ひつぞうとおサル妻の山旅日記
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ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

サルヒツのグルメ探訪♪【第250回】

週末蕎麦屋 愉多工房

℡)0229-72-0972

 

カテゴリ:蕎麦

往訪日:2024年9月22日

所在地:宮城県大崎市岩出山上野目字下橋本37-3

営業時間:11時~15時(土日のみ営業)

独りで営業されているので2回転程で終了

アクセス:東北道・古川ICから15分

駐車場:店の前に縦列駐車

■13席(カウンター+テーブル)

■予算:1,000円(税別)
■予約:不可

■カード:不可

 

《まさかこんな旨い蕎麦屋だとは》

 

腹が減ったので感覚ミュージアムの近くで食事を済ますことにした。

 

「なにが食べたいの?」サル

 

美味い蕎麦とか。

 

「またいろいろ難癖つけるんでしょ」サル 「ウマい」が余計だ

 

そう。人にリサーチを頼みながら、味の拘りだけは放棄しないのが悪い癖。だが、今更治るものでもない。なんかあった?

 

「近くに蕎麦屋があることはある」サル

 

じゃそこで。

 

しかしだ。ナビが誘導する先は田圃の中の車線のない一本道。これって農道だよね。

 

「でもあってるよ」サル

 

彼方に見えるのは農具用とおぼしき倉庫しかない。だが、その先に四五台の車が道路脇に止まっていた…。

 

 

あった。これだ。

 

 

大丈夫なのか。見れば止まっている数台の車には客が待機している様子。

 

「行ってくゆ」サル

 

タタッと走り出たおサルが速攻で戻って言うには、11時入店の客が食事中で次は12時からになるらしい。記帳した客は呼ばれるまで車のなかで待機してくれとのことらしい。結構人気店??

 

そして時間になった。順番に入店。

 

 

あらーん。なんかよさげー。

 

 

モルタルの鏝仕事なんかもオシャレで。どういう経緯で店を始めたのか。内装は自分で手掛けたのか。次々に疑問が湧くが、店主一人で切り盛りしていて、とても客に構う余裕はなさそうで、謎は謎のまま残ったのだった。

 

 

メニューは十割細打ち平打ちの二種類のみと潔い。

 

こういう場合

 

・単にスタッフ不足でレパートリーを増やせない。

・腕に自信があるので無意味に品数を増やしたくない。

 

この二つの理由が考えられるが、期待できそうなので、限定の平打ちを。

 

「もう売り切れだって」サル

 

最初の一回転で終わりかよ…。(ないと判ると余計に喰いたくなるのが人情というもの)

 

 

最初にお茶うけの茄子の浅漬けが出てきた。これが意外に…いや滅法ウマい。

 

 

そして待つこと30分。待望の蕎麦が卓上に。見た目と違ってかなりの弾力。香りは穏やか。

 

 

辛み大根と上越名物かんずりを薬味に。ダシが濃厚で蕎麦によく合う。

 

 

蕎麦湯のほうが美味かったりして。こういうドボドボ系が好き。

 

「おサルはサラサラ上品系がよい」サル

 

夫婦だからといって常に趣味が同じとは限らない。

 

「ここってそばぷりんも人気なんだって」サル

 

言われるまでもなく注文。

 

 

原料は蕎麦粉、牛乳、そして素焚糖。表面に黒蜜が掛かっている。

 

 

きな粉は好きなだけかけていいらしい。僕が大のきな粉過好きと知ってのふるまいか。

 

 

甘さ控えめな大人のスイーツ。極上品だった。二枚分お代わりできますよと言われたが宿の夕食もあるし、ここは我慢。随分おとなになったものだ。遅いけど。ということで一路北に向かって移動した。

 

「温泉!温泉!」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

感覚ミュージアム

℡)0229-72-5588

 

往訪日:2024年9月22日

所在地:宮城県大崎市岩出山下川原町100

開館:9時30分~17時(月曜休館)

料金:一般800円 高400円 中300円 小200円

アクセス:東北道・古川ICから15分

駐車場:50台

■設計:六角鬼丈

■施工:前田建設工業

■竣工:2000年

※作家作品は撮影NG

 

 

24年9月後半。温泉宿を目指して東北に向かった。あいにくこの週末はひどい大雨に曝され、事によれば宿から臨時休業の連絡が入るかも知れないと不安を抱きながらの出発だった。ひとまず古川ICに無事到着。(現代建築にハマって以降)いきたい場所が山のように増えた東北だが、こんな空ではどうしようもない。さりとて行く場所が他にあるかといえば…。

 

「感覚ミュージアムに行けばいいんじゃね?」サル

 

あー。なんかあったね。そういうの。

 

ロードサイドの案内でその存在は以前から知っていたが、きっと子供だましの“なんちゃってアート施設”と長らく見下していた(ごめん)。しかし調べてみると、なんと建築家の六角鬼丈(1941-2019)の設計ではないか。であればもっと天気のいい日を充てたのに…。人間なにごとも知らないと損をする。

 

「だからずっと『行けば』って言ってたのに」サル

 

入館すると最初にダイアローグゾーンが始まる。身体感覚でアートを体感。

 

福井裕司《サークル・ン・サークル》

 

子供たちが入れ代わり立ち代わり狂ったようにペダルを漕いでいた。意外にコツを掴むのが難しいようで、すぐに興味を失う子もいる。

 

 

大車輪に取り付けられたチョークが模様を描く。そんなアート作品になっていた。子供はそっちには興味がないらしい(笑)。

 

 

その脇にパーカッションコーナーが。老若男女を問わず、皆狂ったように手当たり次第に叩きまくっている。

 

 

ここにも手玉に取られた人が参戦中。

 

 

こういうアフリカのパーカッションがあったよな。制作者は多田広巳氏(1946~)。

 

「なんか暗室があるにゃ」サル

 

行ってみよう。(スタッフが誘導してくれる)

 

 

タイトルは《DQPBヴァージョン6》。身振りで三次元音源を操作するインスタレーション。

 

 

魂を抜かれたように無心に動きまくる。

 

 

とり憑かれた人みたいで怖い。

 

 

中央のモニターにセンサーが捉えた僕らの姿が映り、その動作で音と色彩が自在に変化する。

 

「結構面白い!」サル

 

ほんと?でも僕がやると全然反応せんな。

 

「動きが悪い」サル 派手に動くんだよ

 

 

次なるインスタレーション。タイトルは《闇の森》。壁には穴が開いていてそれを触ってなにかを感じる。視覚以外の感覚を磨こう。

 

 

現代版胎内めぐり。

 

 

