瑛九 まなざしのその奥に
往訪日:2024年9月16日
会場:横須賀美術館
会期:2024年9月14日~11月4日
開館:10時~18時(月曜休館)
料金:一般1300円 大高生1100円
アクセス:横浜横須賀道路・馬堀海岸ICから約5分
駐車場:120台(1時間無料+160円/30分)
※撮影OK

昨年の九月中旬に横須賀美術館で始まった瑛九の特別展を観にいった。直前に訪れた埼玉県立近代美術館は浦和画家の充実したコレクションで知られるが、瑛九もまたその重要なひとり。これはちょっとした偶然だ。

瑛九(1911-1960)。本名:杉田秀夫。宮崎県生まれの前衛画家。日本美術学校中退。フォトグラムで評価される。戦後は浦和画家のひとりとして、版画や油彩画において様々な手法を手掛け、精神性の高い点描による抽象画へと昇りつめていった。48歳で病没。
①1911-1951(宮崎~フォトグラム~模索の時代)

実家は眼科医院を営む家だったが、強度の近視だったため、その道を諦めたらしい。医者になるために視力が必要なんだね。
「知らなかった」

《秋の日曜日》(1925)油彩・ボール紙 宮崎県立美術館
本当は画家になるための方便だったのではないかな。というくらい絵が好きで、名門・旧制宮崎中学を中退して、14歳で日本美術学校に入学。私立の学校だからこの年齢で入学できたのだろう。上掲の作品はその頃のもの。現存する油彩としては最古。
「上手なのかどうなのか…」
まだ全然画風が確立してないね。

《赤い帽子》(1926)油彩・板 宮崎県立美術館
しかしそこも馴染めず中退。他方で熱心に美術評論を投稿。専門誌にも掲載されている。

『みずゑ』(1927年9月号)
技巧に走るアカデミズムを批判し、自己の病との戦いと失恋を糧に、精神性の高みを現実(風景や静物など)を通して描き出した中村彝に関するこの論考は、幾分舌足らずな処もあるが、16歳とは思えないほど深い。

《ザメンホフ像》(1934)油彩 宮崎県立美術館
兄の影響でエスペラントを学んだ。谷口都夫人との出逢いもその勉強会を通じてだった。だが、肝心の絵の方は落選が続く。

《タバコを吸う女》(1935)油彩 宮崎県立美術館
この頃平行して、写真関係の学校に再入学していた瑛九は印画紙に直接モノを載せて感光させるフォトグラムの可能性を模索している。

『眠りの理由』より(1930)ゼラチン・シルバープリント 東京国立近代美術館
1936年に出版したフォトグラム集『眠りの理由』が長谷川三郎の眼に止まり、本格デビューを果たすことになる。

『眠りの理由』より(1930)ゼラチン・シルバープリント 東京国立近代美術館
マン・レイなどと違って、デザインした型紙を載せるその手法をフォトデッサンと命名して区別した。瑛九を名乗り始めたのはこの頃のことだ。

《作品D》(C.1937)コラージュ 東京国立近代美術館
『眠りの理由』の成功のあと、1937年頃までコラージュにも手を広げる。エルンストの強い影響がみられ、典型的なデペインズマンによるシュルレアリスム的表現だ。

その原型となるデッサン。
ところが、次第に西洋的手法の猿真似のような批判的批評が増え、瑛九は方向性を見失いかけるそこで潰れることなく、近代洋画を一から学び直し、キュビスムなど時代の潮流を捉え直すことで自身の作風を練り直していく。

《宮崎郊外》(1943)油彩 宮崎県立美術館
「もう一度、油彩画からやり直さなければならぬ」がこの頃の口癖だったとか。

意外に薄塗り。
「おサルは判りやすいのがよい」

《ギターを弾く少女》(1943)油彩 宮崎県立美術館
その同じ年に今度はキュビスム風。試行錯誤の様子が見て取れる。

戦争の終わった1948年に都夫人と宮崎で結婚。「どうしてこんな朴訥とした売れない画家に年下の美人妻が」と不思議でならなかった。もちろん瑛九の一目惚れ。都夫人の瑛九に対する第一印象は「地味なひと」。それでも生涯そいとげ、106歳まで親類のいない浦和でひとりで亡き夫のアトリエと作品を守り続けたのだから、心底尊敬し、そして愛していたのだろう。

《逆光》(1948)油彩 宮崎県立美術館
妻をモデルにした作品。画力がある瑛九にしてはぎこちない。特別な絵にしようとして力が入り過ぎたか。

《蝶と女》(1950)油彩 宮崎県立美術館
やはり猿真似と謗られても。暗中模索の時代だ。
②1951-1957(画壇からの独立~多様なる版画表現へ)
無監査出品者による無気力作品が横行(言い過ぎ?)する公募展の権威性を嫌った瑛九は1951年にデモクラート美術家協会を発足させる。

