<共和国映画 朝鮮の星より>
第6章 朝鮮の人物ー78 現代14
キム・イルソン金日成❶
歴史編本編でも語りましたが人物紹介でも金日成キムイルソンについて語らせて頂きます。
今回は解放前の生涯と活動について語りますが、多くが上記記事と重複して居る事をご理解下さい。
全く同じでは面白く無いので前フリとしてウリハッキョ朝鮮学校に於ける『彼についての教育の歴史』についてしばし語ります。
周知の通りウリハッキョ朝鮮学校と金日成キムイルソンは長らく特殊な関係に有りました。
高校無償化問題が持ち上がった時、大阪府知事だった橋下が『大阪朝鮮高校の金日成の肖像画を外せば補助金を支給する』とぶちまけて反発を呼びましたが、以前は全てのウリハッキョの教室に彼の肖像画が置かれ「キム・イルソン革命活動研究室」なる教室が存在しました。(現在では概ね図書室に変換)
ビロード絨毯敷きの部屋に彼の胸像が鎮座し、彼の歩んだ革命歴史のパネルが部屋の壁一面に所狭しと並べられ厳粛な雰囲気を醸し出しました。
この教室は普段使用されず、革命歴史の授業や特別な講義の時間のみに使用されるVIPルームの如くでした。
この研究室、元は『朝鮮歴史研究室』として出発したと聞きます。
5千年の歴史と誇れる人物を研究する場としてリ・スンシンやチョン・ヤギョンなどの肖像画などを飾ったとか。
それが共和国に於ける彼の唯一思想体系の確立と1972年彼の生誕60周年を機に巻き起こった個人崇拝事業の始まりをキッカケに上記の通り改変されたと聞きますが定かでは有りません。
私の小中学校時代には『金日成キム・イルソン元帥 革命歴史 図録解説研究 発表モイム(会)』が数多く開かれましたが、1つのパネル毎に彼の革命歴史を全て暗記し、如何に他の学生の心に響く解説を行うか各学年の代表が競ったモノでした。
私も小学校5年生の時に選ばれ4年生から中学3年生までの少年団全校生徒の前でスピーチを行い、見事『銅賞』を頂いた想い出が有ります(笑)。
口調は共和国テレビの名物アナウンサーリ・チュ二さんの喋り方を連想して下さい(笑)。
この様にかつて1970年代~1980年代に掛けて『キム・イルソン元帥 革命歴史』は朝鮮学校の最大の基本科目で、一言一句を違わず覚え如何に正確に記述するかが重要な試験課題でした。日本の人はそれを洗脳教育と呼びますね、ハイ。
様々な批判の中キム・ジョンイル時代になって「祖国と違い、日本の状況にあった教育をすべき」との彼のツルの一声の元でようやくこの様な画一的教育にメスが入れられ『キム・イルソン元帥 革命歴史』授業は大幅に縮小されました。
小中学校の教室では韓国から来たニューカマーや民団の子弟も通うべくキム・イルソン、キム・ジョンイルの肖像画は降ろされ、授業も「朝鮮の歴史」授業の一部に吸収されて行きました。
私が小学1年生から16年間繰り返し繰り返し習った『キム・イルソン元帥 革命歴史』を我が家のミックスツインズは習っておりません。高校の科目も「現代朝鮮歴史」に替わり現代史全般を網羅する様になりました。
永遠の繰り返しループの思想教育のおかげで私などは有名なキム・イルソンの「教示(お言葉)」を今でも復唱する事が出来ますし、彼の幼い頃からの足跡や革命活動をソラで唱える事が出来ます。
彼が両親の逮捕を機に『祖国解放の日まで祖国には戻るまい』と固く誓い祖国をあとにし鴨緑江を超える件(くだり)などは思い返してもウルっと来ます(笑)。教育とは恐ろしいものです。
この様に70〜80年代ウリハッキョ朝鮮学校で「これでもか!」と叩き込まれた思想教育を嫌って未だに朝鮮総連と朝鮮学校にアレルギー反応を持つ人々も事実存在します。
私も当時の教育政策の良し悪しを一言では総括出ませんが、現在の措置が少々遅すぎた感が否めないような。