次のタイトルは《エアートラバース》

 

 

人間版万華鏡。映画『サスペリア2』を思い出す。

 

八木澤優記・松山真也《fuwa pica》

 

このセロファンのようなものにタッチすると…

 

 

押す力で色や発光時間が変わる。

 

池内昭仁・石井保幸・中山達也《ライト3Dスカルプチャー》

 

背面から体を押し当てる。すると密集した光ファイバーが浮き上がる仕掛け。

 

「うむ。我ながら旨くいった」サル

 

 

なにかのハリウッド映画の一場面のようだ。

 

「ヒツジもやっておみよ」サル

 

勢いをつけすぎて瞼に刺さった(泣)。結構痛いよ。これ。

 

「顔からいっちゃダメって言われたじゃんね」サル

 

よいこはマネしないように。

 

葉山香織《ウォールスルー》

 

壁抜けしているように見えるそうなのだが。ただのガラスの壁にしか見えない(泣)。

 

奥村理恵(美術)・宮城朝子(音楽)《アースガーデン(Shadow Rays 2013)》

 

敷き詰められた白玉石に穏やかな音楽とともに色彩の絨毯が流れていく。

 

 

制作者の奥村理恵氏は東京藝大大学院で建築を学んだアーティスト。女性らしい繊細さが魅力。

 

「音楽も素敵」サル

 

 

階段に座って鑑賞するのだが、暗いので折角均された玉石に女性が踏み込んだ。意外に暗いんだよね。恥ずかしいのかそのまま行ってしまった。これはその事件現場だ。

 

「物証を残してしまったにゃ」サル

 

作者未詳《ウォーターガーデン》

 

これもまた色がどんどん変化する。まるで寒天ゼリーのような色が実に旨そうである。

 

 

金澤21世紀美術館に展示されているエルリッヒの《スイミングプール》の逆の発想。

 

 

他にも当館のシンボルともいえる数十万本の紙縒りを編んで作った石田智子・吉武利文《香りの森》《ハートドーム》など嗅覚や聴覚で愉しむ作品が癒してくれた。残念ながら撮影NGだけどね。

 

ということで鑑賞終了。

 

「なかなか面白かった」サル

 

 

「まだ何かあるみたいだよ」サル

 

 

なになに?1000の小箱

 

 

中には小さな家のオブジェ。ここは登録さえすれば誰もが陳列できるコーナー。素人っぽさの残る作品だが、ではお前作れるかと言われるとなかなかそうはいかない。その時点で十分“アート”たり得ている。

 

 

何が入っているかは開けてのお愉しみ。

 

 

なかなか計算されたアイデア。

 

「これは開けたくなるね」サル

 

 

ラウンジには大崎百景の写真も。

 

だが一番グッときたのはトイレだった。

 

 

キンドーちゃんっぽくない?

 

 

歌麿も真っ青な大胆さ。

 

「考えすぎだよ」サル

 

 

回廊には歩く客にあわせて音が鳴る。最後まで飽きさせない。お薦めなミュージアムだった。

 

 

子供の知育には好いかも知れない。そして感性の鈍りつつある吾々にも。

 

「いや。リアルに鈍ってゆ」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒飲みライフ♪【第292回】

利根錦 特別純米 踊り子

 

製造年月:2024年7月

生産者:㈱永井本家

所在地:群馬県沼田市

タイプ:特別純米 一回火入れ

使用米:美山錦100%

精米歩合:60%

アルコール:13%

杜氏:永井悠介氏

販売価格:1,455円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです


今夜の酒は永井本家の五代目・永井悠介氏がおくる低アルの意欲作。特別純米酒・踊り子。永井本家の酒は実は初めて。群馬の特約店で見つけた逸品。愉しみだ。(24年9月21日賞味)

 

 

永井本家の創業は1901(明治34)年。代表銘柄は利根錦。そして、特約店銘柄のなどで知られる。味わいとしては昔ながらの米の旨味を活かした造り。ざっくばらんに言えば親父好み。

しかし、この踊り子は違う。表ラベルのデザインも五代目自身の手によるもの。意気込みが伝わってくる。

 

 

使用米は美山錦。低アルでも旨味とボリュームに力を入れているそうな。

 

 

早速いただいてみた。やはり豊かな果実味がたまらない。さすがに踊り子。軽やかで美麗。

 

 

酒肴はタコとつぶ貝のアヒージョ。夏場の酒盛りの定番。ワインのような酒だけによく合う。

 

 

口直し用に胡瓜の塩もみ。紅しょうがと塩昆布でまとめた。

 

 

そしてまだまだ旬の。やはり我が家は塩焼きだ。口許に注目して欲しい。唇が擦り切れて歯が見えている。これが天然鮎の証し。藻を擦り採って捕食するのでこうなるらしい。

 

「まさにわが身を削ってだにゃ」サル

 

 

夏の暑いさなかに相応しい良い酒だった。

 

★ ★ ★

 

ここから現在の話。異動が決まり、連日の壮行会に引っ越しの荷造り。更には連休で遠征。机に齧りつく時間が全くない。二年前同様しばらく更新頻度が落ちるかもしれないが、マイペースで続けたい。

 

「ほとんど執念だにゃ」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

シュルレアリスムとアブストラクト・アート

 

往訪日:2024年9月21日

会場:板橋区立美術館

会期:2024年8月22日~9月23日

開館:9時30分~17時(月曜休館)

料金:無料

アクセス:都営三田線・西高島平駅から徒歩14分

※一部だけ撮影OK

■設計:村田政眞

■竣工:1979年(2019年改修)

 

 

昨年の九月中旬に板橋区立美術館で開催された日本のシュルレアリスムアブストラクトアートの特別展を観にいった。終了間際にギリギリ間に合ったという感じだ。この展覧会の凄いのはこの充実した内容にも関わらず無料ということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小牧源太郎《ラディオラリア》(1940)油彩

 

小牧源太郎(1906-1989)。京都丹後地方出身の画家。立命館大学経済学部卒。1933年京都開催の「巴里振興美術展覧会」でシュルレアリスムに開眼。北脇昇主宰の独立美術京都研究所にて須田国太郎の指導に学ぶ。本作は第1回美術文化展(1940)に出展された。画題は(多くのシュルレアリストを魅了した)放散虫を意味する。敵性思想として弾圧されたシュルレアリスム絵画がこの時期に発表されていることにまず注目せざるを得ない。福沢一郎瀧口修造が逮捕されたのはこの翌年のことである。

 

 

 

放散虫の核に配した人面のユーモラスな表情に注目したい。その更に真心に原生動物のような不思議な物体が相対している。

 

