅洋擾)のキッカケを用意しました。
結局混乱の中1849年23歳の若さで夭折します。
 
<ドラマ哲仁王后チョリンワンフの哲宗>
 
彼の死によって正祖の系統は断絶し、思悼世子のひ孫に当たる哲宗(1831〜1863)が即位しました。
彼は幼い頃は漢陽でそこそこ平和に暮らしましたが、14歳で兄を担いで反逆を行おうとした閔晉鏞の反乱に連累され江華島に流配されて一介の農夫として暮らしてました。
 
 
彼を国王として迎えに来た一行を自分を処刑しに来たものと曲解し、山中に逃亡した逸話が残ります。
 
カンファ江華トリョン(御曹司)と仇名された彼には国王としての帝王学がなされず、親衛勢力も不在で政治基盤が極めて脆弱だったので安東金氏の勢道政治勢力の前に只々無力でしか有りませんでした。
 
1862年三南(慶尚・全羅・忠清)地方を中心に全国規模で、朝鮮王朝史上最大の民乱
「イムスル壬戌民乱」が発生しました。
 
民乱に何の対策も取ろうとしない安東金氏勢力に対し彼は「サムジョンリジョンチョン三政釐整庁」を設置し民生問題を解決する意欲を示しますが、勢道政治家たちに軽くいなされ無力感を覚えます。
 
 
結局何のリーダーシップも発揮出来ない自分の身を嘆き酒色と女色に溺れ、1863年32歳で逝去しました。
後継も皆若く夭折し、いよいよ英祖の系統も断絶しました。
ここに無頼漢と呼ばれたリハウン李昰應が暗躍し、安東金氏勢力を打倒して政権を握りますが、近代史に譲ります。
 
この時期他に特筆すべきは1860年チェジェウ崔済愚により民族宗教であるトンハク東学が創始され民心を急速に掌握、末世観の元で信者を急速に増やして居ます。
こちらも近代史で重要なキーワードとなります。
 
 
最後にこの時期のドラマ映画ですが、時代が時代だけにさほど多くは有りません。
実在の豪商イムサンオクを描いた名作「サンド商道」、日本のジンJINをリメイクした「Dr.JIN」などが有ります。
最近韓国で人気爆発のコメディ史劇ドラマ「チョリンワンフ哲仁王后」は哲宗の王后です。
 

 

<参考文献>
한국민족문화대사전
나무위키 
위키백과 
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ドラマでわかる朝鮮王朝の王たち

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