尊敬って強要するモノ・されるモノでは有りません。強要が真の尊敬を妨げる事も有ります。
ちなみに思想教育をさほど受けて居ない我が家のミックスツインズは結構尊敬しているそうです。
以上ウリハッキョ朝鮮学校に於いても教育課程が時代の流れと共に絶えず変化して居る事の一例として付け加えて置きます。
<日本でもベストセラーを記録した金日成回顧録>
この様にウリハッキョ出身者に取っては功罪両方の存在、韓国に取っては「朝鮮戦争の犯罪人」の烙印が押された存在である彼の生涯は『神話と悪説』双方で色塗られ厚いベールに包まれています。
しかし、歴史編でも述べましたが戦前のパルチザン活動についてはおおむね明らかになり評価を受けています。
ここでも歴史編同様、金日成回顧録「世紀と共に」(以下回顧録)と研究の第一人者和田春樹氏の研究を交叉検証して述べたいと思います。
<今も残る万景台の生家>
簡単に足跡を辿りましょう。
本名金成柱キムソンジュ、1912年平壌郊外万景台で民族主義独立運動家の父金亨直(김형직)と独立運動の流れを汲む天主教徒家系の母康磐石(강반석)の三人兄弟の長男として生まれ、父に伴い満洲へ渡り中国吉林毓文(육문)中学校にて勉学。今でも同校には彼の銅像が有ります。
金成柱こと金日成は早くから共産主義活動に目覚め共青(공청)に加盟,その後抗日活動参加。
<彼の人生を描いたシリーズ映画「朝鮮の星」>
折しも31年日本が満洲事変を起こし長春で傀儡国「満洲国」を建国するや間島(東満)地方でも日本に武力で抗う気勢が盛り上がります。
彼も朝鮮革命軍に参加のち回顧録にも有るとおり中国人反日部隊于(ウ)司令の救国軍の「別動隊」として1932年4月25日に「反日人民遊撃隊」を結成します。
人員は20名程だった様です。
そして33年2月に汪青(왕청)遊撃隊に合流し政治委員を務めました。
その頃日本軍が組織し消滅したスパイ組織の亡霊である反「民生団」闘争が持ち上がり、軍内の朝鮮人達が中国共産主義者からの迫害に合いますが、断固とした態度で闘い、彼の主張がコミンテルン(モスクワの国際党機関)にも支持され存在感を増します。
<人民革命軍 上部中央が金日成>
そしてコミンテルンの方針により各地の遊撃隊が統合整備されますが、1934年5月(東北)人民革命軍が建立され汪青遊撃隊は第二軍として編成されます。
彼はその中で朝鮮人が多数を占めて居た人員200名からなる第三団の政治委員に選出されました。
回顧録によるとこの時「朝鮮人民革命軍」とも「東北人民革命軍」とも名乗ったと有ります。
和田はこれを朝鮮共産主義者の「夢」で有ったと否定的ですが、これは当事者しか知らない事で有り否定すべきでは無いと考えます。
今となっては遅いでしょうが、当時の証言や資料などが発掘されると良いのですが。
1936年2月コミンテルンの新方針により東北人民革命軍はより幅広い共同戦線を目指し東北抗日連軍に改編され、金日成は第二軍第六師(当初第三師) 師長、1938年には第一路軍 第二方面軍 軍長として活動します。
この頃、先の事情も有り金日成を中心にした朝鮮人部隊は相対的自主性を保って活動した様です。
1960年から共和国で出版された「抗日パルチザン参加者の回想記」には彼を師長(사장)同志と呼び、朝中の抗日連軍が結成されたと記述が有りましたが、1960年代の図書整理事業で回収されたのち再出版された新版には師長が司令官(사령관)同志に変更、抗日連軍は削除されました。
<抗日パルチザン参加者達の回想記>
回顧録で抗日連軍は記述されましたが政治委員や師長、軍長と言う職務には触れず司令官と言う曖昧な表現に終始しました。