 

描写は丁寧で幾分ダリの影響を感じる。個人的には青灰色や薄紫色、そしてくすんだオレンジなど特有の色彩感に魅力を感じた。

 

小牧源太郎《稲荷図No.2》(1947)油彩

 

戦後は国画会に活動の場を変え、土俗的、宗教的な作風へと昇華した。

 

 

よく判らんが焔のようでもある。

 

 

たぶん50円玉。お稲荷さんに擬宝珠。そして鍵。独特の世界観がある。

 

井上照子《まひる》(1953)油彩

 

井上照子(1911-1995)は井上長三郎の妻であり、ひとりの独立した個性の持ち主だった。現在のソウル生まれ。女子美術大学を卒業し、井上長三郎と結婚した1938年に渡仏。戦後は板橋区の住民となり、自由美術家協会を発表の舞台とした。本作は板橋区周辺の風景を抽象化したものだろうか。モンドリアンが試みた抽象化の過程、もしくはセザンヌ風でもある。

 

井上照子《作品B》(制作年不詳)油彩

 

誰にも出せない色と容。

 

 

間近にみると色の重ね方に執心した跡が。

 

末松正樹《家族》(1949)

 

末松正樹(1908-1997)は新潟県新発田市の生まれ。旧制山口高校を卒業後逓信省に勤務しながら、芸術に憧れて渡仏。そして敵性外国人として虜囚の身に。それでも絵を諦めず、のちに自由美術家協会で活躍した。

 

 

傷痍軍人の家族をキュビスム風に描いたこの作品に、正規の教育を受けずに絵の道に進んだ末次の反骨のようなものを感じた。

 

末次正樹《真昼近く》(1975)油彩

 

後年は抽象の度を増していく。

 

 

色が躍っているようだ。

 

この他撮影はできないが、寺田政明、吉原治良、清野怚、女性では芥川紗織、福島秀子、榎本和子らの作品が眼を惹いた。

 

 

一階ラウンジには古沢岩美旧蔵のテーブル、水屋、イーゼルが寄贈されていた。

 

 

一枚板のテーブル。おそらくクスノキ。

 

 

そしてイーゼル。

 

 

ダ・ヴィンチ、ビアズリー、ボッティチェリ。ステッカーが無造作に貼ってあった。

 

 

区立博物館でこれだけのコレクションが可能となったのは(もちろん学芸員の努力もあるが)板橋区に暮らした寺田政明、古沢岩美、井上長三郎の遺産も大きい。これで無料というのだから驚くしかない。これからも板橋区立美術館は眼を離せない。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒飲みライフ♪【第291回】

クラシック仙禽 無垢

 

製造年月:2024年4月

生産者:㈱せんきん

所在地:栃木県さくら市

タイプ:生酛無濾過原酒、一回火入れ

使用米:ドメーヌさくら・山田錦100%

精米歩合:麹米50%、掛け米60%

アルコール:14%

杜氏:薄井真人氏

販売価格:1,636円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒はクラシック無垢。僕にとってせんきんは日本酒のモダンテイストと生酛造りの素晴らしさを同時に教えてくれた思い出の蔵。外飲みで見つける都度、まず必ず頂戴してきた。そんななかでこの無垢は飲む度に「これホントに仙禽か」と首を傾げること幾たび。昔から無駄に疑い深い性質で、ある意味、損な性格。今回自分で購入して実検してみるとにした。(9月20日賞味)

 

「前も同じようなこと言っていたにゃ」サル

 

七本槍ね。大変失礼しました(笑)。

 

 

仙禽を飲んで「嫌い」だとか「旨くない」という人はまずいない。

 

 

米は自家栽培米。水は蔵直下の伏流水。それほど贅沢な造り。なのに1,600円台で帰る。まさに奇蹟。クラシックシリーズのなかで山田錦を使う「無垢」は素朴さを表に出した造りらしい。

 

 

開栓すると昔ながらの力強い男酒の香りが立つ。ところがひと口飲むと…

 

「あらフシギ」サル

 

フルーツやラムネを思わせる味が口いっぱいに広がる。さすがは14度の低アル軽くてキレよし。造りは生酛でも味わいはモダンだ。これぞクラシック仙禽。サラリとして水の如しだった店飲みの味は、恐らく開栓後幾日も空気に触れたそれだったに違いない。今回だけは大手を振って自分の感に軍配を上げたい。

 

「サルは旨ければいい」サル

 

でも味は違ったよ。

 

「それはそれで旨いにゃ」サル

 

それも一理あるけどね。

 

 

なめこ、ジュンサイ、胡瓜、生姜、モズクの酢の物

 

「ヌメヌメ素材は健康にいいにゃ」サル

 

それがまた生酛の酒によく合うんだよ。ぎりぎりジュンサイの季節だったね。

 

 

糸島産真鯛の干物

 

スダチと大根おろしで一献。

 

 

まだまだ飲んでいないシリーズもたくさん。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒飲みライフ♪【第290回】

鍋島 特別純米酒 ひやおろし Harvest Moon

 

製造年月:2024年9月

生産者:富久千代酒造㈲

所在地:佐賀県鹿島市

タイプ:特別純米 ひやおろし

使用米:非公開

精米歩合:60%

アルコール:15%

杜氏:飯森直喜氏

販売価格:1,600円(税別)

※特約店限定・季節限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は鍋島moonシリーズの秋酒。年4回リリースされる季節感のある造りだ。(9月16日賞味)

 

 

表ラベルも稲穂のシルエットで収穫の季節を表す。

 

 

ひやおろし(秋あがり)はすっきりし過ぎていて実はあまり得意ではない。

 

「でも鍋島だし」サル

 

違いを期待して購入した。

 

 

注いで暫くすると可愛らしい気泡が。秋酒を謳いながらどこか新酒の風情。

 

「かすかにチリチリするね」サル

 

ひやおろし特有のトロリとした舌触りがあるが、ガッツリパンチのあるアルコール果実のような甘み。いままで飲んだ鍋島で一番甘口ではないだろうか。使用米が非公開なのでいろいろ想像してしまうが、普通に山田錦のような気もする。旨い酒だ。

 

 

北海道白糠産つぶ貝のアヒージョ。白長茄子の焼き浸し。人参と胡瓜の浅漬け。人参のグラッセ。

 

ちょっとベクトルバラバラな酒肴。白長茄子は火を通したことで特有の繊細な旨味が引き出されている。しかし、胡瓜は殆どそのマンマなのは如何なものか。

 

「口直し口直し」サル 黙って喰え

 

 

割と泥臭い昔ながらの人参だったが、今夜の酒にはグラッセの甘味と…

 