(発足式記者会見の様子。中央より瑛九、郡司盛男、内田耕平、泉茂)
メンバーは河原温、磯辺行久、池田満寿夫、靉嘔、細江英公など。その直後に宮崎から浦和に転居。浦和画家のひとりとなった瑛九は版画表現に対象を広げ、とりわけリトグラフに傾倒した。また油彩においてはシュルレアリスムから純粋抽象絵画へと進んでいく。

《自転車》(1954)ゼラチン・シルバープリント 福岡市美術館
都夫人が呆れるほど不器用だった瑛九は自転車に乗れなかった。通常ならばコンプレックスになって忌避の対象になりそうだが、瑛九には憧れのシンボルとして作品のモチーフになった。このあたりはさすが芸術家。常人と違う。

《赤い輪》(1954)油彩 東京国立近代美術館
実家が眼科医だったためだろう。眼球は重要なモチーフとして屡々登場する。

《母》(1953)エッチング 宮崎県立美術館
版画はエッチングから入り…

《旅人》(1957)リトグラフ 宮崎県立美術館
リトグラフで大きく羽搏いた。「リト病」と自嘲するほどの没頭ぶりだった。本作は第1回東京国際版画トリエンナーレ出品作。線の表現がどことなくルドンっぽくて好きな作品のひとつ。

《風が吹きはじめる》(1957)リトグラフ 宮崎県立美術館
同じリトグラフでもエッチングや木版画のような表現ができることを改めて知った。

《森の中》(1957)油彩・合板 宮崎県立美術館
50年代後半にはコンプレッサーガンによる油彩にも手を染めている。所謂エアブラシ絵画とは一線を画した抒情性に詩人の感性をみた。

愛用の遺品。

《カオス》(1957)油彩・合板 東京都現代美術館
幅3㍍超の大作。真岡の久保貞次郎宅の蔵の外壁装飾のための発注品。

拡大すると幾重にも型紙を重ねて吹きつけた様子が判る。

《眼が廻る》(1955)油彩 宮崎県立美術館
やはりモチーフは眼。構成とタッチにパウル・クレーや一時期の古賀春江との類縁性を感じた。

《花》(1956)油彩 埼玉県立近代美術館
このように版画にしても油彩にしても目まぐるしく作風やタッチを変えて、自己の可能性を追求したのがデモクラートの7年間だったと云える。
「おサルは判りやすいのがよい」
はいはい。
③1957-1960(点描による抽象性への昇華)
1957年にデモクラート美術家協会を解散。世間との交わりを避けてアトリエでの制作に没頭するようになった。

画風は抽象化の一途を辿り、点描による大型作品を手がけるようになる。

《空の目》(1957)宮崎県立美術館
晩年は眼、星、細胞のようなモチーフが中心を占めた。

《月》(1957)宮崎県立美術館
初期のダイナミックな色彩構成は影を潜め、ポエティックかつ音楽的な宇宙を表す色の選択が目立つようになる。

テンペラ画のような薄塗りのマチエールも魅力だ。

《午後(蟲の不在)》(1958)東京国立近代美術館
次第に形は失われ、執拗なまでの点描が主体となっていく。

拡大してみる。平筆でチョンチョンと色を足していく瑛九の手許が眼に浮かぶようだ。

《つばさ》(1959)宮崎県立美術館
200号の大作による絶筆。夜間でも明るくなるように電球を蛍光灯に替え、朝から夜通しで作業した。しかも(高所が苦手にも関わらず)脚立に登って作業したという。

みずからの体力を顧みない姿に「己の末期を感じていた」と思わずにいられない。《つばさ》を完成した直後の11月に慢性腎炎が悪化。浦和中央病院に入院した。

瑛九油絵個展(東京・兜屋画廊)2/23~2/2
そして、命を削って開催に漕ぎつけた最後の個展。この翌月、急性心不全でこの世をさった。

その後の都夫人の顕彰活動によって、その足蹠は浦和の地に確実に残っていった。

まさに美女と野獣。どうして宮崎の旧家の出である美貌の女性が(いくら実家が名の知れた医家の生まれとは言っても)奇妙な風体の売れない画家に嫁ごうと思ったのか、その馴れ初めを知りたくて、都夫人の縁戚にあたる荒平太和氏が著した回顧録『いつもパトリーノ《お母さん》と呼ばれました』(鉱脈社)を直後に読んだ。

視点が実家の谷口家中心なので、瑛九への言及は稀薄で夫婦の関係性について割かれたページも限定的だった。しかし、瑛九亡き後、独りになっても再婚せず、子供もいない生活を、ただ夫の画業を守るためだけに、移り住んだ浦和に106歳まで留まったというエピソードからは、地元の人々に慕われ続けた都夫人の人柄を偲ばずにいられなかった。
「おサルは絶対イヤ」
(つづく)
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