しかし中国の指導者周保中の文献を引用し「実質的には1,2師をも指揮した」と述べている件(くだり)が有るので職務や地位がその辺りで有った事に間違いは無い様です。
この様に回顧録にてようやく中国共産党との関係が詳(つまび)らかになりはしました。
<普天堡戦闘の想像画>
金日成キムイルソンを一躍有名にしたのは言う迄も無く普天堡(보천보)ポチョンボ戦闘です。
1937年6月4日普天堡を奇襲し大ニュースになりました。
彼自身も回顧録で軍事的意味よりも政治的意義を挙げていて、植民地支配に鬱屈していた朝鮮人民に光を与えたと言う意味で植民地時代一番のインパクトを与えたと見て良いでしょう。
それによって「民族の英雄」と言う生涯の勲章を手中にしました。
<当時 東亜日報の号外>
1940年の前田部隊殲滅を最後の花道に、40年代に東北抗日聯軍教導旅の辺外野営、別名88旅(団)と呼ばれる軍営に入営、営長を務め抗日聯軍内に於いて朝鮮の最高指導者としての地位を固めます。
金策(キムチェク김책),崔庸健(チェヨンゴン최용건)などの年長者も居ましたが、彼の経歴,人格,指導力などがトータルに評価された様です。
ヴォロシーロフとその付近に在った88旅には総勢約1千名、その中に200名程の朝鮮隊員が居た事が明らかになっています(他に中国人やロシア人など各国籍人が網羅)。
<88旅 幹部達 前列右より2番目が金日成>
長らく共和国ではそれを公式に認めず、彼の活動を貶める向きはソ連に逃げ込んだという表現を使いましたが、回顧録にて正式に、来たる祖国解放の為の準備と国際情勢の要請により1941年に革命基地への入営とその間の教練についての事柄を詳細に記しました。
45年7月末朝鮮工作団結成、彼が団長となり崔庸健が副団長となます。
ソ連が日本に宣戦布告する前の準備として340人がソ連の各方面軍へ、290人が落下傘偵察要員として招集、残り400名は8月8日宣戦布告と共に本隊として対日戦に参加する筈でした。
しかしギリシャでの失敗に鑑(かんが)み勢力温存の為か、スターリンの判断により8月13日に取り止められ兵力としては投下されず、本隊が対日戦に参加する事は有りませんでした。
回顧録に攻撃の様子が比較的多く描かれて居ますが、偵察隊の活躍でしょう。北部人民の戦いが多く描かれて居ます。
<ソ連軍による対日戦争開始>
実は本隊が対日戦に参加出来なかった事を回顧録でも触れているのですが、理由としては予想を超えて日本が早期に降伏したせいだと述べています。
そこではあくまで彼らが主となり対日戦を展開したと言う記述になって居るのです。
彼らは9月5日に列車で満洲経由で帰国の途に着きました。人員は婦女子を除いた60人程だった様です。
その場合、凱旋が人々の間で噂が噂を呼びさぞ栄誉だった事でしょう。
しかし新義州で鉄橋が爆破され渡れず、ヴォロシーロフに戻りウラジオストクから元山(원산ウォンサン)へ船便で9月19日上陸しました。
今も元山は史跡地として祀られて居ます。
<ソ連軍を歓迎するピョンヤン市民>
長らく共和国において金日成将軍率いる朝鮮人民革命軍がソ連軍と合同で祖国を解放したとのプロパガンダがなされていますが、それは半面正しく半面不正確と言えます。
いずれにせよ共和国では現政権の性格上、彼の生涯と活動について純粋な学問としての客観的な研究が事実上不可能な為、特に解放前の活動についてのよりグローバルな研究が望まれます。
次回解放後に続きます。
↓↓解放後についてはコチラで↓↓↓
<参考文献>
김일성 김일성회고록1〜8(총련전자판)
和田春樹 金日成と満洲抗日戦争
山川出版社 世界歴史体系 朝鮮史2
山川出版社 朝鮮現代史
朝鮮史研究会編 朝鮮の歴史
林隠 北朝鮮王朝成立秘史
他