 

やっぱりこれかな。

 

「おサルは絶対シャインマスカット派」サル

 

 

クラシックな鍋島は秋の夜長によく似合う。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

第3期所蔵品展 特集生誕100年 芥川紗織

 

往訪日:2024年9月16日

会場:横須賀美術館

会期:2024年7月13日~10月20日

開館:10時~18時(月曜休館)

料金:一般1300円 大高生1100円(瑛九展で鑑賞可)

アクセス:横浜横須賀道路・馬堀海岸ICから約5分

駐車場:120台(1時間無料+160円/30分)

※撮影OK

 

 

横須賀美術館の常設コレクションは悔しいほど充実している。今回は全国の美術館によるコラボ企画である芥川沙織の作品を中心に鑑賞した。

 

 

芥川紗織(1924-1966)。愛知県豊橋市生まれの画家。東京音楽学校卒。作曲家・芥川也寸志と結婚し、声楽家を断念。学生時代に手を染めた絵画に転向。ろうけつ染めを応用した神話的かつ土俗的な前衛絵画を発表。ミロ、ピカソ、岡本太郎、タマヨなどの影響のもと、独自の画境を開拓。建築家・間所幸雄との再婚後、急病で早逝した。

 

 

2024年は生誕100周年という記念の年でもあり、コラボ企画が全国の所蔵美術館で開催された。この他にも板橋区立美術館国立国際美術館(大阪)でも観る機会があった。

 

 

最大規模の回顧展かもしれない。

 

《無題(ポートレート)》(制作年不詳)油彩・板 NUKAGA GALLERY

 

猪熊弦一郎の画塾で模索していた時代の作品。ピカソ研究の成果か。

 

《ヒマワリ》(制作年不詳)NUKAGA GALLERY

 

グラフィック的なセンスに秀でている。

 

《リボンのある顔》(1954)油彩 NUKAGA GALLERY

 

加えて、観る者を圧倒するパッショネイトな構成。岡本太郎の影響を感じる。

 

《2人の女Ⅱ》(1955)塗料・布 NUKAGA GALLERY

 

油彩ろうけつ染めを平行して実作するようになった50年代半ばに、芥川紗織は一躍注目を浴びることになる。土俗的で神話的。岡本太郎が唱道した縄文文化を消化した賜物と感じた。

 

 

 どこか怒っているようにも思える。

 

《女ⅩⅡ》(1955)染料・布 NUKAGA GALLERY

 

伝記的な背景を確認していない以上、迂闊な想像は禁物だが、家庭においては夫の作曲活動に遠慮し、新たに発見した活路としての前衛絵画の世界では女性というだけで見下されていた。

 

《神話より4(民話より天かける)》(1956)塗料・布

 

そうした反撥と狂おしいまでの情念が、神話の鬼女に仮託されているのかもしれない。

 

《無題》(1963)油彩 NUKAGA GALLERY

 

絵画の評価は日一日と高まり、その自信が人生を変えたのだろう。芥川と離婚して渡米。名門アート・スチューデント・リーグウィル・バーネットの指導のもと本格的に油彩を学んだ。

 

 

その不定形な幾何学的表現は山口長男を思わせる。ただ、そこまで純粋抽象の域に到達しているかと言えば必ずしもそうでもなく、調子に優しさがある。

 

《スフィンクス》(1964)油彩 NUKAGA GALLERY

 

その勇躍の季節も束の間。間所との新生活を迎えた数年後の1966年。妊娠中毒症で亡くなった。41歳の若さだった。

 

《裸婦》(制作年不詳)油彩 NUKAGA GALLERY

 

画家や作家は短命なるが故に傑作をものにできる。そう言う人もいる。だが、飽くまで結果論。芥川紗織の更なる進化は残酷な偶然に摘み取られた。そうでなければ更なる高みに昇りつめた可能性があったに違いない。僕はそう思う。残念で仕方がない。

 

★ ★ ★

 

地元・横須賀で活躍する日本画家、新惠美佐子(しんえ みさこ)の特集も開催されていた。ついでと言っては失礼だ。じっくり鑑賞することにした。

 

 

新惠美佐子(1963-)。1989年多摩美術大大学院修了。9年後に研究生としてインドに渡り、詩人タゴールの影響をうける。その後、日印の美術交流に尽力。滲みなど、顔料の偶発的な表現を巧みに活かした作風が持ち味。

 

 

 昨年プリツカー賞を受賞した山本理顕設計の吹抜けの展示室によく映える。

 

新惠美佐子《花》(2021)岩絵具、墨、胡粉、綿布

 

いずれも近年の制作。

 

新惠美佐子《祈りの花》(2024)顔料、アクリル、墨

 

夜行生物のような植物。濃密な命の充溢を感じさせる。拡大すると…

 

 

宣紙に滲む顔料が光の効果を生んでいた。

 

新惠美佐子《揺籃》(2011)顔料、アクリル、墨

 

戦後に全否定された日本画。その判断がひどい誤りだったことは、とりわけ近年のニューウェーブをみれば火を見るより明らかだ。

 

新惠美佐子《あかい花》(2024)岩絵具、墨、胡粉・綿布

 

 引いてみると血のように強烈なシクラメンの色も…

 

 

 寄れば繊細な手つきで重ねられた岩絵具だと判る。

 

新惠美佐子《四季ー夏ー》(2023)墨 作家蔵

 

代わって墨絵。リアリズムで統一されているかと思えばそうでもない。迫り来る断崖は空想が生んだ景色。墨の垂れた後が岩肌の陰影となっていた。

 

新惠美佐子《四季ー冬ー》(2023)墨 作家蔵

 

踏み跡を表現した手前の墨痕がいいアクセント。

 

新惠美佐子《鳥と花》(2022)墨・宣紙

 

「愛らしい♪」サル

 

シマエナガだね。薄墨がソフトフォーカスされた雪景色をよく表している。

 

新惠美佐子《叭叭鳥》(2022)

 

「カラス…かにゃ?」サル

 

叭叭鳥(ハハドリ)とはハッカチョウの別名らしい。中国のムクドリ科の鳥で美麗な鳴き声で知られる。どの作品も生きた自然の姿をよく表していた。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

瑛九 まなざしのその奥に

 

往訪日:2024年9月16日

会場:横須賀美術館

会期:2024年9月14日~11月4日

開館:10時~18時(月曜休館)

料金:一般1300円 大高生1100円

アクセス:横浜横須賀道路・馬堀海岸ICから約5分

駐車場:120台(1時間無料+160円/30分)

※撮影OK

 

 

昨年の九月中旬に横須賀美術館で始まった瑛九の特別展を観にいった。直前に訪れた埼玉県立近代美術館浦和画家の充実したコレクションで知られるが、瑛九もまたその重要なひとり。これはちょっとした偶然だ。

 

 

瑛九(1911-1960)。本名:杉田秀夫。宮崎県生まれの前衛画家。日本美術学校中退。フォトグラムで評価される。戦後は浦和画家のひとりとして、版画油彩画において様々な手法を手掛け、精神性の高い点描による抽象画へと昇りつめていった。48歳で病没。

 

  ①1911-1951(宮崎~フォトグラム~模索の時代)

 

 

実家は眼科医院を営む家だったが、強度の近視だったため、その道を諦めたらしい。医者になるために視力が必要なんだね。

 

「知らなかった」サル

 

《秋の日曜日》(1925)油彩・ボール紙 宮崎県立美術館

 

本当は画家になるための方便だったのではないかな。というくらい絵が好きで、名門・旧制宮崎中学を中退して、14歳で日本美術学校に入学。私立の学校だからこの年齢で入学できたのだろう。上掲の作品はその頃のもの。現存する油彩としては最古。

 

「上手なのかどうなのか…」サル

 

まだ全然画風が確立してないね。

 

《赤い帽子》(1926)油彩・板 宮崎県立美術館

 

しかしそこも馴染めず中退。他方で熱心に美術評論を投稿。専門誌にも掲載されている。

 

『みずゑ』(1927年9月号)

 

技巧に走るアカデミズムを批判し、自己の病との戦いと失恋を糧に、精神性の高みを現実(風景や静物など)を通して描き出した中村彝に関するこの論考は、幾分舌足らずな処もあるが、16歳とは思えないほど深い。

 

《ザメンホフ像》(1934)油彩 宮崎県立美術館

 

兄の影響でエスペラントを学んだ。谷口都夫人との出逢いもその勉強会を通じてだった。だが、肝心の絵の方は落選が続く。

 

《タバコを吸う女》(1935)油彩 宮崎県立美術館

 

この頃平行して、写真関係の学校に再入学していた瑛九は印画紙に直接モノを載せて感光させるフォトグラムの可能性を模索している。

 

『眠りの理由』より(1930)ゼラチン・シルバープリント 東京国立近代美術館

 

1936年に出版したフォトグラム集『眠りの理由』が長谷川三郎の眼に止まり、本格デビューを果たすことになる。

 

『眠りの理由』より(1930)ゼラチン・シルバープリント 東京国立近代美術館

 

マン・レイなどと違って、デザインした型紙を載せるその手法をフォトデッサンと命名して区別した。瑛九を名乗り始めたのはこの頃のことだ。

 

《作品D》(C.1937)コラージュ 東京国立近代美術館

 

『眠りの理由』の成功のあと、1937年頃までコラージュにも手を広げる。エルンストの強い影響がみられ、典型的なデペインズマンによるシュルレアリスム的表現だ。

 

 

その原型となるデッサン。

 

ところが、次第に西洋的手法の猿真似のような批判的批評が増え、瑛九は方向性を見失いかけるそこで潰れることなく、近代洋画を一から学び直し、キュビスムなど時代の潮流を捉え直すことで自身の作風を練り直していく。

 

《宮崎郊外》(1943)油彩 宮崎県立美術館

 

「もう一度、油彩画からやり直さなければならぬ」がこの頃の口癖だったとか。

 

 

意外に薄塗り。

 

「おサルは判りやすいのがよい」サル

 

《ギターを弾く少女》(1943)油彩 宮崎県立美術館

 

その同じ年に今度はキュビスム風。試行錯誤の様子が見て取れる。

 

 

戦争の終わった1948年に都夫人と宮崎で結婚。「どうしてこんな朴訥とした売れない画家に年下の美人妻が」と不思議でならなかった。もちろん瑛九の一目惚れ。都夫人の瑛九に対する第一印象は「地味なひと」。それでも生涯そいとげ、106歳まで親類のいない浦和でひとりで亡き夫のアトリエと作品を守り続けたのだから、心底尊敬し、そして愛していたのだろう。

 

《逆光》(1948)油彩 宮崎県立美術館

 

妻をモデルにした作品。画力がある瑛九にしてはぎこちない。特別な絵にしようとして力が入り過ぎたか。

 

《蝶と女》(1950)油彩 宮崎県立美術館

 

やはり猿真似と謗られても。暗中模索の時代だ。

 

  ②1951-1957(画壇からの独立~多様なる版画表現へ)

 

無監査出品者による無気力作品が横行(言い過ぎ?)する公募展の権威性を嫌った瑛九は1951年にデモクラート美術家協会を発足させる。

 

(発足式記者会見の様子。中央より瑛九、郡司盛男、内田耕平、泉茂)

 

メンバーは河原温、磯辺行久、池田満寿夫、靉嘔、細江英公など。その直後に宮崎から浦和に転居。浦和画家のひとりとなった瑛九は版画表現に対象を広げ、とりわけリトグラフに傾倒した。また油彩においてはシュルレアリスムから純粋抽象絵画へと進んでいく。

 

《自転車》(1954)ゼラチン・シルバープリント 福岡市美術館

 

都夫人が呆れるほど不器用だった瑛九は自転車に乗れなかった。通常ならばコンプレックスになって忌避の対象になりそうだが、瑛九には憧れのシンボルとして作品のモチーフになった。このあたりはさすが芸術家。常人と違う。

 

《赤い輪》(1954)油彩 東京国立近代美術館

 

実家が眼科医だったためだろう。眼球は重要なモチーフとして屡々登場する。

 

《母》(1953)エッチング 宮崎県立美術館

 

版画はエッチングから入り…

 

《旅人》(1957)リトグラフ 宮崎県立美術館

 

リトグラフで大きく羽搏いた。「リト病」と自嘲するほどの没頭ぶりだった。本作は第1回東京国際版画トリエンナーレ出品作。線の表現がどことなくルドンっぽくて好きな作品のひとつ。

 

《風が吹きはじめる》(1957)リトグラフ 宮崎県立美術館

 

同じリトグラフでもエッチングや木版画のような表現ができることを改めて知った。

 

《森の中》(1957)油彩・合板 宮崎県立美術館

 

50年代後半にはコンプレッサーガンによる油彩にも手を染めている。所謂エアブラシ絵画とは一線を画した抒情性に詩人の感性をみた。

 

 

愛用の遺品。

 

《カオス》(1957)油彩・合板 東京都現代美術館

 

幅3㍍超の大作。真岡の久保貞次郎宅の蔵の外壁装飾のための発注品。

 

 

拡大すると幾重にも型紙を重ねて吹きつけた様子が判る。

 

《眼が廻る》(1955)油彩 宮崎県立美術館

 

やはりモチーフは眼。構成とタッチにパウル・クレーや一時期の古賀春江との類縁性を感じた。

 

《花》(1956)油彩 埼玉県立近代美術館

 

このように版画にしても油彩にしても目まぐるしく作風やタッチを変えて、自己の可能性を追求したのがデモクラートの7年間だったと云える。

 

「おサルは判りやすいのがよい」サル

 

はいはい。

 

  ③1957-1960(点描による抽象性への昇華)

 

1957年にデモクラート美術家協会を解散。世間との交わりを避けてアトリエでの制作に没頭するようになった。

 

 

画風は抽象化の一途を辿り、点描による大型作品を手がけるようになる。

 

《空の目》(1957)宮崎県立美術館

 

晩年は眼、星、細胞のようなモチーフが中心を占めた。

 

《月》(1957)宮崎県立美術館

 

初期のダイナミックな色彩構成は影を潜め、ポエティックかつ音楽的な宇宙を表す色の選択が目立つようになる。

 

 

テンペラ画のような薄塗りのマチエールも魅力だ。

 

《午後(蟲の不在)》(1958)東京国立近代美術館

 

次第に形は失われ、執拗なまでの点描が主体となっていく。

 

 

拡大してみる。平筆でチョンチョンと色を足していく瑛九の手許が眼に浮かぶようだ。

 

《つばさ》(1959)宮崎県立美術館

 

200号の大作による絶筆。夜間でも明るくなるように電球を蛍光灯に替え、朝から夜通しで作業した。しかも(高所が苦手にも関わらず)脚立に登って作業したという。

 

 

みずからの体力を顧みない姿に「己の末期を感じていた」と思わずにいられない。《つばさ》を完成した直後の11月に慢性腎炎が悪化。浦和中央病院に入院した。

 

瑛九油絵個展(東京・兜屋画廊)2/23~2/2

 

そして、命を削って開催に漕ぎつけた最後の個展。この翌月、急性心不全でこの世をさった。

 

 

その後の都夫人の顕彰活動によって、その足蹠は浦和の地に確実に残っていった。

 

 

まさに美女と野獣。どうして宮崎の旧家の出である美貌の女性が(いくら実家が名の知れた医家の生まれとは言っても)奇妙な風体の売れない画家に嫁ごうと思ったのか、その馴れ初めを知りたくて、都夫人の縁戚にあたる荒平太和氏が著した回顧録『いつもパトリーノ《お母さん》と呼ばれました』(鉱脈社)を直後に読んだ。

 

 

視点が実家の谷口家中心なので、瑛九への言及は稀薄で夫婦の関係性について割かれたページも限定的だった。しかし、瑛九亡き後、独りになっても再婚せず、子供もいない生活を、ただ夫の画業を守るためだけに、移り住んだ浦和に106歳まで留まったというエピソードからは、地元の人々に慕われ続けた都夫人の人柄を偲ばずにいられなかった。

 

「おサルは絶対イヤ」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの温泉めぐり♪【第176回】

川中温泉「かど半旅館」

℡)0179-67-3314

 

往訪日:2024年9月14日~9月15日

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大字松谷2432

源泉名:美人の湯

泉質:カルシウム-硫酸塩泉

泉温:(源泉)34.6℃(加温)約40℃

匂味:ほのかな塩味、石膏・硫化水素の淡い香り

色調:淡緑色透明

pH:8.7

湧量:65L/min

その他:自然湧出+揚湯、かけ流し、非加熱(冬季加温)

■営業時間:(IN)15時(OUT)10時

■料金:13,500円/人(税別)

■客室:(本館)6室(新館)4室

■アクセス:関越道・渋川伊香保ICから1時間

■駐車場:約6台

■日帰り:なし

■日本秘湯を守る会会員

 

《絶品なり群馬のぬる湯》

 

埼玉県立近代美術館を出て群馬の秘湯・川中温泉「かど半旅館」を目指した。浦和(しかも美術館)とのセットにそもそも無理があったが、吉田克朗を観るラストチャンスだった。だがまだ3時間はある。と余裕をかましつつナビを観て唖然。関越道は激しい事故渋滞になっていた。乗り上げてみれば車の流れは嘘のように止まったまま。

 

「間に合うのち?」サル ←距離感がないのでさほど危機感がない

 

まあ。15時にはね。

 

「そうだよにゃ」サル ←あまりよく判っていない

 

(事実自分でもそう思っていた。典型的な正常性バイアス状態だった)

 

ようやく流れがよくなり、ここぞとばかり運転に集中する。だが、渋川伊香保ICで眼にしたのはICに降りる車の新たな渋滞…。(冷静に考えればここはいつも合流渋滞する)

 

「絶対ムリやん…」サル ←一気に絶望モード

 

観念して一般道を西に走った。普通に走っても吾妻峡まで1時間。そういう時に限って先行車は紅葉マーク。時速40㌔…。事故を起こしては元も子もない。流れに身をまかせ、宿到着は午後4時過ぎ。バージン湯をゲットは幻と消えた。

 

「誰のせいや!」サル

 

 

国道145号を道の駅あがつま郷の交差点を右に折れて坂道を登っていくと「川中温泉」の看板が見えてくる。細い下り勾配の道の突当りが宿だった。ちなみに駐車場は建物の奥。隘い玄関先をバックで侵入するため、多少運転に技術がいる(遅く着くと満車になる。その場合は玄関先に縦列駐車)。

 

 

かど半旅館の創業は1947(昭和22)年。明治から続く旅館が多い上州エリアとしては比較的新しい宿になる。その後1977(昭和52)年に改築。本館新館の二棟からなる現在の形になったそうだ。

 

 

いつ知れず、龍神温泉(和歌山)、湯の川温泉(島根)と並んで日本三美人の湯と呼ばれるようになった。

 

 

客室は全10室。客数を絞った経営をしているようだ。なによりもこの泉質で宿泊料13,500円。信じられないほどリーズナブル。

 

 

帳場の突当りがロビーになっている。

 

 

泊まるなら創建当初の本館がいい。

 

 

廊下は往時のまま。(最近だろうか)引き戸や天井など内装は改修されている。

 

 

僕らの部屋。雛菊の間

 

 

八畳一間。エアコンなし。昨今の温暖化で九月半ばとはいえ、かなり厳しかった。

 

「昔は涼しかったんだろうにゃ」サル

 

温暖化が進んでいるからね。

 

 

到着が遅かったせいか、あいにく山側。なので暗い(泣)。

 

「だから欲張らないほうがいいって言ったのに」サル

 

この日を境に温泉旅行と遠隔地の観光セットは封印した。

 

 

時刻は午後4時半。時間がない。温泉めぐりにいこう。

 

=かど半旅館はこんな宿=

 

■温泉

・日本三美人の湯

・気持ちのいいぬる湯

 

■施設

・露天風呂+内湯大湯(混浴)

・男女別内風呂

 

■部屋

・本館+新館

・トイレ供用

・内装近年改修

 

■料理

・手造り田舎料理

・食事会場は大部屋

 

■ホスピタリティ

・家族経営による小商い

 

=温泉利用法=

 

■浴場…露天風呂+大湯(混浴)、男女別内風呂(狭い)

※女性専用時間:20時~22時、6時~7時

入替利用…なし

■利用時間…15時~22時、6時~10時

■家族利用…なし

■日帰利用…なし

 

かど半旅館最大のウリは泉質極上のぬる湯。但し(男女別の内風呂は加温で)混浴の露天風呂に限られるため、女性には夕食後と早朝に専用タイムが設けられている。目指すは露天風呂だ。それ以外にない。

 

 

浴場へは玄関脇の階段をおりて地下通路で向かう。

 

 

この奥が新館棟。

 

 

浴場はその下になる。

 

 

手前から男性用内湯大湯露天風呂の男女別脱衣場が続く。

 

 

脱衣場は至ってシンプル。昔のまま。

 

 

ちなみに女性の脱衣場はかなり奇麗にやり直しされていた。

 

 

大湯はこんな感じ。

 

 

そこそこ広い。

 

 

源泉の湧出量は毎分65㍑だが、注入量は20㍑と控え目。源泉は宿の前を流れる渓流の川底。

 

 

ちなみに女性の出入り口はここ。露天風呂に行くには必ず通過せねばならず、最大のハードルになる。

 

「おじさんがいたらムリだにゃ」サル

 

 

露天風呂は東屋つきなので雨天時でもOK。

 

 

浴槽は腰つきなので長湯するにはもってこい。とにかく部屋が暑いので夕食までゆっくり浸かることにした。

 

 

泉質は典型的なアルカリ泉。硫化物、石膏成分のほかにナトリウムも比較的多い。そのためややまろやかな塩味を感じる。

 

 

奥にも浴槽があったようだが現在は使われていない。

 

少し冷えてしまったので男女別内湯で温まろう。

 

 

こんな感じで狭い。なので利用者は殆どいない。ある意味バージン湯かも。

 

 

ヒートポンプ式の加温。

 

 

こちらは女性専用内湯。浴槽の形が違うだけで広さはほぼ同じ。

 

(成分表)

 

到着が遅れたので慌ただしく夕食に。

 

「食事のあとにまた入ろう」サル

 

=夕 食=

 

 

食事は大広間で一斉スタート。

 

 

典型的な田舎風家庭料理。家族で準備している様子が甲斐甲斐しかった。冬瓜の煮物に岩魚塩焼、鶏皮ポン酢など。

 

 

酒は特約店銘柄《浅間山》で知られる浅間酒造秘幻。その純米酒を戴いた。

 

 

鯉の洗いは酢味噌で。

 

 

エリンギと胡瓜の酢の物

 

 

筍と蓮根、玉葱の土佐煮

 

 

続いて同じ秘幻の生貯蔵酒を。

 

 

季節野菜の陶板焼。

 

 

郷土料理のおっきりこみ

 

 

最後にデザートの無花果を戴いた。季節の味。

 

 

暫く酔い覚ましして10時頃に湯殿に向かった。若旦那の話では「夜間も入れるが、照明を消しますので」と言われたもののまだ点いている。これ幸いと二人して入ることにした。たいした会話がある訳でもないが、やはり温泉は家族で入るほうが愉しい。

 

 

=翌 朝=

 

 

山の天気は移ろいやすく、初日は雲が湧きたち、パッとしない締め括りだったが、二日目は低層の雲も慌ただしく流れ去り再び青空になった。露天風呂の先を流れる雁ヶ沢川を見つめる。水量穏やかでかつて大暴れしたことが想像できないほどの狭さだった。

 

 

=朝 食=

 

 

中央に構える玉子焼きのあまりの大きさに吃驚した。

 

 

モロヘイヤのお浸し、牛蒡の味噌漬け、笹かまぼこ、ゼンマイ、卯の花、そして茗荷の味噌汁。

 

「ご馳走さまでした」サル

 

 

鎌倉仏教の名刹・建長寺の禅僧龍澤が上州行脚のおり、沢の底から立ち昇る湯けむりを発見し、その後多くの湯小屋が立ち並び、川中温泉は多いに繁栄したという。だが1895(明治28)年の鉄砲水で湯坊・瑠璃閣を残して全滅してしまった。その後、権利を譲り受けたかど半旅館は吾妻峡の一軒宿として今に至っている。良い宿だった。

 

「やっぱ暑い季節はぬる湯だにゃ♪」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

吉田克朗展

 

往訪日:2024年9月14日

会場:埼玉県立近代美術館

会期:2024年7月13日~9月23日

開館:10時~17時30分(月曜休館)

料金:一般1100円 大高生880円(月曜休館)

アクセス:JR京浜東北線・北浦和駅から3分

※一部撮影可

 

 

埼玉県立近代美術館で開催されていた吉田克朗展を観た。この企画は神奈川県立近代美術館で先行開催されていたのだが、生憎タイミングが合わずに見逃していた。その意味でちょうどよかった。

 

 

吉田克朗(1943-1999)は埼玉県深谷市生まれ。多摩美大卒。1971年に横浜市中区富士見町にアトリエを構えて作品を発表した。在学中はもの派の理論的中心だった斎藤義重の指導を受けるが間もなくもの派を離れ、版画、転写など、既成の方法を離れた美術表現を模索するが、55歳にして惜しまれつつ亡くなっている。

 

  第1章 ものと風景と(1969-1973)

 

《無題》(c.1986)アクリル、黒鉛、木炭、透明メディウム、紙

 

いきなり後期の作品が出迎える。

 

 

物体とも抽象とも取れる不思議な造形だ。

 

第1章ではもの派時代の作品を中心に展示。

 

「もの派きゃー」サル ←もの派は大の苦手

 

《赤。カンヴァス・糸など》(1971-74)埼玉県立美術館

 

第7回パリ青年ビエンナーレ(1971)のために制作されながら会場の都合で展示できなかった。その後ドイツでの「日本-伝統と現代」(1974)に出展された。

 


 

布にローラーで赤い塗料が塗られている。ただそれだけだ。この頃、関根伸夫、菅喜志雄、小清水漸らと交わった。

 

《Cut-off(Hang)》(1969)木、ロープ、石

 

本展のために遺族が再制作したもの。重力の可視化だ。

 

この作品には何かの意味がある。或いは何かを表している。僕らはそういう風に“美術作品”を見るように習慣づけられてきた。学校教育も所詮「効率」優先である以上、ステレオタイプな鑑賞方法を教えることが至便である。それは事実だ。

 

 

しかし、画一化された方法論ほど厄介なものはない。衣服の染みのようなもので、一度体にしみついたら容易に拭い去ることはできない。

 

《650ワットと60ワット》(1970)コード、電球、鉄

 

もの派が提示する作品は、そうした人間の作為以前の“ものそれ自体が在ること”の厳粛な意味を観る者に問う。普段ありえない関係性でものが提示されるのはそういう意味においてであり、安っぽい暗喩ではない。

 

 

コードと電球の存在が痛いほどに眼に刺さってこないだろうか。

 

「こないこない!」サル 眩しいけどにゃ

 

《Cut-off(Paper Weight)》(1969)紙、石
 

これも本展用の再制作。

 

 

自然石が巨大な和紙を押さえていた。もし、林道脇に転がっていたら、素通りするに違いない。

 

《赤、カンヴァス、電気など》(1970)

 

こちらも1994年の再制作。

 

 

単純な繰り返しの作業のなかで、吉田の「塗る」という行為そのものが作品として「もの」化されて眼前に提示される。

 

「布の質感がよく判るね」サル

 

《Cutーoff8》(1969)高松市美術館

 

映し出された影も効果的だ。

 

《Work“9”》(1970)シルクスクリーン、紙 神奈川県立近代美術館

 

70年頃から写真を元に、対象をずらした網掛けの版画を発表。これは葉山で一度観ている。

 

《ロンドン7(Kensington)》(1973)フォトエッチング、紙 東京都現代美術館

 

フォトエッチングは文化庁芸術家在外研修員としてのロンドン留学の成果だ。(とりわけ人物に)写真とは違う質感を感じる。

 

  第2章 絵画への模索 うつすことから(1974-1981)

 

欧州体験は吉田に多くの示唆を与えた。これ以降、吉田は立体を離れてドローイングやコラージュに表現の対象を求め始める。

 

《J-12》(1974)鉛筆、色指定紙、紙

 

鉛筆や黒鉛を使ったドローイング。

 

《Work“D-165”》(1976)転写、描画:アクリル、パステル、紙

 

フロッタージュによる転写(=写す)がこの頃の表現。吉田はこれを「直撮り」と命名した。

 

 

転写は次第に規模を拡大。対象も具体的な器具ではなく、壁など抽象性の高いものに変化した。

 

《Work“4-45”》(1979)転写:アクリル、キャンヴァス

 

筆で線状を繰り返し描き、背後の壁そのものの疵や窪みを表現している。

 

 

対象を消しつつ対象を表す。この頃の吉田の狙いらしい。

 

「もう全然わかんない!」サル

 

テキスタイルパターンと思えば奇麗だよ。

 

《Work 6-89》(1980)転写、コラージュ:透明メディウム、鉛筆、紙

 

薬品で雑誌の印刷と溶かして転写。

 

  第3章 海へ/かげろう イメージの形成をめぐって(1982-1986)

 

80年代に入ると絵画性は一段と高まっていく。

 

 

展示スペースが矩形でないのがいい。学芸員のセンスが光る。

 

《かげろう“305”》(1983)アクリル、黒鉛、アルミ粉、紙

 

アルミの質感が素晴らしい。何がモチーフかは最早どうでもいい。

 

 

執拗に塗り重ねた跡。マチエールの勝利。

 

《海へ“ⅩⅡ”~海へ“ⅩⅤ”》(1982)鉛筆、黒鉛、紙

 

どこかの海岸の木になった一区画を切り取ったのか。

 

《かげろう“3043”》(1983)油彩、アクリル、アルミ粉、カンヴァス

 

なんとなく琳派的な作風に。

 

《かげろう“婉‐12”》(1986)油彩、アクリル、カンヴァス

 

これは女性の下半身をクローズアップしたものだろう。

 

 

股間に片手を突っ込んだ様?

 

《かげろう“4013”》(1984)油彩、アクリル、アルミ粉、カンヴァス 宇都宮美術館

 

絵画と工芸の巧みな組み合わせ。

 

 

アクリルとアルミ粉の質感に注目して欲しい。

 

  第4章 触 世界に触れる(1986-1998)

 

80年代中期から晩年に至るまで、吉田が熱をいれたのが「触」の方法だった。

 

 

そして対象は風景から人体に。

 

《触“鳥-21”》(1988)陶

 

陶土に黒炭を指で摺りつけている。

 

 

海綿動物か臓器のような物体をやはり墨で描いている。

 

《触“湖底-14”》(1992)油彩、アクリル、黒鉛、カンヴァス

 

手法は殆ど同じ。同じテーマを繰り返し追求。坂本繁次郎やモネにも通じる制作方法。

 

《触“体-25”》(1989)油彩、アクリル、黒鉛、木炭、カンヴァス

 

抱き合う二人か。

 

 

拡大すると樹脂と黒鉛の質感がよく判る。

 

  第5章 春に エピローグ

 

 

《触“春に”Ⅵ》(1998)油彩、アクリル、黒鉛、カンヴァス

 

最晩年の作品だ。大判の作品は平置きしたものに踏板を渡して、その上から指でなぞった。指紋が無くなるほどまで。

 

 

吉田は触れることで対象の存在とともに、自分の存在も確かめたかったのかも知れない。

 

《触“緑の内へ”16》(1997)油彩、アクリル、黒鉛、カンヴァス

 

そして完成した物も、言葉で解説不可能な果てしないものだった。

 

(右上の拡大部分)

 

最晩年の吉田の作業風景を捉えた写真を見ると、その指先が女性のように華奢で、一点を見つめる眼と相まってキャンバスを愛おしんでいるかのようだった。死期を悟り、悔いることのないよう全身全霊で描いたのではないだろうか。そんな気がした。取っつきにくい現代美術も画家の人生と結びつけて観ていくと(それが正しく作者の意図を捉えたものとは限らないが)何某かの答えが見つかる。そう考えながら吉田の絵の前に暫く佇んでいた。

 

「温泉いこうよ」サル 間に合わなくなる!

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。